この本は、暦年風に小泉和裕の履歴を追うのではなくて、思い出に残る数々の逸話を小文に綴り合わせて紡ぎ上げたエッセイ集なので、筆者自身の生き様や心の軌跡や人生観、指揮者としての音楽観などがビビッドに描かれていて、非常に面白い。
小泉さんの指揮した公演には、新日本フィルや都響などを含めて、年に1~2回としても、少なくとも20回以上は行っていると思う。
意識せずに、聴いていたのだが、この本のお陰で、これからは、もう少し余裕を持って真面目に鑑賞出来そうである。
この本で興味を持ったのは、著者の自然観で、自宅は、飛騨古川の草深い田舎の、元は養蚕農家だった築100余年の古民家で、かって蚕棚のあった二階には舞台を設けて小さな演奏会が出来るようになっていて、家の周りには田んぼも畑もあり、仕事の休みの時にはなるべく自分で野菜の種を蒔いているのだという。
音楽家にとって、自然の中での暮らしは、生活上の安らぎだけを意味するわけではなく、専門にしている17~19世紀のクラシック音楽は、自然の中で生まれてきたことは確かである。バッハも、モーツアルトも、ベートーヴェンも、マーラーも、作曲家の誰もが自然から啓発されて音楽を作ってきた。と言う。
毎日音楽ばかりでは成長がなく、成長するのはその間の、休んでいるときで、リフレッシュするために、唐津で海の生活を、飛騨古川で山の生活を楽しみ自然に浸る、そうした切り替えが一番の健康法で、趣味と言えば趣味である。
指揮者として、これから如何に自分の内面を成熟させていくかが課題の第二段階では、たとえ西洋音楽を専門にしていても、一年中ヨーロッパに住む必要はない、しかし、自然の中で生きねばならない、と言うことだけは確かである。と語っている。
言おうとしても出来ない、指揮をしようとしても出来ない、何か他の力でないと出来ない、そんな時、
飛騨古川の山里で眼前に広がる山々の夕映えをじっと見ていると、なんだか出来そうな気持ちになってくる、きっとできる、何かがやらせてくれる、この土地は何かそう言う力を与えてくれる場所のようだ、と言う。
カナダのウィニペグ交響楽団の音楽監督の時には、自宅に和風庭園も設え、ワインを自家製したりする自然派で、古川での畑や田んぼ仕事は勿論、唐津焼を焼けば、料理にも腕を振るうと言った多才な生活も披露していて、自分にはもの創りの楽しさが全てでしょうと述べている。
興味深いのは
音楽をやること自体が趣味のように、遊びのようになればと思っている。つまり、いい意味で緊張感がなく、自然に音楽の世界に入り込める状態が大切だと思う。音楽を特別なものとして捉えるのでなく、普段の生活そのものが全て音楽に繋がるということである。生活と仕事が遊びのように思えたら最高である。と言う。
昔、小澤征爾のドキュメントをテレビで見ていて、早朝、真っ暗な時間に起きて総譜を勉強しながら、毎日が、このエッヂを歩いているようなもので、何時、奈落に転落するか分からないと、机の縁に指を這わせながら語っていたのを思い出す。
小澤征爾は、いつも、決死の覚悟でバトンを振っていたのだろうと思っている。
さて、小泉さんは、
音楽は言語や文化、社会や時代の違いを越えて、そのまま胸の内に入り込み、こころを揺り動かします。それが音楽の素晴らしさです。音楽から受けた感動は記憶の奥に刻まれ、ずっと残るものだと思います。カラヤンが話していたように「音楽はわれわれ人間を高みへ引き上げてくれるもの」、心を高めてくれるものなのです。語っている。
音楽は、時空を越えて、万人に共通に響く芸術であるが故に、私には、翻訳で伝わる文學や、芝居やオペラ、そして、絵画や彫刻などよりは、難しくて理解に苦しんでいる。音楽が分かるのかと聞かれれば、分からないと答える以外にない。
と言っても、音楽を理解するとか分かると言うことがどう言うことなのかと言うことなのだが、楽譜が読めない、音楽的な解説や音楽評論などが理解できない、と言った基本的な知識に欠けるので、要するに、プログラムなどの説明を額面通りに受け取れないと言うことである。
しかし、クラシック音楽に興味を持ち始めてからは、訪日するトップアーティストのコンサートにせっせと通い、欧米生活が長かったお陰で、最高峰の音楽を十分以上に鑑賞し続けてきた。これは、好きであったからである。
今でも、コロナ騒ぎで、これまで通い詰めていた日本の古典芸能の鑑賞少し少し足が遠のいてしまったが、音楽鑑賞は続け始めたので、やはり、クラシック音楽鑑賞は、私には一番の趣味なのである。
