採集生活

お菓子作り、ジャム作り、料理などについての記録

和菓子「金魚鉢」

2022-08-31 | +お菓子・おやつ

ブログでお知り合いになったdaikixさんの影響で、和菓子屋さんで「上生菓子」というのを買うようになりました。
とってもちっちゃいお菓子なのに何百円もして、昔はとても買う気にはなれませんでしたが、年も取って、小ささとかカロリーの低さにお金を払うのもありかな、とも思えるようになりました。(ボリューミーなケーキは後でもたれたりすることもあるし・・・。でもパネトーネを爆買いしているので説得力ゼロですが)

とびとびにですが、あちこちで買っていると、お店によって味が違います。
もう一度買いたいと思うお店は多くはないです。
地元(隣のつくば市だけど)の和菓子屋さん1件は、幸いそういうお店。

先日久々に買ったうちのひとつが、とっても美しくおいしかったのでご紹介します。


確か名前は「金魚鉢」。

和菓子

お餅というか求肥タイプ。
練り切りとこちら、特に考えることもなく一個ずつ買ったのですが、家にかえってよくよく見ると、とっても凝った構造です。

大福餅部分には、黒のすりごまが点々と散って、花崗岩の手水鉢のイメージ。
くぼみがつくってあって、そこに水を模した水色の寒天。(下写真の方が色がよくわかります)
中には、赤い金魚と、石?のイメージの小豆粒。

凝ってますよね~。
上のパーツは大福餅だけのときと比べて味にほとんど影響していない気もしますが、美しさと感動が違いますよね。

ダンナサマは、お店ではこの赤い金魚に気づかなかったようで、家で
「金魚じゃ~ん☆ 知らなかった~。かわいいじゃ~ん」
と萌え萌えな感じ。

カットしてみると・・

和菓子

おお、餅が薄い! そして中は白あんか!
(この和菓子屋さんの上生菓子で、白あんは初めてかも?)
白い求肥に白い餡が、なんとも涼やか。
(小豆餡だと薄くつくったお餅に色が透けてしまいますよね)
この白あんは味も好みでした。(塩気が少ない餡が好みなのです)


二人で半分こしたのですが、金魚ちゃんのある方をダンナサマにあげました。

 

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コーヒー味お菓子:酒田むすめ

2022-08-30 | +お菓子・おやつ

コーヒー味のお菓子、ゆるーく研究中です。
とはいっても、最近は特に旅行に行くでもなし、ケーキ屋さんも滅多に行かず。

スーパー数件と、農産物直売所くらいでは、そうそう出会いはありません
が。
最寄の、もう飽き飽きしているスーパーの一画に、地味に、各種地方菓子?がばら売りされているのをみつけました(ダンナサマが)。

買ってみて、美味しかったのでご紹介します。

酒田むすめ(コーヒー味)

山形の、お土産お菓子の類ではないかと思うのですが、「酒田むすめ」(菊池菓子鋪)
プレーンとコーヒー、二種類あるうちの、コーヒーの方です。


酒田むすめ(コーヒー味)

中は、最近ちょっと珍しい、アルミ箔包み焼きタイプ。
(外側のパッケージよりずいぶん小さい!)

酒田むすめ(コーヒー味)

開けてみると、アルミ包みパンパンにお菓子が入っています。

生生地を絞って、ほどよくゆるめにアルミで包んでから焼いているのだと思うのですが、柔らかい生地ごとどうやって包むのかなあ。
手作りで作業するのは難しいと思うけれど、工場だとこちらの方が簡単なのかな・・・

 

酒田むすめ(コーヒー味)

ケーキ生地もコーヒー風味、そして芯の白餡にもコーヒー味がつけてあります。
全体に、甘さが適度に控えめで、コーヒー風味も丁度良く、美味しい☆
職場で出張土産でこれを頂いたら嬉しいかも☆

唯一気になるのが、外袋に比べての中のアルミ包みの小ささなのだけど(開けた瞬間、かすかにガッカリする小ささ)、軽いおやつにするならばこれくらいで丁度なのかな。
油脂も含まれるケーキタイプのお菓子なので、そこそこリッチではあります。
食べやすいといえば食べやすい。細くって、舞妓さんでも軽々頂けるサイズですね。

ダンナサマと半分こするとすごく足りないけど、一人で一本食べればまあまあ満足できるかな~。


プレーンタイプは、外側が普通のプレーン生地、芯は漉し餡でした。
こちらはとても普通で、普通に美味しいけれどもはっと目が開く感じはなかったです。
コーヒーの方は、「え、これ美味しいじゃん!?」とびっくり。
酒田むすめだったら、断然コーヒーをおすすめします☆
(もうひとつ、焼き芋あんというのもある模様です・・)


原材料はこちら。

酒田むすめ(コーヒー味)



この菊池菓子鋪は、コーヒー味が得意なのかな。
「南国」というお菓子があるそうなのですが、
「コーヒー風味のふんわりとしたブッセ生地でレーズンを加えたアンズジャムをサンドしています。」
だそう。
コーヒー生地で、アンズジャム(+レーズン)をサンド!!
うー、コーヒーバタークリームに一票なんだけどなー。でも、一度食べてみたい気もします。人気商品なのですって。

 

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新富町 ビッケ

2022-08-22 | ■外食

交通会館マルシェを2日連続にしたのは、東京に泊まってちょっと美味しいものでも食べようという下心でした。

おめあては、一昨年に行った、新富町のビッケというお店。
このコロナ禍で、お店閉めてしまったり、もしくは移転してしまったりしていないか心配でした。
(だってグーグルマップでうまいこと出てこないのですもの)
でも、確認してみたところ、元気に営業中。
よかった~。


前回もいろいろ頼みましたが、今回もいっぱい食べるよ~☆


まずはお店の看板商品、ビッケタルト。
玉ねぎと八丁味噌の具の、塩味のものです。
前回、「ちょっとしょっぱいかも?」と頼まなかったのですが、看板商品だしやはり味見してみないと。

ビッケ

結構小さ目サイズです。
頂いてみたところ、皮はサックサク。
そして具は、全然塩辛くない☆
炒めた玉ねぎの甘みと、味噌だと言われないと気付かない程度の旨味。
とっても美味しいです。

玉ねぎの水気がほんとに飛んでいて、パートブリゼが全然湿っぽくありません。
「これは相当煮詰めていますよね?」と効いてみたら、
「ええまあ。5時間煮詰めるんですよ。もういやでいやで(ニッコリ)」
とのこと。
でも、コロナで営業が厳しい時期、これの冷凍通販を始めたのだそうです。
普通に営業できない不安が、これを作って梱包して発送して、という作業でだいぶ紛れたのだとか。

一度味わった人は、ワイン好きなお友達にプレゼントしたくなるだろうなー。
手間のかかった逸品だと思いました。



次は、イワシのマリネ。

ビッケ

ヒコイワシがいいのがなかったそうで、今回はマイワシ。
マイワシはとろっとリッチな味でいいですよね。
下に敷いてあるにんじんとオレンジ、キャラウェイ?フェンネル?のマリネも酸味がちゃんとあって好みでした。

ヒコイワシが入った場合は、捌く作業がまた大変なのだそう。
そちらもまたいつか頂いてみたいものです。


エビとカラスミのサラダ的な。

ビッケ

茹でたエビかな~、と思っていたら、生のエビでした。
カラスミの旨味と塩気がいい感じ。あと、何か香ばしい、食べたことがない旨味があります。
聞いてみたところ、それはエビ油。エビの殻を油で揚げるようにして香味をつけたものだそうです。
えもいわれぬコクと香ばしさがあり、お皿に残った油もパンでぬぐって食べてしまいました。
これは自分では作れないよなー。
はっとする美味しさでした。


お肉もちょっと食べたいよね、ということで、
自家製パテ・ド・カンパーニュ。(これは前回も頼んだ記憶あり)

ビッケ

添えものは、フェンネルのマリネ。
なんかぶあつい切り方で、とっても食べ応えがありました。
レバー(白レバー?)が多めなのかな、リッチな味わい。
どういう配合か聞いてみたかったけれど、このあたりから常連のお客さんがドヤドヤと(といっても2グループだけど)は行ってきて、忙しそうで話しかけづらくて聞きそびれました。


カウンターの上には赤くてカッコいいハムスライサーが。
(うまく写真撮れてなくてすみません)
これがなんと、ハンドルを回して刃を動かす、手動式。

ビッケ

このスライサーが動いているところを見たくて生ハムを頼もうかと思ったほどでしたが、丁度他のグループで注文が出たので観察させてもらいました。
手動スライサーは、刃の回転速度が高速すぎず、ハムに含まれる油脂を溶かしてしまわない、という利点があるのだそうです。その分切れ味も重要で、月一くらいでメンテナンスが来るのだそう。
ちょびっとつまませて頂きましたが、ほんとに極薄に、綺麗にスライスされていました。薄いので、とろけるような味わいでした。


前回、メインコースのお肉料理があるのを知らず、前菜ばっかり頼んでいたのでした。
今回はメインを何かひとつ・・・と思いましたが、このくらいでお腹がだいぶいっぱいに。
他のお客さんもいて忙しそうだし、今回は、あとデザートくらいで切り上げることにしました。

