哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(13)

2010-01-09 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

 

PがQを襲う、と言うとき、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にある。拙稿はそう言いたい。

この見解を強く一般化すれば、(拙稿の見解では)Pがライオンである場合にかぎらず、すべての動物にこれは当てはまる。さらにPが保育園児である場合も幼稚園児である場合も、当てはまる。実は(拙稿の見解では)大人の人間である場合も当てはまると考えます。つまり、PがQを襲う、と言うとき、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にある。Pが人間であろうとなかろうと、この見解は敷衍できる。

しかも、何かが何かを襲う、という場合だけでなく、何かが何かをする場合、いつでもそうだといえる。

つまり、どんな場合でも、「XがYをする」というとき、(拙稿の見解では)XがYをする目的はXの中にはなくて、「XがYをする」という言葉を発する話し手の内部にある。

しかしながら、Xが大人の人間の場合にも、XがYをする目的がXの内部にはない、という拙稿の見解には納得できない読者は多いでしょう。たしかに私たちは、自分自身を含めて(大人の)人間はだれも、意識を持って行動する場合には目的を考えて行動している、ように見える。目的を達するために行動しているように見えます。赤ちゃんはともかく、大人の人間が手足を動かす場合、それはなんらかの目的を持って動かしているはずだ、と思えますね。

前章でも述べましたが、意識的行動は予測を伴う行動であるという顕著な特徴を持っています拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」

ある人が意識的に手足を動かして運動している場合、たとえば自転車をこいでいる場合、その人はその運動の結果を予測している。その予想は、たとえば、この道の左端の白線に沿ってこのまま進めば道なりに進み続けることができるだろう、とかです。その予測が運動目的イメージになっている。そのイメージは運動シミュレーションで作られている。そのイメージが自転車をこぐという行動の目的である、と言えなくもありません。

しかし問題は、この運動目的イメージが「その人はなぜ自転車をこいでいるのか?」という質問の答えになっていないことです。この質問に対する適切な答えは、たとえば「学校に行くためです」というようなものでしょう。「道なりに進み続けるためです」という答えは、ふつう、質問に答えたことにならない。

「その人は自転車をこいでいる」

「その人」をX、「自転車をこいでいる」をYとすると、「XはYをする」の形になっている。このとき、「その人は自転車をこいでいる」という言葉を言う人は、その人が自転車をこいでいる目的を知っている。その目的は、移動することです。どこかからどこかへ行こうとしている。どこからどこへか分かりませんが、移動しようとして自転車をこいでいることは分かります。そういう目的は知っているから「自転車をこいでいる」と言える。

この自転車をこいでいる人は移動していく先に何か用事があるのだろう、ということも分かる。その用事とは、学校に出席する、あるいは友達と会って遊ぶ、など社会的に(あるいは経済的に、あるいは人間関係にとって)重要なことである場合がほとんどです。

つまり、ふつう私たちが言っている行動の目的は、「学校に行くためです」というような型どおりの社会的に(あるいは経済的に、あるいは人間関係にとって)意味のあるとらえ方をする。「道なりに進み続けるためです」というような、行動を構成する個々の身体的な運動の運動目的イメージとは違う。

ふつう私たちが言っている行動の目的という言葉は、意識的行動の結果もたらされると予測される状態の変化をいいます。その状態の変化は、その行動をする人にとって、重要な状態の望ましい変化である場合が多い。利益が得られるような変化、あるいはそれはしばしば、人間関係の利益につながるような社会的な意味のある変化です。たとえば、個人的、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化ですね。

そしてまた、その行動が意識的行動の結果でなければ、その結果もたらされるものは目的とはいえない。無意識の運動の結果もたらされるものは目的とはいえない。思わずあくびをした結果、友達に笑われてしまったとしても、あくびの目的が友達を笑わせるためだったとはいえない。

意識的行動は目的を予測して引き起こされる、といえる。

たとえばケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う場合、それが意識的行動であるための条件は、ライオンがその行動の結果何が起こるかを予測してすることです。ライオンは、シマウマを追いかけることによって、数秒後にはシマウマの背中に飛び乗ることを予測しているように思えますね。もしそうだとすれば、ライオンがシマウマを襲う目的は、シマウマの背中に飛び乗ることだ、といえる。

しかしここで注意しなければいけないことは、ライオンがシマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションを使って運動目的イメージを持っているとしても、それはライオンを観察している人間が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で言う場合に思っているライオンの行動の目的ではない、という点です。

私たち人間が目的というときは、ふつう動物が使っていると思われるような直接の身体的な運動目的イメージのことではない。むしろ、社会的な意味合いのある行動の結果を言っている。それは、人間にとって関心が深い、重要だと思えるような社会的状況の変化を予測させる結果です。人間関係の利益につながるような社会的な意味のある変化をもたらすであろう結果です。たとえば、個人的な、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化を予測させる行動の結果をいう。

それは観察者に対して「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問を発してみれば分かる。

ふつうの答えは「シマウマを殺して食べるためだ」とか「餌食にして食欲を満たすためだ」とか「シマウマの肉を消化して栄養を取るためだ」とかになるでしょう。ライオンとシマウマが二人の人間だったら、この話は、A君がB子を殺して食べるために襲う、という形になる。かなりスキャンダラスな人間関係を目的とした行為ですね。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(12)

2010-01-02 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちが言葉で「XがYをする」というとき、Xが人の場合もあり、Xが動物の場合もある。人類の言語では、言葉で言えるもの(概念)は、何でもXになれる。では、Xが無生物の場合、たとえば台風が九州地方を襲う、という場面についてはどうでしょうか?

どういう運動目的イメージが、この場面で使われるのか? 気象衛星「ひまわり」の写真のような日本列島周辺の雲の動きをイメージするのでしょうか?

では、深刻な経済不況が中小企業を襲う、という場面はどうか?

