日本のはるか東、太平洋のどこら辺かは分かりませんが、小人国、巨人国、空飛ぶ島ラピュタなど果てしない漂流を続けたガリバーは、最後に日本まで船で十五日かかる東洋の国ラグナム王国で不死の老衰人間の集団を見つけます。
「彼らは私が目撃した最もおぞましい姿をさらしていた。女は男より恐ろしい。高齢による変形に加えて年齢に比例するなんというか化け物的風貌がある。数人いたが年齢差が百歳とか二百歳なのでだれが最年長かすぐに分かる。
読者は、私の見聞から、永遠の生命への私の情熱が急減した故を理解できると思う。どんなに無慈悲な死でもよいからこのような生からは逃れたいと思うようになった次第である。(一七二六年 ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記 Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships』訳筆者)」
三百年前のこの作家の表現を見ると、肉体の老衰への恐怖は現代よりも強かったようです。百年前くらいの日本の作家になると現代人の感覚に近い。老化もまた美しい、となる。
「二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。(一九〇六年 夏目漱石『草枕』)」
筆者は今年で七二歳になりますが、自らの身体を顧みるに、もう老衰への転落は始まっている。アンチエイジングなどむなしい抵抗を試みる同輩も多いようですが、早晩結果は似たものでしょう。不死でもどこまでも老衰するということならごめんにしたい。
老人人口増加の市場で一番売れそうなものは、不老不死の妙薬だそうです。年を取らない身体が手に入れば素晴らしい。バイオテクノロジーの究極の成果はそれだろう、ともいえます。しかしどうやってそういうものを作れるのか?実は現代科学でもさっぱり分かっていません。
最近百歳近くまで生きたという実例が身近に出ているように感じられますが、一方では百三十才以上生きた人はいないという事実を聞くと、やはりいくら研究が進んでもある限界以上はだめらしいとも思えます。
一方、情報技術や生物科学など現代科学の加速度的な進歩を見ている現代人は、いままで不可能と信じていたことがいつの間にか可能になる、たとえば不老不死に関しても、一縷の望みを持っても良いような雰囲気があります。実際どうなのでしょうか?
すごい時代が来る、という予感を皆が持っているという点では、人工知能とよい勝負かも知れません。第二のシンギュラリティというか、社会へのインパクトはこちら、不老不死のほうが大きいでしょう。ガリバー旅行記の記述でも、死なない老人人口が増えて、社会を圧迫し公共は破綻する、と予言されています。個人にとってはハッピーなことでも社会全体から見ると悲劇である、というところでしょう。
最近百年間の平均寿命の向上は素晴らしい。一九二〇年の日本人の平均寿命は男四二歳、女四三歳ですが、二〇一六年のそれは男八一歳、女八七歳となっています。織田信長が詠った人間五十年のラインを平均寿命が超えるのは、実際は筆者が生まれた頃、一九四七年で、そこから突然、爆発的な寿命延長が始まります。このような事実を見ると、人口爆発といい、寿命爆発といい、私たちの生きている現代という時代は、何か過去とは決定的に違った特異点に向かって突っ走っている歴史上でも特殊な瞬間である、と思いたくなります。