1964年に、英語版で見たのだが、今回NHK BSで放映されたのは、2003年の『山猫―イタリア語・完全復元版』(187分)。
感動的な映画であったという印象はあるのだが、アンジェリカ 役のクラウディア・カルディナーレがはしたなくも笑い転げて晩餐会を台無しにしたところとか、ドン・ファブリツィオ(サリーナ公爵)のバート・ランカスターとのワルツを優雅に舞うダンスシーンとか、断片的な記憶しか残っていないのだが、歴史の風雪を噛みしめながら時代の潮流に取り残されて消えて行く貴族の寂しさが妙に胸を締め付けたのを思い出す。
ここで描かれている時代は、19世紀のイタリア統一時代で、ウィキペディアを借用すると、
1860年にジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊はシチリア島西海岸のマルサーラ近くに上陸、シチリア島を占領し、ついでイタリア半島に渡って両シチリア王国の首都ナポリを奪取した。ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上、翌1861年に成立するイタリア王国へシチリア島は統合された。
これは、シチリアのパレルモ近郊の“山猫”の紋章を持つ名家サリーナ公爵のドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)を主人公とした映画で、
ガリバルディの革命後、パレルモに、イタリア王国からの代理人がやって来て、公爵の歴史的社会的存在の重さや、人格的高潔さなどを高く評価して、シチリア代表の貴族院議員に推薦したいと言ってきたのだが、古い伝統と柵の中でしか生きられない自分には相応しくないと断わる。悲惨なシチリアの現状を変えなくても良いのかと懇願されるが、「シチリアは変化を望まない、求めるのは深い眠りだ」と固辞し、代わりにセダーラ市長を推薦する。俗物の推薦に眉を顰める代理人の表情が面白い。
公爵とその家族は、近隣の公爵の主催する大舞踏会に招かれ、甥のタンクレディと婚約者アンジェリカ、セダーラも参加し、大勢の貴族たち、それに、イタリア王国軍の将校たちも集って豪華絢爛たる大パーティが繰り広げられる。
時代の潮流の激しさに疲れを感じた公爵は、誰もいない別室で休憩を取りながら、壁に飾られていたグルーズの絵画“正義の死”を見て不吉な予感を感じて、そこへ入ってきたタンクレディとアンジェリカに、「私も死ぬときはこんなものか」と呟く。
その後、アンジェリカが、舞踏の名手として名を馳せた公爵なので、一緒に踊って欲しいと頼んだので、ファブリツィオはワルツならばと受け入れる。二人は、大勢の人々の前で、軽快にステップを踏み、流れるように優雅な踊りを披露して、人々を魅了する。
舞踏会も終わり、公爵は、誰もいない部屋に入って一人佇む。ひとしずくの涙が頬をつたう。タンクレディや家族らを、馬車で先に帰路に就かせて、自分は一人で荒れ果てた街の夜道を歩き始め、教会の前の路上にゆっくりと跪く。星空を見上げて、「星よ誠実な星よ。いつ つかの間ではないときをもたらす? すべてをはなれ お前の永遠の確かさの土地。」と唱える。ゆっくりと立ち上がって、薄暗い路地に消えて行く。FINE
一時代の終わり、黄昏の憂愁と没落の悲しさを全身で表現するバート・ランカスターの後ろ姿が実に切ない。

もう一方の主役、野心家の公爵の甥であるタンクレディ(アラン・ドロン)は、ガリバルディの赤シャツ隊に入隊して将校となり、赤シャツ隊が解散すると、早々にイタリア王国正規軍の将校に転身するのだが、ドンナ・フガータ市長のドン・カロージェロ・セダーラ(パオロ・ストッパ)の娘アンジェリカと恋に落ちる。
セダーラは革命を利用して成り上がった強欲な成金だと揶揄されているのだが、公爵は、裕福で美人であるアンジェリカこそがタンクレディの結婚相手に相応しいと考えて、貴族の名を汚すと反対する妻マリアを押し切って結婚の準備を進める。タンクレディに恋する自分の娘のコンセッタ(ルッチラ・モルラッキ)では、資産も知れており、タンクレディの野望を叶えるためには不相応だと蹴って、時流にさかしく便乗して富と力を築いた新興成金に賭けざるを得ない公爵の哀感を、ランカスターは、実に感動的に演じている。

