採集生活

お菓子作り、ジャム作り、料理などについての記録

三つ編みニンニク2022:(80)~(98)

2022-07-29 | +三つ編みニンニクgarlic braid

ニンニク、ほぼ編み終えて、リボンをつけたりなど出店準備をしています。
マルシェ出店はいよいよ明日、明後日の土日(7/30、31)です。
(有楽町駅前交通会館マルシェ、11:00頃~17:30)
感染再拡大もあるし、暑いし、お出かけ控えめがいいとは思いますが、もし何かの用事でお近くを通るようでしたらお立ち寄り下さい。

(写真あとで)

(80)~(81)ソフトネックA
ビックリと、虫めがね。
虫めがねスタイルは、以前凝って沢山作りましたが、今年はなぜか気分にならず、このひとつだけ。

garlic-blaid

(82)~(83)アブルッツォ
アブルッツォは、最近生育不良気味。ウイルスかなあ。
葉っぱの色が薄いのです。
元気回復することを願って、タネを確保しておきました。

garlic-blaid

(84)ヴォギエラ
ここ何年も、売れるようなきれいなものはとれていませんが、
今年は特に、生育不良。
つかみ取り用にしたほか、いちおうタネ用にこれを。

garlic-blaid

ヴォギエラは、何故か丸い形にならず、両端にぽっこりコブが出る感じになります。
鱗片が細かく分かれてしまったりも。
気象とか何かの条件で、うっかりいいのが育つ可能性がないかなーと淡い期待を抱いてますが、まあ無理かなー。皮は、白くてすべすべで綺麗なんだけど・・・。

garlic-blaid

(85)~(88)フランスピンク
鱗片を包む皮が紫色なので、外皮を沢山剥くと中の色が透けてピンクっぽくなります。
晩生タイプのこれは、基本的に生育不良気味なのですが、それでも、イタリアピンクやスペインよりはマシになりました。
やや未熟っぽいこのくらいのニンニクは、とても保存性がいいような気がしています。


garlic-blaid

(89)~(91)ふたたびナポリピンク
ビックリスタイル。
この品種早生系ですが、日本の気候にとてもよく合っている気がします。
毎年綺麗な形の、ずっしりしたニンニクになってくれます。

garlic-blaid

(92)~(94)ナポリピンク
三つ葉、ふたば、囲みハート。
外皮に紫色のサシが入る品種なのですが、その色は、外側ほど濃くて、皮を剥いていくと白っぽくなります。
紫外線に対抗するアントシアニン、いうことなのかな。
いつも、もう一枚剥こうか、でも向かない方が紫が綺麗か、迷います。


■出店予定
7/30(土)有楽町駅前 交通会館マルシェ、11:00頃~17:30
7/31(日)有楽町駅前 交通会館マルシェ、11:00頃~17:30
8/7(日)調布 布多天神社つくる市 9:00-16:00 
(8/7は、もし有楽町でいっぱい売れて残りが少なくなったらキャンセルしたいけど、そうは問屋がおろさないかな・・・)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枝豆

2022-07-28 | +その他

去年から、畑に枝豆を植えています。
畑友に教えてもらった方法が効果的で、虫や動物にもやられにくいのです。
タネを撒いたときから、白い防虫ネットを使ってトンネル栽培をするというもの。

売っているもののように、1株にぎっしり実がついたりはしないのですが、その分数を沢山植える作戦。

今年は、トンネル周囲や内側にも草を生やしてしまって、育ちが遅め。
で、先日、久しぶりに畑に行ったら、何株もが、食べごろの状態でした。

去年は育ったものから選んで摘んでいたので、多少収穫が平準化していたのですが、一気にどっさり。
イチゴ4パックを入れる箱に、7分目ほどもあって、ずっしりです。
ダンナサマも出張でいないので、とても食べきれません。

去年は、収穫した分茹でてしまい、食べきるには多かった分を、サヤから出して冷凍しておきました。
解凍すると柔らかくはなってしまいますが、味は美味しいし、炒飯のいろどりなど、何かに混ぜて使うのには便利でした。サヤから出すとコンパクトに冷凍できるのもいいところ。

今年は茹で枝豆として食べられるように保存しておきたい・・・。
調べてみると、生を冷凍するのがいいようです。

・生の枝豆に塩を振ってもみ、しばらくおき、水でゆすぐ(アクがぬけるとか。色よく茹だるかなと期待)
・冷凍庫の最上段をあけて、オーブンペーパーを敷き、そこに枝豆を並べる
 (ここにはもともとアルミ板と浅いステンレストレイが敷いてあります)
・ときどきかきまぜて、全体が早く凍るようにする。
・凍ったら真空パック

枝豆

オーブンペーパーの上の枝豆。
開放状態だと霜もつかず、カッチリ凍りました。

枝豆

でそれをかき集めて冷凍。1パックずつ作業して、すぐに冷凍庫に戻していきました。
全部終わったところで、みなさん冷蔵庫2号機に移動してもらいます。
(1号機の最上段は冷凍ごはん玉のスペースなのであけたいため)

さやつきだととっても嵩張りますが、なんとか入りました。


茹で方ですが、生枝豆は、少量のお湯(枝豆が半分くらいしか浸らないくらい)で、鍋にフタをして蒸し茹でにしています。
そうすると枝豆風味が濃いような気がしています。
(色はくすみますが、色より味よね?)

冷凍枝豆は、速やかに加熱された方がいいかな?とたっぷり目のお湯で茹でてみました。
食感は、生よりは少し落ちますが、まあまあ許せる程度。
気になったのは風味で、なんかちょっと薄いような? 
お湯が多いせいかと思ったので、次回はお湯少な目で茹でるのを試してみようかと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三つ編みニンニク2022:(54)~(79)

2022-07-27 | +三つ編みニンニクgarlic braid

ニンニク、編み進めています。
マルシェ出店は今週末土日(7/30、31)です。
(有楽町駅前交通会館マルシェ、11:00頃~17:30)
感染再拡大もあるし、暑いし、お出かけ控えめがいいとは思いますが、もし何かの用事でお近くを通るようでしたらお立ち寄り下さい。

毎年1,2回なので、どんな準備が必要なのだったか、毎回忘れ気味。
(ていうか、忘却力は年々アップしてる)
あとで、去年のマルシェの記事を見返してみなくては・・・・。

編んだもの、ご紹介します。

garlic-blaid

(54)~(55)ソフトネックYの大玉
特注頂いて、作りました。
(こらそんさん、ありがとうございました~)

garlic-blaid

(56)ソフトネックYだったかな?
これもまた別の方からの特注品。
(スヌーピーさん、ありがとうございました~)

garlic-blaid

(57)~(60)ソフトネックA ビックリスタイル
今年は特にこの品種が、皮が白くて綺麗な気がします。

garlic-blaid

(61)~(64)ソフトネックA
双葉、および三つ葉スタイル。
緑のラフィアのは青いリボンをつける予定。
この状態だと三つ葉の方が可愛い感じですが、サテンリボンをつけると双葉もなかなかいいと思っています。

garlic-blaid

(65)~(68)ソフトネックA
囲みハートおよび囲み輪っかスタイル。
年により、ハートがえらく受けるときと、あまり受けないときがあります。
(前年ハートが受けたのでいっぱい作っていったら翌年さっぱりだったことが)
今年はどうでしょうか。

garlic-blaid

(69)~(71)ナポリピンク
ビックリスタイル
ラフィアの量や出し方で変化をつけてみました。

garlic-blaid

(72)~(75)ナポリピンク
三つ葉、双葉、囲みハート。

garlic-blaid

(76)~(79)ソフトネックA
三つ葉、ふたば。


■出店予定
7/30(土)有楽町駅前 交通会館マルシェ、11:00頃~17:30 ※ピロティなので雨天決行
7/31(日)有楽町駅前 交通会館マルシェ、11:00頃~17:30 ※ピロティなので雨天決行
8/7(日)調布 布多天神社つくる市 9:00-16:00 ※小雨は状況により決行
(8/7は、もし有楽町でいっぱい売れて残りが少なくなったらキャンセルしたいけど、そうは問屋がおろさないかな・・・)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の唐辛子系