ビッケ

私はヨーグルトジェラート、ダンナサマはエスプレッソ。

ごちそうさまでした。満足☆


このお店は、袋小路の路地のどん詰まりにあります。
シェフによると、もともと倉庫だった建物で、テナント料がかなりお安いのだとか。
「だから、つぶれようがないくらいなんですよ」と。
これはいいことを伺いました。
きっと当分おなじ場所にお店があるはず。
また行きたいな~。



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三つ編みニンニク2022:調布、布田天神社つくる市(8/7)

2022-08-18 | +その他

8月7日の日曜、去年も参加した、調布の布田天神社のつくる市に参加してきました。
ここは、人はあまりこないのですが、おおきな木の陰でのんびりした感じが漂って、気楽なマルシェです。

布田天神社つくる市

神社境内、さほど大きくはないのですが、木が大きいのが分かるでしょうか。

布田天神社つくる市

お店はこんな感じ。
段ボールを下段にはつけもの石を入れて縦二段に摘んで、あと板。
前は手前に低い段も作りましたが、今年は売るものが少ないので(ジャガイモやハーブは今年はなし)、簡易方式。


布田天神社つくる市

今回は、弟が車を出してくれて、両親が午前中にちょっと見に来てくれました。
(父は普段昼頃に起きるので、この日は早起きがんばりました)
コロナで滅多にお出かけもできないので、小さなマルシェですがいろいろな手作り作品を見て楽しんでいた模様。
(でもって、母がハーブを持ってきてくれたのですが、このマルシェは地元の人がおおくて、みんな庭があったりするのでハーブは売れない・・・)

木陰で軽い昼食でも一緒に食べられたらよかったのですが、弟が午後用事があるということで、昼前には帰っていきました。
調布は、実家から電車だと乗り換えが複雑ですが、車だと割と早いみたい。
(私の高校時代、調布駅を通るルートで通学していたこともありました)

この日は人どおりがとっても少な目。
どの方も、うーん、今日はちょっと売れないねえーとぼやいていましたが、暑さが比較的マシなのが救いでした。
私も、あまり売れると思っていなかったのでまあいいかなと。

ブログのお客さんは、一人来て下さいました。ご近所なのかな、ご主人さまと一緒でした。
干し柿の作り方で検索して出会ったそうで、手作り系の記事が好みとのこと。
(最近少なくてすみません・・・暑いしね・・・・)


マルシェの売り上げはさておいて、今回のメインは前泊の外食。
(早朝出発はとてもつらいのですが、前日、ゆったり荷物を積んで適当な時間に出かけるのはとても楽でした)
ホテル近くのお寿司屋さんに行きました。
交通会館のときはイタリアンでしたが(今度記事をアップします)、今回は和食☆

調布のお寿司屋

お刺身盛り合わせがとってもよかった!
実はこれは2皿目。5点盛を2回も頼んでしまいました。

調布のお寿司屋

アユの塩焼きも、ホカホカで香ばしい☆


調布のお寿司屋

お寿司屋さんだし、〆はやっぱりお寿司よね?
スーパーのパック寿司じゃないお寿司なんて久しぶり~。
岩ノリは、いわゆる「ごはんですよ」がたっぷり盛ってあってしょっぱかったですが、ほかは美味しかったです。


売り上げ的には全然だめで、大半を持ち帰ったのですが、その後、交通会館マルシェで買って下さった方が追加注文して下さり、更にマルシェ前に注文下さっていたこらそんさんも追加注文して下さって、ありがたいことに、編んだものは完売!

夏は終わった!燃え尽きた・・・って高校球児みたくなって、しばらくぽへー、と過ごしてしまったのでした。


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ジップ袋のあけかた

2022-08-17 | +その他

最近、いろいろなものが、ジップ袋に入って売っています。
(昭和の時代はそういうのは珍しかったような)

ジップ袋

たとえばこれ。
で、ジップのすぐ上に、「ここをお切り下さい」と切り口が作ってあります。
つい手で千切ってしまうと、途中で方向が曲がってジップ側に食い込んでしまったり、その逆側に行ってしまったり。
たとえこの点線でハサミで切ったとしても、つまめるピラピラ部分が相当小さくて、開けようとするたびイライラすることになったりします。

という訳で、最近編みだした新方式。
ハサミを使う方法ですが、点線には従いません。

ジップ袋

点線に従ってジョキジョキ切りたくなるところをぐっとこらえ、真ん中に、うさぎちゃんの耳みたいなものをつくります。
その左右は点線でカット。


ジップ袋

右利きの私の場合、右手でつまんだものを奥に、左手でつまんだものを手前にひっぱるようにすると開けやすいので、
うさぎちゃんの耳の右側の付け根にハサミを差し込み、手前側をカット。
裏返して反対側も、同様にカット。
こうすることで、うさぎ耳のピラピラの右側を右手で持ち、左側を左手で持って、開き開けることができます。

名付けて、「うさ耳カット」。
どうでしょう?

 

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その11

2022-08-11 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
本文は、今回でようやく終わり!
長かった・・・。
(無理矢理つきあわされているみなさんは、もう飽き飽き??ごめんなさーい)

絵のここがこう描かれてて、など実際的な話を期待していたのですが、
はからずも、サファビー朝写本絵画の概要を、結構しっかり勉強させて頂きました。主要な写本の情報もあったりして、自分で検索しまくるよりやはり専門家のガイドがあると知識を得るのに効率的だなと思いました。

とりあえず訳していくのに精一杯だったので、これから過去の本文を読み返して多少直しを入れていこうかと思います。
リンクなども追加したり。

a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死

○タフマスプの気鬱
タフマースプは、その偉大な庇護の時代から数年間、特に1550年代前半[30歳代後半]には、統治において並外れた高みに達したが、その後、気分が沈んでいったようである。彼は、かつて良いワインを吹き出したきらめく噴水であったが、今は濁った水をためているようなものだった。寛大で、楽しいことが大好きで、人なつっこい王が凍りついてしまったのだ。
彼の心の中には、かつての笑い上戸で時折恍惚とした表情を見せる青年がまだ存在していたのだが、今では目も耳も口も塞がれた。その若者は、自分の心の中にいる、不機嫌だが有能な空っぽの男たちからなる陰気な兵士達によって、自ら投獄されていた。彼らは髑髏の塔を建てることができる残忍な将軍であり、世俗の汚物や宗教的異端による汚染を恐れる、罪悪感にさいなまれた純粋主義者、嫉妬深く愛されない恋人、そして税金を払うことに熱心な守銭奴でもあり、その見かけの気前良さには強欲が隠されていた。 

時折、内なる少年が目を覚ます。それは、国王が自ら閉じこもった病院のような無菌の宮殿の中でさえも垣間見える。
かつて意気揚々としていた中年の王は、孤独で、まだ未熟な少年であり、偉大な王になることに恐れをなしていた。男としての自分を受け入れられず、成長することも、人に認められることもできなかった。かろうじて生きている少年と、彼が擬似的に作り出した自動人形たちとの間で綱引きが行われ、ひどい内紛が起こった。

○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
少年が勝つと、彼のお気に入りの甥スルタン・イブラヒム・ミルザが彼の長女と結婚したときのように祝宴が開かれた。スルタン・イブラヒムは『Haft Awrang』の後援者でもあった。
しかし、哀れな甥は、妬みと憎しみをあおる気難しい「男たち」の内面に打ち負かされる運命にあった。ひととき、王が寛大な心になって、自分の内なる少年の同志であるイブラヒム・ミルザをマシュハドの知事に任命しても、結局は嫉妬によってその動きは打ち消された。また、イブラヒム・ミルザが大作のために残りの王室画家を雇うことを許されたとき、冷酷で自動的な嫉妬は、彼らが宮殿での通常の仕事を与えられないにもかかわらず、画家たちを取り戻したいと思ったのである。その頃の宮殿は、正統主義の名のもとに、あらゆる種類の喜びが追放されていたのに。

叔父と甥の間には固い友情があったが、その関係は大変なものだった。タフマースプ王は贈り物をし、イブラヒムはそれを受け入れた。愛と憎しみの間で揺れ動く王は、贈り物の返還を要求する。甥は困惑し、怒った。彼は風変わりな叔父を揶揄する詩を書いた。ある時、王が宮廷音楽家を全員解雇し、そのうちの一人を殺すように命じたとき、イブラヒムは地下の部屋を用意して彼を守った。常に罪の意識はあった。

○中年期のタフマスプの揺れる心
国王の苦悩する潜在意識は決して平穏ではなく、ときに昼は沈黙しても、夜になると滔々と演説することがあった。ある夢の中で、彼の良心は、宗教的な法律で正当化されない税金はすべて取り消すべきだと宣言した。消費税や通行税は翌日には払い戻された。

暗い時代だった。一人の人間が支配する社会では、その人間の気分は彼の影響力の及ぶ範囲に蔓延する。それ以前の非常にエネルギッシュな国王がイランを真に支配していたのに対し、内向し、自らを閉じ込め、自らを弱めた国王は、体制を泥沼化させた。おそらく直感的に、より傷つかないようにと引き下がったのだろう。宮廷の仲間内では、王の恐怖との闘いが深い影を落としていた。1572年[58歳]、北の空に緑色の奇妙な光が見えたとき、悲観的な解釈しかできなかった。かつて勝利を謳い、愛を讃えた詩人たちが、今は王命によってシーア派の殉教者の痛ましい苦悩を挽歌に託している。愛は、国王の怒りから逃れた隠れた歌手のように、地下に潜らざるを得なかった。 


