
第3部の夜の部は、久しぶりに「満員御礼」の札がかかっていたが、演目は、八段目「道行旅路の嫁入」から、十一段目の「花水橋引揚の段」までで、討ち入りの段は省略されているが、それでも通し狂言は、終演は9時25分、朝10時30分の開演であるから丸一日の舞台である。
前回と違って、玉男と第一部と第二部で素晴らしい由良助を遣った簔助を欠いた舞台であったが、至芸とも言うべき文雀の戸無瀬が、住大夫の名調子に乗って人の悲しさ崇高さを演じてくれた、やはり、人間国宝の舞台は感動的である。
次代を背負う由良助の桐竹勘十郎、妻お石の吉田和生、そして、加古川本蔵の吉田玉女の3人の蝶々ハッシの息もつかせぬ人形遣いが舞台を圧倒する。しっかりと3人の人間国宝の一番弟子として芸を継承しているのである。
特に今回の戸無瀬の文雀とお石の和生との師弟コンビによる激しくも悲しい女の戦いの迫力は感動ものであった。
吉田清之助の娘小浪の何と初々しく可憐で健気なことか、そして、吉田簔二郎の大星力弥の凛々しさが舞台に華を添える。
本来は、文楽を聴くと言うのであろうが、玉男と簔助の近松の人形に魅せられて文楽に興味を持ったので、どうしてもまだ文楽を観ると言う段階だが、人間国宝竹本住大夫(三味線野澤錦糸)の舞台だけは、文楽を聴くと言う気持ちで接している。
この山科閑居の段は、師匠山城少掾さえやったことのない大曲で、声柄ではなく適していないと思ってずっと断っていたが平成10年に国立文楽劇場に口説かれて全編ではなく前切だけ引き受けたと言うが、その再演を12年の国立劇場(小)で聴いているので今回が2回目である。
この前切は、世話物風で女が主役の舞台であるが後半の後奥を豊竹咲大夫(三味線野澤燕三)の素晴らしい名演が続き、豪快な本蔵と重厚沈着な由良助の男の世界を巧みに演じて大詰めを迎える。
この舞台ほど、浄瑠璃の素晴らしを感じさせてくれる世界も少ないと思うが、それに引き摺られて人形が実に感動的な人間像を演じてくれる。
前の「道行旅路の嫁入の段」で、前半は富士を後半は琵琶湖をバックにした舞台で、戸無瀬と小浪の山科への道行きが演じられるが、この山科閑居の段では、やっと探し当てて山科の大星亭に着いた二人が力弥との祝言を願うが、お石に主君の仇・師直殺害の邪魔をした「へつらい武士」の娘は嫁に出来ぬと断られる。
願いが叶えられず、死の決心をした二人の心底を察してお石は祝言を許すが、婿への引き出物として本蔵の首を所望する。
結末を予測していた本蔵が、屋敷を訪れて力弥に槍で突かれて本心を伝えて引き出物に師直家の絵図面を渡してこときれる。
塩谷判官の師直闇討ちを後から押さえて止めたことは、塩谷側にしてみれば最も憎むべき仕業だが、「相手死せずば切腹には及ぶまじ、抱き止めたは思い過ごし・・・」と苦渋の中から語る本蔵の心は判官思ってこその行為。
お石が悪口雑言を籠めて戸無瀬に小浪との祝言を拒むのは、主君あだ討ちの為に死んで行く息子の嫁にして不幸にさせたくない親心。
そんなことどもが、後半大詰めで明らかになって行くのだが、忠臣蔵の感動のエッセンスを脚色して凝縮した形で感動の舞台を作り上げた竹田出雲達作家の技量に感服する。
ところで、住大夫の語りであるが、戸無瀬と小浪の母娘の肺腑を抉るような情のうねり、力弥を思う母親お石の愛情、戸無瀬とお石の熾烈を極めた女の意地と道理の応酬。最初は、京見物などの穏やかな話から入っていって徐々に険悪になって行き、人間としてどうしようもない限界まで追い詰められて行く人間模様を実に感動的に語って行く。
戸無瀬とお石が同じ首の「老女形」なので、語り分けが難しいが、お石の方を少しテンポを早めにして、戸無瀬を少し緩めに語る。妻として母として女としての情愛をどれだけ出して伝えるか、精神的にも体力的にもしんどいと言う。