2022-07-26 | +その他

今年の畑の青唐辛子系はこの2種。

青唐辛子系

上はハラペーニョ。
昨年、「香りハラペーニョ」という辛くない品種を買ったら、沢山実ったものの、なんかもの足りませんでした。
なので今年は「本格ハラペーニョ」。
辛さにさほど強い訳ではないので、(もし沢山とれてしまったら)やっぱりもてあますかもしれないけど・・・。
でも、このグリーンの宝石のような見た目が、ほんとに好き。うっとりです。
首飾りに出来たらいいのにな~。

下は、「ほんのり辛いピーマン」とかいって売っていた気がします。
育つと思わず、名札を捨ててしまいました。
こんなに濃い緑のものがなるとは。びっくり。
辛さは基本的にはほんのり。
タネをとってしまえば、野菜炒めなどにピーマンとして使って問題ない程度ですが、たまにアタリが。

先日ダンナサマに種取りをしてもらったら、げっほげっほと咳き込んでいて、で、そのあと私も台所に行ったら、やっぱり咳が。
空気だけで刺激的なくらいなので、炒めても、やっぱりかなり辛かったです。
でも、パリパリ感があって割と美味しいです。
(苗を買ったとき、ボブラノ唐辛子的な感じかなー?と思っていたのですが、いま確認したら、ボブラノは、色はこんな感じで濃いめですが、ピーマンのようなしわしわではなく、ハラペーニョの肩を張らせたような感じで、ぷっくりツルっとしているものでした。ボブラノの苗売ってないかなー)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長なす(やや育ちすぎ)

2022-07-25 | +その他

先日久しぶりに畑に行ったら、長茄子がすごいことになっていました。

2022/07/20長茄子

棍棒くらい?
ちょっと育ちすぎといいますか・・・。

大きくしすぎてしまうと、消費も大変。
しかもダンナサマが出張で、料理も億劫なタイミングでした。

小さくして、冷凍する作戦にします。
割と気に入っているのが、皮を全部剥いて素揚げ・冷凍方式。

皮を剥き、ぶつ切りにして、塩水に投入。
水けをふき取って高温の油に。
で、表面が色鮮やかに揚がったところ(芯はまだ硬くていい)で紙を敷いたオーブンへ。
芯までふよふよになるまで焼く。
(油の中で完全に揚げると、油の沁み込みが多そうなので、油を落としがてらオーブンで加熱しています)

2022/07/20長茄子

これで上の写真の茄子全部。カサが半分くらいになりました!

ところで、お気づきでしょうか、このオーブン皿はオーブンレンジ用。
実はガスオーブンがいよいよあかん感じに。
ちょっと前に接点復活して、ボタン類は多少ましになったのですが、つい先日液晶パネルがダウン。
温度がわからない状態でヤマカンで使っていましたが、ここにきて、どのボタンも反応しなくなりました。
いよいよ交換かな?
交換はいいのですが、いまニンニク作業で(あとダンナサマがいなかったこともあり)家がぐっちゃぐちゃ。
業者さんを呼べるような状態では、ちょっと・・・・。
マルシェが終わったらかな・・・。
予約だけでもしておこうかな。


揚げた茄子は、一旦開放状態で冷凍し、固くなったら真空パック。

使い道は、
・お素麺に添える(つゆに投入)
・薄めたつゆに浸してだしびたし(冷やしておくとさっぱりおいしい)
・マーボ茄子(揚げてある茄子があると、すごくはやくて楽)
・トマト煮など洋風煮込みやカレーに入れる
・味噌汁にも

まだ生の茄子も収穫されているところですが、昼食のお素麺にちょっと添えたり、手間を省きたいときに便利です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その7

2022-07-20 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。

今回は、未知のゾーンだった、フランス所蔵の写本を見る手がかりが出来ました。
本に出てくる資料を検索する過程で、いいサイトを見つけたのです。
Biblissimaというポータルサイトは、キーワードで細密画等を横断的に検索出来て、きれいな絵をカラーで見放題。
(文字情報はグーグル翻訳にお任せ)
いま、翻訳を終わらせるべくちまちま作業していますが、終わったら、このサイトで絵ばっかり眺めようかなーと。
(文章、飽きた~)
(読む方も飽きてますよね、すみませんね)
(翻訳作業の貯金分がいよいよ尽きたので、続きはしばらくあきます)

a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(それにしてもこの章長すぎ!!! 編集者ちゃんとついて仕事したのかなあ。
 あまりに長いので、勝手に小見出しのようなものをつけました)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死


○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
シャー・ナーメの細密画が多く描かれた1520年代から30年代にかけて、サファヴィー朝ではあらゆる分野で、高い文化と低い文化、つまり頭脳と身体的・直感的なものが混在していたのである。 
政治、詩、宗教、哲学、そしてこの数十年の芸術は、対立、闘争を経て、最終的には統合され、やがてハイカルチャーが優位に立つようになった。変化は不規則に起こる。政治では、トルクマン兵(キジル・バシュ)に代表される下層の派閥が、血みどろの闘争の末に次第に失脚していった。 
宗教的な過激派の裁判と処刑が増えた。(シャー・イスマイルが初期に書いていたようなことを今書いている人は、異端者として処刑されただろう。) 

芸術の世界についても、進歩的な芸術家やパトロンと、それ以前のやり方に固執する人々との間で対立がおこったが、同じような経過をたどった。パトロンのすべてが時代に合わせて嗜好を変えるわけではないし、より賢明で、知的で、柔軟な芸術家だけが、文化状況の変化に適応することができたのである。 
芸術家は、政府の役人や宗教的な過激派と違って、たとえそのエートスに沿って発展できなくても、比較的安全だった。彼らは生きたまま焼かれることはなく、単に流行遅れになっただけだったのである。おそらく、シャー・イスマイルの幻想的な様式の中で働いていた多くの画家たちは、そのような芸術がまだ評価されていたインドのような海外や、シラーズのような近隣の古風な工房に職を求めることを余儀なくされたのだろう。 

ホートンの写本は、ビフザドのヘラートの洗練された知的さと、スルタン・ムハンマドのタブリーズの刺激的な表現主義との間で、長い一連の小競り合いが行われた戦場と言えるかもしれない。ティムール派とトルクマン派の融合は必然的な流れであったが、写本の芸術家たちはみな同じ装備で戦いに臨んだわけではない。ある者は最新鋭の武器を携え、それを巧みに使いこなし、ある者は装備が不十分であったり、新しい武器の扱い方を学び始めたばかりであった。 

スルタン・ムハンマド自身は、最新の武器を把握し、改良し、破壊的な効果を発揮して、戦いに参加することができた。また、若い世代の画家たち、ミルザ・アリ、ミル・サイード・アリ、ムザファル・アリは、最初から新しい武器について訓練を受けていた。スルタン・ムハンマドの信奉者である画家AからFは、あまり適応が早くなかった。特にA、B、Dは、プロジェクト期間中にかなり進歩したが、CとEは、新しい芸を学べない老犬だったのか、最初から最後までほとんど変わらなかった。 