○晩年のタフマスプ

老いはしばしば、悩める人々に安らぎをもたらす。 シャー・タフマースプもその一人だった。
彼は生涯を通じて、危機に瀕したときに病気になる傾向があった。最も活躍した時期の前には、身体の不調があった。そして、1574年[60歳]、彼は再び病に倒れた。このとき彼は、体力を奪うと同時に安らぎを与えるこの病気から、豊かなものを得たように見える。不安な少年は、魔法のように満ち足りた老人に変身した。それまで真の寛大さをもって与えることができなかった王は、少なくとも善良な精神をもって受け取ることができるようになった。彼は、以前の不幸の痛みを和らげる忘却の時に入ったのだ。今、彼は許し、幼い者と老いた者のために用意された無邪気で愛情深い喜びを味わうことができる。子供のように、理屈や思考に頼らなくてよいのだ。彼は直感に導かれ、受け入れ、愛し、楽しむことができるようになった。病気と時間が、彼に無私を強いたのだ。 

この晩年は、活動的ではなかったが幸せだったに違いない。おそらく幼少期以来、最も幸せな時期だっただろう。彼は何かをしなければならないという強制はなかった。ただ宮殿でやすんだり、おそらくは多くの孫を伴って、常に心満ち足りる憩いの場所であった庭園を散策したりしていた。この時期は、具体的な意味での創造性はなかったが、早々と老け込んだ老人は、長年の自己否定で失われた人や物に対する感性を取り戻したのだろう。

○タフマスプ治世最晩年の細密画
シャー・タフマースプの最後の2年間については、推測するしかない。この時期も絵画の創作活動が行われていた可能性は高いが、それを示す主要な写本は残っていない。スルタン・イブラヒムは再び一流の芸術家を雇える立場にあり、老いた王は甥の関心に触発されて、芸術に対する熱意を取り戻したものと思われる。この時期には、まだ主要な画家の一人であったミルザ・アリ[スルタン・ムハンマドの息子。wiki]による見開き二枚組の風景画が描かれていたと思われる(図17)。これらの場面を『ハフト・アウラング』の場面と比較すると、痛みや辛さがないことに驚かされる。国王の性格が穏やかになった今、シェイク・ムハンマドの辛辣な描写は過去のものとなった。その代わりに、私たちは共感と理解を見出すことができる。フリーアの細密画では不吉な印象のある曲がりくねった線が、ここでは成長のための緩やかな曲線を描いている。

Hunting-scenes-double-page-miniature Hunting-scenes-double-page-miniature

図17 狩猟の情景  ミルザ・アリ作 2枚組細密画 1570年頃 
左ページ:メトロポリタン美術館(12.223.1 ) , ロジャース基金 , 1912. 
右ページ:ボストン美術館。 フランシス・バートレット寄贈・特別絵画基金、1914年 受入番号 14.624

○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死
1576年5月4日、国王は62歳で死去した。宮廷内に控えていた権力者たちの派閥が、宮殿の敷地内で公然と争った。スルタン・イブラヒムは、自分を後継者とするよう国王に迫ったらしいというのだ。このため、彼は投獄され、シャー・イスマイル2世[シャータフマスプの息子。スルタン・イブラヒムのいとこで、妻の兄]によって処刑された[1577年]。彼は死ぬ前に、それだけで赦免が不可能であることを確実にするような激烈な告発文を書いている。

[1577 年 2 月 23 日、]彼が37歳で殺された後、彼の妻であるガワール・スルタン・ハヌム王女は、彼が集めた素晴らしいアルバムを彼女の元に持ってくるように命じた。それを知っていたはずのガジ・アフマド[wiki]によると、そのアルバムには「巨匠の書写作品やビフザドなどの絵画が収められていた」という。年代記の作者はそれを詩で賞賛している。

清潔さと区別の観点からすると 
その中に魂以外のものを見出すことはできないだろう。 
花のイメージと鳥の形のために 
秋風に汚されない楽園であった。 
そのバラやチューリップの茎や花びらの数千は 
嵐や雹の害を受けない。 
太陽のような顔をした若者たちは、恥ずかしさのあまり、会話の中で唇を閉じてしまった。 
唇を閉じて会話していた。 
彼らは皆、戦争と平和のために団結している。 
偽善と汚辱に満ちた世界の住人のようではない。 
昼も夜も同じ宿舎の仲間。
不和のない交わりをする者たちである。

アルバムが持って来られたとき王女は、
「これが兄シャー・イスマイル[2世]の目に触れないように、水でアルバムを洗い流してください」
と言ったという。

二人の創造的なパトロンたち―ひとりは若くもうひとりは年老いた―の人生が、斯くのごとくして死によって綴じあわされたのである。



■■参考情報
■その5に出てきたウプサラ大学蔵『ジャマール・ウ・ジャラール』写本
ハーバード大学のHOLLIS Images から書物の番号(HOLLIS Number)8001266923で検索するとこの写本の挿絵カラー写真が出ます。
(検索欄に画像IDを入れてもヒットしますが、画像でなく書物全体)
各フォリオ、全体図や部分それぞれ何枚も撮影され、フォリオ順などとは関係なくランダムに並んでいます。
画像はのべ200枚ほどもあるのに、検索・ソートはなし。
フォリオの順を追って一通り見られるように、整理してみました。
先頭の括弧数字はDB内でつけられている画像の連番。
(ストーリーのあらすじがどこかで読めないかと思っていますがみつかりません)

(126)f. 2v: ソファに座るスルタン  SCW2016.07318 画像ID 19303632
(144)f. 3v: スルタンが宰相に話しかける SCW2016.07320 画像ID 19303634
(12)f. 5r: アドバイスをするディンダル  SCW2016.05358 画像ID 17932425
   (余白なしの全ページ絵!めずらしい)
(94)f. 8b:ジャハングスターが助言する SCW2016.05276 画像ID 17932342
(95)f. 15a: Mihr-i-rai がが助言する SCW2016.05277 画像ID 17932343
(8)f. 17a: ムダビールが助言する SCW2016.05360 画像ID 17932427
(93)f. 19b:ペリスの中のジャラル SCW2016.05275 画像ID 17932341
(17)f. 20b: 糸杉の前のジャラル SCW2016.05353 画像ID 17932420
(84)f. 21a: ツゲの木の前のジャラルとオウムになったジャマル SCW2016.05266 画像ID 17932332
(86)f. 21b: 糸杉の前のジャラルと雌鳩のジャマル SCW2016.05268 画像ID 17932334
(105)f. 24b: ジャラルと彼の使用人ファイラスフ SCW2016.05287 画像ID 17932353
(19)f. 25b:戦闘シーン(開きの右) SCW2016.05351 画像ID 17932418
(186)f. 26a:戦闘シーン(見開の左) SCW2016.07345 画像ID 19303659
(97)f. 32b: 白檀の木の前のジャラル SCW2016.05279 画像ID 17932345
(108)f. 33b: ジャラルとヒューマ SCW2016.05290 画像ID 17932356
(34)f. 35v: 高い城の前のジャラル SCW2016.05336 画像ID 17932402
(65)f. 41r: 鬼が殺される SCW2016.10009 画像ID 20331789
(155)f. 43a: バラの木がジャラルと愛について語る SCW2016.07353 画像ID 19303667
(32)f. 46b: ブティ・ザバルジャードとジャラル SCW2016.05338 画像ID 17932404
(68)f. 50a: ジャラルが竜魔サガルを倒す SCW2016.10016 画像ID 20331796
(37)f. 55b: ジャラルが悪魔シャムタルを殺す SCW2016.05333 画像ID 17932399
(39)f. 57b: ターコイズドームの前のジャラル SCW2016.05331 画像ID 17932397
(41)f. 59b: ジャラル、四山に到達 SCW2016.05329 画像ID 17932395
(43)f. 61r: 神秘の木の前のジャラル SCW2016.05327 画像ID 17932393
(181)f. 61a: ジャラールは、頂上に女性の頭がある 4 つの山に到達する SCW2016.07364 画像ID 19303678
(61)f. 65a: 回転ドームの王の前にジャラルが乗る SCW2016.10005 画像ID 20331785
(45)f. 66b: 愛に燃えるジャラル、水銀の海にたどり着く SCW2016.05325 画像ID 17932391
(49)f. 70a: ジャマル城の前のジャラル SCW2016.05321 画像ID 17932387
(102)f. 71b: ジャマルに手紙を書いているジャラル SCW2016.05284 画像ID 17932350
(62)f. 80a: Maimun が Pirafgan の前に Jalal を連れてくる SCW2016.10006 画像ID 20331786
(52)f. 88b: ジャラルがピラフガンを殺す SCW2016.05318 画像ID 17932384
(55)f. 91a: ジャラルとディルシャッド SCW2016.05315 画像ID 17932381
(76)f. 92b: Farrukhbakht がジャマルの隣の玉座にジャラルを座らせる SCW2016.10020 画像ID 20331800
(69)f. 94a: ジャラルがジャマールを抱きしめる SCW2016.10019 画像ID 20331799
(54)f.  96b: ディンパルバーがジャラルにアドバイス SCW2016.05316 画像ID 17932382
(78)f. 97v: ジャラルが洞窟の賢者ディンパルバーを訪ねる  SCW2016.05312 画像ID 17932378
(67)f. 108a: ジャラルの死 SCW2016.10017 画像ID 20331797

