中井久夫訳カヴァフィスを読む(37)
「教会にて」は「教会が好きだ。」という単刀直入なことばではじまる。その正直な声が私は好きだ。正直は人間の秘密をさらけだす。
感覚が次々に動員される。香をかぐ(嗅覚)、歌詞と和音を聴く(聴覚)、姿を眺める(視覚)。感覚器官(鼻、耳、眼)が肉体から分離できないように、それぞれの感覚も個別に分離させることはできない。ことばはすべてを書くことができないので個別に書いてしまうが、それはどこかで統合されている。カヴァフィスの場合、それは「リズムを感じる」という形に統合されていく。
鼻でかぐ、耳で聴く、眼で眺める、という具合に、感覚は具体的な肉体の部位と動詞を結びつけて表現できるが、「感じる」はどうか。もちろん「鼻で感じる」「耳で感じる」「眼で感じる」と言えるけれど、「リズム」は「どこで」感じるのか。「リズム」は肉体のどの部分を刺戟しているのか。ことばを選ぶのはむずかしい。「肉体全体」だろうか。たぶん、そうなのだろう。だから、それを先取りする形で、私は個別な感覚が「リズム」のなかで「統合されている」と思ったのだ。
この「肉体全体」で「リズムを感じる」をカヴァフィスは、言いなおしている。
肉体の奥に引き継がれている「我が民族の偉大」。「我が民族のDNA」が「リズム」のなかから蘇るのだ。
「帰ってくれ」で読んだことが、別の形で書かれている。
官能、愉悦に「帰って(来て)くれ」と言うかわりに、この詩ではカヴァフィス自身(私の思い)が、「返る」。「帰る」はある「場所」へ帰る感じだが、「返る」はある「状態」へ返るという感じがする。もとにもどる。根源にもどる。本能にもどる。
私はまた、この詩でカヴァフィスが荘厳の「意味」を感じるではなく「リズム」を感じると書いていることもおもしろいと思う。「連祷の歌詞」を聴いているが、カヴァフィスはそのことばの「意味」を聴いていない。声の響き、和音を聴いて、そこから「音楽」の基本である「リズム」へと返っていく。カヴァフィスのことばは、いつも「肉体」と反応している。
「教会にて」は「教会が好きだ。」という単刀直入なことばではじまる。その正直な声が私は好きだ。正直は人間の秘密をさらけだす。
ギリシャ人教会に行って、
香の匂いをかぎ、
連祷の歌詞と和音を聴き、
金銀の縫い取りのきらめく
僧侶の尊厳な姿を眺め、
その立居振る舞いの荘厳なリズムを感じる時、
私の思いは返る、我が民族の偉大に。
感覚が次々に動員される。香をかぐ(嗅覚)、歌詞と和音を聴く(聴覚)、姿を眺める(視覚)。感覚器官(鼻、耳、眼)が肉体から分離できないように、それぞれの感覚も個別に分離させることはできない。ことばはすべてを書くことができないので個別に書いてしまうが、それはどこかで統合されている。カヴァフィスの場合、それは「リズムを感じる」という形に統合されていく。
鼻でかぐ、耳で聴く、眼で眺める、という具合に、感覚は具体的な肉体の部位と動詞を結びつけて表現できるが、「感じる」はどうか。もちろん「鼻で感じる」「耳で感じる」「眼で感じる」と言えるけれど、「リズム」は「どこで」感じるのか。「リズム」は肉体のどの部分を刺戟しているのか。ことばを選ぶのはむずかしい。「肉体全体」だろうか。たぶん、そうなのだろう。だから、それを先取りする形で、私は個別な感覚が「リズム」のなかで「統合されている」と思ったのだ。
この「肉体全体」で「リズムを感じる」をカヴァフィスは、言いなおしている。
私の思いは返る、我が民族の偉大に。
肉体の奥に引き継がれている「我が民族の偉大」。「我が民族のDNA」が「リズム」のなかから蘇るのだ。
「帰ってくれ」で読んだことが、別の形で書かれている。
官能、愉悦に「帰って(来て)くれ」と言うかわりに、この詩ではカヴァフィス自身(私の思い)が、「返る」。「帰る」はある「場所」へ帰る感じだが、「返る」はある「状態」へ返るという感じがする。もとにもどる。根源にもどる。本能にもどる。
私はまた、この詩でカヴァフィスが荘厳の「意味」を感じるではなく「リズム」を感じると書いていることもおもしろいと思う。「連祷の歌詞」を聴いているが、カヴァフィスはそのことばの「意味」を聴いていない。声の響き、和音を聴いて、そこから「音楽」の基本である「リズム」へと返っていく。カヴァフィスのことばは、いつも「肉体」と反応している。