○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
サファヴィー朝初期の芸術の発展のほとんどは、他のすべての王室写本を合わせたものよりも、ホートン・シャーナメで他のどの史料より詳細にたどることができるが、他のいくつかの写本についても、特にその署名や信頼できる帰属や年代から、検討することが不可欠である。 

これらの写本のうち3点は、シャー・タフマースプの弟であるサム・ミルザ[wiki]のために作られたようである。 これらのうち1点には彼の名前があり、様式的にも似ている。

一つ目はメトロポリタン美術館に所蔵されている『ニザーミのカムセー』[おそらく所蔵番号13.228.7.*のもの]である。これは、ヘラートの書家スルタン・ムハンマド・ヌールによって1525年に書かれ、現在15枚の細密画が収められている。そのうち14点は無署名であるが、様式からヘラートの画家シェイク・ザデ[活動時期1510–1550頃。wiki]か、その監督下にあった弟子たちのものと考えられる。もう一枚の細密画は、これも署名がないが、ホートン写本の上級画家の一人、Mir Musawirの作であることは間違いないだろう。 

二つ目の写本は2巻に分かれており、ミール・アリー・シール・ナヴァーイーMir Ali-Shir Nava'i[15世紀後半のチャガタイ文学の文学者 wiki]のアンソロジーで、1526/27年にAli Hijraniがヘラートで写したものである。これはフランス国立図書館[BnF]に所蔵されている[Supplément turc 316,317316全ページ閲覧。細密画は316のみにあり、169r, 268r, 350v, 356v, 415v, 447v]。6枚の細密画のうち、5枚はシェイク・ザデ自身か、彼の側近によるものである。6枚目のユーモラスな狩りの場面[350v]は、様式的にはホートン写本の画家Aが手助けしたスルタン・ムハンマドの作品とすることができる。 

三つ目の写本は、[ハーバード大学の]フォッグ美術館に所蔵されているハーフィズ[シーラーズ生まれの詩人。wiki]のディヴァン[詩集]である。 [美術館サイトやハーバードサイトを探してみましたがどうもこれは本ではなくバラバラのページの模様]
当初は5つの細密画が含まれていたが、そのうちの1つは失われている。
[整理すると、
イドの祝祭」スルタン・ムハンマド(図12)、
「庭の王子と王女」スルタン・ムハンマド、
モスクでのエピソード」シェイク・ザデ、
酔っぱらいの頌歌」スルタン・ムハンマド(図13)の4点]

このディヴァンには、年代や書かれた場所の名前、筆者の名前などは記されていないが、スルタン・ムハンマドの署名が入った細密画2枚のうち1枚、「イドの祝祭」の戸口の上にパトロンであるサム・ミルザの名前が記されている(図12)。もう一枚の絵、「庭の王子と王女」もスルタン・ムハンマドの作とすることができよう。さらにもう一枚「酔っ払いの頌歌」も。
モスクでのエピソード」は、シェイク・ザデの署名入りで、彼の代表作といえる。師ビフザドの作品とは異なり、彼の絵には人間に対する思いがほとんど感じられず、その点ではスルタン・ムハンマドとは正反対である。彼のビジョンは、モンテーニュに対するパスカルのようなもので、抽象的なパターンや法則に関係している。そのため、私たちは彼の絵の表面を巡り、そのまばゆいばかりの複雑さを楽しむことになる。確かに、彼の描く線はすべて正しく、唐草模様のひねりも見事だ。

The-celebration-of-Id

図12 「イドの祝祭」 スルタン・ムハンマド作 1527年頃
王座のカルトゥーシュに画家のサイン。ハフィズのディヴァンより。
ハーバード大学フォッグ美術館蔵 
[画像はPeerless images : Persian painting and its sources by Sims, Eleanorからお借りしました]
[本にはフォッグ美術館蔵とありますが、別の資料にはArthur M. Sackler Galleryとも。Hollis Images 17719173で閲覧可]


○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
これら3つの写本は、1522年から29年までサム・ミルザが総督を務めたヘラートで書写されたと思われるが、細密画はすべてここで描かれたわけではないだろう。シェイク・ザデはヘラートに残っていたかもしれないが、ミール・ムサウィールやスルタン・ムハンマドがこの時期にヘラートにいたとは考えにくい。おそらく、不在のパトロンがタブリーズの王室スタジオで描くよう依頼したか、あるいはシャー・タフマースプが彼の弟に贈ったのであろう。

一つ目、様式的に最も早い1525年のカムセー[MET所蔵。所蔵番号13.228.7.*のもの]は、ビフザドの様式をシェイク・ザデーが解釈したものである。彼の細密画は、硬質で形式的な性格付け、極端な二次元性、硬質な線によって、タブリーズのイディオムの影響を全く感じさせない。タブリーズから送られたと思われるミール・ムサウィールの作品は、スルタン・ムハンマド自身によるものとされることもあるほど、生き生きとした印象を与える。Mir Musawirはサファヴィー朝を代表する画家で、Houghton写本の時代を通じて細密画のスタイルにほとんど変化がない唯一の画家であり、Khamsehにある彼の絵は、彼がShah-namehのために描いた絵を年代測定する助けにはならない。
しかしながら、彼の『シャー・ナーメ』の細密画(169ページ。フォリオ516v)(この本で唯一の日付のある絵)は、『カムセ』の細密画のすぐあとに描かれたものであろう。

二つ目、ミール・アリー・シール・ナヴァーイの『アンソロジー』[パリ写本]に収められたシェイク・ザデの細密画[169r, 268r, 356v, 415v, 447v]、1年ほど前の『カムセ』の作品に比べると、より開放的なデザインで、かなり独創的である。また、「カムセ」の一連のパビリオンを単調なものにしていた左右対称の建築の正面性を排除している。さらに、人物描写を生き生きとさせることにも力を注いでいる。横顔やしぐさなどの細部は従来通りだが、人間同士の交流を描こうとしたのである。おそらく、ここで彼は、新しい総合芸術の影響力を示しているのだろう。 
ビフザドとスルタン・ムハンマドの様式が新たに統合され、イラン美術の中で最も人間的な瞬間がもたらされたのである。

画家Aのホートン写本の細密画の多くは、スルタン・ムハンマドの助力を受けたり、その影響を受けたりしており、パリ写本の彼の狩猟シーン[350v]と密接に関連しているため、『アンソロジー』の年代である1526/27年はホートン写本との関連において有益である。画家Aによる「ルスタムが魔女を殺す」 (149ページ、120v、MET所蔵)はパリの細密画とほぼ同時期のものと思われ、土俗的なユーモアや、風景画、人物画、動物画の類似点が見られる。 

三つ目、フォッグ美術館の『ディヴァン』のスルタン・ムハンマドの細密画3点も、1526年頃に描かれたものと思われる。署名入りの細密画2点における茶番劇の描写は、サファヴィー朝宮廷の主要な識者の一人であった若きパトロン、サム・ミルザによって奨励されたものと思われる。
酔っぱらいの頌歌」(図13)は、ビフザドの繊細な技巧(象眼細工の扉は、レンズなしには絵柄がわからないほど繊細)と、「眠れるルスタム」の奔放さが融合した、宇宙のお祭り騒ぎのような作品である。ホートンの傑作のように。ガユマールの宮廷で、スルタン・ムハンマドは自らのかつての作法と、彼にとって最も魅力的なビフザド様式の要素を融合させた。その融合によって失われたものは何もない。彼のユーモアのセンスは、筋肉質な滑稽さで表現され、『イドの祝祭』では、群衆の中でたった一人(屋根の上の、右から3人目の間抜け)だけが祝宴の宗教的目的を真剣に受け止めているという、俗世間の宮廷の複雑な心理を楽しませてくれる。
このような戯画的な即興は、画家とサム・ミルザが特に楽しんでいたようである。シャー・タフマースプの人生観が形式張ったものになりつつあり、王室の目に近いところでこのような悪ふざけができなくなったのであろう。