■その5に出てきたトプカプ・サライ美術館蔵(Hazine 762)
ニザーミ『カムセ』写本(1475–1481頃制作)
パトロン:ティムール朝の王族で、大ホラサン地域の領主 アブー・カシム・バブール・ミルザ(治世1449–1457)(父親はやはり芸術のパトロンのバイスングル)(wiki)と、
白羊朝5代君主、スルタン・ハリル(治世1478年1月-7月)(wiki

ハーバード大学のHOLLIS Images(HOLLISではダメ) から書物の番号(HOLLIS Number)olvwork49227 で検索するとこの写本の挿絵カラー写真が出ます。
(検索欄に画像IDを入れてもヒットしますが、画像でなく書物全体)
先頭の括弧数字はDB内でつけられている画像の連番。

(98)見開き口絵、右側 SCW2016.02387 画像ID 16198879
(97)見開き口絵、左側 SCW2016.02388 画像ID 16198880
ー●謎の宝庫ーーーーー
(88)f. 12rスルタン・サンジャルと老婆 SCW2016.02397 画像ID 16198889
ー●ホスローとシーリンーーーー
(86)f. 38v ホスローはシリンの入浴をスパイ SCW2016.02399 画像ID 16198891
(83)f. 46r ホスローはライオンを素手で殺してシーリンを救った SCW2016.02402 画像ID 16198894
(110)f. 51v 戦闘中のホスローとバフラム・チュビン SCW2016.00939 画像ID 14174641
(77)f. 69r シリンと彼女の馬を運ぶファルハド SCW2016.02409 画像ID 16198901
(76)f. 82v シリンの宮殿を去るクスラウ(未完成) SCW2016.02410 画像ID 16198902
(114)f. 89v クスローとシリンの結婚(余白なし全面絵) SCW2016.00928 画像ID 14174630
ー●ハフトペイカール(七人の美女)ーーーー
(69)f. 163v 彼の従者に囲まれた牧草地に即位したバーラム SCW2016.02417 画像ID 16198909
(66)f. 167r バフラムは、若い子牛を運ぶフィトナを観察します SCW2016.02420 画像ID 16198912
(11)f. 170v の詳細図。グリーン パビリオンのバフラム グル(全体図はログインしないと見られない) SCW2016.00943 画像ID 14174645
(63)f. 171v ブラック パビリオンのバフラム グル SCW2016.02423 画像ID 16198915
(62)f. 177v イエロー パビリオンでムーア人の王女とバフラム グル SCW2016.02424 画像ID 16198916
(59)f. 180v グリーン パビリオンのバフラム グル SCW2016.02427 画像ID 16198919
(57)f. 183v レッド パビリオンのバフラム グル SCW2016.02429 画像ID 16198921
(105)f. 187r ブルー パビリオンのバフラム グル SCW2016.00950 画像ID 14174652
(19)f. 191r サンダルウッド パビリオンのバフラム グル (緻密で見応えあり)SCW2016.00926 画像ID 14174628
(50)f. 196r ホワイト パビリオンのバフラム グル SCW2016.02436 画像ID 16198928
ー●イスカンダルナーマーーーー
(46)f. 233r 瀕死のダラを慰めるイスカンダル SCW2016.02440 画像ID 16198932
(108)f. 244r 肖像画からイスカンダルを認識するヌシャバ SCW2016.00947 画像ID 14174649
(38)f. 285r 羊飼いと会話するイスカンダル SCW2016.02448 画像ID 16198940

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その10

2022-08-10 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

本文は、今回で終わりそうと思いましたが、文字数制限の関係でその11までになりました。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死


○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
タフマースプの絵画に対する姿勢は、未熟な少年がヘラートで触れたビフザドの様式に感心したことに始まる。タブリーズに戻ると、まだ多感な王子は、父親が庇護する全く異なる流派を知ることになる。この2つの流派が出会い、融合して、後にカムセとシャー・ナーメの傑作となる総合的なスタイルに昇華したのである。やがてシャー・タフマスプは、技術的に完成され、知的で、繊細で、新しい考え方に抵抗のある芸術、つまりアカデミックな傾向のある芸術を賞賛するようになっていった。タフマスプが少年時代に没頭した絵画は、かつて彼の個人的な欲求を満たすためのものだった。しかし、青年になると、絵画を愛するパトロンになる必要はなくなった。彼の感情には、別の出口が必要だったのだ。 

スルタン・ムハンマドは絵画の創造性によって真の満足を得たが、王はそうではなかった。未熟なときの彼は、自分の感情を芸術の流派の形成に注ぐことができたが、苦悩と挫折を伴った成熟への課程は、彼に完全な幸福をもたらすことはなかった。彼の道は、恐怖を愛に変えることができる、歓びに満ちた庭園の輝く宮殿に至るのではなく、砂と灰に行き着くのである。シャー・タフマースプは、人間も芸術も、生者も死者も愛せなかった。彼の人生の中で最も幸福で、自信に満ち、創造的であったはずの年月は、かえって苦いものとなってしまった。彼は正統派[十二イマーム派]に帰依した。すべての人に与えられている自然な愛が、彼の中で枯渇してしまったのだ。憎しみと欲望だけが残り、それをコントロールするには、厳格な自己規律と死を招くような自己監禁をするしかなかった。
1556年[42歳]以降、タフマースプ王は一度だけガズヴィーン[1555-1598の間のサファビー朝の首都]の王宮の周辺を離れたことがある。もともと彼は生涯を通じて罪の意識に苛まれていたが、中年期には更にワインやその他の快楽を断つことが多くなった。また、悪夢にうなされることもしばしばであった。このような不幸は、おそらくずっと前に負った心の傷からきているのだろう。彼の人生は、世俗的な権力は十二分に与えられたが、幼い頃に愛を否定された男の悲劇であった。 

○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
その代償として、彼は芸術に目を向けた。この献身的な活動を証明する最も説得力のあるものは、彼のかかわった絵画そのものである。そして更に、文献による記述もある。もちろん、これらは適切に評価されなければならない。作家の中には、特にサファヴィー朝に仕えた作家にとっては、お世辞が目的であったかもしれない。また、時に嫉妬深く、常にライバルであった弟のサム・ミルザのコメントのように、才能や興味を認めただけの言葉は、過小評価であると考えられる。 

カディ・アフマッド[ペルシャの作家・書家。1547-?。wiki]は、おそらく正直な報告者であろうが、「この高貴な陛下は、自分がマスターしているこの不思議な細工の芸術に大いに傾倒していた......」と伝えている。 「シャー・タフマスプは、最初はナスターリク文字と絵画の習得に没頭し、それらに時間を費やした。彼は、図面と絵画のすべての芸術家の上に立つ比類のないマスターになった......。(そして)10万の賞賛と賛辞に値する」。
 16世紀後半の芸術家であり、芸術に関する著述家でもあるサディキ・ベグ[wiki]は論争好きでかなり反抗的な性格の持ち主で社交辞令のために真実を曲げたりしない人物と思われるが、次のように語っている。
「絵画の分野での彼の能力は非常に高く、図書館の主要な巨匠たちは、陛下の修正と承認のために作品を提出するまでは、最後の仕上げをすることができなかったのである」。

オスマン帝国の文人であるアリは、競合する勢力の宮廷人として、素直に感心して書いている。その中には、情報を提供するためというよりは、サファヴィー朝の支配者をけなしして自分のパトロンを賞賛するためという意図の発言もあったが、シャー・タフマスプを「名画家(naqqash-i-mtad)、その芸術性は創造性においてビフザド的」と書いたことは間違いなく偽りのない見解であっただろう。「これは、彼がアブド・アル=アジズ[ʿABD-AL-ʿAZĪZ B.]のもとで修行したことに起因すると同時に、絵や絵画の優れた目利きから得た自然な喜びでもあるのだ」と書いている。
さらに、国王の甥であるもう一人のパトロンについて、こう述べている。1556年から65年にかけて制作された『ハフト・アウラン』の制作者であるスルタン・イブラヒム・ミルザ[wiki]について、アリは、彼とシャー・タフマスプを「さかのぼっては、栄光のジャライル朝[1336年 - 1432年。イルハン朝の解体後にイラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラーム王朝。最終的には黒羊朝やティムール朝、白羊朝の間で埋没していった。wiki]を継ぐスルタン・ウヴェイス・バハドウル[ジャライル朝の第2代君主で、実質上の建国者(在位:1356年 - 1374年)シャイフ・ウヴァイス一世のことか。この時期の首都はタブリーズ。wiki]と、ティムールの系統を継ぐミルザ・バイスングール[ティムール朝第三代君主の息子。wiki]といった芸術における王子の先駆者にのみ与えられていた稀な功績を有する」と評している。「サファヴィー朝の王子たちが芸術の領域で見せた洗練された技術と比類なき偉業は、まさに唯一無二のものとして世界的に認められているのです」。

