詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(23)

2005-03-12 14:31:47 | 詩集
森鴎外「青年」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 小泉純一が国府津に着いた。ぶらりと歩いている。

ぶらりと停車場を出て見ると、図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たはつてゐる。

 風景の把握に緩急がある。「図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たはつてゐる。」は強靭な俳句の世界を見るような感じだ。
 鴎外は、松を見たのか。海を見たのか。松と拮抗する海、海と拮抗する松を見たのだ。二つの存在が拮抗しながら、同時に融合する。
 こうした描写を、鴎外は非常に素早くやり遂げる。

 ここに鴎外特有の「詩」がある。
 自在なことばの緩急。存在の屹立。しかも、その瞬間に世界が広がり、その広がりが空虚ではなく、充実として押し寄せて来る。
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詩はどこにあるか(22)

2005-03-12 01:43:50 | 詩集
森鴎外「青年」(岩波書店「鴎外選集」第2巻)

 主人公小泉純一が大村の手紙を読んだあとの描写。

これ丈の文章にも、どこやら大村らしい処があると感じた純一は、独り微笑んで葉書を机の下にある、針金で編んだ書類入れに入れた。これは純一が神保町の停留場の傍で、ふいと見附けて買つたのである。

 「これは純一が……」以下の文章に私は非常に惹きつけられる。単なる描写のようであって、実は単なる描写ではない。この文章がなくても、小説の構造には影響がない。登場人物の思考・精神に変化はない。いわば、「むだ」な一行である。しかし、その「むだ」にひきつけられる。「むだ」があるからこそ、主人公が本当に生きているという感じがして来る。
 こうした部分にも私は「詩」を感じる。

 「詩」とは手触りである。

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