Earthly-Drunkenness

図13 酔っぱらいの頌歌の挿絵(スルタン・ムハンマド作、1527年頃)。 
左の扉口上に画家のサイン。ハフィズのディヴァンより。 
フォッグ美術館 


■■参考情報

この本をテキスト化してあるもの
を使ってます。便利☆

■ミール・アリ・シヴァーイについての論文(英語)
ヘラートからシラーズへ:白羊朝の「AlīShīrNawā」の詩のユニークな写本(876/1471 )

■サファビー朝初期主要写本の1点目、MET所蔵1525年の『カムセー』の挿絵
本文では、流行遅れとイマイチの評価のシェイク・ザデですが、構図はすっきり、唐草模様は想像を超える細かさで、めちゃ綺麗です。私は好き。
folio*  装丁と最初の装飾ページ等 13.228.7.1
ー●謎の宝庫ーーーーー
folio17 「スルタン・サンジャルと老婆」13.228.7.2 Shaikh Zada 画
ー●ホスローとシリンーーーーー
folio50 「ホスロー、シリンの水浴びを目撃」13.228.7.3
folio64 「玉座に座るクスラウ」13.228.7.4 Shaikh Zada 画
folio74 「Farhad は Shirin のためにミルクチャンネルを切り開く」13.228.7.5 Shaikh Zada 画
folio104 「クスローとシリンの結婚」13.228.7.6 Shaikh Zada 画
ー●ライラとマジュヌンーーーーー
folio129 「学校のライラとマジュヌン」13.228.7.7 Shaikh Zada 画
ー●ハフトパイカル(七王妃)ーーーーー
folio207 「土曜日の暗い宮殿のバフラム グル」13.228.7.8 Shaikh Zada 画
folio213 「日曜日の黄色い宮殿のバフラム グル」13.228.7.9 Shaikh Zada 画
folio216 「水曜日のターコイズ パレスのバフラム グル」13.228.7.10 Shaikh Zada 画
folio220 「火曜の赤い宮殿のバーラム グル」13.228.7.11 Shaikh Zada 画
folio224 「月曜日の緑の宮殿のバフラム グル」13.228.7.12
folio230 「木曜日のサンダル宮殿のバフラム グル」13.228.7.13 Shaikh Zada 画
folio235 「金曜日の白い宮殿のバーラム グル」13.228.7.14 Shaikh Zada 画
ー●イスカンダル・ナーマーーーーー
folio279 「アレクサンダーとダリウスの戦い」13.228.7.15
folio321b 「宴会でのアレクサンダー」13.228.7.16

■フランス国立図書館にも沢山細密画がありそうです。
turc316を探し当てるまでに漁った中からは・・
Turc762
数多くのイルミネーションや絵画で飾られた、テブリズまたはカズヴィンのシャータフマースの将校のためにコピーされた非常に豪華な写本。
図書館サイトでも同様に見られますが、ビブリシマというサイトでも全巻閲覧可。(ページ下部にイラストページのリストがあるのが便利)
Turc991
シャータフマースの治世下で5枚の絵画
ビブリシマサイトでの全巻閲覧
Persan 1150
たとえばf.165v f.239
ビブリシマサイトでの全巻閲覧
図書館サイトでは解説文が全然なくて、重要でない書物のように見えますが、細密画は沢山入っています。
Persan 1559
たとえばf.185
ビブリシマサイトでの全巻閲覧
こちらも、図書館サイトでは解説文全然なくて、重要でない書物のように見えますが、細密画は沢山入っています。
Persan 1817
中の閲覧はなし
Persan 580
25枚の絵画が含まれています
中の閲覧はなし
Persan 578
中の閲覧はなし

■ゴレスタン宮殿のzafarnamahのうち2枚がこの論文でカラーで見られます。
IMAGES AS HISTORICAL SOURCES:ANALYSING PERSIAN MINIATURE
PAINTINGS AS DOCUMENTATIONS OF ARCHITECTURAL HISTORY

この論文は面白そうで、挿絵の中の立体構造を解釈して、飛び出す絵本的に、3次元に絵を再配置してみています。
近景平面図、近景横から、遠景、などが平面画面上にかなり複雑に構成されていることが分かります。

zafarnamahの各種写本の細密画

イ ス タ ン ブ ー ル ・ トプ カ ピ宮 殿 所 蔵 の画 冊 に つ い て(日本語)
1970年代?のトプカピ美術館蔵アルバムの概説。引用図等はなし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『王の書 シャー・タフマスプのシャーナーメ』~その6

2022-07-14 | +イスラム細密画関連

A King's Book of Kings: The Shah-nameh of Shah Tahmasp』(Stuart Cary Welch, Metroporitan Museum of Art, New York)

この本を是非読みたいと思って和訳してみています。
が。
内容が難しくなってきて、飽きてきたよー、と泣きが入ってきたところで、
なんと、この本をテキスト化してあるものを発見!
便利!

いやー、便利なサイトがあるものだと調べてみると、これは、インターネットアーカイブ(Internet Archive)wiki)というアメリカの非営利団体によるサイトでした。
どうも、(著作権的に問題ない範囲で)、出版、記録、放送されているような人類の営為の全てを記録しよう、という壮大なプロジェクトを実施している団体のようです。今のところ、

が含まれているのだとか。
なんか、SF小説の世界のよう。。。。
一般からもデータ提供を受け付けているようなので、今後もさらに増えていくと思われます。
(tv放映の記録をちょっと見てみましたが、放送内容はテキスト化されて検索できるようになっているし、コマーシャルまで含めて記録されていて、その時代がよみがえるようです)
ジム・キャリーの映画「トゥルーマンショー」は、Youtubeなど動画配信サイトの発展で、もはや現実のものになってきていますが、それの、文明丸ごとバージョン、て感じでしょうか。
わけわからないくらい沢山データがあって、誰が何に役立てているのかもよく分かりませんが(映画や動画、バンドのライブ画像などが閲覧が多い模様ですが)、資金が尽きず、当分存続してほしいものです・・・。


という訳で、読む方は飽きてきたかもしれませんが、もうちょっと続けます。
(あ、ところで、英語原文も併記したほうがいいでしょうか?訳がアプリ任せでしかもあんまり直せてないし・・)