監督は、ルキノ・ヴィスコンティ、モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone)
レッキトシタ伯爵であるから、このような豪華絢爛たる美の極致とも言うべき舞台を描き得たのは当然であろう。
イタリア語が分からないので、この映画の本当の凄さを理解出来ずに見過ごしているかも知れないのだが、度肝を抜くような豪華で華麗極まりない貴族生活を活写して、イタリア文化文明の真骨頂を叩き付けられた感じであり、逆に、土の香りがするような貧しくてうらぶれたシチリアの田舎風景を織り交ぜながら、時代の激動の一瞬を切り取って、イタリアの偉大さを見たような思いで感動している。
音楽は、ニーノ・ロータであるから文句なしに素晴しい、それに、ジュゼッペ・ヴェルディ(ピアノのための『ワルツへ長調』を編曲)
指揮はフランコ・フェラーラ、演奏はサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
撮影はジュゼッペ・ロトゥンノ、フェデリコ・フェリーニの作品を多く手がけた名撮影監督と言うから、これだけ凄く美しい映像美を表現できたのであろう。
この映画は、まさに名優であることを知らしめたバート・ランカスターとアラン・ドロンと言う外国人俳優を主役にした貴重な名作だが、イタリア語は吹き替えだと言う。 心地よく鉄砲玉のように飛出す早口のイタリア語の感覚とは違って、私が観た英語版だと、大分ニュアンスなり印象がちがっていたかも知れない。
クラウディア・カルディナーレが、実に美しくて魅力的な女優であることを再発見して嬉しかった。
市長のドン・カロージェロ・セダーラのパオロ・ストッパ、ピローネ神父のロモロ・ヴァリ、使用人チッチョのセルジュ・レジアニ、などの脇役陣が芸達者で面白かった。
(追記)写真は、ビデオから撮ったのだが、鮮明でないので、「凸凹 Library」から借用させてもらった。
感動的な映画であったという印象はあるのだが、アンジェリカ 役のクラウディア・カルディナーレがはしたなくも笑い転げて晩餐会を台無しにしたところとか、ドン・ファブリツィオ(サリーナ公爵)のバート・ランカスターとのワルツを優雅に舞うダンスシーンとか、断片的な記憶しか残っていないのだが、歴史の風雪を噛みしめながら時代の潮流に取り残されて消えて行く貴族の寂しさが妙に胸を締め付けたのを思い出す。
ここで描かれている時代は、19世紀のイタリア統一時代で、ウィキペディアを借用すると、
1860年にジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊はシチリア島西海岸のマルサーラ近くに上陸、シチリア島を占領し、ついでイタリア半島に渡って両シチリア王国の首都ナポリを奪取した。ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上、翌1861年に成立するイタリア王国へシチリア島は統合された。
これは、シチリアのパレルモ近郊の“山猫”の紋章を持つ名家サリーナ公爵のドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)を主人公とした映画で、
ガリバルディの革命後、パレルモに、イタリア王国からの代理人がやって来て、公爵の歴史的社会的存在の重さや、人格的高潔さなどを高く評価して、シチリア代表の貴族院議員に推薦したいと言ってきたのだが、古い伝統と柵の中でしか生きられない自分には相応しくないと断わる。悲惨なシチリアの現状を変えなくても良いのかと懇願されるが、「シチリアは変化を望まない、求めるのは深い眠りだ」と固辞し、代わりにセダーラ市長を推薦する。俗物の推薦に眉を顰める代理人の表情が面白い。
公爵とその家族は、近隣の公爵の主催する大舞踏会に招かれ、甥のタンクレディと婚約者アンジェリカ、セダーラも参加し、大勢の貴族たち、それに、イタリア王国軍の将校たちも集って豪華絢爛たる大パーティが繰り広げられる。