要するに、分かっても分からなくても、劇場や音楽会場で、聴いていて、楽しいと感じて聴いておれば、それで良いのだと言うのが結論である。
小泉さんの指揮した公演には、新日本フィルや都響などを含めて、年に1~2回としても、少なくとも20回以上は行っていると思う。
意識せずに、聴いていたのだが、この本のお陰で、これからは、もう少し余裕を持って真面目に鑑賞出来そうである。
この本で興味を持ったのは、著者の自然観で、自宅は、飛騨古川の草深い田舎の、元は養蚕農家だった築100余年の古民家で、かって蚕棚のあった二階には舞台を設けて小さな演奏会が出来るようになっていて、家の周りには田んぼも畑もあり、仕事の休みの時にはなるべく自分で野菜の種を蒔いているのだという。
音楽家にとって、自然の中での暮らしは、生活上の安らぎだけを意味するわけではなく、専門にしている17~19世紀のクラシック音楽は、自然の中で生まれてきたことは確かである。バッハも、モーツアルトも、ベートーヴェンも、マーラーも、作曲家の誰もが自然から啓発されて音楽を作ってきた。と言う。
毎日音楽ばかりでは成長がなく、成長するのはその間の、休んでいるときで、リフレッシュするために、唐津で海の生活を、飛騨古川で山の生活を楽しみ自然に浸る、そうした切り替えが一番の健康法で、趣味と言えば趣味である。
指揮者として、これから如何に自分の内面を成熟させていくかが課題の第二段階では、たとえ西洋音楽を専門にしていても、一年中ヨーロッパに住む必要はない、しかし、自然の中で生きねばならない、と言うことだけは確かである。と語っている。
言おうとしても出来ない、指揮をしようとしても出来ない、何か他の力でないと出来ない、そんな時、
飛騨古川の山里で眼前に広がる山々の夕映えをじっと見ていると、なんだか出来そうな気持ちになってくる、きっとできる、何かがやらせてくれる、この土地は何かそう言う力を与えてくれる場所のようだ、と言う。
カナダのウィニペグ交響楽団の音楽監督の時には、自宅に和風庭園も設え、ワインを自家製したりする自然派で、古川での畑や田んぼ仕事は勿論、唐津焼を焼けば、料理にも腕を振るうと言った多才な生活も披露していて、自分にはもの創りの楽しさが全てでしょうと述べている。
興味深いのは
音楽をやること自体が趣味のように、遊びのようになればと思っている。つまり、いい意味で緊張感がなく、自然に音楽の世界に入り込める状態が大切だと思う。音楽を特別なものとして捉えるのでなく、普段の生活そのものが全て音楽に繋がるということである。生活と仕事が遊びのように思えたら最高である。と言う。
昔、小澤征爾のドキュメントをテレビで見ていて、早朝、真っ暗な時間に起きて総譜を勉強しながら、毎日が、このエッヂを歩いているようなもので、何時、奈落に転落するか分からないと、机の縁に指を這わせながら語っていたのを思い出す。
小澤征爾は、いつも、決死の覚悟でバトンを振っていたのだろうと思っている。
さて、小泉さんは、
音楽は言語や文化、社会や時代の違いを越えて、そのまま胸の内に入り込み、こころを揺り動かします。それが音楽の素晴らしさです。音楽から受けた感動は記憶の奥に刻まれ、ずっと残るものだと思います。カラヤンが話していたように「音楽はわれわれ人間を高みへ引き上げてくれるもの」、心を高めてくれるものなのです。語っている。
音楽は、時空を越えて、万人に共通に響く芸術であるが故に、私には、翻訳で伝わる文學や、芝居やオペラ、そして、絵画や彫刻などよりは、難しくて理解に苦しんでいる。音楽が分かるのかと聞かれれば、分からないと答える以外にない。
と言っても、音楽を理解するとか分かると言うことがどう言うことなのかと言うことなのだが、楽譜が読めない、音楽的な解説や音楽評論などが理解できない、と言った基本的な知識に欠けるので、要するに、プログラムなどの説明を額面通りに受け取れないと言うことである。
しかし、クラシック音楽に興味を持ち始めてからは、訪日するトップアーティストのコンサートにせっせと通い、欧米生活が長かったお陰で、最高峰の音楽を十分以上に鑑賞し続けてきた。これは、好きであったからである。
今でも、コロナ騒ぎで、これまで通い詰めていた日本の古典芸能の鑑賞少し少し足が遠のいてしまったが、音楽鑑賞は続け始めたので、やはり、クラシック音楽鑑賞は、私には一番の趣味なのである。
要するに、分かっても分からなくても、劇場や音楽会場で、聴いていて、楽しいと感じて聴いておれば、それで良いのだと言うのが結論である。