この場面を表す運動目的イメージはあり得るでしょうか? 経済不況という何か巨大で真っ黒い化け物のようなイメージが無数の人間集団の上から覆いかぶさってくる、というような絵になりますかね。マンガ家はこういうものも絵に描きます。私たちは、こういうものもなんとなくイメージできる。そのイメージはだれのものとも同じようなものだという確信も持てます。人間はだれでも、このような運動目的イメージを持てます。

深刻な経済不況が中小企業を襲う場合、私たちは問題なくこの状況を理解できる。深刻な経済不況が中小企業を襲うとどうなるのか、中小企業のオーナーや働く人々にとって非常に困ったことになることはだれもが予測できる。私たちは、そういう予測を共有しています。

その予想される事態が、経済不況が中小企業を襲う(という比喩としての)目的です。経済不況は人間ではありませんから、中小企業を苦しめたいなどいう意図は持たないでしょう。しかし中小企業の苦しみに思いを寄せるとすれば、経済不況はその人たちを苦しめるために襲ってきた、害を与えるために来た、と思いたい気持ちが分かる。だから、「襲う」という比喩が使われるのです。そこを考えると、やはり、経済不況は中小企業を苦しめたいという目的を持ってそれらを襲う、と言ってよいことになる。

つまり、ケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う場合も、台風が九州地方を襲う場合も、経済不況が中小企業を襲う場合も、「襲う」という言葉を使う人は、それがそれを襲う目的を知っている。XがYをする、という形で物事の認知をするとき、私たちはXがYをする目的をすでに知っている。

逆に言えば、台風が九州を襲う場合、気象現象である台風は自分が九州を襲う目的を知らない。この光景を観察している人間が台風の行為の目的を知っている、ということでしょう。

観察者が台風の行為の目的を知っているかのごとく、その行為を「台風が九州を襲う」と表現している。この場合、「襲う」という表現は比喩として使われている。台風のなす行為の目的は台風の内部にはなくて、その行為を遠くから観察している人間の内部にある。台風のその行為を、言葉で述べようとする人間の内部にある。台風の観察者は「台風が九州地方に襲いかかり、大災害をもたらした」と実況ニュースで述べる。あるいはブログに書く。つまり、拙稿の見解を使えば、「襲う」という行為は台風の内部にはなくて、それを観察し叙述する人間の内部にある。

XがYをするとき、そのことを「XがYをする」と言うのは、その話し手が、XがYをする、と思っているからです。

では、次にその台風が人間である場合はどうか? 幼稚園児の大風君が同じ年長組の九周君を襲う場合です。大風君が九周君の持っているボールを狙って襲いかかる。これを見ている先生は、「X月X日。プレイルームで、大風が九周に襲いかかり、大騒動をもたらした」と日誌に書くでしょう。先の例の台風の内部には襲いかかる目的がないのに、大風君の内部には襲いかかる目的があることになっている。

PがQを襲う場合、それを見ているRという観察者が「PがQを襲う」と言ったとすれば、拙稿の見解では、RはPがQを襲う目的を知っている。つまり、このとき、PがQを襲う目的は観察者Rの内部にある。

ここで(拙稿の見解では)、PがQを襲う目的はPの内部にあるというよりもむしろPの内部にではなくて観察者Rの内部にある、という点に注意してください。

PがQを襲う。

この言葉の構造を、すこし詳しく、調べて見ましょう。まずPが台風の場合などには、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にだけある。Pが台風のような気象現象である場合は、だれもこの見解に納得するでしょう。

ではPがライオンのような動物である場合はどうか? 拙稿の見解では、この場合もライオンPの内部には人間である観察者Rが思っているような目的はない。ライオンは餌食を襲うときの運動目的イメージとして特定の形式の運動シミュレーションを体内に持っていることは明らかですが、それは人間の観察者Rが思っているような目的ではない。観察者の人間Rは、ライオンがシマウマを食べて食欲を満たそうとしてそれを襲う、と思っている。しかし拙稿の見解では、ライオンは食欲とか食べるとかいう概念は持っていません。

ライオンには食欲はあるかもしれないが、食欲という概念は持っていない。結果的に食べる運動はするでしょうが、食欲を満たすために食べるとか、栄養を取るために食べるとか、というような目的概念は持っていません。もちろん、栄養とか、食事とかランチとかいう概念も持っていません。

ライオンは、動物の生理として体内の血糖値が下がると餌食を襲う運動シミュレーションが活性化するような身体の仕組みになっているだけでしょう。ライオンは(拙稿の見解では)目的を持って行動しているわけではない。自動的に身体が動いてライオンの身体がなすべき仕事をこなしてしまうだけです。空気が重力と熱力学の法則にしたがって九州のほうへ渦巻いていく台風と同じことです。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(11)

2009-12-26 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

シマウマはライオンの身体を持っていないのに、なぜライオンの身体の動きが分かるのか? という疑問がでてきますね。もっともです。シマウマの内部にあるライオンの動きのシミュレーションは、たぶん、本物のライオンの筋肉運動とはちがうでしょう? 

ライオンが動くのを認めるとき、(拙稿の見解では)シマウマの身体が自動的に反応して逃げの姿勢をとる。この姿勢を感知してシマウマはライオンの動きのシミュレーションを作る。

自分と同種の動物ではない身体のちがう運動体の動きのシミュレーションを、哺乳動物は作れるらしい。たとえば、サルは人と肩の構造がちがうのでオーバースローで石ころを投げつけることはできませんが、人が腕を上げて石を投げつける動作を始めると投げる前に逃げようとする(二〇〇九年 ジャスティン・ウッドル、デイヴィッド・グリン、マーク・ハウザー『人類特有の投擲能力は非投擲霊長類から進化した:行為と知覚の分離』)。

たしかにフリスビーを投げられないは、主人が投げたフリスビーをキャッチできますが、猿の場合は、投げる人の目つきだけで自分に石が飛んでくるのを予想できるようです。いくつかの体験によって、犬や猿は、投げる人の動きと飛んでくるものの軌道と、自分がどう動けば身体のどこに投擲物が着弾するかを予測できる。

投擲物の軌道を予測する動物は、その内部に持つ運動予測シミュレーションを使って、(投げる人、あそこを狙っている)という(概念、運動目的イメージ)の二項形式を作っていると考えられます。

ライオンとシマウマの話に戻ります。ライオンがシマウマを追って走っている。遠くからこの場面を人間が見ているとすれば、その人たちも、ライオンとシマウマの運動のイメージとして(ライオン、シマウマを襲う)という形式の運動目的イメージを持っている。ライオンがシマウマを追って走っている光景を遠くから眺めて、人間は、次の瞬間にライオンが跳躍してシマウマの背中にのしかかる場面を思い浮かべます。そのイメージが人間の持っている(ライオン、シマウマを襲う)という形式の運動目的イメージです。

