山田洋次監督作品は、寅さん映画の全編は勿論、殆ど見せてもらっているので、今度も遅ればせながら、近所のワーナーマイカルに出かけた。
もう上演後、日が経つので、小さな劇場に変わっていて、上演回数も減っているのだが、相変わらず人気は高い。
この映画は、出来過ぎた理想的な姉と、「わいみたいな、どないにもならんごんたくれの惨めな気持ちなんか分かってもらえへんのや」と言う箸も棒にも掛からない底抜けの馬鹿な弟の、切っても切れない姉弟の絆の物語である。
私は、前回の「母べえ」の鶴瓶を見て、恐らく、山田監督は、鶴瓶を使って映画を作ると思っていたのだが、的中した。
渥美清の寅さんが東京版なら、鶴瓶のしがない役者は、大阪版の寅さんなのである。
西田敏行を使って、寅さんの後を埋めるシリーズを作ろうとしたが、長続きしなかったのは、キャラクターが、全く違うからであった筈である。
尤も、この鶴瓶の寅さんは、TVの寅さんがハブに殺されたように、大阪の釜ヶ崎のホスピスで死んでしまったので、後はなさそうである。
この映画「おとうと」を見ていて、殆ど最初から最後まで、寅さんの映画とダブルイメージと言う感じで、リメイク版を見ているような気がしたのだが、同じ寅さんでも感動が夫々全く違うように、この映画も、全く新鮮で情感豊かな新しい感動を与えてくれて、実に爽やかである。
夫の死後、商店街の一角にある薬屋を経営している姉高野吟子(吉永小百合)が、女手一つで育てた一人娘小春(蒼井優)が、良縁を得てエリート医師と結婚式を挙げるのだが、飛び込んできた弟の鉄郎(鶴瓶)が式を台無しにするのは、寅さん第一作で、品に欠ける寅さんがさくらのお見合いをこわしてしまうのと同じパロディ調で、小春は離婚、さくらは見合い不調で、結局、最後には、身近で善良な庶民と結婚して幸せを掴むと言う流れになる。
どちらの映画も、一見上品で高級かつ上等だと思われる人々を、庶民の目線で引き摺り下ろして笑い飛ばしている点が面白いのだが、この「おとうと」は、徹頭徹尾、善人ばかりの庶民を描いており、その泣き笑いの人生が実に味わい深い。
この映画で小鳥が実に重要な小道具として使われていて、姉の家にも小鳥が飼われていてインテリアにも小鳥の絵が使われているのだが、姉に、オウムを飼って抱いて寝ているので口を突付かれ傷だらけだが、起きたら「おはよう、おはよう」と鳴くのだと語っていた鉄郎。
吟子は、鉄郎が、行き倒れになる最後に住んでいたぼろアパートの部屋を訪ねて、汚い部屋の中を、小鳥が放し飼いで飛び回っているのを知る。
他人から相手にされず、挫折ばかりの人生を歩んで来た鉄郎には、小鳥小屋のような住処が唯一の憩いの場であったのであろうか。
褒められたことも認められたこともない出来の悪い弟に、一度花を持たせてやろうと言う優しい亡き夫に説得されたのが、愛娘の名前。
名付け親となった場末のどさ回り役者の鉄郎の頭には、王将の坂田三吉の女房小春の名前しかない。
酔っ払ってマイクを取って王将をがなって結婚式を台無しにしてしまった叔父に付けられた名前だから、益々、名前が嫌いになった小春。
しかし、臨終間近と母に聞いて、恋人(加瀬亮)の車で深夜を車で大阪に突っ走る。
この映画の最後に、通天閣が見える大阪の鎌ヶ崎のどや街が出て来て、住人がエキストラ参加したとかで、世相が分かって興味深い。
その中に、行き場の無くなった鉄郎が、収容されて面倒を見てもらっている「みどりのいえ」がある。
東京の「きぼうのいえ」と言う非常にヒューマニズムに富んだ施設のようで、ここの所長の小日向文世と助手の石田ゆり子が、実に好演で良い味を出していて感動的である。
鉄郎は、寅さんと同じで、元気な時は、この施設でも人々を笑わせる人気者だったと言う。
