詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか

2024-11-03 00:36:19 | 現代詩講座

池田清子「歩こう歩こうⅡ」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月21日)

 受講生の作品。

歩こう歩こうⅡ  池田清子

五年前に
何のために生きるのか
問うた

何十年も
あいまいなまま
生きたので

心の中への入り方を忘れてしまった
心の外へは出ていけたような気がする

何のために生きるかより
どう生きるのか

ずっと
きっと

片道五分が
往復三十分になった

 五年前、この講座で書いた「歩こう歩こう」。五年後に書く「歩こう歩こうⅡ」。一番の変化は、三連目。「心の中への入り方を忘れてしまった/心の外へは出ていけたような気がする」。この二行は、詩でしか書けない。詩でしか書けないことばを書くようになった、というのが一番の変化である。
 散文でも書けないことはない、というひともいると思うが、散文の場合は、この二行の前後に、いくつかの「説明」がついてまわる。「心の中」「心の外」というときの「心」はどんな状態か。状況がわかるように書く、事実を踏まえて書く、事実を積み上げて書くのが散文の鉄則である。詩にも事実はあるのだが、それを読者に任せてしまう。つまり、読者は、自分の体験のなかから「心の中へ入った」のはどういうときだったか、「心の外へ出た」のはどういうときだったか、考えなければならない。「何のために生きるのか」ということばを手がかりに考えれば、そのときの「心」は苦しんでいたのか、悲しんでいたのだろう。そうした悲しみ、苦しみを、ひとはくぐりぬけ、それに打ち勝つ。意識しないのに、引きずり込まれてしまっていた、あの「心」。だが、いまは「心の中への入り方を忘れてしまった」。それが打ち勝つということだろう。「心の外へ出て行く」ということだろう。それは「気がする」だけかもしれない。こうしたことは、だれでも、何かしら経験したことがあると思う。このとき読者は、詩人のことばを借りながら、自分のいのちをみつめる。そして、それを詩人のいのちに重ねる。
 そのあと。
 「ずっと/きっと」と、つぶやく。「ずっと」のあとにどんなことばが省略されているか。「きっと」のあとにどんなことばが省略されているか。
 「ずっと」「きっと」はだれでもがつかうことばである。「意味」は、それぞれが知っている。でも、それを別のことばで(自分のことば)で言いなおすのはむずかしい。そのとき、しかし、きっと「直覚」しているはずである。池田の省略した「ことば」は自分の考えていることと同じだと。
 書かれていることばのなかで詩人と出会い、詩人が省略したことばのなかで詩人と出会う。読者が思い浮かべる「省略したことば」が、必ずしも詩人が思っていることばと合致するわけではない。しかし、「ずっと」「きっと」ということばのあとに、ことばがある、そのことばは言わないけれど、とても大切である。大切だから、「心の中」にしまって自分だけで確かめればいい、という「思い」(こころの動き)は、きっと合致している。
 「行間」(書かれていないことば)のなかで、詩人と出会えたと思えたとき、その詩は読者にととってとても大切なものになる。「好きな詩」になる。
 そして、それは詩人が好きであると同時に、そんなふうにして動く自分の自身のこころが好きということでもある。「好き」のなかで、ひとは、消える。何かが「好き」になったとき、「自己」は消える。透明になる。ただ「世界」だけが、そこにある。
 この詩は、そういう「世界」へ読者を誘う力がある。