その人は同時に、人間ですから、言葉を使って「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを隣にいる人に向かって、日本語あるいはケニヤ語で、言う。このとき、その人たちはライオンの目的を知っている。ライオンがシマウマを襲う目的を知っているから「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを、日本語あるいはケニヤ語で、言える。

何語で言ったとしても、その裏には、(ライオン、シマウマを襲う)という二項形式の運動目的イメージがある。ここで、「襲う」という言葉を使う話し手もそれを聞き取る聞き手も、両方とも、襲うという行為の目的を知っている、ということに注意してください。

この日本語あるいはケニヤ語の話し手たちは、ライオンの行動を見て、その行動の目的を見て取っています。ここに人間特有の目的行動の鍵がある。言語を話さない動物と違って、人間は、シマウマの後ろを走っているライオンを見て、「襲う」という目的行動を見て取る。

逆に言えば、(拙稿の見解では)こういうように物事を見て、それを、目的を持った行為とみなすことができるから、人間は言語を話せる。

さてここで、「襲う」という行為を表す言葉について、その使われ方を少し詳しく調べて見ましょう。「襲う」という意味の(日本語あるいはケニヤ語の)言葉を使う場合、人間が人間を襲うという場合に使うのが基本でしょう。この言葉に関して、基本の使い方はどうなっているのでしょうか? 

たとえば、ある男がある女を襲う。具体的な固有名詞を使えば、A君という人物がB子という人物を襲う、という話です。その場面を言葉で表現することを考えて見ましょう。

全力で走っているB子が見える。その後ろからA君が全力で走っているのが見える。

この場合、それを見ているC氏という人が「A君がB子を襲う」と言ったとします。このとき、(拙稿の見解では)C氏は、B子を襲うA君の目的を知っている。あるいは少なくともC氏としては、その目的が分かっていると思っている。逆に言えば、C氏が、A君がB子を襲う目的を自分は知らないと思っている場合、「襲う」という言葉を使うことはできない。

たとえば、A君がB子を追って走っているのを見ても、C氏が、A君がB子よりも全然弱くて、どんな場面でもB子に打ち倒されてしまうに違いないと確信している場合、C氏はB子を襲うA君の目的が分からない。たとえば、A君が泥棒でB子が警官であることをC氏が知っている場合、しかもA君の体重がB子のそれの半分に足りないというようなケースですね。

そういう場合、C氏はA君がB子を襲うとは思わないから、「A君がB子を襲う」と言うはずがないのです。そのかわりに、たとえば「A君がB子に追いすがる」などと言うでしょう。

男が女を追いかけているからといって、襲おうとしているとは限らない。だいたい、人間以外の場合、動物のオスはメスを襲ったりしない。メスに害を与えるようなオスは子孫を残せないからですね。害を与える目的で追うのでなければ「襲う」とはいえない。

ある行為を観察してそれを言葉で言い表そうとしている観察者は、その行為を見るとき同時にその行為の目的を見取るから、その行為について言葉で言い表せる。

もっと一般にいうと、Zという人が「XがYをする」と言う場合、Zは、YをするXの目的が分かっている。観察者Zは、YをするXの気持ちが分かっている。ZがYをするXの気持ちになって、XがYをしようとする目的が分かって、だからXはYをするのだと思って「XがYをする」と言うところから(拙稿の見解では)私たち人間の言語はできあがっている。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(10)

2009-12-19 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

比較心理学や発達心理学の実験観察によると、言語能力のない猿や人間の赤ちゃんにも、他人の行動の目的を推測する能力があるらしいという報告がされています(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か』)。人がしている行動を見てその目的を推察する能力は、人間の進化過程でもかなり基礎的なものであるようです。このことから考えると、目的を定めて行動する私たちの身体の仕組みは、他人の行動の目的を推察する仕組みから来たものではないか、というヒントがありそうです。

私たちが使う目的構造は動物の運動目的イメージをまったく別のものに置き換えたというものではなくて、(拙稿の推測によれば)それと階層関係になっている。

運動目的イメージを基底構造としてその上に、いわゆる人間のいう目的概念の形式を階層構造として積み重ねることで目的階層構造が作られる。それぞれの階層は共有される予測シミュレーションによって統合されています。その最下層をなす運動の具体的なイメージは、身体各部の筋肉の制御信号でしょう。そのすぐ上の層は、身体の形の変形と変形速度を表現するシミュレーション。そのまた上層は、身体移動の運動シミュレーションを表現する。

そのまた上層は、それぞれの運動シミュレーションを要素として連鎖的に構成されるマクロな行動のシミュレーションとなっている。これは(X,Y)、つまりXがYをする、という形式のシミュレーションです。XとYが直接目の前にある身体の動きである場合は、人間以外の動物もこの形式を使います。人間も、もちろん、これを使う。人間と動物が共通に使うのは、このあたりまでの予測システムです。

人間は、さらに上の階層として付け加えられた上位の予測ミュレーションを使う。他人の行動の目的を推察する仕組みを使って、自分を含めた人間の行動を上位の目的概念に対応させる。比喩を使い状況の抽象化を使って(自分を含めた)観察対象の行動の結果を予測し、目的概念を使ってその行動意図として表現していく。さらに、抽象概念を組み上げて、上へ上へと大きな目的を目指す階層構造としての目的構造を作っていく。

さてここで、人間の目的行動を論じる準備段階として、哺乳動物が使う目的行動を調べてみましょう。

たとえば、ケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う、という場面がある。

ライオンとしては、自分がシマウマに飛びかかっていく運動のシミュレーションを身体の中に持っています。

シマウマを見つける→追う→シマウマの尻が目前に見えるまで追いつく→思いっきり飛びつく→背中に飛び乗る→頚動脈を噛み切る→倒れたシマウマを食べる

ライオンの仕事はざっとこのような流れになる。これらの各プロセスでどの筋肉をどの順序で使うかというシミュレーションがあらかじめライオンの身体の内部にインストールされているはずです。

この運動シミュレーションを、ライオンの運動目的イメージ、ということにしましょう。

ライオンはまた、その内部に、逃げるシマウマの運動目的シミュレーションをも持っている。それはライオンの内部で、シマウマの概念とのペアとなっている。これを(シマウマ、ライオンから逃げる)という形式で書いてみましょう。シマウマはライオンに気づく→逃げる→ライオンが追ってくるのに気づく→全速で逃げる→ライオンが背中に飛び乗ってきたことに気づく→振り落とそうとする→頚動脈を噛み切られたことに気づく→倒れる