鉄郎のベッドの壁とアパートに、栄光の思い出であろうか、鉄郎が国定忠治を演じた古ぼけた公演ビラが張ってあるのだが、この釜ヶ崎にも、大阪の芸人が住んでいて、ここにある演芸場で、笑いを忘れた人々を腹の底から笑わせて芸を磨いて、上って行くのだと聞いたことがある。
鉄郎が、ハレの場に出るのを皆が嫌うのは、吟子の夫の十三回忌に酒を飲んで大暴れしたことからだが、この映画の最後は、嫁いで行く小春との最後の夜でお別れの乾杯の時に、祖母(夫の母)絹代(加藤治子)が、亡くなったのを知らないので、これまでとは逆に、何時ものけ者にされていて、可哀想だから、鉄郎を呼んでやろうではないか、今からでも間に合うか、と言う。
ラストシーンは、吟子の吉永小百合が、立ち上がって、後ろの流し台に向かって立ったまま動かず、忍びなく姿を暗示するのだが、家族の絆と、厳粛なる生と死を突きつけて感動的である。
吉永小百合は、鶴瓶から、子供の頃の写真を数枚借りて、おとうとをイメージしたと言う。
遺伝子の悪戯か、あまりにも素晴らしい姉と、どうしようもないアホの弟と言った、あまりにも懸け離れ過ぎた有り得ないような姉弟関係が、この話を面白くしている。
やはり、吉永としては、血の繋がった肉親と言うことになると、全くキャラクターが違う鶴瓶との接点が掴み難くかったのかも知れないが、吉永小百合のイメージと、鶴瓶のイメージを大きく膨らませて、両方の良さを炙り出しながら人生をじっくり描き出し、必ず一本筋の通った感動を与えてくれる良質な泣き笑いの山田洋次の家族劇だからこそ出せた味であろう。
蒼井優は、蜷川幸雄の「オセロー」の舞台のデズデモーナで感激して以来だが、ずばり、適役で実に上手い。それに、恋人役の加瀬亮も良い。
加藤治子の存在感、山田映画では、出ずっぱりの笹野高史、ベテランの小林稔侍、森本レオなど、脇役陣の充実も素晴らしい。
(追記) 私事、都合により、2週間、ブログを休載。
もう上演後、日が経つので、小さな劇場に変わっていて、上演回数も減っているのだが、相変わらず人気は高い。
この映画は、出来過ぎた理想的な姉と、「わいみたいな、どないにもならんごんたくれの惨めな気持ちなんか分かってもらえへんのや」と言う箸も棒にも掛からない底抜けの馬鹿な弟の、切っても切れない姉弟の絆の物語である。
私は、前回の「母べえ」の鶴瓶を見て、恐らく、山田監督は、鶴瓶を使って映画を作ると思っていたのだが、的中した。
渥美清の寅さんが東京版なら、鶴瓶のしがない役者は、大阪版の寅さんなのである。
西田敏行を使って、寅さんの後を埋めるシリーズを作ろうとしたが、長続きしなかったのは、キャラクターが、全く違うからであった筈である。
尤も、この鶴瓶の寅さんは、TVの寅さんがハブに殺されたように、大阪の釜ヶ崎のホスピスで死んでしまったので、後はなさそうである。
この映画「おとうと」を見ていて、殆ど最初から最後まで、寅さんの映画とダブルイメージと言う感じで、リメイク版を見ているような気がしたのだが、同じ寅さんでも感動が夫々全く違うように、この映画も、全く新鮮で情感豊かな新しい感動を与えてくれて、実に爽やかである。
夫の死後、商店街の一角にある薬屋を経営している姉高野吟子(吉永小百合)が、女手一つで育てた一人娘小春(蒼井優)が、良縁を得てエリート医師と結婚式を挙げるのだが、飛び込んできた弟の鉄郎(鶴瓶)が式を台無しにするのは、寅さん第一作で、品に欠ける寅さんがさくらのお見合いをこわしてしまうのと同じパロディ調で、小春は離婚、さくらは見合い不調で、結局、最後には、身近で善良な庶民と結婚して幸せを掴むと言う流れになる。
