西脇順三郎「旅人かへらず」(筑摩書房『定本西脇順三郎Ⅰ』)
「学校の便所のわき」という卑俗なもの。こうしたものを文学のなかに持ち込むとき、笑いと衝撃が起きる。そこに「詩」はある。ただ、こうした「詩」は西脇にかぎらない。古くは芭蕉の句にもある。
「まがつてゐた」と「をかしさの淋しき」にこそ西脇の「詩」がある。
「淋しさ」とは西脇にとっては、ある存在が、存在として、他のものと関係付けられていない状態を指す。――この哲学に、西脇の「詩」のすべてがある。
便所のわきの桂の木。曲がった桂の木。それは、法師が書いていた桂とは無関係なのだ。無関係に、そこに立ちあらわれてきて、法師が書いていた桂の木を拒絶する。法師の書いていたことがらを断ち切って存在する。「便所」が断ち切り、「まがつていた」という状態が、法師の書いていた桂を断ち切るのである。
ここに西脇の「詩」がある。
熟れていない山栗。熟れた栗の渋は茶色いが、熟れていない栗の渋は白い。柔らかい。その実は黄色くて水分が多い。――この具体的な描写が「詩」である。
そうしたものを「哀愁」と西脇が呼ぶのは、西脇には、それを食べた経験があるからである。経験があるから、具体的に書くことができる。具体的なもののなかには「詩」がある。
西脇は、おそらくこの経験を他の文学仲間と共有していない。だからこそ、そういうものを「哀愁」と呼ぶことができる。
この「哀愁」は、西脇のことばを借りていえば「淋しい」哀愁である。絶対的に孤立した哀愁である。
西脇はどこかのエッセーで、栗は熟れたものより、熟れる前の、この詩に書いてあるような状態のものの方が好きと書いていた。
私もまた、そうした栗が好きである。
西脇の作品には、自然を具体的に描いたものが輝きをはなっている。
七二
昔法師の書いた本に
桂の樹をほめてゐた
その樹がみたさに
むさし野をめぐり歩いたが
一本もなかつた
だが学校の便所のわきに
その貧しき一本がまがつてゐた
そのをかしさの淋しき
「学校の便所のわき」という卑俗なもの。こうしたものを文学のなかに持ち込むとき、笑いと衝撃が起きる。そこに「詩」はある。ただ、こうした「詩」は西脇にかぎらない。古くは芭蕉の句にもある。
「まがつてゐた」と「をかしさの淋しき」にこそ西脇の「詩」がある。
「淋しさ」とは西脇にとっては、ある存在が、存在として、他のものと関係付けられていない状態を指す。――この哲学に、西脇の「詩」のすべてがある。
便所のわきの桂の木。曲がった桂の木。それは、法師が書いていた桂とは無関係なのだ。無関係に、そこに立ちあらわれてきて、法師が書いていた桂の木を拒絶する。法師の書いていたことがらを断ち切って存在する。「便所」が断ち切り、「まがつていた」という状態が、法師の書いていた桂を断ち切るのである。
ここに西脇の「詩」がある。
七九
九月になると
長いしなやかな枝を
藪の中からさしのばす
野栗の淋しさ
白い柔い皮をむいて
黄色い水の多い実を生でたべる
山栗の中にひそむ哀愁を
熟れていない山栗。熟れた栗の渋は茶色いが、熟れていない栗の渋は白い。柔らかい。その実は黄色くて水分が多い。――この具体的な描写が「詩」である。
そうしたものを「哀愁」と西脇が呼ぶのは、西脇には、それを食べた経験があるからである。経験があるから、具体的に書くことができる。具体的なもののなかには「詩」がある。
西脇は、おそらくこの経験を他の文学仲間と共有していない。だからこそ、そういうものを「哀愁」と呼ぶことができる。
この「哀愁」は、西脇のことばを借りていえば「淋しい」哀愁である。絶対的に孤立した哀愁である。
西脇はどこかのエッセーで、栗は熟れたものより、熟れる前の、この詩に書いてあるような状態のものの方が好きと書いていた。
私もまた、そうした栗が好きである。
西脇の作品には、自然を具体的に描いたものが輝きをはなっている。