熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

京都:能の旅~仏原&祇王:祇王寺

2015年11月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   私は、仏御前をシテとした能「仏原」も能「祇王」も鑑賞した経験はないのだが、学生時代から、最もしばしば訪れているのは、嵯峨野の祇王寺である。
   平家物語が愛読書であり、この祇王・祇女の姉妹と母の刀自、そして、仏が隠れ住んだ祇王寺と、その裏に隣接した滝口入道と横笛の悲恋の舞台である滝口寺を訪れては、先の小督の物語をも反芻しながら、嵐山や嵯峨野を歩いてきた。
   
   さて、これらの能「仏原」も能「祇王」も、この祇王寺を舞台にはしてはいないのだが、やはり、祇王や仏をイメージするためには、この嵯峨野の祇王寺しかなく、しかも、祇園精舎の鐘の声で始まる平家物語の悲劇の女性たちの息づく場所としては、恰好の場所であろう。
   建礼門院の能「大原御幸」の舞台である大原の里も、正に、そんなところである。
   私が歩き始めたのは、もう、ほぼ半世紀前で、祇王寺や滝口寺には、鬱蒼と茂った林を踏み分けて訪れなければならなかったし、祇王寺も賤が家の佇まいであったし、滝口寺などは、荒れ放題であったような記憶がある。
   大原もそうで、寂光院から三千院への道など、草木で埋もれていたように思うし、今から考えると、古き良き時代の素晴らしい日本の原風景を写せたように思えて、写真が残っていないのが、残念な気がしている。

  さて、能「仏原」の舞台は、加賀の国の仏原で、旅の僧が、出会った女に、「仏御前」の霊を弔ってくれと頼まれると言う話で、後場で、この女が仏御前の霊として登場して、白拍子姿で現れて、弔いに感謝し、仏道をきわめた悟りの境地を体現する舞を舞う。
   加賀は、仏御前の生地であり、一時は、清盛から逃れて、祇王を訪ねて、祇王寺に籠るのだが、清盛の子を身籠っていたので、尼寺での出産を憚って、加賀に帰って亡くなっている。
   
   能「祇王」は、かなり、平家物語に忠実に再現しており、
   清盛の寵愛を一身に集めて時めいていた白拍子の祇王が、清盛に門前払いを食っていた加賀の国からやってきた仏御前を清盛にとりなし、舞の衣装を着た祇王・仏御前の二人は、相舞を舞う。しかし、清盛の心は、仏御前に移って一人で舞えと命じるので、清盛の寵愛が仏御前に移った事を知った祇王は、暇乞いするが、仏御前に引き留められ、二人の友情に変わりがない事を誓う。と言うストーリーになっている。
   しかし、屈辱に耐えられなくなった祇王は、障子に、次の歌を書き残して、六波羅を去る。  
   萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき

   さて、壇林寺までは、普通の道が続いているのだが、祇王寺へは、急に狭くなって、竹林に隣接した祇王小路が門前まで上っている。
   この門からは入れなくて、観光客は、左に回って参拝口から入山する。
   
   

   境内に入ると、まず、祇王寺の草庵よりも、苔むした庭園の方に目が行くのだが、清楚で尼寺らしい優しい雰囲気が、実によい。
   楓の紅葉や祇王寺祇王桜の咲く頃には、美しいのであろう。
   
   
   

   草庵は、全く、小さな質素な庵で、仏間には、本尊の大日如来像を真ん中にして、左に、清盛、祇王、刀自、右に、祇女、仏の木像が安置されていて、東側に開けられた丸い吉野窓から、庭園が見えて美しい。
   写真禁止なので、HPの写真を借用する。
   
   

   境内を出たら、二時半を回っている。  
   本当は、能「定家」の時雨亭跡、能「百万」の釈迦堂も回りたかったのだが、これで急いでも、4時半伊丹発のJAL便に間に合うかどうかさえ危うい。
   幸い、大通りに出たら、タクシーが来たので、急いで阪急嵐山駅に向かった。
   南茨木で、モノレールに乗り継いで、空港に着いたのは、ぎりぎり。
   3回の乗り継ぎが、かなり、スムーズであったので間に合ったが、こんなことは、海外で頻繁に経験していたのを思い出して、冷や汗が出てきた。
コメント
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