こういうシマウマの運動目的イメージのシミュレーションがライオンの内部にありそうです。

ライオンのこの内部状態は、(シマウマ、ライオンから逃げる)というペアの形式で表現できる。これは、(概念、運動目的イメージ)という二項形式です。人間以外の、言語を持たない動物でも、多くの哺乳動物は(拙稿の見解では)こういう(概念、運動目的イメージ)という二項形式を内部に作る機能を持っている。つまり、Xが概念、Yが運動目的イメージであるとすれば、XがYをする、(X,Y)という二項形式です。これは何度か前述したように、人間の言語の基底になっています拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

さて、シマウマのほうは、自分たちがライオンに追いかけられる運動のシミュレーションを持っているでしょう。

ライオンが来る→逃げる→ライオンが追ってくる→全速で逃げる→ライオンが全速で追ってくる→どんどん逃げる→ライオンが引き離されて追ってこないところまで逃げ切る

これがシマウマとしての仕事の流れです。シマウマは、その身体の中にこういうシミュレーションを持っているに違いない。

シマウマは同時に、またその身体の内部に、ライオンの運動目的イメージをライオンの概念とのペアの二項形式で(ライオン、シマウマを追う)という運動シミュレーションの形式で持っているはずです。それは次のようになる。

ライオンがシマウマに気づく→近づく→シマウマが逃げると追う→シマウマが逃げてもしつこく追う

シマウマの内部にあるこういうライオンのシミュレーションを使って、シマウマは自らの恐怖を駆り立て、全力を振り絞って走り続ける、と推測されます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(9)

2009-12-12 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

人間でなく、動物の場合はどうか?

人間以外の動物の場合、目的のようなものはあるとしても、それは今すぐしようとしている運動の直接の結果としての運動目的イメージでしかない。それ以外の言葉による抽象的な目的概念はありません。

馬とか象とか猿とかの場合、「口をあけてバナナを食べる」という運動の運動目的イメージは「口をあけてバナナを食べる」という運動シミュレーションのことです。そして、それが行動の目的そのものでしょう。ところが人間の場合だけ違う。人間が「口をあけてバナナを食べる」という運動目的イメージの行動をする場合の目的は、単に「口をあけてバナナを食べる」ことではありません。ふつう言葉でいう抽象的な目的がある。

私たちが(意識的に)口をあけてバナナを食べるときは、「ダイエットによさそうだからそうする」とか、「朝から午後四時ころまで忙しくてランチを食べる暇がないから、まだ十一時だけれど何かを口に入れておいて午後の空腹を避ける」とか、「一緒に食事をする友人がバナナしかいらないというから、もっとちゃんとしたものを食べたいけれどしかたない、ここは付き合ってバナナで我慢することによって良好な人間関係を維持しておく」とかいう抽象的な目的概念を持っています。

このような抽象的な概念としての目的は、人間以外の動物は持っていない。人間以外の動物である馬とか象とか猿とかはバナナを食べるときに口をあけますが、そのとき「口をあけてバナナを食べる」という具体的な運動目的イメージ以外の目的は持っていません。

動物園の象がバナナを食べるとき「大きなバナナの房をペロンと一口で食べて、ぼくを見ている子供たちの賞賛を浴びよう」などと思ってはいませんね。象はそんなむずかしい目的はまったく持っていない。単に口をあけてバナナを食べるだけです。

なぜ人間だけが、抽象的な目的を持って行動するのか? 人間の脳には、抽象的な目的を作り出す特有の仕掛けがあるのでしょうか? しっかりした目的を立てることで宇宙ロケットまでを作り出す人類の能力を考えれば、相当に高度で人類にだけ特有な脳の組織があるような気がしますね。

しかしもし、そういう人類特有の脳組織があるとすれば、それは人類が類人猿から別れて進化をしたこの数百万年くらいの短い時間で作られたはずです。数百万年の間には、ゴリラの手のような足が人間の足のような足になった。そのくらいは進化します。しかし、その足もよく見ると、指や足裏の骨の長さの比率が変わっただけですね。指の数が増えたり減ったりしたわけでもない。組織構造はあまり変化していない。足の構造ではなくて、足の使い方が変わったためにその使い方に適応進化して骨の長さが変わったといえる。

人間は意識を持つから、動物とは質的に違った知的能力をもっている、とよく言われます。しかし本当にそうでしょうか? 拙稿の見解では、意識を持つということは将来の変化を予測することと同じです(拙稿20章『私はなぜ息をするのか(4)』)。このような予測能力は人間以外の動物でも、ある程度は持っている。

チンパンジーやボノボは、餌の量が増えるまで食べるのを我慢することができる(二〇〇七年 ロサティ、スティーヴンス、ヘア、ハウザー『人類の忍耐力の進化的起源:チンパンジー、ボノボおよび成人の時間的選好)。人間が将来の利益のために現在の苦労を我慢するのと同じように、チンパンジーは将来の利益のために二分くらい我慢できる。人間の場合は、将来の利益が十分大きいことが確信できれば、二日でも二年でも我慢できる。いずれにせよ、量的な違いはあっても、将来を期待する意識のようなものは、実はチンパンジーも持つ。数百万年前の類人猿共通の祖先もそれは持っていたといえそうです。

人類の脳も、(拙稿の推測によれば)類人猿の脳から構造的に変わったわけではなく、使い方が変わったということでしょう。使い方の変化に適応進化して神経細胞の密度分布は変わったようですが、脳の組織構造は変わっていない。ここで考察している行動の目的に関しても、それは同じことでしょう。

類人猿共通の祖先から現生人類への進化の過程で、意識能力は大きく発展した。将来を予測し期待する脳の働きは質的には変わっていないが、量的にはずっと強力になったということでしょう。

もっと一般的にいえば、猿など動物の行動を形成する機構に使われている運動目的イメージの使い方をほんの少しだけ変えれば、くるりと転回が起こって、人類が使う抽象的目的概念になっていくものと考えられます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(8)

2009-12-05 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

哺乳動物の脳の運動形成回路には、(拙稿の使う仮説によれば)運動感覚シミュレーションのための神経機構が付随している。哺乳動物の脳神経系では、目や耳や鼻の感覚器で捉えた遠隔的な情報によって環境にある対象を認知すると同時に、それに関連する適当な運動感覚シミュレーションが活性化されて、運動の予測が起こる。

