谷川俊太郎には、四回か、五回、会ったことがある。忘れられないのは、やはり、一回目のときである。私はもともと谷川を含め詩人とはつきあいがない。たまたま、谷川が福岡へくることをポスターか何かで知った。(新聞の小さな案内だったかもしれない。)なぜだかわからないが会ってみたい気がした。大胆にも、私ははがきで「福岡の催しのとき、楽屋に訪ねていっていいですか?」と問い合わせた。すると自宅に電話がかかってきて「いいよ」。直接声を聞いたのが初めてだったこともあり、まさか電話で返事が聞けるとは思っていなかったので、とても驚いた。
これからが、たいへんだった。
私は、情報収集(?)のために、池井昌樹に電話で訪ねた。「谷川って、どんなひと?」「おまえなあ、谷川はたいへんなひとだぞ。若いときから詩ひとすじで苦労してきたひとだからなあ。おまえは礼儀知らずだから気をつけないといけない。おれは、新幹線でたまたま谷川を見かけ、詩集にサインをしてもらった。そのとき、新幹線の通路に立っていたら、池井君、そこに立っているとほかのお客さんが通れない。はい、こっちによけて」と叱られたそうだ。どんなときにも、周囲への配慮を忘れない「おとな」の対応を貫くひとだと言う。「そのコントロールの仕方が、とても美しい」。
そうか、と思ったのは「序の口」で、これからが、ほんとうにほんとうにたいへんというか、私の「おっちょこちょい」をさらけだすことが起きた。
催しは、たしかタイのシンガー・ソングライターのような若者との詩の朗読を含めたコンサートのようなもので、定員が五十人くらいのものだった。私は谷川から「会える」という返事をもらったあと、チケットをあつかっているところへ買いに行ったのだが……。知らなかった。現代詩の催しのチケットが売り切れることがあるなんて。どうしよう。もちろん催しを見ないで、催しがおわったあと楽屋(?)へ訪ねていくこともできるが、それではなんだか申し訳ない。せっかく谷川が朗読か何かをするのに、それを聞かず、その感想も言わないなんて(言えないなんて)。
大慌てで、主催者のホームページを通じてなんとかできないか問い合わせようとしたら、「当日券あり」という表示。なんでも、数枚だけ、当日発売用に残してあるそうだ。ただし、販売は、朝から。朝から並んで買うひとだけに販売するという。催しはたしか午後からで、私は仕事がおわったあとゆくつもりだった。午前中は仕事で会社に拘束されている。 困ってしまって、電話で「催しのあと谷川と会う約束をしている。催しの感想も言いたいので、なんとかチケットを買えないだろうか。直前まで仕事で、チケットを買うために列に並ぶことができない」と頼み込んだ。「確認します」。しばらくして、「確認がとれました。開場前にきてください。チケットを渡します」。
で、会場について、受け付けでチケットを受け取り、入場料を払おうと思ったら、「招待券」だった。これでは、まるで私が「招待券」をねだったみたいだ。初対面の、しかも谷川俊太郎に。スタッフの「確認します」は、チケットを一枚抑えることができるかどうかではなく、ほんとうに谷川と会う約束があるかどうかの確認という意味だったのだ。
わあっ、はずかしい。これは、池井が新幹線の通路を塞いで、谷川から注意されたことの比ではない。初対面なのに、とんだ失態である。チケットも買っていないのに、「会いに行きたい」と言ってしまった。現代詩のチケットなんて、売れないに決まっているとタカをくくっていた。つまり、谷川のファンがどんなに多いかさえ知らなかったのである。
催しが終わり、谷川がファンがもっている本にサインをしている。それが終わるのを待って、私も『世間知ラズ』にサインをしてもらった。非常に恥ずかしかったので、チケットのお礼を言ったかどうか、忘れてしまった。たぶん、ど忘れして、言わなかったと思う。何から話したか忘れたが、たぶん『世間知ラズ』というタイトルが読めずに苦労したこと(私は「世間知/ラズ」と、世間には「ラズ」という誰でもが知っている知識がある、と思い込んでいた)や、「父の詩」がとても好きと話した。私がもし無人島に一篇の詩をもっていくとしたら、「父の死」だというようなことを話した。この詩には、散文精神が動いている。そして、その散文精神が、そのまま詩になっている。森鴎外のことばのようだ、というようなことを語った。そのとき、谷川は、「そうか、私は散文が書きたかったのか」というようなことを言った。
谷川には『詩に就いて』という「書き下ろし詩集」がある。このタイトルの「就いて」は、いまはふつうには「ついて」と書く。鴎外は「就いて」と書いていたなあ、と思い、あ、あのときの鴎外(散文精神)がここにあらわれたのか、と私は密かに思った。このことは谷川に確かめたわけではないが、いまでも『詩に就いて』を読むと、そのときのことを思い出す。
ほかに、そのとき何を話したか、よく思い出せない。たしか田原がH詩賞をとった直後で、田原について話したと思う。何について話しても、非常に話しやすかった。池井が私を脅したけれど、私は、「私も本をもってきました。サインしてください」と言って、そのあとまったく緊張しなかったことは覚えている。とても話しやすかった。
