夕刻に国立能楽堂で、定例公演があったので、少し、鎌倉を早く出て、国立演芸場の上席公演を聞いた。
トリは金馬で、今回は、一朝、金時、金八、朝之助などの落語のほかに、一龍齋貞水の講談や東屋浦太郎の浪曲、それに、とんぼとまさみの上方漫才、仙三郎社中の曲芸と言ったバラエティに富んだ演目で、楽しませてもらった。
高校生の団体が入っていたので、後は満席であったが、前の方は4分の入りで、やはり、横が最高裁判所で、繁華街にあるほかの寄席と違って、ついでに来たと言う客がいないので、こんなものかも知れない。
尤も、私も、特別な公演は別だが、ふつうは都合がついたら覗いてみようかと言う程度の落語ファンであるから偉そうなことは言えない。
さて、金馬は、「茶の湯」を語ったのだが、これは、最近、この演芸場で、談幸で聞いていて面白かった。
根岸へ引っ越してきた隠居が、まわりの趣味人の風流に影響されて、良くも知らない「茶の湯」を嗜もうとして、丁稚の定吉を相手にして、我流の奇天烈な茶の湯を催して、隣人などを巻こんで苦しめると言う話である。
その茶とは、青きな粉にムクの皮の粉で泡立たせたもので、それに、サツマイモを蒸してすりつぶし、糖蜜を練りこみ、抜け易いように灯用のともし油を塗った猪口を型に使って形を整えて作ったものを「利休饅頭」と称して菓子に代えて客に供するのであるから、たまったものではない。
私も、この3~4年で、結構、この演芸場に通っているのか、今回の演目では、朝之助の「強情灸」、金八の「権助魚」、金時の「天狗裁き」、一朝の「芝居の喧嘩」と言った古典落語や、それに、貞水の「細川の茶碗屋敷」も、少なくとも、夫々、一回以上は聞いている。
同じ噺でも、噺家によって、結構差があって面白いのだが、どうしても、前の噺と比較して聞いていて、何か、新鮮さなり面白さなり付加価値がないと、興ざめしてしまうのだが、これは仕方がない。
これが、オペラなら「カルメン」、歌舞伎なら「仮名手本忠臣蔵」と昔から言われているように、傑出した人気プログラムなら別であろうが、20分や30分くらいの比較的単純な噺の落語となると、どうしても、演題や噺家の魅力に引っ張られてしまうと言う事であろうか。
金馬は、若かりし頃のお笑い三人組を彷彿とさせる小金馬の表情よろしく、隠居にどうしようもない茶を飲まされて苦しむ客の姿を、あらん限りの表情を凝縮して顔を真っ赤にして熱演しており、全く衰えが見えない元気さには、驚嘆と言うべきか、もう、86の筈である。
談幸より丁寧に語っていて、長屋の住人が茶の湯に招待されて、作法など知らないので転宅しようとする話など加わっていて、面白かった。
講談の一龍斎 貞水は、人間国宝。
「細川の茶碗屋敷」の噺は、金原亭伯楽の「井戸の茶碗」、すなわち、落語バージョンで聞いていて知っている。
麻布茗荷谷に住むくず屋の正直清兵衛が、裏長屋に住む貧乏浪人の千代田卜斎の娘から仏像を買ったのだが、白金の細川家の家来・高木佐久左衛門に売る。高木が仏像を洗っていると、底の紙がはがれ、中から五十両の金が出てくる。高木は「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない。売り主に返してやれ」と言って、清兵衛に渡すが、卜斎は「売った仏像から何が出ようとも自分の物ではない」と受け取らない。中に入った家主の仲裁で、、「千代田様へ20両、高木様へ20両、苦労した清兵衛へ10両」と言う提案に、千代田はこれを断って受け取らないのだが、「20両の形に」という提案を受け、毎日使っていた汚い茶碗を形として、20両を受け取る。汚いままでは良くないと、茶碗を一生懸命磨くと、鑑定士がやってきて「青井戸の茶碗」という逸品だと鑑定する。細川家が、その茶碗を買い上げて、将軍綱吉に献上し、その礼に屋敷を賜ったため、その屋敷を巷では「茶碗屋敷」と呼ぶ。
これが、「細川の茶碗屋敷」と言う事だが、貞水の話は、その前で終わっている。 茶碗の一件がきっかけで細川家が仲介して、卜斎の旧来通りの仕官が叶い、親思いで器量よしの娘が、高木に嫁ぐと言う話になっており、娘は「今は裏長屋で粗末ななりだが、一生懸命磨けば、見違えるようになる」と言うのだが、「磨くのはよそう、小判が出るといけない」が落語のオチになっていると言う。
善人ばかりの素晴らしい人情話であり、こういう話だと、世の中も捨てたものではないと思えるのが良い。
さて、この演芸場のロビーだが、二階にあってこじんまりしたアットホームな雰囲気が良い。