=========================


a-kings-book-of-kings

============
王の書:シャー・タフマスプのシャーナーメ
============

序 p15  (その1
本の制作  p18 (その1
伝統的なイランにおける芸術家  p22 (その2)(その3
イラン絵画の技法  p28 (その3
二つの伝統:ヘラトとタブリーズの絵画 p33 (その4
シャー・イスマイルとシャー・タフマスプの治世の絵画 p42 
(この章はあまりに長いので、勝手に小見出しのようなものをつけました)
  -----(その5)-----
  ○サファビー朝創始者シャー・イスマイル(タフマスプの父)
  ○サファビー朝最初期の写本「ジャマール・ウ・ジャラール」
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(制作年代1476-87頃)
  ○白羊朝末期~サファビー朝初期の写本「カムセー」(タブリーズ派)
  ○タブリーズ派の傑作「眠れるルスタム」
  -----(その6)-----
  ○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
  ○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て 
  ○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合   
  ○ホートン『シャー・ナーメ』制作の時代の社会
  -----(その7)-----
  ○サファビー朝初期の名作写本3点とヘラート派シェイク・ザデ
  ○サファビー朝初期写本3点にみられる画風の変遷
  -----(その8)-----
  ○ヘラート派のシェイク・ザデが流行遅れとなりサファビー朝からよそ(ブハラ)へ
  ○ビフザドの晩年
  ○タフマスプ青年期の自筆細密画「王室スタッフ」
  ○ホートン『シャー・ナーメ』の散発的な制作
  ○ホートン『シャーナーメ』の第二世代の画家ミルザ・アリ(初代総監督スルタン・ムハンマドの息子)
  -----(その9)-----
  ○大英図書館『カムセー』写本(1539-43作)(ホートン写本制作後期と同時代で制作者や年代が特定されている資料)
  ○大絵図書館『カムセ』とホートン『シャーナーメ』のスルタン・ムハンマドの絵
  ○画家アカ・ミラク
  ○ホートン写本の長い制作期間と様式の混在
  -----(その10)-----
  ○シャー・タフマスプ(1514-1576)の芸術への没頭と離反
  ○同時代の文献によるタフマスプの芸術性の評価
  ○青年期以降のタフマスプの精神的問題
  ○シャー・タフマースプの治世最後の大写本『ハフト・アウラング』(1556-65作)
  ○サファビー朝成立直前の写本『カバランナーメ』(1476-87頃)と爛熟期『ハフト・アウラン(1556-65作』の比較
  -----(その11)-----
  ○タフマスプの気鬱 
  ○タフマスプの甥かつ娘婿のスルタン・イブラヒム・ミルザ(1540 –1577)
  ○中年期のタフマスプの揺れる心
  ○晩年のタフマスプ
  ○タフマスプ治世最晩年の細密画
  ○タフマスプの死と、甥スルタン・イブラヒムの失脚死

 

○ビフザド(ヘラート派)と少年時代のシャー・タフマスプ
ここで、ビフザドがタブリーズの美術に与えた影響について考えてみよう。1522年、若き日のタフマースプ王子[8歳](後にホートン写本のパトロンとなる)がヘラートより帰国したとき、初めてその影響が強く感じられるようになった。1516年、まだ2歳に満たない彼は、父親の命令でヘラートへ総督として派遣された。私たちから見れば、子供を家族から引き離すなんて奇妙で残酷なことだが、当時は決して珍しいことではなかった。幼い王子は、摂政、家庭教師、父親を兼ねるララという役割の人物に預けられて海外に送られるのが普通であった。このような習慣は、トルコ・イラン世界の最上流部において、愛情に満ちた家族関係が希薄であったことを説明し、お互いをよく知らない兄弟や、父親のことをほとんど知らない息子たちが、権力争いを繰り広げることがしばしばあった。このことは、イラン絵画のあり方をも変えてしまった。

ヘラートは、ティムール朝最後の、そしておそらく最も偉大なパトロンであるスルタン・フサイン・ミルザ[フサイン・バイカラ wiki 在位:1469年 - 1506年]の首都であった。タフマースプ王子が到着したとき、彼の宮廷の開花に貢献した多くの知識人、音楽家、芸術家、職人たちがまだ存在していた。ヘラートで育ったサファヴィー朝の王子は、ローマ人の青年がアテネに送られたようなものであった。しかしこの場合、タブリーズから出発したのは、第一にウズベキスタンの辺境近くに王族を駐在させるという政治的必要性、第二にティムール朝の中心地の文化に父親が感心したためであったろうと思われる。

ヘラートでの生活で、王子は日常的に賢人たちとの出会いを体験していたに違いない。コーランとその法律を解説する学識ある医師、芸術的な書家、機知に富み時に深遠な詩人、ティムール朝宮廷の気品に貢献しサファヴィー朝の新進にその礼儀作法を伝える礼儀作法の達人、複雑な抽象概念の網を紡ぐ数学者、歴代のカン、スルタン、シャーの知恵や過ちを解説する歴史家、などである。これらは王子の師匠のごく一部に過ぎない。松明の明かりの下、あるいは樹上の家、庭の小川のほとりに座って、詩歌の古典の朗読を聞いたに違いなく、おそらく自分の図書館用に用意された高貴な書物を読んだのだろう。体を鍛えるために、鞍に乗れるようになると、白髪交じりのベテランたちが次々と乗馬を習わせた。アーチェリー、剣の練習、ポロも早い時期に加えられたことだろう。もちろん、絵画や鑑定も習い、スルタン・フセインの最も偉大な芸術家、ビフザドと接触することになったのだろう。

1507年にヘラートがウズベクに陥落した後のビフザドの経歴は、明瞭でない。オスマン帝国の歴史家アリによれば、1514年のチャルディラーンの戦いでシャー・イスマイルが彼の運命を案じていたというが、この記述には書家シャー・マハムッド・ニシャープリ[イラン辞典]に関する問題のある言及が含まれており、おそらく架空のものであろう。ビフザドはヘラートで政治的危機に陥ったタフマースプ王子が呼び戻され、王子とともにタブリーズに行くまでヘラートに留まったと思われる。ビフザドは1522年4月24日にシャー・イスマイルによって王室図書館の館長に任命された。もし彼がもっと早くタブリーズに滞在していたなら、もっと早くこの任に就いたに違いなく、王子の帰国前にタブリーズ絵画に直接影響を及ぼしたことだろう。
タブリーズに到着した時、ティムール朝の老巨匠はもはや全盛期ではなかったことは確かである。フリーア美術館に所蔵されている老人と少年の風景画の円形作品[wiki画像スミソニアン博物館フリーアギャラリーの該当作品]など、晩年の作品には初期のような繊細なタッチは見られない。それでも、イスラム美術の中でも独創的な円形作品の構成は見事なものである。


○少年時代のタフマスプが書写した写本『ギイ・ウ・チャウガン』(ビフザドの様式)
ガジ・アフマド[wiki]は、ビフザドがシャー・タフスプのためにシャー・マフムッド・ニシャプリが微細な文字で書写したカムセーに絵を描いたと書いているが、タブリーズでのビフザドの主たる役割は、実務家よりもむしろ指導者であったと思われる。彼はそこで1536年に亡くなった。
このことは、現在レニングラードにある1523/24年のアリフィの魅力的なポケットサイズのコピー、アリフィの「Guy u Chawgan(ボールとポロスティック)」が証明している。それは、その書記によってカディ・イ・ジャハン[wiki]に贈られた。10歳の早熟な書記はタフマースプ王子その人であり、この本は彼の父が亡くなる直前、アルダビルの巡礼からの帰途に書かれたものである。受取人は、タフマースプ王子の最近再配置されたララ[教育係 wiki]であった。彼はヘラートでの初期の時代に彼と一緒にいて、1550年まで彼の人生の主要な人物であり続けた。

Guy-u-Chawgan-by-Sultan-Muhammad

図11 スルタン・ムハンマドによるポロの試合(1523/24年版アリフィのガイ-チャウガンより)。
レニングラード公共図書館 D.N. CDXLI
[カラー画像みつけられませんでした→発見、あとで差し替えます
 http://id.lib.harvard.edu/images/olvwork723545/urn-3:FHCL:29643797/catalog]

サファヴィー朝絵画の発展における「ギイ・チャウガン」の重要性は、いくら強調してもしすぎることはないだろう。その細密画の様式は、後の国王の宮廷で最も高貴な人々の間で当時何が賞賛されていたかを正確に物語っている。その様式とはビフザドのもので、細密な人物像と詩的で自然主義的な風景画は、しばしば小さな不精な木や切り株で縁取られ、至る所に見られる。
この本には、16点の同時代の無署名細密画が収められており、そのほとんどは、宮廷画家たちの作品と見なすことができる。そのうちの1枚、2ページにわたる屋外の王座の場面は、ビフザド自身が描いたものと思われるが、彼は円形の絵を描いた後、さらに視力が低下していたに違いない。おそらく、タフマースプ王子のヘラート従者で、芸術家・書家・歴史家でもあるダスト・ムハマンドが補佐したのだろう。

