哲学の科学

science of philosophy

不老不死は可能か(2)

2018-07-14 | yy64不老不死は可能か


現代生物学の知見によれば、生物体は水溶液に浸された核酸とタンパク質からなる巨大なネットワークシステムであって、各所に埋め込まれた安定化調整機構が働いている限り循環的な遷移を繰り返す、とされています。
生物体システムの遷移は、進化により、遺伝子の繁殖に最適化されているはずなので、それ以外の機能は排除されるはずです。この進化理論によれば、繁殖に寄与しない不老不死への遷移は生物界では起こりえない、となります。
おおかたの生物現象は、量的には、成長曲線という右に上がったあと寝てくるS字カーブが当てはまって安定することになっていて、指数関数的に右に行くほどカーブが立ってくる現象が起こる場合は、早晩破綻が来る。つまり会社でも、複利計算的に負債がどんどん増加するようになったら早晩破産するということです。
人類は生物の単なる一種でしょう。何万年、何十万年もの原始時代、ふつうの動物として生態系の中で静かに棲息してきた動物のある一種が、なぜかこの数千年間に突然極端に活性化し、地表面を耕作で荒廃させ、際限なく人口を増やし、さらにこの数百年は金属や鉱物を大量に変性して地表を人工物で置換するようになって、ついに生物現象としても物質現象としてもさらには惑星現象としても、爆発的な異常状態を引き起こしている、ということになります。
人類大爆発のきっかけは、一万数千年前の農耕牧畜の発明なのか、あるいはずっとさかのぼって十数万年前の言語の獲得なのか、あるいは、拙稿の見解のように、さらに古い時代に、運動共鳴(拙稿のキーワード/ 拙稿2章「言葉は錯覚からできている」)を利用した存在感の共有化回路を脳内に実現したからなのか、いずれにせよ、突然変異で獲得した大きな脳を下敷きにした異常な行動能力を持つ動物となってしまったわけです。

物質現象としてみれば生物も単なる物質でありますから、もともと生きているとかいないとかいう必要はない(拙稿7章「命はなぜあるのか?」)。つまり科学としては、この世には、実は、生も死もない。老も死もない、したがって不老不死もない、というべきでしょう。ただ、生物細胞というシステムは代謝や分裂など規則正しい状態遷移をするようにできているので、それらができなくなった状態を死んでいる、できている状態を生きている、ということにするわけです。
がん細胞などはめちゃめちゃに分裂して増殖していくので、生きているといっても狂って生きている、というべきで、困ったものです。しかしミミズや人間など左右対称動物の正常細胞はきちんとプログラムされていて整然と分化し分裂していきます。細胞の種類ごとに分裂は制御されていて、既定の分裂回数を終えると死んでいきます。つまり分裂しない細胞は経年的に劣化し機能しなくなり消滅します。
多細胞動物は身体を構成する各種の細胞が死んでしまって再生しなければ機能が低下しいずれは全体が運転できなくなります。個体が死ぬ、ということです。(多細胞)動物はこのようにそれを構成する個々の細胞が経時劣化することが原因で老化し死んでいきます。







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不老不死は可能か(1)

2018-07-07 | yy64不老不死は可能か

(64 不老不死は可能か begin)




64 不老不死は可能か?

日本のはるか東、太平洋のどこら辺かは分かりませんが、小人国、巨人国、空飛ぶ島ラピュタなど果てしない漂流を続けたガリバーは、最後に日本まで船で十五日かかる東洋の国ラグナム王国で不死の老衰人間の集団を見つけます。
「彼らは私が目撃した最もおぞましい姿をさらしていた。女は男より恐ろしい。高齢による変形に加えて年齢に比例するなんというか化け物的風貌がある。数人いたが年齢差が百歳とか二百歳なのでだれが最年長かすぐに分かる。
読者は、私の見聞から、永遠の生命への私の情熱が急減した故を理解できると思う。どんなに無慈悲な死でもよいからこのような生からは逃れたいと思うようになった次第である。(一七二六年 ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記 Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships』訳筆者)」
三百年前のこの作家の表現を見ると、肉体の老衰への恐怖は現代よりも強かったようです。百年前くらいの日本の作家になると現代人の感覚に近い。老化もまた美しい、となる。
「二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。(一九〇六年 夏目漱石『草枕』)」
筆者は今年で七二歳になりますが、自らの身体を顧みるに、もう老衰への転落は始まっている。アンチエイジングなどむなしい抵抗を試みる同輩も多いようですが、早晩結果は似たものでしょう。不死でもどこまでも老衰するということならごめんにしたい。
老人人口増加の市場で一番売れそうなものは、不老不死の妙薬だそうです。年を取らない身体が手に入れば素晴らしい。バイオテクノロジーの究極の成果はそれだろう、ともいえます。しかしどうやってそういうものを作れるのか?実は現代科学でもさっぱり分かっていません。
最近百歳近くまで生きたという実例が身近に出ているように感じられますが、一方では百三十才以上生きた人はいないという事実を聞くと、やはりいくら研究が進んでもある限界以上はだめらしいとも思えます。
一方、情報技術や生物科学など現代科学の加速度的な進歩を見ている現代人は、いままで不可能と信じていたことがいつの間にか可能になる、たとえば不老不死に関しても、一縷の望みを持っても良いような雰囲気があります。実際どうなのでしょうか?
すごい時代が来る、という予感を皆が持っているという点では、人工知能とよい勝負かも知れません。第二のシンギュラリティというか、社会へのインパクトはこちら、不老不死のほうが大きいでしょう。ガリバー旅行記の記述でも、死なない老人人口が増えて、社会を圧迫し公共は破綻する、と予言されています。個人にとってはハッピーなことでも社会全体から見ると悲劇である、というところでしょう。
最近百年間の平均寿命の向上は素晴らしい。一九二〇年の日本人の平均寿命は男四二歳、女四三歳ですが、二〇一六年のそれは男八一歳、女八七歳となっています。織田信長が詠った人間五十年のラインを平均寿命が超えるのは、実際は筆者が生まれた頃、一九四七年で、そこから突然、爆発的な寿命延長が始まります。このような事実を見ると、人口爆発といい、寿命爆発といい、私たちの生きている現代という時代は、何か過去とは決定的に違った特異点に向かって突っ走っている歴史上でも特殊な瞬間である、と思いたくなります。














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