○青年期以降のタフマスプの精神的問題
また、オスマン帝国の作家は、国王の芸術性を心から賞賛しながらも、噂話をしないわけにはいかなかった。彼は、国王のお気に入りの小姓の一人が、国王の絵画の師匠であるアブド・アル=アジズとその弟子のアリ・アシュガーに連れ去られた逸話を語っている。王室印章の盗難、偽造文書への使用、逃亡と追跡、犯人の逮捕と投獄、そして激怒した王自身の手によるアブド・アル=アジズの鼻と耳の切断という陰惨なエピソードである。少年は許され、アブド・アル・アジズの芸術性が発揮された。彼は自分で木彫りの新しい鼻を作ったが、それは王室のナイフで失ったもとの鼻より立派なものであったと言われる。 

この事件については、王の弟サム・ミルザも1550年[タフマスプ36歳]に言及しているので、それより前のことである。この頃までには、シャー・タフマースプの芸術に対する目利きに関するこの弟のコメントは、過去形で語られるようになっていた。他の作家は、彼が徐々に芸術への関心を失い、拒絶するようになったことを語っている。
例えば、カディ・アフマドは、シャー・マフムード・ザリン・カラーム[ザリン・カラームは黄金の葦ペンの意]という書家に関連して、彼の心変わりに言及している:
「しばらくの間、彼は首都タブリーズに居住していた。... 書道と絵画の分野に飽きたシャー・タフマースプが、国の安寧と臣民の平穏という重要な国務に専念するようになると、マウラーナ(師)は許可を得て聖地マスハドにやってきた。そこで彼は20年ほど暮らした。」
カーディ・アフマドも、この書家が1564/65年にマシュハドで亡くなったと伝えているので、国王が心変わりしていったのはその20年前、1544/45年頃[タフマスプ30/31歳]であったのだろう。 

○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
シャー・タフマースプの治世に現存する最後の大写本であるフリーア美術館所蔵の『ハフト・アウラング』[七王座]は、彼のために作られたものではないが、これが制作された1556年から65年までの彼の精神が多くの点で反映されている[タフマスプ42-51歳]。この写本のシェイフ・ムハンマドによる細密画は、この時期の様式をよく表している(図16)。

Majnun-visiting-Layla

図16 メジュヌンがライラを訪れる シェイク・ムハンマド画 
ジャーミの『ハフト・アラン(七王座)』 1556-65年作
フリーア美術館蔵[F1946.12.253。画像はwikidataより。是非どちらかで拡大画像を見てみて!
天幕へり布の大胆な幾何学模様と細かなアラベスクの対比がすごい・・・]


科学者が悪性組織の完璧な標本を顕微鏡で覗き込むように、私たちは慎重にこの絵に近づく。この絵は、この種のものとしては素晴らしいものであることは間違いない。だが、物語の筋書きは混乱を極め、たくさんの猥雑なエピソードの中で迷宮入りしているように見える。貞淑な王女、邪悪な召使いと女中、堕落した少女や少年たちが出演しているのだ。駱駝は化粧をした娼婦のようであり、馬は悪魔の愛人にしか似合わない馬である。この偉大な芸術家の輝かしい作品は、苦悩しているとはいえ、プルーストの雰囲気のようなものを呼び起こさせる。この作品にはウィットがあり、それは登場人物にぴったり合っている。鋭い観察眼を持つ廷臣のウィットであり、道徳家であり、宴の参加者でもある。彼はワインが酢であることを指摘したが、それを飲んだ。 

○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン』(1556-65作)の比較
驚くにはあたらないが、この絵は最終的に、[サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)で]スルタン・ムハンマドが描いたアリの神格化を告げるガブリエルの絵(図8)と同じように、ほとんど同じ手段で私たちを感動させるのである。先の絵の空間(運河と木々の関係に注目)は、馬やラクダがどこからともなく飛び出してくるこの絵と同様、論理的な空間ではないのである。どちらの絵でも、人物は互いに不可能な関係で立っており、プロポーションも奇妙なほど一定していない。両者とも、知的さと静謐さは同じ程度に欠落しているか、あるいは存在している。しかし、先の絵が単純で無邪気で、頂上に向かって上昇する意欲に満ちているのに対し、後の絵は複雑な罪悪感に苛まれ、意図的に忘却の彼方へと向かっているのだ。共感を呼ぶ身体感覚は取り戻されているが、それは健全さよりもむしろ苦痛をもたらすようになった。ガブリエルは明るく新鮮で未熟な生々しさを、マジュヌンでは黒が混じり、不潔で過熟なほろ苦さを与えているのだ。 

この2つを形式的に比較すると、また別のことがわかる。前者は構成が頑丈で、よく編み込まれ、筋肉質で、事実上若々しい。後者はのびやかで、弛緩した老成したものである。テント柄には目を見張るような激しい菱形、斜線、縞模様があるが、全体の効果は外側に回転する運動のようなものである。デザインの要素は、ガブリエルのように集まっているのではなく、分散しているのだ。芸術はもはや盛りを過ぎて種となっており、この絵に見て取れる渦巻く力は、その種をまき散らす風の象徴といえるかもしれない。運が良ければ、数粒の種が肥沃な土地に降り立ち、育まれる。これは芸術の自然な再生産の一つである。このような細密画から、また新しいサイクルが始まるかもしれない。


■■参考情報
■シェイク ムハンマド:画家ダスティ ディヴァネの生徒であり、シャー タフマースプのシャーナメに取り組んだ最年少のアーティストの 1 人であった

■フリーア美術館にある1556年から65年までのJamiのHaft Awrangの写本(302ページ)の挿絵
この写本は、サファービー朝写本のベスト5入りかつ最後の大作のようです。
確かに、挿絵の数が多いし、見惚れるものが沢山。特にテントの色使いが大胆で素敵。
あと、よくわからないけれど、テントや服など布の描写が、他と違う気がします。ふっくら感や布のヒダが、比較的リアルです。

Haft awrang(7つの玉座)からのSilsilat al-dhahab(金の鎖)
F1946.12.10(賢い老人は愚かな若者を叱る)
F1946.12.30(堕落した男は獣姦を犯し、サタンに殴られる)
F1946.12.38(素朴な百姓は、セールスマンに自分のすばらしいロバを売らないでほしいと懇願する)
F1946.12.52(父親が息子に愛について助言する)
F1946.12.59(修道士は最愛の人の髪をハマムの床から拾い上げる)
F1946.12.64(盗賊がエイニーとリアのキャラバンを攻撃)

Haft awrang(7つの玉座)
F1946.12.100(アジズとズライカがエジプトの首都に入り、エジプト人が彼らに挨拶するために出てくる)
F1946.12.105(ユースフが井戸から助けられる)
F1946.12.110(ユスフは群れの世話をする)
F1946.12.114(ユスフはズライカの庭で娘たちに説教する)
F1946.12.120(幼い証人はユスフの無実を証言する)
F1946.12.132(ユスフは彼の結婚を記念して王室の宴会を開く)
F1946.12.147(グノーシス主義者は、天使が光のトレイを詩人サディに運ぶというビジョンを持つ)
F1946.12.153(ピルはプレゼントとして持ってきたアヒルを拒否する)
F1946.12.169(アラブ人がゲストを非難する)
F1946.12.179(町人、村人の果樹園を襲う)
F1946.12.188(ソロモンとビルキスは一緒に座り、率直に話し合う)
F1946.12.194(サラマンとアブサルは幸せな島で休む)
F1946.12.207(ミューリドはピルの足にキスをする)
F1946.12.215(亀の飛行)
F1946.12.162(気まぐれな古い恋人は屋上から落とされる)
F1946.12.221(東アフリカ人は鏡で自分自身を見る)
F1946.12.231(Qays(Majnun)レイラを初めて見る)
F1946.12.253(Majnun は Layli のキャラバンのキャンプに近づく)
F1946.12.264(Majnun は羊に変装した Layli の前に来る)
F1946.12.275(預言者の昇天)
F1946.12.291(Khusraw Parrizand Sirin は魚屋と取引する)
F1946.12.298(イスカンダルは鼻血に苦しみ、休息する )


ペルシャ細密画に登場する植物について

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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その9

2022-08-08 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

本文は、今回とその次でようやく終わりそうと思いましたが、文字数制限の関係でその11までになるかも。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死



○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
ホートンの写本の最後期に描かれた細密画をできるだけ知るためには、1539年から43年にかけての大英博物館の『カムセー』[or.2265挿絵リスト]に目を向ける必要がある。この本は、バフラム・ミルザのアルバムでダスト・ムハマンドがホートン写本とともに紹介したものに違いないが、有名な書記のシャー・マハムード・ニシャプリが書写したもので、彼もまたShah-namehを執筆した可能性がある。シャー・タフマスプの名前は、『カムセー』の序文と宮殿の壁に描かれた細密画の中に登場する。現存するものでは、14枚の同時代の細密画と、17世紀後半に画家ムハマド・ザマンによって追加された3枚の細密画がある。
全体的に、絵の状態はホートン本に比べるとあまりよくない。顔料の酸化(一般に修復可能な障害)は少ないものの、多くの作品に再加工が施されている。ムハンマド・ザマンは筆を休めることなく、16世紀の宮廷の美女や天使のような美女を現代的なものに変え、中にはヨーロッパ風の顔をしたものもある。過剰な扱いによって、手直しされた時のカムセーは、やや残念な状態であったに違いない。