売店も、何となく、庶民的なムードが漂っていて好ましい。


トリは金馬で、今回は、一朝、金時、金八、朝之助などの落語のほかに、一龍齋貞水の講談や東屋浦太郎の浪曲、それに、とんぼとまさみの上方漫才、仙三郎社中の曲芸と言ったバラエティに富んだ演目で、楽しませてもらった。
高校生の団体が入っていたので、後は満席であったが、前の方は4分の入りで、やはり、横が最高裁判所で、繁華街にあるほかの寄席と違って、ついでに来たと言う客がいないので、こんなものかも知れない。
尤も、私も、特別な公演は別だが、ふつうは都合がついたら覗いてみようかと言う程度の落語ファンであるから偉そうなことは言えない。
さて、金馬は、「茶の湯」を語ったのだが、これは、最近、この演芸場で、談幸で聞いていて面白かった。
根岸へ引っ越してきた隠居が、まわりの趣味人の風流に影響されて、良くも知らない「茶の湯」を嗜もうとして、丁稚の定吉を相手にして、我流の奇天烈な茶の湯を催して、隣人などを巻こんで苦しめると言う話である。
その茶とは、青きな粉にムクの皮の粉で泡立たせたもので、それに、サツマイモを蒸してすりつぶし、糖蜜を練りこみ、抜け易いように灯用のともし油を塗った猪口を型に使って形を整えて作ったものを「利休饅頭」と称して菓子に代えて客に供するのであるから、たまったものではない。
私も、この3~4年で、結構、この演芸場に通っているのか、今回の演目では、朝之助の「強情灸」、金八の「権助魚」、金時の「天狗裁き」、一朝の「芝居の喧嘩」と言った古典落語や、それに、貞水の「細川の茶碗屋敷」も、少なくとも、夫々、一回以上は聞いている。
同じ噺でも、噺家によって、結構差があって面白いのだが、どうしても、前の噺と比較して聞いていて、何か、新鮮さなり面白さなり付加価値がないと、興ざめしてしまうのだが、これは仕方がない。
これが、オペラなら「カルメン」、歌舞伎なら「仮名手本忠臣蔵」と昔から言われているように、傑出した人気プログラムなら別であろうが、20分や30分くらいの比較的単純な噺の落語となると、どうしても、演題や噺家の魅力に引っ張られてしまうと言う事であろうか。
金馬は、若かりし頃のお笑い三人組を彷彿とさせる小金馬の表情よろしく、隠居にどうしようもない茶を飲まされて苦しむ客の姿を、あらん限りの表情を凝縮して顔を真っ赤にして熱演しており、全く衰えが見えない元気さには、驚嘆と言うべきか、もう、86の筈である。
談幸より丁寧に語っていて、長屋の住人が茶の湯に招待されて、作法など知らないので転宅しようとする話など加わっていて、面白かった。
講談の一龍斎 貞水は、人間国宝。
「細川の茶碗屋敷」の噺は、金原亭伯楽の「井戸の茶碗」、すなわち、落語バージョンで聞いていて知っている。
麻布茗荷谷に住むくず屋の正直清兵衛が、裏長屋に住む貧乏浪人の千代田卜斎の娘から仏像を買ったのだが、白金の細川家の家来・高木佐久左衛門に売る。高木が仏像を洗っていると、底の紙がはがれ、中から五十両の金が出てくる。高木は「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない。売り主に返してやれ」と言って、清兵衛に渡すが、卜斎は「売った仏像から何が出ようとも自分の物ではない」と受け取らない。中に入った家主の仲裁で、、「千代田様へ20両、高木様へ20両、苦労した清兵衛へ10両」と言う提案に、千代田はこれを断って受け取らないのだが、「20両の形に」という提案を受け、毎日使っていた汚い茶碗を形として、20両を受け取る。汚いままでは良くないと、茶碗を一生懸命磨くと、鑑定士がやってきて「青井戸の茶碗」という逸品だと鑑定する。細川家が、その茶碗を買い上げて、将軍綱吉に献上し、その礼に屋敷を賜ったため、その屋敷を巷では「茶碗屋敷」と呼ぶ。
これが、「細川の茶碗屋敷」と言う事だが、貞水の話は、その前で終わっている。 茶碗の一件がきっかけで細川家が仲介して、卜斎の旧来通りの仕官が叶い、親思いで器量よしの娘が、高木に嫁ぐと言う話になっており、娘は「今は裏長屋で粗末ななりだが、一生懸命磨けば、見違えるようになる」と言うのだが、「磨くのはよそう、小判が出るといけない」が落語のオチになっていると言う。
善人ばかりの素晴らしい人情話であり、こういう話だと、世の中も捨てたものではないと思えるのが良い。
さて、この演芸場のロビーだが、二階にあってこじんまりしたアットホームな雰囲気が良い。
売店も、何となく、庶民的なムードが漂っていて好ましい。


