東田直樹「光の中へ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年11月04日)
光の中へ 東田直樹
光の中へ
ただ 光の中へ
僕は入りたい
たとえ そこが
現実の世界でなくても
光が僕を誘う
僕の分子を呼ぶ
細胞のひとつひとつが
光に向かって伸びていく
この手が
この目が
光をつかまえる
一瞬の喜び
どこにでも光はあるのに
僕が望む 真実の光は
永遠に
存在しない
カラスは黒い 東田直樹
自分のすべてで隠している
本当の気持ちを
悔しいけれど 仕方ない
僕は黒いカラスだから
(『ありがとうはぼくの耳にこだまする』)
受講生が、みんなと一緒に読むためにもってきた詩。「カラスは黒い」の方が人気があったのだが、「光の中へ」について感想を書いておく。
「光の中へ」については、「真実の光は/永遠に/存在しない」ということばに「希望がない」「断定に違和感がある」という声があったのだが、私はむしろその最終連に強い希望があると感じた。存在しないのは、あくまでも「僕が望む」真実の光である。この「真実」の対極にあることばは、一連目の「現実の世界」の「現実」だろう。「現実」ではなく、東田は「理想/希望」を求めている。「真実の光」は「現実の光」ではなく、「現実を超える絶対的な光」だろう。それは東田にしか見えない。だから、それは「存在しない」と言うしかないのである。ここには「現実」への強い抗議、拒絶がある。逆に言えば、それだけ東田の求めているものは譲れないということでもある。
だれにでも、その人だけにしか見えないものを見ている。その自分にしか見えないものを、東田は、ここでは「光」と名づけている。
この、その人だけの「真実」を「光」と仮定しておいて、受講生が書いてきた詩の中に、「光」はどう表現されているか。それを探してみよう、と呼びかけて、今回の講座ははじまった。
*
藻の記憶 青柳俊哉
十二月
夜の底から光がさしかける
海が深く侵食する島
空は高く雲はなく 花殻が風に飛ぶ
蝋梅の蕾がひらきはじめる
藻の花がゆれる寒い泉 湧き水を掬って渇きをいやす
水脈を小舟を漕いで南へむかう海人(あま)たち
水底の雲母に野薊(あざみ)のかげが細長く伸びる
石と人の記憶が細長くゆらぐ
両腕をイロハモミジの枝のように大きくひらいて
しなやかな空の光をいれる
息は凍えた藻の香りがした
青柳の詩には「光」が二回登場する。しかし、「光」ということばをつかってはいないが、「光」につうじるイメージとつながることばはないだろうか。
「わかる」ということは、たぶん、「知らないこと」を「自分の知っていること」と結びつけて「理解」することである。
私はたとえば「花殻が風に飛ぶ」に光を感じる。風もきらめいているだろうが、そのとき花殻はきっと光を反射している。開き始める蝋梅も明るい。蕾よりもさらに強い光がある。
湧き水にも輝きがあるし、水脈は水の色の変化であると同時に光の変化(反射の変化)でもあるだろう。
「南へ、にも光がある」「野薊のかげは、かげと書いてあるが、そこにも光が存在する」「記憶が細長くゆらぐ、にも光を感じる」。さまざまな声がつづいた。「光」はかならずしも「輝き」や「まぶしさ」ということばで書かれるわけではない。ひとりが指摘したように、「かげ」は、その対極に「光」を想定している。東田の「存在しない」が絶対的存在を宣言するように。
反対のことばに、実は、求めているものが暗示されていることもある。そして、それは暗示を超えて、絶対的な存在であるからこそ、「反対のことば」で語るしかないのかもしれない。
*
見捨てられた小世界で 堤隆夫
見捨てられた小世界で
心温まる絆を見いだす幸せを
わたしは知っていたのだろうか
人のために灯をともせば
自分の前も明るくなることを
わたしは知っていたのだろうか
わたしは学んだ学問から
一個のりんごを分け合う幸せを
教えられたのだろうか
年を経るにつれ 多くの言葉を知ったことは
わたしに生きる幸せをもたらしたのであろうか
産業革命以降の近代社会は
人としての気高さを進化させたのであろうか
大家族から核家族への移行は
競争することの卑しさから
卒業できたのだろうか
尊き人が教えてくれた
経済的な貧困は 精神の貧困ではない
識字率や就学率は 文化的な高さの指標でもない
近代化のさらに彼方を見つめる眼差しに必要なのは
思想ではなく 温かい人間的関心
大切な人を失った悲しみは
穏やかに生きることで癒される
無力な自分を受け入れること
無力なままでもいい
無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる
堤の詩には、「光」ではなく「灯」ということばがある。それは「明るくなる」という動詞とつながって書かれているが、ほかにどんなことばが「光(灯のようなもの)」として書かれているだろうか。
たとえば「一個のりんごを分け合う幸福」、「幸福」が「光」であるし、「分け合う」ことが「光」でもある。
逆の「闇」はなんだろうか。堤は明確には書いていないが「競争すること」「卑しさ」、あるいは「貧困」が「闇」だろう。「近代化」が「光」だとしても、その「近代化」には「闇」もある。
それを対比させながら、堤は、「必要なのは/思想ではなく 温かい人間的関心」と展開する。このとき「思想(近代化が人間の生活を豊かにし、幸福にするという思想)」が「強い光」(人を導く光)であるなら、「温かい人間的関心」は「一個のりんごを分け合う」ような「おだやかな光(弱い光/近代化以前にも存在した人間の生き方、暮らし方)」かもしれない。
この「弱い光」は最終連で「無力」ということばになって動いていると、私は感じる。
「無力だからこそ 逃げずにそばにいることができる」を、私は「無力だからこそ、戦わずに(だれかを殺す、否定するのではなく)、そばにいるひとと一個のりんごを分け合う」。「戦わずにいる」ことは、そのとき、「戦う」ことよりも、きっと「強い」はずである。
堤はいつも「決意」のことばを書くが、「弱くあることの決意」という視線がそこには動いている。
*
十一月の扉 杉惠美子
十一月の風景が
遠くから近くから 私を包んでいます
その心地よさの中で
少し立ち止まっています
その空気を思い切り吸って
何も持たずに歩き出してみました
十一月の会話っていうのがあるのかな?
「少し寒くなりましたね
少し切ないですね」 って言ったら
何と返事がくるだろう?
扉を開くと矢印があり
「何が解放されるべきか」
と書いた紙があった
「十一月の風景が/遠くから近くから 私を包んでいます」という書き出しの「風景」も「光」のひとつだろう。少なくとも、それは「闇」ではない。「少し寒くな」る、「少し切ない」はどちらかといえば「明るさ」よりも「暗さ」に通じるかもしれないが、「闇」ではないし、「少し」という変化のなかにあるのは、それこそ「光のゆららぎ」のようなものだろう。それが「寒さ」や「切なさ」に不思議な陰影をあたえる。
そして、そこに陰影を感じるからこそ、私は最終連の「矢印」と「解放」ということばに「強い光」を感じた。それは、あまりに強烈すぎて、何も見えなくなるような「明るさ」につながる。絶対的な光のために、光しか存在しない、光のために目をつぶされて「暗い」とさえ感じてしまう何か。
「何が解放されるべきか」の「か」の問いかけられ、杉は、動けずにいる。矢印があるのに。
東田の書いていた最終連を思い出すのである。
*
不条理な死が絶えない 若松丈太郎
戦争のない国なのに町や村が壊滅してしまった
あるいは天災だったら諦めもつこうが
いや天災だって諦めようがないのに
〈核災〉は人びとの生きがいを奪い未来を奪った
二〇二一年四月十二日、福島県相馬郡飯舘村
村が計画的避難区域に指定された翌朝
百二歳の村最高齢男性が服装を整えて自死した
「生きすぎた おれはここから出たくない
二〇二一年六月十一日、福島県相馬市玉野
出荷停止された原乳を捨てる苦しみの日々があって
四十頭を飼育していた五十四歳男性が堆肥舎で死亡
「原発で手足ちぎられ酪農家
(略)
遺族たちが東京電力を提訴・告訴しても
因果関係を立証できないと却下されるだろう
生きがいを奪われた人びとの死が絶えない
戦争のない国なのに不条理な死が絶えない
(コールサック詩文庫 14)
東京電力福島第一原発事故。その報道、自殺した人のことば、それをていねいに記録している。「こういうことばも詩ですか?」という質問が出たが、私は、詩だと考える。だれかが書いたことばであり、そこに一字の修正もなくても、既存のことばをどう自分のなかで組み立て直すか、その「組み立て方」に作者のことばがあらわれる。
この詩で注目してほしいのは、自死した人のことばである。書き出しには鍵括弧がついている。しかし、その鍵括弧は閉ざされていない。この表現方法に、若松の強い感情移入がある。それは直接的には書かれていないが、彼らは最後のことばを残した。しかし、それはほんとうの最後ではない。彼らにはもっともっと言いたいことがあったはずである。言いたいことは、おわっていないのである。その「おわっていない」ということを、鍵括弧を解放したままにすることで、若松は引き継いでいる。
最終連は、ひとつの思いである。しかし、やはり、そのことばに「おわり」はない。
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