理由はともかく、細密画のほとんどに、17世紀末のスタイルで、元の縁取りよりはるかに精巧でない、新しい図像の金彩縁取り画が施された。特に輪郭が不規則な細密画の周辺では、こうした置き換えが特に目立ってしまっている[例えば18r。絵の左辺部分に明らかに切り貼りした形跡がみられる。]。また、この本の細密画のいくつかは、行き過ぎた保存修復のために取り除かれてしまったようである。そのうちの1点、Mir Sayyid Aliが描いた「Bahram Chubinehと戦うKhosrow Parviz」は、現在エディンバラの王立スコットランド博物館に所蔵されている[A.1896.70]。また、半分に切断された2枚がフォッグ美術館に所蔵されている。「アレクサンダーの余興」[タイトルがあっていないが上下二つにカットされていることから1958.76か?]と「ナウファル族とレイラ族の会議」[タイトルがあっていないが上下二つにカットされていることから1958.75か?]、これらもミール・サイード・アリの作品である[大英図書館のカムセーの一部かどうかは定まっていない模様]。

『カムセー』の絵のひとつ、フォリオ15vには、1538年の日付と、一部が消された署名が刻まれた壁がある。フォッグの絵の一つを含む他の多くの絵には、スルタン・ムハンマド、アカ・ミラック、ミルザ・アリ、ミール・サイード・アリ、ムザッファール・アリという名前が刻まれている。ただし、フォリオ48vのボーダーを置き換えた部分にある「ミルザ・アリ」だけは例外で、後世の同じ作者によるものと思われる。
これまで見てきたように、サファヴィー朝絵画ではオリジナルの署名は稀であり、画家はもちろんのこと、後援者も、最も賞賛される司書でさえ、細密画を文字で汚すことは許さなかっただろう。名前の伝わっていないこの鑑定家の不謹慎さや、あまり上品でない書法には異論があるかもしれないが、『カムセ』における彼の帰属表記は、内的整合性や他の署名入り作品との比較において、完全に信頼できるものであることが証明されている。

ホートン・シャ・ナーメとは異なり、カムセーは統一され、調和がとれている。また、『シャー・ナーメ』の長所でもあり短所でもある挿絵の多さも、『カムセー』にはない。もし画家AからFがこの本のために描いたとすれば、彼らはより進歩的で賞賛される人物の無名の助手として描いたのである。このことは、1539年までに、技術的な洗練と宮廷の「趣味の良さ」へのこだわりが、最も王道的な写本の挿絵の数に制限を設けたことを示している。高尚な絵画は低俗なものを駆逐したのである。 

芸術と同様に政治においても、その精神はさらに高みを目指していた。正統派が時代の命題だった。1537年に、王と彼の大宰相であるカディ・イ・ジャハン(彼の前のララ、仲間の絵画愛好家、および1523/24ギ・ウ・チャウガンの受領者)は、テヘランに立ち寄り、過激派スーフィズムを裁くために立ち寄った。荒々しく屈託のない芸術家たちと同様、これらのスーフィたちも以前は賞賛されていたことだろう。1541年には、クジスタンにおいて、同様に極端な政治的・宗教的要素を撲滅するためのキャンペーンが行われた。詩の世界でも、恍惚とした幻想的なものが流行らなくなりつつあった。しかし、パトロンであるシャー・タフマースプと支配者であるシャー・タフマースプが異なる考えを持つことを期待すべきだろうか。 

カムセの精神は、描かれた人物の洗練された姿にある程度象徴されており、彼らはその時代の理想像とみなすことができる。私たちは二代目の、あるいは三代目の宮廷を見ているのである。初代は戦いに勝ち、権力を掌握した。その権力を守り、確保した今、それを享受する時が来たのだ。カムセで出会う人々のほとんどが、宮廷人である。 
王女や王子、侍従、花婿......その豪華な衣服は、仕立て屋の軍勢によって縫い上げられたものであるように見える。豪華なものばかりだ。金の玉座、繊細な細工の施された弓のケース(武器も今や貴重な芸術品)、美味な料理が盛られた美しい皿が、雰囲気を盛り上げる。勇敢な戦士の息子たちの心を揺さぶるために、王女は狩場でハープを鳴らす。かつて勇敢に駆け巡り、舞い上がった龍や鳳凰は、今ではしなやかに空を飾っている。
しかし、その前の世代は「古き良き時代」を嘆きながら生きており、カムセの中で優しく揶揄される不機嫌な老兵たちだけがそれを表しているわけではない。スルタン・ムハンマドのような年配の画家は、依然として重要な画家であった。カムセーに見られる新しい総合芸術には、恍惚とした雰囲気が漂っている。 

○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
たとえば、スルタン・ムハンマドの『預言者の昇天』[Or.2265. 195r]は、ビフザドと同様、トルクマン様式、ジャマール・ウ・ジャラル様式、『眠れるルスタム』の流れを汲むものである。この画家は「地下の」スーフィー、つまり野生の聖者を巧みに装った人物になったのである。預言者が人頭の馬ブラクに乗って天空に舞い上がると(図15)、無限の星空よりも近い距離に、水色のオーラに包まれた輝く黄金の月が見える。ムハマドは、おそらく地上の最後の縁取りとして意図されたドラゴンやグロテスクなもので満たされたうねる雲の上に昇り、その中をランプ、天の火の供物、香炉を持った礼拝用の天使が飛んでいる。他の贈り物を持った天使たちも、預言者の周りに揺らめく楕円を構成し、主天使(おそらくガブリエル)が手招きしている。しかし、その神秘的な可能性にもかかわらず、昇天はもっともらしい具体的な言葉で私たちの前に示されている。預言者はサファヴィー朝時代のかぶり物(現在は少し変色している)をかぶり、ブーラクの毛布と天使の衣装はサファヴィー朝王室の工房で作られた最高のものとして描かれているのである。さらに、素晴らしいブーラクは完全に信じられ、空間は説得力を持って定義され、すべてのプロポーションは信頼できるほど自然である。この絵の精神だけが、見る者を天国に近づけるような、別世界のものなのだ。 

The-ascent-of-the-Prophet

図15 ニザミのカムセーから、スルタン・ムハンマドによる預言者昇天の様子。 
1539-43年。 
大英図書館 OR. 2265. 195r 

スルタン・ムハンマドの『シャー・ナーメ』のための最新作『ザハクの処刑』(117ページ, 37v)[Aga khan museum蔵]は、『カムセ』のための細密画と非常によく似たスタイルで、数年以上前に描かれたとは思えないほどだ。トルクマンの影響を受けながらも、竜のような雲、人が住む山、不吉な処刑人、優雅な装束の馬は、カムセの世界に属しており、シャーナーメの初期の絵の階層に属するというよりは、カムセの世界に属している。 

○画家アカ・ミラク
ホートン写本とカムセの両方に携わったもう一人の画家、アカ・ミラクは、第二世代目ではないものの、スルタン・ムハンマドより相当に若かったようである。
彼の作品とされる最古のものは、1523/24年のGuy u Chawganの中にある。最新のものは、フリーア美術館にある1556年から65年までのJamiのHaft Awrangの写本[1946.12.*]に描かれている。 

Aqa Mirakは国王の肖像画家であると同時に、国王の良き理解者であった。彼は、我々の写本の最初の絵である「Firdowsi encounters the court poets of Ghazna」(80ページ,16r)[Aga khan museum蔵]に彼を描いたと思われる。このような細密画の冒頭には、伝統的にパトロンの肖像が描かれており、ここでは他の人物から少し離れたところに立っている人物が、特に豪華な衣装を身にまとっている[黄色いローブに青い袖なしの上着を着たひげのない男性。この絵の完成当時シャー・タフマスプは18歳]。カムセのためのアカ・ミラクの細密画には、同じ人物を描いたものがさらに2点あり、その長くやや垂れ下がった鼻と強くない顎は、シャー・タフマースプの人物の評価と一致している。カムセーに描かれたこの人物は、王族の代名詞として尊敬される伝説的人物、ホスローにふさわしい人物である。 

○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在王とスルタン・ムハンマドは当初、この本が最初から最後まで同じような細密画の連続としてスムーズに進むと思っていたのだろうが、すぐにそうではないことに気がついたに違いない。 
画家たちがいかに早く作業を行っても、量的にこのプロジェクトの要求に追いつくことはできなかったし、絵心のあるパトロンの宮廷で起こっている急速な様式の変化にも対応することはできなかった。この本は、後の国王が1522年にタブリーズに戻った直後に始められたと推測されるが、その最終的な時期を推定するのは難しい。この本は、王が絵画に没頭していた時代、すべてではないにせよ、ほとんどの期間にわたって書き続けられたと思われる。彼は、気が向いたときにいつでもこの本に手を加えることができた。王室図書館でページをめくりながら、突然ミルザ・アリやアカ・ミラクに細密画を描かせることを思いついたのだろう。このように、本書の最初の数枚は年代的にもっとも遅い部類に入るが、本書の最後の絵であるダスト・ムハンマドの戦闘場面(フォリオ745裏)は、様式から見て1530年代前半以前とすることが可能である。 