キューピーさん  杉惠美子

朝起きると
裸ん坊の大きなキューピーさんが立っていた
両眼と両手をパッと拡げて
まっすぐに立っていた

四歳くらいのときのこと
私が抱えきれないくらい大きくて
父がやっと見つけたものだったという

あの幼い日の記憶は
時折 甦り 私を元気にする

どこを向いているのか
わからなくなったときも

まっすぐに立って
両手を拡げ
その大きく見開いた瞳の中に
吸い込まれていく

お酒を飲むと よく戦争の話をした
もっと真剣に聴けば良かったな

ごめんね 父さん

 池田の詩に通じるものがある。だれでも「どこを向いているのか/わからなくなったとき」というものがあるだろう。「心の中」に閉じ込められてしまったときかもしれない。「心の中」から、どうやって出て行けばいいのか。杉を支えたものは「大きなキューピーさん」である。それは「立っている」「まっすぐに立っている」。手を拡げ、両目を開いているとも書かれているが、何よりも「まっすぐ」と「立つ」ということばが印象に残る。
 「どこを向いているのか/わからなくなったとき」、杉は、「まっすぐに立つ」ということから始める詩人なのだろう。「まっすぐに立つ」と「元気」になる。初めてその人形を見たとき、きっと杉はキューピーに負けないくらいに「まっすぐに立って」いたのだと思う。キューピーになっていたのだと思う。
 この「まっすぐ」は、「お酒を飲むと よく戦争の話をした/もっと真剣に聴けば良かったな」の二行のなかの「真剣に」ということばのなかに隠れている。父がキューピーを買ってきたとき、それを始めてみたとき、きっと杉は「真剣」だった。「真剣」というのは「好き」に似ている。何か自分を忘れている。「無我」になっている。
 この「無我」は、父の場合、杉にキューピーを買ったときと、「戦争の話をした」ときにおのずとあらわれている。父の思い出だから、そこに父はいるのだが、父は、ほんとうはいない。ただ「戦争」があるだけである。父は戦争にのみこまれて「無」である。「無力」である。「無我」である。「どこを向いているか/わからない」状態でいる。
 父から話を聞いていたときは、そんなことは、わからない。父から話を聞けなくなって、そのときに父の「まっすぐ」を知る。
 二連目に、とても「散文的」に、つまり状況の説明のために登場してきた父が、最後になって「主役」のキューピーを乗っ取るようにしてよみがえってくる。いや、キューピーの内部から、父がキューピーの姿になってあらわれてくるような、強さがある。キューピーを見るたびに父を思い出すとは書いていないのだが、きっと見るたびに思い出すのだろう。父の「まっすぐ」を思い出すのだろう。杉を「まっすぐに立つ」方へ励ましてくれるのだろう。
 そのことへの感謝が最終行にあらわれている。「ごめんね 父さん」と書くとき、杉は父が「好き」である。そして、このとき杉は「無我」。杉のこころのなかに生きているのは父である。

千年眠った後に よみがえる日まで (故・谷口稜曄さんへ) 堤隆夫

背中一面が 真っ赤な血に染まり
うつぶせで苦しみに 顔をゆがめる十七歳の少年
一九四五年八月十五日
あの日から七十九年を経ても
空蝉のこの国は 何も変わろうとしない
何も変えようとしない

今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている
今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている

戦後生まれの私だが
私も 原爆を背負い続けている
二千十一年三月十一日
私の竹馬の友は 福島にいた
友は もういない

広島は ヒロシマではなく
長崎は ナガサキではなく
福島は フクシマではない

私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで
私はずっと祈り続けます
少年が千年眠った後に よみがえる日まで

 堤の「文体」は特徴的である。「空蝉のこの国は 何も変わろうとしない/何も変えようとしない」「今もこの国は 無関心と言う名の原爆を背負い続けている/今もこの国は 無慈悲という名の原爆を背負い続けている」のように、一種の対句形式のなかでことばの一部を変化させ、ことばの力を増幅させていく。
 この詩では、「広島は ヒロシマではなく/長崎は ナガサキではなく/福島は フクシマではない」の三行のカタカナ表記と否定の「ない」の組み合わせが強烈である。堤は片仮名表記を否定(拒否)する理由を、ここでは書いていない。読者に、それぞれ考えろと迫っている。
 「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」がカタカナで表記されるのは、たぶん「ノーモア・ヒロシマ」に代表されるスローガンのように、外国向けのものが出発点だと思うが、外国に向け発信するのは大切だが、そのとき外国人にわかりやすいように(?)することがほんとうに大切なことなのか。外国人を意識するとき、何か、見落とすものはないか。
 さらにいえば、「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」と書いてしまうとき、そう書くひとは自分から「広島/長崎/福島」を切り離して「外国」のようにとらえてはいないか。あるいは自分自身を「外国人」にして、「外国人」の視点から「広島/長崎/福島」をみつめてはいないか。
 日本人として「広島/長崎/福島」と向き合い、自分をどうかかわらせていくか。微分の「広島/長崎/福島」にしなければならない。自分の「広島/長崎/福島」を具体的に生きなければならない。「ヒロシマ/ナガサキ/フクシマ」では、抽象的、観念的になってしまうということだろう。
 堤は谷口稜曄を思い出すこと、祈ることが、その具体化の一歩である。

十字石  青柳俊哉  

垂直の記憶 
海辺から崖のうえを昇り降りするかげ 
無重力の振子
 
海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ
しぶきが石にふれ石をつつむ
 
海中のかげとして石は立つ
すべての水のかげをかれは背負う
すべての海面の光が降下してかれと結ぶ
 
十字に覆される未来 かがやく鯉の背がまう
崖の松の幹の黒い皺が底へきらめく
羽化しない蝉がうたう
 
生まれ変わる空間の表徴として 

 「海のうえのかげを石が飛びかげと遊ぶ」の「かげを」の「を」という助詞が不思議である。すぐ「かげと」とつづくので「を」と「と」が交錯し、「とぶ」のが「石」なのか「かげ」なのかわからなくなる。それはそのまま「しぶきが石にふれ石をつつむ」では、石がしぶきをつつむのではないかという錯覚を引き起こす。
 さらに三連目では、その交錯が「かげ」と「石」の位置にも影響する。かげはどこにあるのか。石はどこにあるのか。海の上か。海中か。
 作者には作者自身の「答え」があるだろう。しかし、詩は(詩だけではないが)、作者の答えとは別の、「読者の答え」というものもある。

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