詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アスガー・ファルハディ監督「ある過去の行方」(★★★★)

2014-04-28 09:51:37 | 映画
監督 アスガー・ファルハディ 出演 ベレニス・ベジョ、タハール・ラヒム、アリ・モッサファ、ポリーヌ・ビュルレ


 アスガー・ファルハディの映画を見るのは3本目である。「彼女が消えた浜辺」「別離」「ある過去の行方」と見てきて、なんだかうますぎて映画を見ている楽しみがなくなってしまった。
 「彼女が消えた浜辺」は、わけがわからないまま興奮した。海辺のたこ揚げのシーンの不安定な感じがとてもよかった。明るい陽射しと不安が交錯して、とても興奮した。そのときは、アスガー・ファルハディが人間の深層意識を突きつめていく監督とは意識しなかった。
 「別離」を見て、あ、アスガー・ファルハディは人間の心理は入り組んでおり、それが入り組んだまま他人の意識と交錯するので現実が歪んで行くというようなことがテーマなのかとわかった。入り組んだ事実の真相に迫っていく過程で、男が父親の介護ヘルパー(男に階段から突き落とされたために流産したと訴える女)に「コーランに誓ってほしい」と迫る。そこから思いがけない事実が語られるのだが、そのときはそれが新鮮でよかったが……。弱者(?)が真相のカギを握っている、というのが説得力を持っていたが。
 繰り返されるとおもしろくない。とてもよくできた脚本だし、俳優の演技がすばらしく、こんなに深く人間の入り組んだ心理を映像化してしまうのはすごいと思うのだけれど。でもねえ……。でも、ほんらい不透明で見えないはずの人間の深層心理が、こんなにあざやかに浮かび上がってしまうと、何か違和感が残る。
 真犯人(?)はクリーニング店の善良そうな店員(不法入国のため、怯えつづけている弱者)というのは、どうも見ていて落ち着かない。人間の心理の核心部分を、社会制度の問題点と結びつけるのは、問題のすりかえのような感じがしてしまう。「別離」のときは、「コーラン」が謎解きの転換点になった。宗教も社会制度であるとは言えるけれど、不法入国/労働者というようなものとは違う。宗教はあくまで個人のもの(神と人間の、ひとりひとりの関係)であるのに対し、不法入国は個人的問題ではない。
 真犯人はクリーニング店の店員、という「結論」でなければ、★5個、いやそれ以上の映画なんだけれどなあ……。

 いろいろ感心するが、冒頭の空港の、離婚手続きをするために再会する夫婦のシーンがすばらしい。ガラス越しで声が聞こえない。妻に気がつかない夫。見知らぬ客が妻の様子に気づき、夫に何かつたえる。夫が振り向き、妻に気がつく。--ここに描かれる、知っている(夫婦の関係)、知らない(通りすがりの旅行者)の関係がおもしろい。知らないけれど、わかる。そして、わかっていることをまったく知らないひとに正確につたえることができる。言いなおすと、旅行者は二人がどういう関係か知らないのだけれど、妻の様子から二人が知り合いであることがわかる。夫に迎えに来ていると知らせたがっていることがわかる。そして、夫にそのことをつたえる。「ガラスの向こうのひとがあなたを呼んでいるよ」。で、そのことばをきっかけに、夫婦は連絡がつく。時間が動きはじめる。
 この「知らない」と「わかる」が何度も何度も映画で反復される。夫婦は離婚するのだが、妻には愛人がいる。そしてその愛人にも妻がいるのだが、自殺未遂で植物状態で寝たきりである。なぜ彼女は自殺しようとしたのか。彼女は夫と女の関係を知っていたのか。知っていたとしたら、どうやって知ったのか。あるいは、誰が教えたのか。密告するとすれば、もちろん第三者だが、その第三者はなぜ密告したのか? だいたい男女の関係なんて当人以外のひとにとっては無関係であるはずなのに、なぜ人はそういう「知らないこと(知る必要のないこと)」までわかってしまうのか。二人が愛人関係であると「わかる」ことと、自分自身の生活が何の関係があるのか。密告した第三者は、二人の関係によって自分の暮らしがどう変化すると「わかっている」のか。
 自分とは無関係であるはずのことを知り、それを「わかる」--といっても、この「わかる」というのは自分の肉体のように感じる、あるいは自分がそこでおこなわれていることに肉体ごと巻き込まれてしまうという感じなのだけれど。そう感じることによって、人間の生き方は奇妙にねじれる。
 冷静に、論理的に考えれば、そんな捩れなど排除できるはず--と思うのだが、人間は理性だけでは生きていないし、理性だけで生き方が「わかる」わけではない。理性だけで行動できるわけではない。肉体がおぼえている何かが奇妙なかたちで「わかる」ことをねじまげていく。
 映画を見ていないひとには、私の書いていることは抽象的すぎて何がなんだかわからないと思うけれど、映画を見たひとには、たまたま知った何事かを「わかった」つもりで他人につたえ、それが現実をとんでもない形に変形させるということ--それが監督のテーマであり、監督がそういう捻じれといっしょに動いている人間の心理を役者の肉体で再現していることがわかると思う。
 で、これが一作、二作、三作と進むに従って「深層心理」の交錯の仕方が入り組んでくるのだが、入り組めば入り組むほど「わかりやすく」なる。これは監督の技量が格段に進歩しているのか、私が単にアスガー・ファルハディの映画文法に慣れてきただけなのか、よくわからないのだが。

 この映画は、まあ、大人(おとな)の映画であり、こどもにはぜんぜんおもしろくないと思う。(私も精神年齢がこどもなのでぜんぜんおもしろくないのだが……。)そのぜんぜんおもしろくないはずのこどもが、この映画で大活躍している。大人たちの演技はすばらしいが、妻の愛人のこども(少年)が、いやあ、すばらしいなあ。
 大人のわがまま(?)にふりまわされて、ぜんぜん楽しくない。大人なんて、自分勝手でわがまま。自分のことなんか何にも考えてくれていない--と反抗するのだけれど、このときの大人の世界のわかっていない感じ、大人の世界はわからないけれど、自分の気持ちはとってもよくわかる、自分の気持ちを大切にしたい、自分で守りぬいてやる、大人に抵抗してやる、という叫びが肉体全部から出てくる。
 こういう演技をよく引き出せたなあ、と監督の技量にびっくり。

 あ、もうひとつ書いておこう。
 ラストシーンがとてもいい。昏睡状態の妻。人間の意識で最後まで生きている(?)のは嗅覚。原始的だから生きているというのだが。(嫉妬も、まあ原始的だから生き続け、人間を苦しめるのかもしれない。嫉妬はもっとも原始的な愛の形かもしれない。)
 夫が自分がつかっていたオーデコロンをつけ、妻に「匂いがわかったら手を握れ」と呼び掛ける。そして二人の手のアップで終わる。それは妻がにぎり返した手? 夫が妻の手にそえて反応を待っている形? 答えを出さない。答えを観客にゆだねている。
 手と手がそこにある。そこから何が「わかる」か。答えはいつでも自分のなかにしかない。監督も役者も答えを出せない。観客だけが、自分にあわせて答えが出せる。
 (意識がないのだから、夫の呼びかけが聞こえるわけはない--というような野暮な論理は捨てて、自分なりの「結論」を出してみよう。)
                      (2014年04月27日、KBCシネマ2)



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角川映画

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