ほかは、すぐには思い出せないのだが、ただ、催しのなかで忘れらないことがひとつある。最後に谷川は「鉄腕アトム」を歌った。「鉄腕アトム」は、私のなかでは、谷川の詩のベスト3に入る作品だ。(あとのふたつは「父の死」と「かっぱ」である。)私はいっしょに声を出して歌いたがったが、音痴なので、声を出す勇気がなかった。ほかの観客も歌いだしそうになかった。結局、谷川の「独唱」に終わったのだが、これが非常に残念でならない。あのとき一緒に歌っていればよかった。谷川の死を聞いたとき、まっさきに思ったのは、そのことだった。
なぜ、「鉄腕アトム」が好きなのか。なぜ、ベスト3に入るのか。
私が「鉄腕アトム」が谷川の作詩であると知ったのは、ずいぶんあとのことだ。テレビで「鉄腕アトム」を見ていたときは、まったく知らなかった。だれが作詩であるかなど、気にしたこともなかった。いまではかなり有名だが、それでも「鉄腕アトム」が谷川の詩だと知らないひともいるだろう。
これは、とてもすばらしいことだと思う。詩の「理想の形」がそこにあると思う。作者がだれだか知らないまま、それでもことばが共有される。作者を必要としない、完全な「古典」の姿が、そこにある。
手塚治虫が死んだとき、読売新聞の社会面の見出しは「手塚アトム、空の彼方」だった。「空の彼方」はもちろん「鉄腕アトム」からの借用なのだが、そのときそれが「鉄腕アトム」の歌の一部であるとわかっても、それが谷川のことばだとわかったひとは何人いただろうか。もしかすると「空の彼方」と手塚治虫が書いたことばだと思ったひともいるかもしれない。でも、私はそれでいいのだと思う。詩は(ことばは)、書いたときから(発せられたときから)、書いたひと(発したひと)のものではなく、それを受け止めたひとのものである。百人一首の「春すぎて夏きにけらし白妙の……」の歌が誰のものであるか知らなくても(忘れていても)、そのことば、その歌は多くのひとが知っている。誰が書いたか気にせずに口にしている。そのとき、詩は、ことばは古典になる。そういう意味では「空を超えて星の彼方」は「古典」になっているのである。谷川のことばには、何か、そういう「古典になる力」というものが含まれている。
「おなら」の詩でも、「おまんこ」の詩でも同じ。それはたしかに谷川が書いたものだが、谷川が書いたという「署名」がなくても、そのまま読んだひとの肉体に重なっていく。そこには「ひとの力」がある。「生きる力」がある。そして、その「生きる力」に対して、あるいは「生きている力」に対して谷川は感謝し、「感謝」という詩のなかで
感謝の念だけは残る
と書いたように、私には思えるのだ。あらゆることばが、谷川が「生きて」、そして「生きている」ことに対して「ありがとう」と言っているように思える。
谷川のことばを、私は谷川が書いたと知っているが、そこから谷川の署名が消えたってかまわない、むしろ署名が消えたとき、それは間違いなく、詩そのものになるのだと思う。
だからこそ、というのは変だけれど、あの最初の出会いの日、谷川俊太郎といっしょに「鉄腕アトム」を歌わなかったことが悔やまれてならない。あのとき一緒に歌っていれば、私は谷川にこういうことを言えたのだ。
「谷川さん、この歌は、私がこどものときテレビで覚えた歌です。谷川さんもテレビを見てたんですか? それで覚えたんですか? うれしいなあ。私たちは、同じ時間を生きてたんですね。そして、いまここで、また出合っているんですね。いっしょに歌ってくれてありがとうございます。私は、この歌のラララの部分が大好きなんです。ほかの部分は、ほかのことばでもいい。でも、ラララはラララでしかない。だれのことばでもない。みんなの、ことば。みんなのことばだから、ひとつだけの意味というものがない。そう思いませんか?」
「ありがとう」はだれもがつかうみんなのことば。それと同じ、みんなのことば。そのことに対して、私は、ほんとうに「ありがとう」と伝えたい。
*
最後の部分で私は「谷川さん」と書いたが、それは面と向かって話すときのことばだからである。文章で書くときは、「谷川さん」とも「谷川氏」とも、私は書けない。今回も私は「谷川が死んだ」と書いた。「谷川俊太郎氏が死去した(死亡した/亡くなった)」とは、どうしても書くことができない。谷川のことば、そのことばの肉体は私のことばの肉体と重なり合っている。それを引き剥がすと、もう、その瞬間から、何か違ったものになる。「鉄腕アトム」の歌は谷川の作詩だが、それを「谷川の作詩」と読んだ瞬間に生まれる違和感に似ている。あれは谷川の作詩かどうかは関係ない。あれはテレビのなかで「鉄腕アトム」が歌っていた歌なんだ。谷川の作詩なんかであってたまるものか、という気持ちがどこかにある。つまり、あれは「鉄腕アトム」の肉体そのものである。「鉄腕アトム」と切り離してはいけない歌なのである。そう信じさせる不思議な力がある。
これは逆に書いた方がいいか。
たとえば村上春樹が死んだと仮定する。そのとき、私は絶対に「村上春樹が死んだ」とは書かない。書けないだろう。そう書くことは、何か、私をぞっとさせる。私は村上春樹のことばとは関係がない。そのことばに重なりたくない。私とは切り離して、「村上春樹氏が死亡した」と書くだろう。
私が書いた文章は、あまりにも飛躍が多く、でたらめな感じがするかもしれない。仕方がない。「整理」できない。思いつくままに、ただ、思いつくままに書いておきたい。「整理」なんて、あとからすればいい。
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「父の死」の感想は、下のURLに。
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