小浪については、先代寛治師匠から何度も「小浪は処女でっせ」と言われて駄目だしが出たようで、「可愛らしゅう聞こえるよう語らないけません」、気を使いますとも言う。
お石に一方的に嫁だと言うなら離縁すると言って座を蹴られると、小浪の身を切るような苦衷の口説きが始まるが、この哀切極まりない小浪のいじらしくも切ない語りを住大夫は、観客の胸にかみそりを当てて鮮血を迸り出させる。
「折角思い思われて許婚した力弥様に、逢せてやろとのお詞を頼りに思うて来たものを。姑御の胴欲に去られる覚え私やない。母様どうぞ詫び言して祝言させて下さいませ・・・
・・・力弥様よりほかに余の殿御、わしゃいやいやいや」
義理の娘ゆえに筋を通せぬ苦衷に耐えかねた戸無瀬が死ぬ覚悟をすると小浪は「殿御に嫌われ私こそ死すべき筈。・・・ここで死ぬれば本望じゃ。早う殺して下さりませ」とかき口説く。
感極まった戸無瀬が、「ヲヲ、よう云いやった。でかしゃった、でかしゃた、でかしゃた、・・・・・」と小浪をしっかとかき抱いて号泣する。
文雀の戸無瀬と清之助の小浪の感動的な名演を片目で追いながら、住大夫の何度も繰り返される感極まった「でかしゃった、でかしゃた」と泣き叫ぶ表情を追う。
少し前に観た玉三郎の戸無瀬と菊之助の小浪の美しくも感動的な歌舞伎の舞台が眼前に彷彿とする。
住大夫は、
「大夫はその人物になりきったらあきまへん。役者さんは、一人一役でその人物になりきればよろしいでしょうが、大夫は、ナレーターや登場人物も語らないきません。なりきる一歩手前で転換していくのです。その転換は声では変りません。イキですね。」
「浄瑠璃の場合、その声が出ないというのは勉強不足で、悪声でも、耳うつりの良い声が出るように努力するのです。出ない声はおまへんなぁ。」と語っている。
聴き手を感動させる為には大変な稽古と弛まない修練なのであろう。
前回と違って、玉男と第一部と第二部で素晴らしい由良助を遣った簔助を欠いた舞台であったが、至芸とも言うべき文雀の戸無瀬が、住大夫の名調子に乗って人の悲しさ崇高さを演じてくれた、やはり、人間国宝の舞台は感動的である。
次代を背負う由良助の桐竹勘十郎、妻お石の吉田和生、そして、加古川本蔵の吉田玉女の3人の蝶々ハッシの息もつかせぬ人形遣いが舞台を圧倒する。しっかりと3人の人間国宝の一番弟子として芸を継承しているのである。
特に今回の戸無瀬の文雀とお石の和生との師弟コンビによる激しくも悲しい女の戦いの迫力は感動ものであった。
吉田清之助の娘小浪の何と初々しく可憐で健気なことか、そして、吉田簔二郎の大星力弥の凛々しさが舞台に華を添える。
本来は、文楽を聴くと言うのであろうが、玉男と簔助の近松の人形に魅せられて文楽に興味を持ったので、どうしてもまだ文楽を観ると言う段階だが、人間国宝竹本住大夫(三味線野澤錦糸)の舞台だけは、文楽を聴くと言う気持ちで接している。
この山科閑居の段は、師匠山城少掾さえやったことのない大曲で、声柄ではなく適していないと思ってずっと断っていたが平成10年に国立文楽劇場に口説かれて全編ではなく前切だけ引き受けたと言うが、その再演を12年の国立劇場(小)で聴いているので今回が2回目である。
この前切は、世話物風で女が主役の舞台であるが後半の後奥を豊竹咲大夫(三味線野澤燕三)の素晴らしい名演が続き、豪快な本蔵と重厚沈着な由良助の男の世界を巧みに演じて大詰めを迎える。
この舞台ほど、浄瑠璃の素晴らしを感じさせてくれる世界も少ないと思うが、それに引き摺られて人形が実に感動的な人間像を演じてくれる。