他の細密画はビフザド派特有のもので、ヘラートの老画家が綿密な指導を行ったか、場合によっては輪郭線を提供したものと思われる。サファヴィー朝で長く活躍したスルタン・ムハンマドでさえ、このプロジェクトにいくつかの細密画を提供しているが(図11)、ビフザドのスタイルにうまく合わせ、彼の初期と後期の特徴の痕跡を認めることができる程度である。

○ヘラート様式とタブリーズ様式の二本立て
「ガイ・ウ・チャウガン」では、ヘラートのビフザド様式とスルタン・ムハンマドのタブリーズ様式(白羊朝宮廷様式の発展形)と、カバラン・ナーメで指摘した様式から生まれた1502/03年のジャマル・ウ・ジャラルの様式が対立する瞬間が見られる。王子の芸術家たちは、「ガイ・ウ・チャウガン」のビフザドのスタイルを模倣し、彼の衣裳を着ていましたが、マントはまだぴったりではなく、靴もつっかえていた。ここには、シャー・イスマイルの主要な芸術家の先見性のある作法と、ヘラートからの純粋な形で最近輸入された作法との間の来るべき融合の兆しはほとんどない。

もちろん、王子が書写したこの本に、ヘラートで最も著名な芸術家の精神が色濃く反映されていることは驚くにはあたらない。
しかし、考えられることは、その細密画の好みは、王子の成長期の間に強力な影響力を持ったララ、カディ・イ・ジャハンの好みをも反映しているということである。少年期と青年期には、タフマスプはおそらく芸術の中に大きな安らぎと避難所を得た。内戦、家族の争い、オスマン帝国とウズベク帝国の侵略、脱走、そしてほとんど絶え間ない軍事行動など、彼の青年期は決して楽なものではなかったが、特に幼児期に受けた心の傷を考えると、その影響は大きい。サム・ミルザによると、兄のタフマスプはタブリーズ近郊の家で何時間も謎の行動をとり、不思議がられたという。この謎の密会は、おそらく画家たちとのものだったのかもしれない。 

彼の芸術に対する強い情熱はヘラートで培われたはずだが、1522年に少年が帰国するまで、そのことは父に知られることはなかったかもしれない。離ればなれになっていた息子は、おそらく非常に臆病で、ダイナミックで征服的な父と再会したとき(あるいはむしろ初めて会ったとき)、絵画は二人の間で際立って大きな関心事だったのだろう。二人の会話の中には、当時国王のために執筆され、挿絵が描かれていた、大きくて立派な『シャー・ナーメ』に関するものもあったかもしれない。ヘラートの教育を受けている息子は、その荒々しさや暴力性を批判したのではないだろうか。このような議論がもしあったとすれば、私たちのものと同じ大きさの未完成Shah-namehの3ページが存在することが説明できるかもしれない。そのうちの1枚が、大英博物館所蔵の見事な「眠れるルスタム」である。 

これらの絵は、シャー・イスマイルが帰国した息子に「ホートン・シャーナメ」を贈るため、既にあった依頼を取りやめたときに、脇に置かれたのだろうか?  
もしそうならば、ページサイズが合っていること、また、私たちの写本に描かれた最古の絵が、同じスタイルの少し後の例であることの説明がつく。 

ホートン写本の制作を依頼した経緯が正しいかどうかはともかく、王子がタブリーズに到着して間もなく制作に着手したことは確かである。「サデの宴」(93ページ)[22v。MET所蔵]や「タフムラス、ディブを倒す」(97ページ)[23v。MET所蔵]などの細密画は、「眠れるルスタム」に酷似しているが、これはスルタン・ムハンマド自身が、若い愛好家をヘラートの古典趣味から父の宮廷の荒々しい様式に変えようとしたものであろうと思われる。この画家はある程度成功した。

ホートンの『シャー・ナーメ』には、若いパトロンが楽しんだのでなければ存在しないような、似たような生き生きとした細密画が数多く収められている。しかし、この熱心な若者は、ヘラートの土俗的でない洗練された芸術から目をそらすことはなかった。『シャー・ナーメ』で、(描かれた時期から推定して)次に描かれた絵(105ページ、「ザハークは自分の運命を知らされる」29v MET所蔵)は、ビフザド派の趣味に合ったもので、スルタン・ムハンマドとその一派が『ガイ・ウ・チャウガン』のために描いた小さくてあまり凝った絵と多くの点で同じである。右の背景に描かれた廷臣や門番などの人物像をよく見て初めて、スルタン・ムハンマドの作者であることが明らかになるのである。

○ヘラート様式とタブリーズ様式の融合
スルタン・ムハマンドは、ヘラートの巨匠の様式を吸収すると同時に、それまでのやり方を一新して絵を描くようになっていった。1524年、父のアトリエを受け継いだヘラート出身の王子[10歳]にふさわしい、新たな総合芸術が誕生したのである。スルタン・ムハマンドは、自分の大らかで活気に満ちた作風を、一見堅苦しく感じられるような作風にあわせることへの不快感をすぐに克服した。「ザハークがビルマイヤを殺す」(109ページ)[30v。wikidataハリリコレクション所蔵]では、「サデの宴」(93ページ)[22v。MET所蔵]の前景に描かれた、至って愚かで賢明な動物たちが、新たな繊細さと質感、比率への配慮をもって描かれている。また、「眠れるルスタム」[大英博物館蔵]で顕著だった樹木や植生に対する才能は、この同じ絵の中で、洗練されつつも、詩情や活力に劣らず、再び発揮されている。 

この頃、スルタン・ムハマンドは、仲間の画家たちが頭を垂れたという代表作「ガユマールの宮廷」[20v。Aga Khan Museum, Toronto]の制作に取り組んでいたのだろう。長い時間をかけて愛情たっぷりに描かれたこの絵は、ティムール朝美術とトルクマン美術の統合を象徴している。細部の描写や心理描写の洗練度はビーザードを凌ぐと思われ、その劇的なインパクトは、14世紀半ばのシャ・ナーメのページ(図4)で指摘したような緊張感を思い起こさせる。 

しかし、このページを、タブリーズ派のあらゆるモチーフをめぐる美術史的な旅にしたとしても―そのライオンはトルクマンのアルバムページに、サルはイスタンブールの大学図書館にある14世紀の獣類学のシリーズに結びつけられるとしても―、「ガユマールの宮廷」は単なる折衷主義者の作品ではない。 
スルタン・ムハンマドは、王立図書館と工房の信じられないほど豊かな遺産を吸収し、ここで、この世とあの世のすべてを描き出すためにそれを利用したのである。聳え立つ岩と中国の木々、そこには不思議で素晴らしい自然の精霊の世界が広がっている。瑠璃色、紫色、硫黄色の岩山には、ラクダ、猿、ライオン、そしてさまざまな種類の人間など、秘密の存在、あるいはその集団が次の存在と融合しながら宿っている。スルタン・ムハマンドは、この一枚の絵の中に世界のすべてを描き出そうとし、そして成功したようだ。私たちも、この絵の前で頭を垂れるなら、より真摯にこの絵を見つめることが必要であろう。 


■参考情報

ペルシア絵画における明代花鳥画の受容
サファービー朝絵画には、中国の花鳥画の影響があるようです。

2
チェスター・ビーティ図書館写本コレクション
デジタル化されているものはまだ少なめで逐次拡充しているようです。
ペルシャ写本コレクションほか、インド写本、イスラムなどなど、綺麗なものが沢山あります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三つ編みニンニク2022:(26)~(53)