その結果、様々な様式が混在し、それぞれが王家の美意識と精神的な進歩の段階であり、変化する哲学に沿った表現方法を模索する王家の姿を象徴している。一見すると、無秩序で混乱し、計画性がないように見えるが、実はサファヴィー朝時代の最も才能ある芸術家たちが、精力的で深い関心を持つパトロンの好みを記録するために建てた記念碑なのである。大英博物館のカムセが、王が画家たちと協力して到達した成熟した高みを示しているとすれば、シャー・ナーメは、頂上への道のりを、いくつかの落とし穴を含めて、すべて見せてくれているのだ。時に、苦難な道程の副産物はゴールを凌駕する面白さがある。 

■■参考情報
■大英図書館のカムセーの挿絵リスト(後世の追加挿絵は色を変えています)
●Or. 2265, ff 2v-35r 謎の宝庫
(15v) アヌシルヴァーンとフクロウたち「画家Mīra[k] 946年 (1539/40)」と刻まれている。
(18r) Sulṭān Sanjarと老婆
(26v) 医師たちの決闘

●Or. 2265, ff 36v-128r ホスローとシーリン
(53v) シーリンの入浴を見守るホスロー 絵師:スルタン・ムハンマド
(57v) Khusrawの元に戻るShāpūr。絵師:ミーラク
(60v) クスローの戴冠 絵師:ミーラク
(66v) シリーンの乙女たちによる物語を聞くクスローとシリーン。絵師: ミーラク
(77v) リュートを演奏するバールバドに聞き入るクズロー。絵師:ミルザ・アリ

●Or.2265, 129r-192r ライラとマジュヌン
(157v) 老婆に鎖につながれてレイラーの天幕に運ばれるマジュヌン。絵師:ミール・サイード・アリ
(166r) 砂漠で動物たちと一緒にいるマジュヌーン。絵師: ミーラク。

●Or.2265, ff 193v-259v ハフトペイカール(七人の美女)
(195r)ブラーフに乗った預言者が、ジブラールに導かれ、天使に護衛されて天に昇るところ。
(202v) 一本の矢で驢馬と獅子を射るバフラーム・グール。絵師:スルタン・ムハンマド
(203v) バフラーム・グールは竜を殺す。絵師:ムハマド・ザマーン、「1086年(1675/76)「マザンダラン州アシュラフにて」。
(211r) バーラム・グール(シャフ・タフマースプの肖像)、一本の矢で驢馬の蹄を射てFitnahにその腕前を証明する 絵師:ムジャファル・アリ
(213r)召使の少女フィトナが、牛を肩に担いでバフラーム・グールにその強さを印象付けている。碑文:「最も強力な命令に従って、スレイマーンの時代」。画家 ムハマド・ザマーン、マザンダラン州アシュラフにて、1086年(1675/76年)の日付。
(221v) インドの王女の物語からのエピソード:妖精の女王トゥルクタズの魔法の庭を訪れるトゥルクタズ王。絵師:ムハマド・ザマーン at マザンダラン県アシュラフ、1086年(1675/76年)の日付。

●Or. 2265, ff 260v-396r イスカンダルナーマ
(48v、乱丁) ヌシャバの前で自分の肖像画を見るイスカンダル。絵師:ミルザ・アリ

 

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三つ編みニンニク2022:交通会館マルシェ7/30、31

2022-08-03 | +三つ編みニンニクgarlic braid

7月30日、31日の土日、いつもの交通会館マルシェに出店してきました。
あ、暑かったよ~う。
大したことはしていないのにくたびれて、月、火くらいはへっちょりしていました。


展示の様子はこんな感じ。

交通会館マルシェ

上段左端の、編む前のニンニクは、「この葉っぱを使って編んでいます」と説明するのに便利です。
(というか必須アイテム)
だいたいの人が、ニンニクの葉っぱがどういうものか知らない模様。

下段では、つかみ取りニンニクやばら売りを販売。
初日には玉ねぎ、台湾エシャロットも置いてみましたが、少量だったので一日目でなくなりました。

ジャガイモ、ハーブ類は今年はなし。
ジャガイモは、この暑さなので売れないだろうしいいのですが、ハーブはやっぱあるといいかなー。
緑色のものがあると売り場が潤うので。

交通会館マルシェ

どでかリース、今年も。
今年はナポリピンクとソフトネックAの種用を混ぜて作ってあります。
あとで多分うまく分けられると思うんだけど・・・。



ブログの読者さんや知り合いの方、いらっしゃって下さいました。

仮名ルバーブさん(コメントまだされたことないという方)は、海外各地の在住経験があるそうで、
もっとお話し聞きたかったな~。去年も来て下さったのですが、人が多くて話しかける隙がなかったそう。
今年はお話できてよかった☆

前に一度コメント頂いた、コハダさん。去年も来て頂いて、今年も。嬉しい限りです。
最初はウィーン旅行のことで検索していてこのブログにあたったそうです。
ご家族が岐阜で菜園をされているそうです。多分私よりなんでも上手だろうな・・・。

去年買って頂いたタマ〇さん。
今年もいらっしゃるとのことで事前にメールで取り置き依頼がありましたが、いらした時点で全然減っていなくて、選び放題でした。ご家族が富士山の方で(?)高級ホテルをされているとか。敷居が高いけど、行ってみたいな・・・。
去年、タマ〇さんが知り合いのカフェにうちのリースをプレゼントして下さったそうで、その写真を見せて下さいました。

交通会館マルシェ


あと、毎年心強い応援をして下さる松太郎ママさん。
お客さんがとっても少なくて心細かったのですが、パワフルな松太郎ママさんにお会いできて、元気が出てきました
(でもっていっぱい買って頂いて恐縮・・・)。

以前ワークショップに読んでいただいた、藁細工のミズノさん。
ヒマなものでついつい沢山おしゃべりしてしまいました。
一昨年、各自編む素材をお送りしたときに、ニンニク一個を使ってネックレスを作ったのだそうです。
それがこちら。

交通会館マルシェ

葉っぱは、計6本になるように割いて2本に編み上げ、ネックレスのように仕立ててあります。
一番弱い付け根は金や銀の紐で補強。
さすが藁細工のエキスパートですよね!
来年はこのネックレスをして出店しようかな☆

去年来て下さったプラムさんも、今年も応援しに来てくださいました。
ヒマなのをいいことに長話してしまいましたが、おしゃべりし足りなかったな~。


東京に行くのがそもそも久しぶりで、マルシェ仲間のお店からいろいろ買い込んでしまいました。
買わなかったもので印象深かったのがこちらの茄子。

交通会館マルシェ

か、かぼちゃほどもある巨大茄子!
大黒茄子という名前で、こちらの山梨の農園さんオリジナルの品種なのだそうです。
持たせて頂きましたが、おどろくほどずっしり。
株の背丈は1mを超えて、支柱と、枝を吊るしくみも必須だとか。
(そりゃ、この大きさと重さですものね)
で、ひとつを大きくするために(?)あまり沢山は実をつけさせることは出来ず、1株につき3個くらいなのだそうです。
実っているところ、見てみたい~。
(愛媛の絹かわなすも、常識外の巨大さで、やっぱ実っているところ見てみたい・・・)
うちにも茄子いっぱいあって買わなかったのだけど、ひとにあげるために買えばよかったな・・・。
これはウケると思う。


そうだ、マルシェと関係ないけどビッグニュースが!
なんと、交通会館にあった全国産直ショップ「むらからまちから館」がなくなってました!
(みんな知ってた?)
支援事業の終了に伴って、6月末に閉店したのだそうです。
びっくりこ。
今年も帰りにいっぱい買って帰ろうと思ったのに・・・。
心にぽっかり穴があいたよう。
いつも混雑していて、相当売れてたはずだと思うのだけど、残念・・・・。


このあとですが、今週末の調布も出店します。
(やっぱ売り切りは無理でした)
もしよかったら、ほかの作家さんの作品も楽しいのでお越しください。
天気予報を見ると曇りのち雨だそうで、屋根がないところなのでしっかり雨の場合は早い段階で終了になる可能性もあります。


■出店予定
8/7(日)調布 布多天神社つくる市 9:00-16:00 

コメント (2)
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『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その8

2022-08-02 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

けっこう時間をかけて調べているのが、文中に出てくる絵を実際に見られるサイト探し。
実物の絵も見ずに、その絵の解説文章を読まされるのってなんか意味ないし、と思って。
で、みつかった場合は、[MET所蔵]などとしてリンクをつけているのですが、
もしかして、まれにこの長い文章を読んでくれる方がいらっしゃるとしても、
リンクは踏まないかも?
絵が見られる場合は、サムネイルとか、入れといた方がいいでしょうか?
(それでもわざわざ見にいかないかな??)
より読みやすくするためのアドバイスがありましたら是非お願いします。


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(長い章でした・・・。あと2回分です。先が見えてきた。)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死

○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
1527年頃にディヴァンのために描かれたシェイク・ザデの「モスクでのエピソード」は、サファヴィー朝宮廷で賞賛された、より心理学的志向のイディオムに適合するように、この頃までには作風がいくらか変わっていたことを示している。彼の見事なまでにバランスのとれたモンドリアン風の構図は、精密な技巧とバランスのとれた長方形を駆使しているのだが、進歩的な愛好家にとって魅力的ではなくなりつつあった。シェイク・ザデはスルタン・ムハンマドのようなヒューマニズムを実現しようとしたことは、すでに述べたとおりである。しかし、それは不十分なものだった。 
ザデーの勢いは衰えつつあった。彼の絵と他者の絵の比率は変化していた。1525年に出版された豪華な絵の『カムセー』はほとんど彼の作品であるが、1526/27年の『アンソロジー』には彼の絵は6枚中5枚であり、彼が喜ばせようと大変な努力をした『ディヴァン』では、彼の絵は全部で5枚あるが3対2の割合であった[4枚中1枚だから、3対1では?]。

