詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(19)

2005-03-05 22:48:45 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)


七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき

 「学校の便所のわき」という卑俗なもの。こうしたものを文学のなかに持ち込むとき、笑いと衝撃が起きる。そこに「詩」はある。ただ、こうした「詩」は西脇にかぎらない。古くは芭蕉の句にもある。
 「まがつてゐた」と「をかしさの淋しき」にこそ西脇の「詩」がある。

 「淋しさ」とは西脇にとっては、ある存在が、存在として、他のものと関係付けられていない状態を指す。――この哲学に、西脇の「詩」のすべてがある。

 便所のわきの桂の木。曲がった桂の木。それは、法師が書いていた桂とは無関係なのだ。無関係に、そこに立ちあらわれてきて、法師が書いていた桂の木を拒絶する。法師の書いていたことがらを断ち切って存在する。「便所」が断ち切り、「まがつていた」という状態が、法師の書いていた桂を断ち切るのである。
 ここに西脇の「詩」がある。


七九
九月になると
長いしなやかな枝を
藪の中からさしのばす
野栗の淋しさ
白い柔い皮をむいて
黄色い水の多い実を生でたべる
山栗の中にひそむ哀愁を

 熟れていない山栗。熟れた栗の渋は茶色いが、熟れていない栗の渋は白い。柔らかい。その実は黄色くて水分が多い。――この具体的な描写が「詩」である。

 そうしたものを「哀愁」と西脇が呼ぶのは、西脇には、それを食べた経験があるからである。経験があるから、具体的に書くことができる。具体的なもののなかには「詩」がある。

 西脇は、おそらくこの経験を他の文学仲間と共有していない。だからこそ、そういうものを「哀愁」と呼ぶことができる。
 この「哀愁」は、西脇のことばを借りていえば「淋しい」哀愁である。絶対的に孤立した哀愁である。

 西脇はどこかのエッセーで、栗は熟れたものより、熟れる前の、この詩に書いてあるような状態のものの方が好きと書いていた。
 私もまた、そうした栗が好きである。
 西脇の作品には、自然を具体的に描いたものが輝きをはなっている。
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詩はどこにあるか(18)

2005-03-05 00:12:20 | 詩集
西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)

四四
小平村を横切る街道
白く真すぐにたんたんと走つてゐる
天気のよい日にただひとり
洋服に下駄をはいて黒いかうもりを
もつた印度の人が歩いてゐる
路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「小平村」から「印度の人が歩いてゐる」までを読むと、非常に新奇な光景のように見える。この新奇さのなかに「詩」はあるのか。あるように感じられる。田舎の道。インド人。洋服に下駄。黒いこうもりがさ。そうしたものの出会い、衝突に「詩」があるように見える。
 だが、本当は、そうではない。西脇の狙った「詩」は、そうしたものではない。

路ばたの一軒家で時々
バツトを買つてゐる

 「バツト」はたばこの「バット」である。「時々」という前の行のことばが指し示しているように、それは非日常ではなく、いつも繰り返されている日常である。
 田舎の道を風変わりな格好でインド人が歩いている。それは珍しい光景ではなく、日常である。珍しい光景が珍しい光景であるかぎり「詩」ではない。珍しいものが日常であるというところに「詩」がある。
 「バツトを買つてゐる」という短い描写で、そうした日常を把握する、表現する――この瞬間に「詩」がある。

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