2022-07-13 | +三つ編みニンニクgarlic braid

ニンニク編み、コツコツすすめています。

以前は、2つ同じ種類を編んだら早いかな、と思っていましたが、一個編むと、なんか、飽きるので、
毎回違う編み方にして(といってもバリエーションはあまりないですが)、でも、一束分(12,3個くらい)、皮を剥いて、葉っぱを濡らしたら、なんとか編み切る、という方法でザクザク編み進めるようにしています。

だーっと編んで、写真はまとめて、種類別にして撮ったので、編んだ順ではないです。
一挙に50房まで増えました。

garlic-braid

(26)~(32)ナポリピンク
上段が囲みはで、下段が三つ葉スタイル。

garlic-braid

(33)~(35)ナポリピンクの、複雑な編み方。
(33)と(34)は、上に1本編み上げて、そのあと2つに分けるタイプ。
(35)は、中央から両方向に編み進めて、2本のしっぽをぐねぐね絡ませるタイプ。こちらは、玉サイズが大きくなると重みで変形してしまうので、適度な大きさまでの編み方です。


garlic-braid
(36)~(37)ナポリピンク
(36)一本に編み上げて、上でハートを作ったらどうかな、とやってみましたが、なんかビミョー?
(37)小玉があったので5個でリースにしてみました。
   リースというよりは、音楽の時間に使う鈴かな?


garlic-braid

(38)~(41)ソフトネックY  
ビックリマークに似てるので、ビックリスタイルと呼んでます。
疲れてきたのかな、個数多めですね。


garlic-braid

(42)~(45)ソフトネックY
三つ葉スタイル。今年はサビ病にやられて葉っぱが短めで、三つ葉をつくるには一工夫必要でした。


garlic-braid

(46)~(47)ソフトネックY 囲みハートスタイル
(48)~(49)囲み輪っかスタイル。
これらの編み方は、個数5個の方が、リボンがしっかり見えていいかも。でももっぱら4個にしています。

garlic-braid

(50)~(51)ソフトネックY
小玉が残してあったので、リースにしました。
売り場のいろどりに・・・・。

garlic-braid

(52)義城 タネ用
小粒だけど、ニンニクらしいぷくぷくした形で、かわいい☆


(53)イタリアピンク タネ用
見るからに、成熟が足りてない感じ。
にくし、サビ病。
こんな小さなもの、植えて芽が出るのか・・・。今年で断絶しちゃうかも・・・。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラズベリー追加スイーツ

2022-07-12 | +ベリー類(ブルーベリー、ラズベリー、ブラックベリー、桑、ぐみ、ユスラウメ)

ラズベリー、7月3日時点で、こんなきれいな実がとれていました。
(それまでに収穫してあって、冷蔵庫に保管していた分も含む)

ラズベリー

かわいいお~。うっとり。


ニンニク編みでドタバタなので、市販品を利活用して、ラズベリースイーツにします。

ラズベリー

冷凍で販売されているショコラムースにトッピング。
(解凍しても、半解凍でも食べられるというもの)
スーパーのプライベートブランドのものなのですが、なかなかリッチなチョコムースでした。
ラズベリーが加わると、高級感アップ☆
とてもリッチなので、冬に食べたらもっとおいしいかも。
(こんなに暑いとチョコレートはちょっとね・・・・)


ラズベリー

全粒粉ビスケットを買ってきました。
これに、一枚は水切りヨーグルト、もう一枚には母作のレモンカードを塗って、ラズベリーをサンド。

ラズベリー

ヨーグルトを塗った方は、クッキーがしっとりしてきて、スポンジケーキっぽくなります。
レモンカードを塗った方は、湿気があまり出ず、サックリ感が残った状態。
レモンカードがくっきり甘酸っぱく、クッキーは甘すぎず、ラズベリーのいい香りとフレッシュさが加わって、
相当おいしいお菓子に!

レモンカードって、ラズベリーに合うと思うので、昨冬実家からもらってきたのですが、今まで温存しておいたのでした。
確か実家でとれた貴重なレモンを使ったレモンカードです。
(今年はレモン、一個もなし。)


7月12日現在、夏果の収穫はほぼ終わった模様。
ていうか、数粒はあるはずなのですが、青い実を確認し、期待して一日おいて行くとすでにもぎ取られている状態だったり。
動物?鳥?虫?人???

小さいツブツブが数個残ったような食べ方をしているものが結構あり、これは虫関係ではないかと思うのだけど・・・。
ナメクジやカタツムリが齧ると、キラキラした粘液の痕跡が残ったりするのですが、それがない場合が多いです。

行っても行っても収穫がある期間が続いたので、収穫が終わってしまって、心にぽっかり穴があいたよう・・。
秋果が待ち遠しいです。

畑に行くと、収穫はないのについ、ラズベリーのまわりをぐるぐる、ウロウロしてしまうのですが、
草刈とか、別のことをがんばらねば・・・・。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

砂漠のきのこ

2022-07-08 | ■カフジのこと

これまで書いたかどうか覚えていませんが、子供の頃、サウジアラビアのカフジというところに住んでいました。
まず父が赴任して、そのあと新婚の母が移動、そしてそこで私と弟が生まれたのでした。
学校は、小さいながらも日本人小学校がありました。

日本から遠く離れた僻地で、大人はどうだったのか分かりませんが、子供たちは全く不自由は感じず、楽しく暮らしていました。
最初からものがないところで育つと、そういうもんかな、となりますよね。
(大人たちは、「ないものは作る」ということになり、おはぎ、ケーキは勿論のこと、アル〇ールまで作っていました)

「小学〇年生」や「学研の化学/学習」など日本の文化が時々届いて、ワクワクしながら読んでいましたが、一度も見たことがないものが沢山で、想像がつかないものも多数
(ケーキのモンブランのにょろにょろと、あとクヌギのどんぐりのモシャモシャが謎だった)。
でもまあ、特に何かがなくて困った、ということはなかった気がします。

いろいろな思い出の断片は、心の中の「宝箱」にしまっておいたのですが、さて久々に開けて中身を見てみようか、と思ったら
大事にとっておきすぎて、風化してうまく読み取れない(思い出せない)くらいに。

むむ。
これが老化ということか。


写真があれば思い出せることも (そうでないことも)。
自分でも印象深く、そして読んで下さっている(食いしん坊の)方にちょっと面白そうな写真を実家にてみつけたのでご紹介します。

砂漠のキノコです。

砂漠のキノコ

1978年2月13日 カフジのきのこと、弟(幼稚園生)と私


アラビアでは、ファーガ、だったかな?
丸っこくて地下に出来るので、トリュフと呼ばれるようですが、トリュフはおかずというよりは、薬味みたいなものですよね。
このきのこは、ジャガイモくらいの大きさになって(写真のようにもっと大きいものも!)、外側を綺麗に掃除して(結構砂を噛んでる)、1cmくらいにスライスし、バター炒めでモリモリ食べました。
(他にもレシピがあるようですが、うちではもっぱらバター炒め)

父が、職場でこういうものに詳しい現地人に探し方を聞いたのだそうです。
☆特定の季節(写真に2月13日とあるので、冬か早春でしょうか。
 2月がどんな天気か覚えていないのですが、もちろん日本よりは暖かいもののアラビアなりに季節があったような)
☆ある程度雨が降ったあと
☆ある植物が生えているところの傍に出る
という感じでした。

家族4人で車でぶーん、と砂漠に行って(何も目印がなくて不安だったのを覚えています)、何もなさそうな地面をトボトボ観察していくと、お目当ての植物!そして地面にモッコリひび割れが!