つまり運動と感覚は一体の神経活動として作動し認知される。このとき、いろいろな運動感覚シミュレーションの予測結果の選択が起こっている。多数の運動感覚シミュレーションが試行錯誤され、感情機構によって評価されて適切な運動が選択される。そのときに選ばれた運動の予測結果が運動目的のイメージを作る。

拙稿の見解によれば、動物が身の回りの環境に何かがあることを認知するということは、それに対応して適切な運動を選択形成しその結果を予測するということだ、といえる。その予測される結果をこれから実際にする運動の運動目的イメージということができる。

拙稿のいう運動目的イメージが、脳のある一部分の、あるいはいくつかの部分の、神経細胞群の微細な物質変化としてどのように表現されているのかは、もちろん、現代の科学では解明できていません。ただ、マクロ的な図式の推測としては、拙稿の見解では、次のように、比較的単純に図式化できます。

まず、無意識のうちに、感覚神経系あるいは運動神経系などの活性化の連鎖反応を受けて運動感覚シミュレーションが活性化されることで脳内に仮想運動が起こる。仮想運動は、また連関する仮想運動を連鎖的に引き起こして、最終的に予測結果のシミュレーションとそれにいたる連鎖運動が感情を伴って選択される。

試行錯誤により種々の仮想運動が評価され選択される。選択されたこの一連の仮想運動の連鎖を運動目的イメージということにすれば、実際に仮想運動を実運動として実行した場合、その運動目的イメージに沿って連鎖運動が引き起こされていくことを観察できます。自分の身体がこのような連鎖運動をするとき、私たちは、その予測結果を目的として自分は行動した、と思う。

たとえば、「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という一連の行動の運動目的イメージは「キーボードに向かって新大臣の名をタイプインして検索画面の検索窓に表示させ検索ボタンを押し、画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達する」という連鎖的運動の仮想運動です。

この仮想運動が感情機構によって実行されるための活性度が閾値を超える程度に強まった場合、(拙稿の見解では)実際に私の指が動いてパソコンを操作する。その結果、大臣の経歴がパソコン画面に表示されます。第三者がこの実際の私の行動を観察すれば、確かにこの場合、私の行動の運動目的イメージは、はっきり分かる。このとき、この第三者が、「目的」という言葉を使って私の行動を説明すれば、「この人は新大臣の経歴を知るという目的を持って行動した」ということになります。

私が私自身の行動を説明する場合も同じような言い方になる。

「あなたは今、何を目的としてパソコンを操作しましたか?」と質問された場合、私は「私は新大臣の経歴を知るという目的を持ってパソコンを操作しました」と答えるでしょう。

実際に身体を動かすときの運動目的イメージは具体的な連鎖的運動の仮想運動であるけれども、言葉でいう場合の目的は、もっと抽象的な理論的概念となっている。「新大臣の経歴を知る」という抽象的な目的概念は、具体的な連鎖的運動の運動目的イメージである「キーボードに向かって新大臣の名をタイプインして検索画面の検索窓に表示させ検索ボタンを押して画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達する」という長たらしい連鎖運動とは違う。ずっと抽象的で記号化された短い表現になっている。このように、人間の行動を表す場合、言葉をじょうずに使うと「経歴を知る」というような抽象概念を使えるために簡潔な表現になります。

これがふつうに私たちがいう場合の「目的」です。

実際、「経歴を知る」という抽象概念は具体的な運動を表していません。経歴を知るためになされる具体的運動は、パソコン操作だったり、物知りの友人に電話をかけることだったり、図書館に行くことだったりするわけです。運動としては必ずしも共通性はない。最終的に文字か音声で「新大臣の経歴」というしかるべきデータを獲得できた、という状態に達すればよい。このように私たちのいう目的は、ある状態に達することを言っている。つまりその到達すべき状態が目的だ、とされている。

この到達すべき状態は、そこに到達できたかどうかが、だれにでもはっきりとわかるような状態でなければいけません。そうでなければ目的とはいえない。「新大臣の経歴を知る」という目的は、それが達成されたのか、達成されていないのか、すぐにはっきり分かる。

「経歴を知る」という日本語の意味が分かる人はだれでも、これができている状態とそうでない状態との違いははっきりわかります。そうであればこれは立派な目的です。

そこに到達できたかどうかが私ひとりだけにしか分からない、ということではいけません。私の仲間のだれもが、それをはっきりと分からないといけない。それは、実際に仲間がここにいて、分かったという態度をしてくれれば一番はっきりします。しかし仲間がここにいなくても、私がそれと同じように感じればよい。仲間の目で見れば今のこの状態は、目的が達成された状態にあると分かるはずだ、と私が感じられればよい。こういう場合、目的は達成されているわけです。

「新大臣の経歴を知る」という目的概念は、こういう仕組みで私の内部に作られている。この目的状態を達成するために必要な一連の運動を私はつぎつぎと実行していく。この一連の運動は、それぞれの小さな運動目的イメージの連鎖から構成されている、と見ることができます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(7)

2009-11-28 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

最後の例に挙げたアポロ計画などは人類最大の目的志向行動です。数百万ページにおよぶ完璧な計画書が作られ、政府の巨大な組織を挙げて実行される。十年にもわたるこのような大規模な組織行動を目的志向行動の最右翼に位置づけるとすれば、個人がプライベートに数分間でインターネット検索をする行動などは最左翼にある。目的志向性が一番弱い。それでも、いちおう目的を定めてそのために手や目玉を動かして行為します。

拙稿がここで興味があるのは、むしろこちらのごく小規模な個人的な目的志向行動です。こういう場合、この目的(新大臣の経歴を知る)はどのようにして定められているのでしょうか? この小さな作業が成功する仕組みが分かれば、アポロ計画がなぜ成功したかという理由も分かる。それを知る必要があります。

新大臣の経歴を調べるために私がインターネットで検索作業をはじめたきっかけは、テレビのアナウンサーが新大臣の名前を言ったからです。その名を私は聞いたことがなかった。その人は今回の総選挙で再選された民主党の衆議院議員のようですが、私はその名を知らなかった。政治家には興味がないからです。しかし政治に疎いといっても、テレビで話題になっている新大臣の経歴を全然知らないというのはいかがなものか? ましてこの国ではめずらしい政権交代が起こった直後の組閣です。今日の午後にでも、だれかと世間話をするとき、困ってしまわないだろうか? 手元のパソコンですぐ検索できるなら調べておこうか、と思ったわけです。