1527年までにサファヴィー朝宮廷派は、シャー・イスマイルの宮廷で流行していた様式を超えることができない画家や、シェイク・ザデのように一世代前のヘラートの定型を繰り返すことに執着する画家を排除していたのである。Shaykh Zadehの作品は、Houghtonの写本にも、Fogg Divanより後にサファヴィー朝で描かれた他の巻にも見当たらない。
そして次にシェイク・ザデの作品が見られるのは、1530年から40年までウズベクを支配したスルタン・アブド・アル・アジズ[シャイバーニー朝ブハラ・ハン国(首都ブハラ)の第4代君主ウバイドゥッラー・ハン(在位:1533年 - 1540年)のことか。wiki]のために、1538年にブハラでミル・アリが書写したハテフィ[ペルシャの詩人。イスマーイール一世の父親世代くらいで、尊敬されていた。 wiki]のハフト・マンジャーの中である[例えばこの絵とか?。スミソニアンサイトには情報みつからず]。フリーア美術館に所蔵されているこの写本の細密画のひとつには、こう刻まれている。「これはスルタンの召使いの中でも最も取るに足らないシェイク・ザデが描いた」。
そのスタイルは、1525年の『カムセー』を彷彿とさせるが、さらに古風である。ブハラでは、シェイク・ザデがビフザド様式をややドライに解釈したものが、この後何年にもわたって主流となるのである。 

○ビフザドの晩年
ホートン写本は、シャー・タフマスプが父親の趣味の要素を楽しむようになったことをはっきりと示している。かつてはビフザド芸術一辺倒であったが、タブリーズに戻るとすぐにその態度が変わった。ビフザド自身、老齢と視力の衰えから大きな力を失い、『シャー・ナーメ』のために絵を描くことはなかったが、ダスト・ムハンマドによれば、彼は1535年まで生きていた。 
1528年に王室書記官スルタン・ムハンマド・ヌールが写したシャラフ・アル・ディン[ティムールの子供世代のペルシャの学者。wiki]の『ザファール・ナーマ』[「勝利の書」。ティムール朝創始者ティムールの死後20年後に書かれた伝記。wiki]の写本は、この老師ビフザドの晩年のプロジェクトのひとつと思われる。[The Zafarnameh of Shah Tahmasp (no.708, Herat or Tabriz,1528), Courtesy of Golestan Palace, Iran.]
この写本の24枚の細密画は、テヘランのグリスタン宮殿の図書館にあるため、私は見ることができなかったが、複製画で見ることができるものは、ホートン写本を手がけたどの画家によるものでもないようです。これらの細密画の中には、ビフザドによると思われるデザインの要素が含まれており、その構成から、ビフザドが計画したと思われる。
もしそうなら、ビハザードはかなり降格されていたことになる。なぜなら、このザファール・ナメのような 歴史物の写本は、最高の人材に依頼されることはめったになかったからである。 


○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」

タフプマスのユーモアのセンスは、東西からの軍事侵攻や、いわゆる従者から無視されたり見捨てられたりしたエピソード、13歳のときに弓矢で敵を射殺せざるを得なかったようなエピソードを乗り越えてきたのである。そのサバイバルは、彼の治世における最も人間的で魅力的な文書のひとつ(図14)、王室スタッフの率直な一瞥、王自身による署名、そして彼のお気に入りの(そして唯一の腹心の)弟、バフラム・ミルザへの署名によって証明されている。

The-royal-household-staff-by-Shah-Tahmasp

図 14 「王室スタッフ」 タフマスプ作 6世紀第2四半期 上部に画家のサイン、その下に碑文。 
トプカプ・セレー博物館図書館 H. 2154 f.1b [通称Bahram Mirza Album]
[カラー画像みつけられませんでした→前景の3人部分のみカラーあり
http://id.lib.harvard.edu/images/olvwork404695/urn-3:FHCL:29643799/catalog]

このミニアチュールは、ダスト・ムハンマドが作成したアルバムの冒頭、フォリオIの裏面という重要な位置を占めている(ページI6)。絵の上部にはスタッフの名前が刻まれており、下段にいる腹の出た陽気な男は「カルプス(メロン)・スルタン」と呼ばれ、親しみを込めて呼ばれている。同じアルバムの次のページには、この家来を描いた王室執事と思われる絵があり、アリフィの『ガイ・ウ・チャウガン』と同じ書式(「世界の避難所」)で署名されています。この絵と素描はともに1520年代後半から30年代前半のものと推定され、ホートン写本には明らかにこの王族の手による作品はありませんが、同じ精神を感じさせる細密画が多くあります。例えば、「カブールでミフラブに敬意を表するザール」(129ページ、67v)[個人蔵。Harvard Fine Arts Library, Special Collections SCW2016.00624 Image ID 13615513で閲覧可]の右端の廷臣[下図]は、丸みを帯びた横顔で描かれており、ミフラブを諷刺することができた王は、彼の優しい肥満表現も楽しむことができただろう。これはもしかしたら、我々の友人であるカルプス・スルタンのことではないのか、とさえ思う。 
The-celebration-of-Id

○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
この本は、タフマスプの人格の成長を記録したものであり、空想的なシリアスさからドタバタ喜劇まで変化する雰囲気、『ガユマールの宮廷』のような質の高いページへの上昇、比較すれば単なる戯言に見えるページへの下降、そしてそのスタイルの多様性は、活発で楽しいことを愛する若い後援者だけが理解できたことである。この本の258点の細密画は、一貫して構成されたアンサンブルを形成していない。むしろ、散発的に構想された個人の年代記として見ることができ、そこには叙事詩の詩とほぼ同じ数の親密な逸話が閉じ込められているのである。タフマスプが生きていて、それを語ってくれればいいのだが......。 

1520年代から30年代にかけての政変で、国王は頻繁に移動していたため、シャー・ナーメは不均整に成長したのだろう。 
芸術家の中には、パトロンの旅に同行した者もいただろう。また、タブリーズに留まったり、休暇で村に行ったり、オスマン帝国の侵略の危機から逃れたりした画家もいた。画家Cの細密画の一群は、検査のために小さな山に積まれて運ばれているときに事故に遭ったようである。そのため、折れ曲がり、同じようなしわができ、ようやく最終的に製本された。 

○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
スルタン・ムハンマドやミール・ムサヴヴィールは、シャー・イスマイルが即位した当時、すでに名画家であったに違いない。次の世代の画家たちは、新しい総合芸術を形成したこれらの先輩たちに弟子入りしたのである。1530年代前半には、新たな幹部が誕生していた。彼らはまだ若かったが、主要な写本の重要な注文を受けることができるようになった。 
スルタン・ムハンマドの息子ミルザ・アリは、ホートンの巻のために初めて大きな「単独作品」を描いたと思われる。
これらの絵の中で最初に登場するのは(最も古いものではないかもしれないが)、「フィルドゥシのシーア派の船の寓話」(f18v。MET所蔵)である。
これは、大英図書館所蔵の1539-43年の断片的なカムセー[or.2265挿絵リスト]に描かれた、信頼できる彼の作品[77v48v]と類似していることから、ミルザ・アリの作品と特定することができる。大胆な構図と鮮やかな色彩。  

「ヌシルヴァンはヒンドの王から使節を受け取る」(8oページ。f.638r。Ebrahimi Family Collection、ELS2010.7.3。スミソニアンでのシャーナーメ1000年記念展での解説に画像あり)は、ミルザ・アリーが『シャ・ナーメ』の中で最も意欲的に描いた作品の一つで、これまで考察したほとんどの資料の要素を組み合わせており、この点で、若くて影響を受けやすい第二世代の画家の作品に典型的である。人物像は、ミルザ・アリのより成熟した細密画に見られる特徴を持ち始めているが、特に突き出た顎、悲しげに垂れ下がった目、奇妙に平坦な横顔は、依然としてシェイク・ザデに多くを負っている。しかし、それ以上にスルタン・ムハンマドやその出典であるトルクマン・タブリズの風通しのよい植物画、1477年のカバラン・ネームや1502/03年のヘラト・ジャマル・ウ・ジャラルの様式に負うところが大きいのである。ミルザ・アリの廷臣や音楽家、侍従たちが、ビフザドの抑制された心理的関心を示しているとすれば、スルタン・ムハンマドの大胆でユーモラスな人間観察眼もまた、それを物語っている。ページをめくるたびに躍動するリズムや、垂れ幕[画面左側の建物、一人くぐろうとしている紺地に金模様のカーテン]に描かれた生き生きとした龍と鳳凰の意匠も、ムハンマドの影響である。 

 

■■参考情報
■Bahram Chubinehと戦うKhosrow Parvizの別版  ブリティッシュミュージアムの1925,0902,0.1 (1490年頃)

■じゅうたん屋さん?のHP
各時代絵画に登場する絨毯

ハーバード大学の2枚の絵画(カットされたもの)の見方についての一般向け解説

コメント (2)
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