時代の潮流の激しさに疲れを感じた公爵は、誰もいない別室で休憩を取りながら、壁に飾られていたグルーズの絵画“正義の死”を見て不吉な予感を感じて、そこへ入ってきたタンクレディとアンジェリカに、「私も死ぬときはこんなものか」と呟く。
その後、アンジェリカが、舞踏の名手として名を馳せた公爵なので、一緒に踊って欲しいと頼んだので、ファブリツィオはワルツならばと受け入れる。二人は、大勢の人々の前で、軽快にステップを踏み、流れるように優雅な踊りを披露して、人々を魅了する。
舞踏会も終わり、公爵は、誰もいない部屋に入って一人佇む。ひとしずくの涙が頬をつたう。タンクレディや家族らを、馬車で先に帰路に就かせて、自分は一人で荒れ果てた街の夜道を歩き始め、教会の前の路上にゆっくりと跪く。星空を見上げて、「星よ誠実な星よ。いつ つかの間ではないときをもたらす? すべてをはなれ お前の永遠の確かさの土地。」と唱える。ゆっくりと立ち上がって、薄暗い路地に消えて行く。FINE
一時代の終わり、黄昏の憂愁と没落の悲しさを全身で表現するバート・ランカスターの後ろ姿が実に切ない。

もう一方の主役、野心家の公爵の甥であるタンクレディ(アラン・ドロン)は、ガリバルディの赤シャツ隊に入隊して将校となり、赤シャツ隊が解散すると、早々にイタリア王国正規軍の将校に転身するのだが、ドンナ・フガータ市長のドン・カロージェロ・セダーラ(パオロ・ストッパ)の娘アンジェリカと恋に落ちる。
セダーラは革命を利用して成り上がった強欲な成金だと揶揄されているのだが、公爵は、裕福で美人であるアンジェリカこそがタンクレディの結婚相手に相応しいと考えて、貴族の名を汚すと反対する妻マリアを押し切って結婚の準備を進める。タンクレディに恋する自分の娘のコンセッタ(ルッチラ・モルラッキ)では、資産も知れており、タンクレディの野望を叶えるためには不相応だと蹴って、時流にさかしく便乗して富と力を築いた新興成金に賭けざるを得ない公爵の哀感を、ランカスターは、実に感動的に演じている。

監督は、ルキノ・ヴィスコンティ、モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone)
レッキトシタ伯爵であるから、このような豪華絢爛たる美の極致とも言うべき舞台を描き得たのは当然であろう。
イタリア語が分からないので、この映画の本当の凄さを理解出来ずに見過ごしているかも知れないのだが、度肝を抜くような豪華で華麗極まりない貴族生活を活写して、イタリア文化文明の真骨頂を叩き付けられた感じであり、逆に、土の香りがするような貧しくてうらぶれたシチリアの田舎風景を織り交ぜながら、時代の激動の一瞬を切り取って、イタリアの偉大さを見たような思いで感動している。
音楽は、ニーノ・ロータであるから文句なしに素晴しい、それに、ジュゼッペ・ヴェルディ(ピアノのための『ワルツへ長調』を編曲)
指揮はフランコ・フェラーラ、演奏はサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
撮影はジュゼッペ・ロトゥンノ、フェデリコ・フェリーニの作品を多く手がけた名撮影監督と言うから、これだけ凄く美しい映像美を表現できたのであろう。
この映画は、まさに名優であることを知らしめたバート・ランカスターとアラン・ドロンと言う外国人俳優を主役にした貴重な名作だが、イタリア語は吹き替えだと言う。 心地よく鉄砲玉のように飛出す早口のイタリア語の感覚とは違って、私が観た英語版だと、大分ニュアンスなり印象がちがっていたかも知れない。
クラウディア・カルディナーレが、実に美しくて魅力的な女優であることを再発見して嬉しかった。
市長のドン・カロージェロ・セダーラのパオロ・ストッパ、ピローネ神父のロモロ・ヴァリ、使用人チッチョのセルジュ・レジアニ、などの脇役陣が芸達者で面白かった。
(追記)写真は、ビデオから撮ったのだが、鮮明でないので、「凸凹 Library」から借用させてもらった。