パソコンはすでにログインされていてスタート画面が出ている。そこにグーグルのアイコンがあります。使い慣れたそれを自然と使うように手が動いて、マウスをにぎっていました。

パソコンを操っている私の目的は、まずは、新大臣の名を検索窓に記入して検索ボタンを押すことです。そうすれば画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達できるだろう。そういう予想を立てて私はパソコンのマウスをつかむ。

では、マウスをつかむ前の私の内部状態はどうなっていたのだろうか? マウスをつかむ運動を起こす前に、当然その準備活動として私の内部には、仮想運動があったでしょう。それは言葉で言うとすれば「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という仮想運動です。

このような運動は(拙稿の見解によれば)言葉で表現される以前に、脳内の運動形成神経回路の上でシミュレーションがなされている。インターネット検索のように毎日何度も繰り返している作業は慣れによってルーティン化している。一連の複雑な運動の連鎖であっても、ルーティン化した運動のシミュレーションは、(拙稿の見解では)コンピュータプログラムの場合の一個のマクロ命令のように、瞬時に呼び出されて実行できるように記憶システムに収納されている。

この例の場合、「インターネットで○○を検索する(若者は、『ぐぐる』という)」という形で呼び出されるルーティン化したシミュレーションが、私の内部にできているところへ、変数○○の値として「新大臣の経歴」という概念を代入する。

こうして作られる「インターネットで新大臣の経歴を検索する」というシミュレーションに導かれて、「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という実際運動が形成され実行される。その後、自分の行動を他人あるいは自分自身に説明する必要を感じた場合には「インターネットで新大臣の経歴を検索した」という言葉が作られて発音される。あるいは、自分自身に言い置く場合は、音は出さずに頭の中で発音されます。

説明する必要がなければ、はっきりした言葉にする必要もない。そういう場合、パソコンを操作して検索するというルーティン運動のシミュレーションが呼び出されるだけで、行動が実行される。言葉は生じません。そういう場合、身体が動いた運動イメージの記憶だけが残る。ふつう、そういう記憶は忘れるのも早い。言葉にする場合のほうが忘れにくいようです。

行動の目的は、それを言葉にしていない場合、忘れやすい。パソコン操作の途中で電話に呼び出されたりすると、もう、(筆者の場合、しょっちゅうですが)何を目的にしてパソコンを使っていたのか忘れてしまったりします。

独り言でもいいから、目的を言葉で言ってみる。口に出して、自分の耳で聞く。そうしてちゃんと言葉にしておけば、大丈夫です。ゴミ箱から拾った封筒の裏にメモ書きしたり、メモ用紙に書いて目の前の壁に貼ったりしておくともっとよい。さらに行動の結果を、今日中にだれかに報告することになっていれば、もう忘れるということはありません。

目的は言葉にされると、はっきりと記憶される。しかし、目的が言葉で言い表される前に、身体を動かした結果の予測としての身体運動のイメージは身体の内部に作られている。

意識的に身体を動かす場合、その前に運動シミュレーションとして、いわば運動目的のイメージが身体内部に作られる。身体運動の結果を予測する運動シミュレーションです。身体の各部の筋肉と関節、骨格が変形してそれぞれの加速度、速度、位置が時間的に変化していく。その変化の運動感覚と映像感覚のシミュレーションが脳内で進行する。運動目的をイメージしたときのその運動のシミュレーションが運動形成神経回路に記憶される。それを(拙稿の見解によれば)私たちは自分の運動の目的と思っている。

その記憶を繰り返し再生しながら、その運動目的のイメージに至るために必要な個々の神経系と筋肉系の活動を次々に実行していく。

パソコンのマウスを操作する指の動きなど、ルーティンになっている細かいレベルの運動は無意識で行われる。たまに慎重に指を動かすなど、注意して運動結果を予測しながら動作する場合だけ意識的運動になります。

ここでいう運動目的のイメージは、ふつう私たちが言葉でいう目的という抽象概念よりもずっと具体的な身体運動のイメージです。これは、(拙稿の見解では)人間の目的志向行動を含んだもっとずっと広いすべての意識運動の土台を作っています。運動の形成において運動目的のイメージを作り出す機能は(拙稿の見解では)人間に限らず哺乳動物一般の運動形成神経回路に備わっている。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(6)

2009-11-21 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

目的を定めてそれを保持するという人類の持つ能力は(拙稿の見解によれば)、まずは社会生活のために、それも特には、仲間との協力のために必要だから、人類の身体に備わったものでしょう。狩猟採集生活の中で、仲間と一緒に活動するためには、目的を共有していなければならない。

原始人が仲間と協力して落とし穴を掘る場合、ウサギを捕まえる目的なのか、イノシシを捕まえる目的なのかで穴の場所も大きさも深さも違う。どんな動物を捕まえようとしているのか、行動の途中で目的がぶれてしまうとうまく協力できません。仲間と協力するために、まずは目的を共有して行動の過程でその目的を変わらないように維持する。そういう仕組みが人類の身体に備わるようになったのでしょう。

現代人の私たちが、パソコンで新大臣の経歴を検索する場面でも同じです。だれか知り合いに頼まれてそれをしているならば、自分がなぜそれをしているのか、忘れることはない。依頼した私の知り合いがその検索の結果を待っていて、その人にすぐ知らせてあげようという場合です。その場合、それが私の検索作業の目的になっている。それは私が持っている作業目的であると同時に、私にそれを頼んだ人の依頼目的にもなっている。その目的を忘れるはずはないのです。

社会生活では、仲間の身体運動や表情を見て、その行動の目的をさとらなくては、うまく生き抜いていけません。協力しなければならない場面、集団いじめから逃げなければならない場面、一緒に付き合わなくてはならない場面、期待されるように演技をしなくてはならない場面。

社会生活のどの場面でも人々の行動、言葉やしぐさや表情からその意図、目的をさとらなくてはならない状況にあることは、数万年前の原始人も私たち現代人と同じだった。あるいは集団から離れては生きていかれない原始的な社会状況であれば、仲間の動きからその目的を知ることは人生における最優先の課題だったでしょう。

そしてその仲間の目的に共鳴し同調して動いていく。互いに目的を共有することで緊密な協力が成り立っていきます。そして協力が得意な種族は、それが得意でない種族との競争に勝ち抜いて、多くの子孫を残すことができる。

そのように適応進化した人類の子孫が私たちであるならば、人の行動を見て目的をすぐにさとり、その目的を共有し、それに同調して行動する能力を私たちが持つのは、しごく自然なことだと納得できます。