どちらの映画も、一見上品で高級かつ上等だと思われる人々を、庶民の目線で引き摺り下ろして笑い飛ばしている点が面白いのだが、この「おとうと」は、徹頭徹尾、善人ばかりの庶民を描いており、その泣き笑いの人生が実に味わい深い。
この映画で小鳥が実に重要な小道具として使われていて、姉の家にも小鳥が飼われていてインテリアにも小鳥の絵が使われているのだが、姉に、オウムを飼って抱いて寝ているので口を突付かれ傷だらけだが、起きたら「おはよう、おはよう」と鳴くのだと語っていた鉄郎。
吟子は、鉄郎が、行き倒れになる最後に住んでいたぼろアパートの部屋を訪ねて、汚い部屋の中を、小鳥が放し飼いで飛び回っているのを知る。
他人から相手にされず、挫折ばかりの人生を歩んで来た鉄郎には、小鳥小屋のような住処が唯一の憩いの場であったのであろうか。
褒められたことも認められたこともない出来の悪い弟に、一度花を持たせてやろうと言う優しい亡き夫に説得されたのが、愛娘の名前。
名付け親となった場末のどさ回り役者の鉄郎の頭には、王将の坂田三吉の女房小春の名前しかない。
酔っ払ってマイクを取って王将をがなって結婚式を台無しにしてしまった叔父に付けられた名前だから、益々、名前が嫌いになった小春。
しかし、臨終間近と母に聞いて、恋人(加瀬亮)の車で深夜を車で大阪に突っ走る。
この映画の最後に、通天閣が見える大阪の鎌ヶ崎のどや街が出て来て、住人がエキストラ参加したとかで、世相が分かって興味深い。
その中に、行き場の無くなった鉄郎が、収容されて面倒を見てもらっている「みどりのいえ」がある。
東京の「きぼうのいえ」と言う非常にヒューマニズムに富んだ施設のようで、ここの所長の小日向文世と助手の石田ゆり子が、実に好演で良い味を出していて感動的である。
鉄郎は、寅さんと同じで、元気な時は、この施設でも人々を笑わせる人気者だったと言う。
鉄郎のベッドの壁とアパートに、栄光の思い出であろうか、鉄郎が国定忠治を演じた古ぼけた公演ビラが張ってあるのだが、この釜ヶ崎にも、大阪の芸人が住んでいて、ここにある演芸場で、笑いを忘れた人々を腹の底から笑わせて芸を磨いて、上って行くのだと聞いたことがある。
鉄郎が、ハレの場に出るのを皆が嫌うのは、吟子の夫の十三回忌に酒を飲んで大暴れしたことからだが、この映画の最後は、嫁いで行く小春との最後の夜でお別れの乾杯の時に、祖母(夫の母)絹代(加藤治子)が、亡くなったのを知らないので、これまでとは逆に、何時ものけ者にされていて、可哀想だから、鉄郎を呼んでやろうではないか、今からでも間に合うか、と言う。
ラストシーンは、吟子の吉永小百合が、立ち上がって、後ろの流し台に向かって立ったまま動かず、忍びなく姿を暗示するのだが、家族の絆と、厳粛なる生と死を突きつけて感動的である。
吉永小百合は、鶴瓶から、子供の頃の写真を数枚借りて、おとうとをイメージしたと言う。
遺伝子の悪戯か、あまりにも素晴らしい姉と、どうしようもないアホの弟と言った、あまりにも懸け離れ過ぎた有り得ないような姉弟関係が、この話を面白くしている。
やはり、吉永としては、血の繋がった肉親と言うことになると、全くキャラクターが違う鶴瓶との接点が掴み難くかったのかも知れないが、吉永小百合のイメージと、鶴瓶のイメージを大きく膨らませて、両方の良さを炙り出しながら人生をじっくり描き出し、必ず一本筋の通った感動を与えてくれる良質な泣き笑いの山田洋次の家族劇だからこそ出せた味であろう。
蒼井優は、蜷川幸雄の「オセロー」の舞台のデズデモーナで感激して以来だが、ずばり、適役で実に上手い。それに、恋人役の加瀬亮も良い。
加藤治子の存在感、山田映画では、出ずっぱりの笹野高史、ベテランの小林稔侍、森本レオなど、脇役陣の充実も素晴らしい。
(追記) 私事、都合により、2週間、ブログを休載。