
何十年も撮り続けて来た写真を整理して、スキャナーでスキャンしてパソコンに取り込んでDVDに落として保存することにした。と言っても、フィルムと少し残っている未整理のプリントを合わせて小さな整理ダンスに2杯あるのだから気が遠くなるような話である。
しかし、世界各地で撮り続けて来た多くの写真がある。ベルリンの壁崩壊前後の東ベルリンや東独、東ヨーロッパの写真ももあれば、アンデスのインデォやブエノスアイレスのタンゴの写真、歌劇場やシェイクスピア劇場での舞台、雑多だが色々な写真があって、涙がこぼれるほど懐かしい写真も沢山ある筈である。
殆どネガフィルムによる写真ばかりだが、特別な保存法を採った訳ではないので、フィルムによっては黄変してしまったり、カビついたりしているのもあるが、とにかく、大切だと思うフィルムだけでも救出しようと思っている。
40年間位の写真だが、ブラジルに居た頃のラテンアメリカ時代のフィルムは危ないが、日本での写真と欧米時代の写真はどうにか使えそうであるが、とにかく、海外でも8回、日本でも5回も宿替えをしているので、紛失しているネガも結構沢山ある。
今回真っ先にスキャンしたのが、1978年3~4月に家族でヨーロッパ旅行した時のフィルムで、29年前のコダックの36EX19本分。
その頃、サンパウロに在住していて3年間の一時帰国の途中2週間の休暇を取ってヨーロッパ2回目の長期旅行を決行したのである。
日本製フィルムの愛好家だが、如何せんサンパウロとイタリアでは、当時のことでもありコダックを使う以外にはなかった。
DPEは東京でやったのだが流石に日本、殆ど無傷の状態で、キヤノンのプリンターMP950が、多少時間がかかるのが難だが、色彩の劣化も程々に押さえて快調にスキャンしてくれた。
ボルゲーゼ美術館のティツィアーノの「聖と俗」を写した写真のコピーが口絵の写真である。
あの頃は、カメラは多少重いがニコンF2で、F1.2の標準レンズで押し通した。交換レンズは携帯が大変だったので殆ど使わず、とに角、明るいレンズで遅いシャッターでもぶれない方が有難かったし、当時は、ズームレンズなど暗い上に高くて手が出なかった。
翌々年、フランクフルトで買ったライカR3サファリF1.4が加わり、長い間この2台でヨーロッパや海外を歩いた。
その後、オートフォーカスの一眼レフが出たのだが、キヤノンのEOSの発売が遅かったので待てず、ベルリンでニコンF501を買って、その後、交換レンズが増えたので、EOSも買ったが、結局ニコンF801、F801s、F100とニコンを続けることになった。
コンタックスTVSⅢやミノックスで撮った写真もあるが、大半の写真は、ニコンとライカである。
ニコンF2は、その後、出張でサンパウロへ飛ぶ途中乗り継ぎのケネディ空港で荷物が紛失して帰ってこなかった。
ヒースローでも荷物紛失にあったが、あの1980年代は、欧米の空港での組織的窃盗は常態で、殆ど何時も盗難の心配をしなければならなかったし、一流ホテルでも、サムソナイトが切り刻まれたことがあった。
余談だが、あの時、ニューヨークでスーツケースが紛失し、重要書類は勿論のこと、手荷物以外は一切なくなったのだが、夏と冬の全く気候が違う北半球と南半球を着の身着のままで1週間以上も過ごすのは大変な苦痛であった。
ブラジルとアメリカであるから、日本人の胴長単足に合う衣服などおいそれと見つかる訳もなく、出張中だから仕事だけは寸秒単位でこなさなければならない。同僚からは「あっちこっち行けてよろしいですなあ」と言われて出てきている以上泣くに泣けない、そんなこともあった。
ところで、この1978年の旅の写真だが、一部の写真は押入れのアルバムに貼ってあるけれど、今回は全部パソコンに納まってくれたので、検索や加工が便利になった。
小学生の息子のいる長女が、丁度同じ年頃でヨーロッパの街を走り回っている懐かしい写真が沢山出てくる。
IT革命・デジタル化のお陰で、自分自身で自由に写真を修整し好きなように加工してアルバムが作れる、イノベーションの賜物である。
私には、もう思い出など不要だが、娘達に、写真を整理して残しておいてやりたいと思っている。
さて、この1978年の旅は、写真を見ると次のような旅程であった。
サンパウロを発って、
ローマ、ナポリ、ポンペイ
アテネ、コリント、ミケーネ、エピダウルス
マドリード、エスコリアール、トレド、グラナダ、
ロンドン、
東京へ
学生時代に、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」に触発されて壮大な世界史、特に、西洋史に興味を持ち、美術にも関心が移っていた頃なので、やたらと美術館・博物館を訪れて彫刻や絵画作品を撮った写真が多い。
それに、あの時は、どうしても、パルテノンの丘で十分に時間を割いてプラトンの「ソクラテスの弁明」等を思い出しながらギリシャ文明の息吹に触れたかった。
その後、15年ほど経ってから、国際会議の合間の土日を利用して、一人でゆっくり同じギリシャの旅の後を辿った。
どうしてもスーニオン岬の夕日を見たくて、パルテノンからタクシーを飛ばしてギリシャの田舎を走ったのも懐かしい思い出だし、デルフィのアポロン神殿跡で真っ青な空を仰ぎながら誰もいない廃墟で何時間も瞑想に耽ったのも忘れられない。
今度は、この旅のフィルムをスキャンしようと思っている。
しかし、世界各地で撮り続けて来た多くの写真がある。ベルリンの壁崩壊前後の東ベルリンや東独、東ヨーロッパの写真ももあれば、アンデスのインデォやブエノスアイレスのタンゴの写真、歌劇場やシェイクスピア劇場での舞台、雑多だが色々な写真があって、涙がこぼれるほど懐かしい写真も沢山ある筈である。
殆どネガフィルムによる写真ばかりだが、特別な保存法を採った訳ではないので、フィルムによっては黄変してしまったり、カビついたりしているのもあるが、とにかく、大切だと思うフィルムだけでも救出しようと思っている。
40年間位の写真だが、ブラジルに居た頃のラテンアメリカ時代のフィルムは危ないが、日本での写真と欧米時代の写真はどうにか使えそうであるが、とにかく、海外でも8回、日本でも5回も宿替えをしているので、紛失しているネガも結構沢山ある。
今回真っ先にスキャンしたのが、1978年3~4月に家族でヨーロッパ旅行した時のフィルムで、29年前のコダックの36EX19本分。
その頃、サンパウロに在住していて3年間の一時帰国の途中2週間の休暇を取ってヨーロッパ2回目の長期旅行を決行したのである。
日本製フィルムの愛好家だが、如何せんサンパウロとイタリアでは、当時のことでもありコダックを使う以外にはなかった。
DPEは東京でやったのだが流石に日本、殆ど無傷の状態で、キヤノンのプリンターMP950が、多少時間がかかるのが難だが、色彩の劣化も程々に押さえて快調にスキャンしてくれた。
ボルゲーゼ美術館のティツィアーノの「聖と俗」を写した写真のコピーが口絵の写真である。
あの頃は、カメラは多少重いがニコンF2で、F1.2の標準レンズで押し通した。交換レンズは携帯が大変だったので殆ど使わず、とに角、明るいレンズで遅いシャッターでもぶれない方が有難かったし、当時は、ズームレンズなど暗い上に高くて手が出なかった。
翌々年、フランクフルトで買ったライカR3サファリF1.4が加わり、長い間この2台でヨーロッパや海外を歩いた。
その後、オートフォーカスの一眼レフが出たのだが、キヤノンのEOSの発売が遅かったので待てず、ベルリンでニコンF501を買って、その後、交換レンズが増えたので、EOSも買ったが、結局ニコンF801、F801s、F100とニコンを続けることになった。
コンタックスTVSⅢやミノックスで撮った写真もあるが、大半の写真は、ニコンとライカである。
ニコンF2は、その後、出張でサンパウロへ飛ぶ途中乗り継ぎのケネディ空港で荷物が紛失して帰ってこなかった。
ヒースローでも荷物紛失にあったが、あの1980年代は、欧米の空港での組織的窃盗は常態で、殆ど何時も盗難の心配をしなければならなかったし、一流ホテルでも、サムソナイトが切り刻まれたことがあった。
余談だが、あの時、ニューヨークでスーツケースが紛失し、重要書類は勿論のこと、手荷物以外は一切なくなったのだが、夏と冬の全く気候が違う北半球と南半球を着の身着のままで1週間以上も過ごすのは大変な苦痛であった。
ブラジルとアメリカであるから、日本人の胴長単足に合う衣服などおいそれと見つかる訳もなく、出張中だから仕事だけは寸秒単位でこなさなければならない。同僚からは「あっちこっち行けてよろしいですなあ」と言われて出てきている以上泣くに泣けない、そんなこともあった。
ところで、この1978年の旅の写真だが、一部の写真は押入れのアルバムに貼ってあるけれど、今回は全部パソコンに納まってくれたので、検索や加工が便利になった。
小学生の息子のいる長女が、丁度同じ年頃でヨーロッパの街を走り回っている懐かしい写真が沢山出てくる。
IT革命・デジタル化のお陰で、自分自身で自由に写真を修整し好きなように加工してアルバムが作れる、イノベーションの賜物である。
私には、もう思い出など不要だが、娘達に、写真を整理して残しておいてやりたいと思っている。
さて、この1978年の旅は、写真を見ると次のような旅程であった。
サンパウロを発って、
ローマ、ナポリ、ポンペイ
アテネ、コリント、ミケーネ、エピダウルス
マドリード、エスコリアール、トレド、グラナダ、
ロンドン、
東京へ
学生時代に、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」に触発されて壮大な世界史、特に、西洋史に興味を持ち、美術にも関心が移っていた頃なので、やたらと美術館・博物館を訪れて彫刻や絵画作品を撮った写真が多い。
それに、あの時は、どうしても、パルテノンの丘で十分に時間を割いてプラトンの「ソクラテスの弁明」等を思い出しながらギリシャ文明の息吹に触れたかった。
その後、15年ほど経ってから、国際会議の合間の土日を利用して、一人でゆっくり同じギリシャの旅の後を辿った。
どうしてもスーニオン岬の夕日を見たくて、パルテノンからタクシーを飛ばしてギリシャの田舎を走ったのも懐かしい思い出だし、デルフィのアポロン神殿跡で真っ青な空を仰ぎながら誰もいない廃墟で何時間も瞑想に耽ったのも忘れられない。
今度は、この旅のフィルムをスキャンしようと思っている。