人類進化の次の段階では、人間は自分ひとりの行動をコントロールするために目的を定めるようになる。この場合は、だれにも相談せずに全部自分ひとりで考える場合も多い。

ある目的(一人でウサギを捕まえる)を定めて、そのためにすべき仕事(落とし穴を掘る)を決める。その仕事をするために必要な、さらに細かい仕事(シャベルを取って来る)を決める。それに必要な、さらにさらに細かい仕事(シャベルがしまってある納屋の鍵を取りに行く)を決める。などなど・・・となります。

こういう場合、(筆者のように)忘れっぽい人間は、行動している途中で自分が何をしているのか忘れたりする。納屋の鍵を取るためにそれがしまってあるはずの台所の収納棚を開けたところで、洗剤のボトルが倒れて液がこぼれているのを見つける。なんだ、これは? キャップをしっかり絞めないからこういうことになるのだ。「けしからん、だれがしたんだ、」と独り言で小言を言いながらこぼれた液体をふき取ります。さて、そういう小さい作業を完了した後、さて、私は何をしようとしてこの棚の戸を開けたのでしょう? 思い出せない。ああ、もうすっかり忘れている。自分の行動の目的を忘れているわけですな。

私たちは、一人で何かをしているとき、目的をしっかり持っていないとすぐにわき道にそれて違うことを始めてしまいます。目的を共有している仲間がそばにいれば、そうはならない。仲間がしていることを見て、自分も同じ目的を持って行動を進めなければならないことを、いつも感じることができる。仲間が自分を見ている視線の感覚を共有しているから、自分の行動を客観的に見ることができる。自分はある目的に沿って行動していると自覚できる。それで 目的を忘れずに行動できるのです。

仲間がそばにいない場合でも、仲間が期待していることを果たそうとしている場合など、たとえば待ち合わせの時間と場所を意識して急いでいる場合など、目的を忘れることはありません。やはり、仲間がいるということと、目的を維持することとは関係が深いらしい。

仲間など関係なくて、ひとりだけで何かをする場合が問題ですが、その場合でも、自分自身が仲間の役割を果たしている場合が多い。自分で自分の行動に期待して、自分を監視しているわけです。そういう場合は、自分という仲間に期待され監視されているので、他人である仲間がそばで見ている場合と同じように、目的を忘れずに、最短経路で目的に進むことができます。

人間の幼児は、大人になる過程で、自然とこの感覚を学習していくようです。自分で自分をコントロールするこの方法を身につけると、計画的な行動がうまくできるようになります。それは毎日の生活に便利なことです。特に社会生活がうまくいくようになる。人と目的を共有して、協力して生活できるようになります。

そういうことなので、逆に言えば、(拙稿の見解では)計画的に行動して社会的にうまく生き抜くために、人間は目的を定めるようになった。複雑な仕事を組み立てて計画し、すべきことを着々と実行していくために目的を定める。

そうすれば、一人の人間が一日中働いて一日分の仕事を達成することができます。十人の人間が六ヶ月かけて一つの会社を作ることもできる。十万人の人間が十年かけて月に人間を送るアポロ計画を達成することもできる。地球上すべての動物種のうち、月に行けたのは人類だけです。人類は、目的を定める動物である、といえます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(5)

2009-11-15 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

このように、はっきりした目的を目指して行動している人間は、ふつう自分が何をしているのか考えていない。自分の行動を意識しながら目的に進むという場合は例外的です。人は目的がはっきりしている場合には、最短経路でそこへ到達しようとする。そういう場合、自分が今何をしているのかを考えたり反省をしたりしている暇はない。行動している自分自身のことは考えない。今の自分の気持ちがどうなのか、分かりたいとも思わない。やるべきことがはっきりしているときにはなるべく効率よくそれをやることに集中していればよいのであって、そのときの自分の気持ちなど、分かる必要はないのです。

そうだとすれば、懸命に検索作業をしているときの私は、自分がなぜその検索作業をしたいと思ったのかを忘れている。新大臣の経歴を知りたい理由を忘れている。意識していません。ただ早く検索結果を得られるように手を動かそうと努力している。

懸命に検索作業を続ければ、まもなくこの作業の結果が出ます。結果を得られたところでこの作業の目的は遂行されたといえる。新大臣の経歴を記述したサイトをパソコン画面に出せた。それを読む。なるほど知識は獲得できた。さて、私はなぜこの知識を欲しかったのだろう、と反省することもできる。しかし、ふつう人は、こういう場面でこういう反省はしませんね。

この新たに得られた知識を利用して、あるいは利用しないで、もう次の行動を始めようとする。次の行動を始めると、ふつう、今までしていたことの目的は忘れてしまいます。

懸命に行動している間は、目の前の直接の目的を追っているだけで、その目的を持つにいたった始めの、そもそもの目的は忘れてしまっている。目的が達成されると、もう次の行動が始まってしまって、始めの目的は忘れたままになる。そのまま、始めの目的は永久に消えてしまう、ということはしばしばです。

そうだとすると、私たちが立てる目的というものは、たいていの場面で意識されていない。目的があって、それを目指して最初に行動を始めるけれども、その後すぐに目的は忘れられて、一度も省みられないまま、永久に消えてしまう、ということがよくある。始めの目的を思い出すような反省がなされる場合はむしろ例外です。

初志貫徹、初心忘るべからず、などと箴言にいう。つまり、ふつう忘れるからですな。

そもそも、私たち人間は、なぜ目的を定めて行動を始めるのか?

人が行動をするのに、目的は必要なのだろうか?

目的など定めずに、そのときそのときで必要と感じる動作をすればよいのではないか? 実際、犬や猫など人間以外の動物は、そうしている。人間だけが目的を定めて行動を起こしているように思われます。どうもおかしいですね。 

目的を定めて行動すると何か良いことがあるのか? 