前の「道行旅路の嫁入の段」で、前半は富士を後半は琵琶湖をバックにした舞台で、戸無瀬と小浪の山科への道行きが演じられるが、この山科閑居の段では、やっと探し当てて山科の大星亭に着いた二人が力弥との祝言を願うが、お石に主君の仇・師直殺害の邪魔をした「へつらい武士」の娘は嫁に出来ぬと断られる。
願いが叶えられず、死の決心をした二人の心底を察してお石は祝言を許すが、婿への引き出物として本蔵の首を所望する。
結末を予測していた本蔵が、屋敷を訪れて力弥に槍で突かれて本心を伝えて引き出物に師直家の絵図面を渡してこときれる。
塩谷判官の師直闇討ちを後から押さえて止めたことは、塩谷側にしてみれば最も憎むべき仕業だが、「相手死せずば切腹には及ぶまじ、抱き止めたは思い過ごし・・・」と苦渋の中から語る本蔵の心は判官思ってこその行為。
お石が悪口雑言を籠めて戸無瀬に小浪との祝言を拒むのは、主君あだ討ちの為に死んで行く息子の嫁にして不幸にさせたくない親心。
そんなことどもが、後半大詰めで明らかになって行くのだが、忠臣蔵の感動のエッセンスを脚色して凝縮した形で感動の舞台を作り上げた竹田出雲達作家の技量に感服する。
ところで、住大夫の語りであるが、戸無瀬と小浪の母娘の肺腑を抉るような情のうねり、力弥を思う母親お石の愛情、戸無瀬とお石の熾烈を極めた女の意地と道理の応酬。最初は、京見物などの穏やかな話から入っていって徐々に険悪になって行き、人間としてどうしようもない限界まで追い詰められて行く人間模様を実に感動的に語って行く。
戸無瀬とお石が同じ首の「老女形」なので、語り分けが難しいが、お石の方を少しテンポを早めにして、戸無瀬を少し緩めに語る。妻として母として女としての情愛をどれだけ出して伝えるか、精神的にも体力的にもしんどいと言う。
小浪については、先代寛治師匠から何度も「小浪は処女でっせ」と言われて駄目だしが出たようで、「可愛らしゅう聞こえるよう語らないけません」、気を使いますとも言う。
お石に一方的に嫁だと言うなら離縁すると言って座を蹴られると、小浪の身を切るような苦衷の口説きが始まるが、この哀切極まりない小浪のいじらしくも切ない語りを住大夫は、観客の胸にかみそりを当てて鮮血を迸り出させる。
「折角思い思われて許婚した力弥様に、逢せてやろとのお詞を頼りに思うて来たものを。姑御の胴欲に去られる覚え私やない。母様どうぞ詫び言して祝言させて下さいませ・・・
・・・力弥様よりほかに余の殿御、わしゃいやいやいや」
義理の娘ゆえに筋を通せぬ苦衷に耐えかねた戸無瀬が死ぬ覚悟をすると小浪は「殿御に嫌われ私こそ死すべき筈。・・・ここで死ぬれば本望じゃ。早う殺して下さりませ」とかき口説く。
感極まった戸無瀬が、「ヲヲ、よう云いやった。でかしゃった、でかしゃた、でかしゃた、・・・・・」と小浪をしっかとかき抱いて号泣する。
文雀の戸無瀬と清之助の小浪の感動的な名演を片目で追いながら、住大夫の何度も繰り返される感極まった「でかしゃった、でかしゃた」と泣き叫ぶ表情を追う。
少し前に観た玉三郎の戸無瀬と菊之助の小浪の美しくも感動的な歌舞伎の舞台が眼前に彷彿とする。
住大夫は、
「大夫はその人物になりきったらあきまへん。役者さんは、一人一役でその人物になりきればよろしいでしょうが、大夫は、ナレーターや登場人物も語らないきません。なりきる一歩手前で転換していくのです。その転換は声では変りません。イキですね。」
「浄瑠璃の場合、その声が出ないというのは勉強不足で、悪声でも、耳うつりの良い声が出るように努力するのです。出ない声はおまへんなぁ。」と語っている。
聴き手を感動させる為には大変な稽古と弛まない修練なのであろう。