そんなに沢山とれるものではなかったし、年によっては雨の具合か、全然みつからなかったりもしました。
なのでみつかると大喜び。

美味しいので、私も弟も大好きでした。
白と茶色では、微妙に味が違うのです。
交互に食べながら、うーん、白が好きかなあ、うーん、やっぱ茶色かなあ、と決めかねていたのを覚えています。
白の方があっさり目で、茶色は風味が濃かったような気がします。

味はですね。
割と密な感じで、歯切れがよくて、きのこの香りがしっかり。
シイタケのようなツルツル感ではなく、シメジのような繊維感もなく、均質にぽっくりしていたような(記憶朧気)。
似ているものは、マッシュルームのカサの部分、もしくはマコモタケがちょっと近いかな??


思い出の、幻の味だよなーと思って、検索もしないまま、心の中にしまってあったのですが、最近買った中近東料理の本に、記載がありました。
この本。

砂漠のキノコ
砂漠のキノコ

中にきのこの写真がまるまる1ページも!!
お店でも売られているのか!
(シリアでの写真のようです)

この本の、写真の左にあるコラム部分をDeeplで翻訳してみました。


トリュフといえば中東というイメージはあまりありませんが、私たちは地元でチャマと呼ばれるシリアの砂漠トリュフを探し求める使命がありました。ユーフラテス川周辺のメソポタミア遺跡から出土した楔形文字には、王が喜ぶようにと、砂漠トリュフを籠に入れて宮殿に送る様子が描かれているのだそうです。また、中世のアラブ人はチャマを珍味とみなし、初期の料理書にはトリュフを使った調理法が記載されています。
もちろん、フランスやイタリアで特定の種類の木の下で豚が鼻を鳴らして根こそぎ食べてしまうヨーロッパのトリュフとは別物です。シリアのトリュフは砂漠で育ち、オアシスの町パルミラ周辺で最も多く採れます。砂漠でトリュフを探すのは大変な作業に思えるかもしれませんが、ベドウィンは何世紀にもわたってこの作業を続けてきました。近くに生えているある特定の小さな草や、水ぶくれのように砂をかき乱す小さな凹凸など、その兆候をよく知っているのです。

ダマスカスの殉教者広場の近くにある野菜の屋台で、黒いゴムの籠に山盛りになった奇妙なきのこを発見した。朝届いたばかりで、まだ砂漠の砂にまみれている。屋台のおじさんが、愛おしそうにかごから1つ取って、私たちに渡してくれました。栗と小さな丸い芋を掛け合わせたような形だ。桶の中の水に浸かっているのを、若い人が一つずつ丁寧に取り出して、硬いブラシでこすってきれいにしていました。
ヨーロッパ産のトリュフと同じように、砂漠のトリュフにも黒と白の2種類があることを、老人は教えてくれた。白トリュフと黒トリュフがあり、黒トリュフが優れているとされているが、白トリュフも黒トリュフもヨーロッパ産に比べると辛味が少なく、マイルドである。チャマは串に刺して炭火で焼くのが一般的な調理法だが、実は前夜のエリサールでも同じような料理を楽しんだ。トリュフはキノコのような繊細な風味を持ち、ヒシの実と缶詰のマッシュルームの中間のような、面白い食感だった。屋台のおじさんは、トリュフをスライスしてニンニクと一緒にバターで炒めたものがお気に入りだと言っていた。ヨーロッパ産のトリュフほどではないが、チャマは高価なため、なかなか食べられないのが残念だ。シーズンの始めには、白トリュフが2ポンド(1キロ)あたり約16ドル、黒トリュフが20ドルで、ほとんどのシリア人にとって家計の大きな部分を占めているのだ。

TRUFFLES ARE NOT THE SORT OF THING YOU NORMALLY ASSOCIATE WITH THE MIDDLE EAST, but we were on a mission to track down Syrian desert truffles, known locally as chama. This variety has been considered a great delicacy since the early days of civilisation, cuneiform tablets excavated from Mesopotamian sites around the Euphrates River depict baskets of desert truffles being sent to the palace for the pleasure of the king. Chama were also considered a delicacy by medieval Arabs, and early culinary manuals contain references for preparing and cooking with truffles. Of course, this is a different kind of truffle from the European ones that are rooted out by snuffling pigs underneath certain kinds of trees in France and Italy: Syrian truffles grow in the desert, and most prolifically around the oasis town of Palmyra. Hunting for truffles in the desert might seem a thankless task, but the Bedouins have been doing it for centuries. They know the signs: the particular little weed that grows nearby and the tiny bumps that disturb the sand like little blisters. At a vegetable stall near Martyrs' Square in Damascus we spotted then a strange kind of funghi piled high in black rubber baskets. They had been delivered that morning and were still encrusted with desert sand. The old stallholder lovingly plucked one from a basket and handed it to us to inspect. It looked like a cross between a chestnut and a small round potato. A pile of them were soaking in a tub of water and a young man was carefully lifting them out, one at time, and scrubbing them clean with a stiff brush. The old man showed us that as with European truffles, there are two varieties of desert truffles: black and white. Similarly, the black ones are considered superior, but both are milder and less pungent than their European cousins. The most popular way of cooking chama is to skewer them and grill them over charcoal, and in fact we had enjoyed a very similar dish at Elissar the previous night. The truffles had a delicate mushroomy flavor and an interesting texture, something between water chestnuts and tinned mushrooms. The stallholder told us that his favorite way of eating them was sliced and fried with garlic in carified butter. Sadly, this was not a treat he could often enjoy as, while not quite in the same league as European truffles, chama are expensive. At the start of the season one could pay around US$16 per 2 lbs (1 kilo) for white truffles and US$20 for the black variety-a heft slice of the housekeeping budget for most Syrians.

 

Youtubeにも、キノコ掘りの動画がありました。
これを見ると雰囲気がよく分かるので、是非、部分だけでもご覧ください。
サウジアラビアの方の動画です。アラビア人の年齢は見ただけではよくわかりませんが、若い男性グループがわちゃわちゃと、とっても楽しそうで、見ているだけで微笑ましいです。
イスラム圏らしく、男性のみでの採集・屋外調理遊びのようです。
(男性のみなんだけど、調理や食卓の準備、コーヒーのセッティングなどなど、みんな手慣れてます)
私の記憶ではこんなにぽこぽこ見つかるものではなく、雨の具合なのか全く出ない年もあるし、出る年でもうんと探してボウル一杯程度だった気がします。
こんなにとれるところ行ってみたい・・・。


日本同様、地面に座る文化ですが、キャンプのときも、すてきなじゅうたん!
そして折り畳み座椅子と脇息みたいなものも、便利そうです。


こちらの動画の最後に、生まれたて?の子ラクダが出てきます。
で、その次のシーンで、ボウルに入った泡立ったものを飲んでいる人が。
おそらくラクダを飼っているベドウィンに頼んでラクダのミルクを分けてもらったのではないかと。
あちらでは、飲むミルクとしてはラクダ乳が一番格上とされるようです。
(でもってラクダ乳は基本的にチーズやバターなどへの加工はしない。近年ではラクダミルクチョコもありますが)



Desert Trufflesで検索すると、沢山の記事や写真が出てきます。例えばこのあたり。(ブラウザの翻訳機能を使うと大体意味が分かります)
https://www.arabnews.com/node/1807331/saudi-arabia
https://www.atlasobscura.com/articles/what-are-desert-truffles



中近東方面に旅行する機会はまずなさそうですが、あちら出身の人にもし出会うことがあれば、「砂漠のトリュフって知ってる?」って聞いてみたい気がします。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする