詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェフ・ニコルズ監督「マッド」(★★★★★)

2014-03-27 10:22:47 | 映画
監督 ジェフ・ニコルズ 出演 マシュー・マコノヒー、タイ・シェリダン、ジェイコブ・ロフランド、リース・ウィザースプーン

 アメリカ版「泥の河」という感じのする映画である。水上生活者が出てくること、こどもが大人の世界をかいま見ることが似ている。大きく違うのは、主人公たちの年齢である。「マッド」の方が少年の年齢が高い。14歳。大人の世界の複雑さが、「泥の河」よりも濃厚に描かれる。
 この映画でいちばん引きつけられるのは、仕事をするということがきちんと描かれているということ。主人公の少年は父親の仕事を手伝うことで金をもらってる。朝、魚を積む仕事に遅れた。そうすると賃金を半分しかもらえない。「10ドルのはずだ」と不平をいうと「積み荷の仕事をしていない」と拒否される。主人公の友達も、いっしょに暮らしている叔父の貝取りの手伝いをしている。そういう日々の積み重ねがあって……。
 主人公がボートのエンジンを盗む。少年は廃棄物(くず)だ、と主張する。それに対して父親は「その男はその廃棄物で生活している。生活の手段を盗むのはいけない」というようなことを言う。盗みはいけないことであるが、なぜ、それがいけないのか、それをきちんとことばで説明する。生活する、生きるとはどういうことかを言って聞かせる。ここが、とてもいい。
 少年には大人たちのやっていることが、よくわからない。愛し合っている。それでも、わかれる。愛し合っている、それがわかっているのに裏切る。裏切られても、まだ愛しつづける。そして、そこに生きるための仕事をしなければならないということもからんでくる。それは、思ったようには、うまくかみあわない。--どうしてなのか、それは少年にはわからない。たぶん、大人にもわからない。
 そのわからないものに、わからないまま、向き合っている。
 この「わからない世界」に、「よそもの」が突然あらわれる。マシュー・マコノヒー。人を殺したらしいことがだんだんわかってくる。恋人がいて、その恋人のために相手の男を殺した。そこに、少年は一種の「純粋さ」を見出す。少年は「純粋さ」(愛)を信じたいのである。それは唯一少年に「わかる」世界なのだ。で、少年は「純粋」な生き方の夢のために、マシュー・マコノヒーのために行動する。リース・ウィザースプーンに手紙を届けたりしながら、連絡役をつとめる。
 ところが、少年が夢へ見た「純粋な世界」も純粋ではなかった。リース・ウィザースプーンはマシュー・マコノヒーとほんとうにいっしょに逃げるつもりはない。マシュー・マコノヒーも自分では行動せずに、大事なことは全部少年にやらせている。少年を利用している。少年に泥棒までさせている。
 少年は、何もかもが「間違っている」と感じる。自分の信じているものはどこにもない、と感じる。「恋人(ガールフレンド)」と思っていた少女は少年を恋の相手などとは思っていなかった……。
 でも、そうではなくて。ひとはひとを裏切っているようにみえても、どこかで真剣にひとのことを考えて行動する瞬間がある。それは本人が気づかないときに、そうされている。本気で心配され、本気で誰かのために動いている。
 少年がカワマムシ(?)に噛まれて倒れたとき、マシュー・マコノヒーは少年を病院へ運ぶ。自分が追われていることも忘れて、少年を病院へ運ぶ。このときのマシュー・マコノヒーの真剣な表情、真剣を動きがとても輝かしい。(「ダラス・バイヤーズ・クラブ」の演技よりも、この映画の演技が美しい。)少年は、それを自分の目では見ていない。これが、この映画の、深さである。強さである。観客だけが、それを知っている。観客だけに伝えればいいことは、くだくだと映画のなかで説明しないのだ。
 で、ここから思い返すとき。
 父親が少年に盗みをするなんて、と怒るとき。あの父親の表情、さらに母親の表情も非常に美しい。少年は、がらくたを盗んだくらいでなぜ怒るんだと不満な顔をしている。少年には、両親の美しさが、そのときにはわからない。マシュー・マコノヒーに命を助けられた今なら、わかるかもしれない。
 見ているその瞬間も何かいい感じだなあと思うけれど、それをどう語っていいのかわからなず、あとから思い起こすとさらに美しく輝くシーンが、この映画には多い。たとえば、主人公の友達と叔父との会話。潜水具を片づける手伝いをしているとき、友達は「潜水帽がくさい」と言う。汗のにおいだね。その即物的な反応に、叔父が笑う。「それが働くってことだよ」とは言わないが、その言わなかったことばが観客にだけつたわる。その美しさ。
 ラストシーンも好きだなあ。殺し屋の銃撃を逃れてきたマシュー・マコノヒーとサム・シェパード。船は河を下って、海にたどりつく。広々とした光。何があるというわけでもないけれど、自分の思う通りに生きてきて、その「流れ」の果てに、広い光につつまれる。河は流れ、海に至る。そのだけのことなのだけれど、主人公の少年も、やがけそういう広い明るいところへたどりつくのだな、たどりついてほしい、と思わず祈ってしまうシーンである。

 この映画には、ほかにもいろいろ書きたいことがある。マシュー・マコノヒーの演技については少し書いたが、前半の、うさんくさい、けれど不思議に「男」のにおいを感じさせる演技。マシュー・マコノヒーに比べると、少年の父親には、父親のにおいはあっても男のにおいがない。不良っぽさと、純粋さ。父親とは違っただなしのなさ。それが少年を助けるとき、集中力の強い輝きにかわる。その激変を具体化する演技のすばらしさ。
 リース・ウィザースプーンも、「キューティ・ブロンド」をやっていたミーハーお姉ちゃんと同一人物とは思えない生活感。モテルの廊下で外をぼんやりみつめ、そこにマシュー・マコノヒーを見つけたときの表情、あるいはバーで男といっしょに飲んでいるのを少年に見られた目。いいなあ。疲労その底を、別の感情が、一瞬すばやく駆け抜ける。
 水の風景、特に主人公の友達の叔父が貝取りをするシーン、泥が舞い上がるシーンの薄暗さ。その質感がいいなあ。自分の領分をここ、と決めて働いている叔父の肉体と一体になっている。
 華やかさはない。クライマックスの銃撃戦さえ、ぜんぜん劇的ではない。ドラマチックではないのだが、そのドラマの欠落(カタルシスの欠落)が、映画そのものをどっしりと落ち着かせている。小さな作品なのだが、思い返すと(感想を書きはじめると)、その重さにたじろいでしまう作品である。

 映画からは少し離れるのだが、いま、こどもたちはどんな仕事をしているのだろう。私のこども時代は、田舎だったせいかもしれないが、田や畑の仕事を手伝わされた。学校からかえると、畑へ行って耕す、というようなことは日常的だった。この映画のなかで少年たちが父親の仕事を手伝っている感じそのままだったが、今は、どうなのだろう。
 仕事をするということを肉体でおぼえないうちに、就職すると、何かが違ってくるなあと思う。余分なことかもしれないけれど、ふと、思った。
                      (2014年03月26日、KBCシネマ1)





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