良いことは、簡単に思いつきますね。たとえば約束の場所へ約束の時間に集合するには、それを目的として早めに出かけなければなりません。ハチ公の前で待ち合わせるには、互いにそれを目的として行動ができる必要がある。ハチ公の前で人と待ち合わせることはできる。しかしハチ公の前で犬と待ち合わせることはできません。人と行動を合わせるためには、目的を定めた行動ができる能力が不可欠です。

それでは、他人が関係なくて自分ひとりで何か簡単なことをする場合、目的は必要ないのではないか? 貧乏ゆすりをするとか、鼻をかむとか、ごく簡単な運動の場合、はっきりとした目的を決めてする必要はない。トイレに行くとかも、そうでしょう。ほとんど何も考えなくてもそれはうまくいきます。

先の例に挙げた、新大臣の経歴を検索する場面でも、目的というほどのしっかりした意識は必要ない。身体に任せて(指に任せて)おけば、うまくいきそうです。しかし、この場合でも、検索作業を中断せざるを得ないようなちょっとした事故が起こったらどうか? 電話がかかってくるとか、コーヒーをこぼしてしまうとかです。机の上をコーヒーが広がってキーボードの下に流れ込んでしまいそうになる。あわててコーヒーをふき取るティッシュペーパーを探しているうちに、検索している目的をすっかり忘れてしまいます。

あれ? 今パソコンを見ると、検索画面が出ているけれども、私は何か検索しようとしていたのかな? 若い読者はお笑いになるでしょうが、年寄りにはよくあることです。そういう場合、はじめからはっきりした目的を意識していれば思い出せる。目的を考えたときにこれから自分がしなければならない行動を予測してしっかり記憶するからです。新大臣の名前をつぶやきながら検索作業をするとよろしい。だから、年寄りは独り言をよく言う。年寄りの独り言は、内部メモリーの衰えを補う外部メモリーのようなものですな。

このように自分の行動を予測し、これからなすべき計画を記憶するためにも、言葉で言えるようなはっきりした目的は必要なのです。

最近の発達心理学での実験によれば、一歳前後の幼児でも人の行動には目的があるという見方をしている(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解既出)。人間は、ほかの動物と違って、あらゆる行為に目的を結びつけて理解しようとする「目的に憑かれた動物(二〇〇七年 ゲルゲリ・シブラ、ギョルジ・ゲルゲリ『目的に憑かれて:人類における行為の目的論的解釈の機能と機構』)」であるといえます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(4)

2009-11-07 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

XがYをするのを見て、私たちが、「XがYをする」と思うのは、ただ単にXがYをするからではない。XがYをすると同時に、私たちの身体がXのその動作に注目するという運動共鳴を起こしている。XがYをするのを見て(拙稿の見解では)私たちの身体が無意識のうちに目玉と顔を回転させてXを視野の中にズームアップして、同時にYという運動を(無意識のうちにXに運動共鳴を起こすことによって)身体でなぞってしまうから「XがYをする」と思い、それに感情が反応してそれを記憶する。

そういう場合に限って、私たちは「XがYをする」と思う。そういう場合に限って、「XがYをする」という言葉ができてくる。

つまり私たちが「XがYをする」と思うということは、(拙稿の見解では)私たちの身体が無意識のうちにXがするYという運動に運動共鳴を起こすことによって、運動神経系が運動Yの実行をなぞってしまうということです。

実際は、私たちの手足や顔や目玉はそれほど激しく動きません。運動Yをなぞる身体の動きも非常に小さい。全然目に見えないくらいです。わずかに筋肉がピクッと動くくらいですね。あるいはピクとも動かないけれども機器で測定すれば筋電流が走ることでやっと分かるくらい弱い。時間も短い。ふつう一秒の数分の一以下です。これは拙稿の用語で仮想運動といっている神経活動です。

こういうことから考えると、私たちが「XがYをする」と思うということは、Xに注目する仮想運動が起こって、さらに私たちの身体の運動形成回路が、Xの運動Yを運動共鳴によってなぞる仮想運動を起こすことだ、といってよいでしょう。先に例を挙げた「新大臣の名前をインターネットで検索しようと思う」ということも、仮想運動です。新大臣の名前を検索画面に文字入力する手の動きの仮想運動です。

周りに人がいなくて一人で検索しているとすれば、「新大臣の名前をインターネットで検索しようと思う」というこの仮想運動Yの主体Xは、実は私ですが、それはふつう意識されない。人に語ったりブログに書いたりする場合にはじめて、「私が」という主語が出てくる。実際に脇に人がいて私の動作をみている、あるいは、見ているように想像されるとき、「私が」という主語が出てくる。それは、他人の目で私の身体を注目しそれに運動共鳴する仮想運動が、私の運動形成回路の上で起こるからです。

さて、私は新大臣の名前をキーボードから文字入力して、検索ボタンを押しました。検索エンジンが回転して、その人物の経歴を書いた記事をパソコンの画面上に呼び出してくれる。それを読む。これで適当な知識が増えました。めでたし、めでたし。だがさて、そもそも私はなぜパソコンを操って、こんな仕事をしたのか?

私が今朝、この検索作業をはじめたきっかけは、テレビのアナウンサーが新大臣の名前を言ったからです。それを聞いて私は「その名前は聞いたことがあるけれども、その人の経歴については私の知識はあやふやで頼りない。正確に知りたいな」と思ったわけです。

たぶん私はそう思ったのでしょう。実際にその名前を検索したという事実から推察すれば、そう思ったに違いない。しかし実際、周りに人はいないし、人に聞こえるようにそういう発言をした覚えはありません。もしかしたら独り言で言ったかもしれないが覚えていません。おそらく独り言も言わずに、すぐにマウスを握って、グーグルアイコンをクリックしたのでしょう。

私も現代人らしく「グーグルに聞け」という神の声にしたがっただけといえる。検索窓を開いてそこにキーボードから検索文字列を打ち込む。

検索窓で新大臣の名前を漢字変換してうまく出したところで、検索ボタンをクリックする。検索文字列を含んだサイトのリストが出るから、経歴が出ていそうなサイト名をクリック。そのテキストがパソコン画面に表示される。こうして私は新大臣の経歴を読むことができる。

さて、私のこの一連の検索作業は、ある目的を持って行われている。その目的とは、新大臣の経歴を知ることです。そして新大臣の経歴はどこかのサイトに書いてあるに違いないということを私はあらかじめ知っている。そして、そういうサイトは多くの人が検索するだろうから、検索エンジンですぐ見つかるはず、ということも私は知っている。そういう事情から、この検索作業は、あいまいさが少ない、かなりはっきりした仕事になっている。

私は、自分が何をしているかをほとんど考えないで、キーボードを叩いて検索窓にその文字列を打ち込む。続いて、これも自分が何をしているかをほとんど考えないで、画面に出たサイトリストのうちの新大臣の経歴記述サイトを見つけてサイト名をクリックする。

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