詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(5) 

2014-03-27 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(5)          

 「サルベドンの葬儀」。サルベドンはゼウスの息子。神の死を描いているのだが。

肌を白くし、真珠の櫛で
漆黒の黒髪をくしけずる。
美しい手足を伸ばし 整える。

こうすれば さながら青年王。
戦車を御する王のよう。
二十五歳か六歳か。

 まるで若い人間の肉体のよう。「肉感的」だ。こうしたことば運びが「男色」のにおいを放つ。
 「肌を白くし」は「肌の汚れを落とし」、あるいは「肌を洗い清め」という感じなのだろうけれど、「白くする」ということばのなかに、その肌が白く輝いているときがいちばん美しいという思いがある。肌を「白い」と見ている目が動いている。「汚れを落とす」や「洗い清める」では、いちばん美しい状態がどんなものであるかわからない。その美しさに何を見ていたのかがわからない。髪をくしけずるのも、その髪がいちばん美しい状態を知っているからだ。手足をのばすのも、すっきりと伸びた手足の美しさを知っているからだ。ここには悲しみよりも、何か、その美しい肉体に触れるよろこび、自分の手で青年が美しくなっていくのを確かめるよろこびがある。「こうすれば」は「こうしたい」という愛欲を含んでいる。
 そして、この「こうしたい」という願望が死者を「青年王」に変える。
 カヴァフィスにとってゼウスの息子ではなく、サルベドンは「青年王」だったのだ。人間だったのだ。そして、カヴァフィス自身は、その青年王の奴隷だ。青年王の戦車の馬でもいい。近くにいて、その肉体を感じるとき、カヴァフィスに官能が走る。
 「二十五歳か六歳か」。このあいまいなことばもおもしろい。「ほんとう」を知らない。つまりカヴァフィスは青年とは知り合いではない。「こうすれば」と同じように、願望がまじっている。彼がどういう人間なのか。白い肌、漆黒の豊かな髪、美しく伸びやかな手足。それは肉眼で見て知っているが、それ以外のことは知らない。知らないがゆえに、青年に惹きつけられていくこころがなまなましい。年齢が特定されると、想像しているこころの動きが小さくなる。いま、こころに起きている「こと」という感じが薄れる。

さて市から腕のたつ石膏と
有名な彫刻家がやってきて
墓と墓誌をつくったと--。

 最後の「……と--。」このあとには「言われる」が省略されているのだろう。そこには自分だったらこうするのに、という思いが隠れている。それもなまなましい。

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