PがQを襲う、と言うとき、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にある。拙稿はそう言いたい。
この見解を強く一般化すれば、(拙稿の見解では)Pがライオンである場合にかぎらず、すべての動物にこれは当てはまる。さらにPが保育園児である場合も幼稚園児である場合も、当てはまる。実は(拙稿の見解では)大人の人間である場合も当てはまると考えます。つまり、PがQを襲う、と言うとき、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にある。Pが人間であろうとなかろうと、この見解は敷衍できる。
しかも、何かが何かを襲う、という場合だけでなく、何かが何かをする場合、いつでもそうだといえる。
つまり、どんな場合でも、「XがYをする」というとき、(拙稿の見解では)XがYをする目的はXの中にはなくて、「XがYをする」という言葉を発する話し手の内部にある。
しかしながら、Xが大人の人間の場合にも、XがYをする目的がXの内部にはない、という拙稿の見解には納得できない読者は多いでしょう。たしかに私たちは、自分自身を含めて(大人の)人間はだれも、意識を持って行動する場合には目的を考えて行動している、ように見える。目的を達するために行動しているように見えます。赤ちゃんはともかく、大人の人間が手足を動かす場合、それはなんらかの目的を持って動かしているはずだ、と思えますね。
前章でも述べましたが、意識的行動は予測を伴う行動であるという顕著な特徴を持っています(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)。
ある人が意識的に手足を動かして運動している場合、たとえば自転車をこいでいる場合、その人はその運動の結果を予測している。その予想は、たとえば、この道の左端の白線に沿ってこのまま進めば道なりに進み続けることができるだろう、とかです。その予測が運動目的イメージになっている。そのイメージは運動シミュレーションで作られている。そのイメージが自転車をこぐという行動の目的である、と言えなくもありません。
しかし問題は、この運動目的イメージが「その人はなぜ自転車をこいでいるのか?」という質問の答えになっていないことです。この質問に対する適切な答えは、たとえば「学校に行くためです」というようなものでしょう。「道なりに進み続けるためです」という答えは、ふつう、質問に答えたことにならない。
「その人は自転車をこいでいる」
「その人」をX、「自転車をこいでいる」をYとすると、「XはYをする」の形になっている。このとき、「その人は自転車をこいでいる」という言葉を言う人は、その人が自転車をこいでいる目的を知っている。その目的は、移動することです。どこかからどこかへ行こうとしている。どこからどこへか分かりませんが、移動しようとして自転車をこいでいることは分かります。そういう目的は知っているから「自転車をこいでいる」と言える。
この自転車をこいでいる人は移動していく先に何か用事があるのだろう、ということも分かる。その用事とは、学校に出席する、あるいは友達と会って遊ぶ、など社会的に(あるいは経済的に、あるいは人間関係にとって)重要なことである場合がほとんどです。
つまり、ふつう私たちが言っている行動の目的は、「学校に行くためです」というような型どおりの社会的に(あるいは経済的に、あるいは人間関係にとって)意味のあるとらえ方をする。「道なりに進み続けるためです」というような、行動を構成する個々の身体的な運動の運動目的イメージとは違う。
ふつう私たちが言っている行動の目的という言葉は、意識的行動の結果もたらされると予測される状態の変化をいいます。その状態の変化は、その行動をする人にとって、重要な状態の望ましい変化である場合が多い。利益が得られるような変化、あるいはそれはしばしば、人間関係の利益につながるような社会的な意味のある変化です。たとえば、個人的、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化ですね。
そしてまた、その行動が意識的行動の結果でなければ、その結果もたらされるものは目的とはいえない。無意識の運動の結果もたらされるものは目的とはいえない。思わずあくびをした結果、友達に笑われてしまったとしても、あくびの目的が友達を笑わせるためだったとはいえない。
意識的行動は目的を予測して引き起こされる、といえる。
たとえばケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う場合、それが意識的行動であるための条件は、ライオンがその行動の結果何が起こるかを予測してすることです。ライオンは、シマウマを追いかけることによって、数秒後にはシマウマの背中に飛び乗ることを予測しているように思えますね。もしそうだとすれば、ライオンがシマウマを襲う目的は、シマウマの背中に飛び乗ることだ、といえる。
しかしここで注意しなければいけないことは、ライオンがシマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションを使って運動目的イメージを持っているとしても、それはライオンを観察している人間が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で言う場合に思っているライオンの行動の目的ではない、という点です。
私たち人間が目的というときは、ふつう動物が使っていると思われるような直接の身体的な運動目的イメージのことではない。むしろ、社会的な意味合いのある行動の結果を言っている。それは、人間にとって関心が深い、重要だと思えるような社会的状況の変化を予測させる結果です。人間関係の利益につながるような社会的な意味のある変化をもたらすであろう結果です。たとえば、個人的な、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化を予測させる行動の結果をいう。
それは観察者に対して「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問を発してみれば分かる。
ふつうの答えは「シマウマを殺して食べるためだ」とか「餌食にして食欲を満たすためだ」とか「シマウマの肉を消化して栄養を取るためだ」とかになるでしょう。ライオンとシマウマが二人の人間だったら、この話は、A君がB子を殺して食べるために襲う、という形になる。かなりスキャンダラスな人間関係を目的とした行為ですね。