
所要があったり、外出したり、ガーデニングをしたり、とにかく、家の中にいない時は別だが、普通は、書斎かリビングに居て、インターネットを叩くか、ビデオを見るか、あるいは、本を前にして時間を過ごすことが多くなってきている。
現役時代には、年間、まともな専門書など単行本を、200冊以上は読んでいたのが、自由になってからは、かなり、読書量が減ったものの、それでも、新しく色々な本が出版されると欲しくなって、抑えに抑えても、それなりのペースで本に手を出すので、増える一方である。
私の場合、速読をしないので、本を沢山読もうと思えば、時間をかける以外に方法がない。
昔から、参考文献や事典・全書的な本は別だが、余程のことがなければ、飛ばし読みや中断をしない癖がついて、完読しようとしてしまうので、捗らない。
尤も、何冊かの本を並行読みするので、途中で諦めてしまう本もあるけれど、そんなこともあって、勢い、まともな本ばかりを読もうとする。
不思議なことに、同じ本を二度読むことは殆どないので、大切な本や好きな本はあるが、愛読書は何ですかと聞かれたら、どういえば良いのか、答えに窮する。
繰り返して、何度も、ページを開く本は沢山あるが、私には愛読書はない。
読む本は、専門書なり、かなり、骨のある本が多いので、透明性の付箋を貼ったり、鉛筆で傍線を引いたりするので、読んだ本は、すぐに分かる。
付箋数が多すぎて、後で困ることがあるので、本の余白に、簡易索引を作って書き込むことがある。
その度毎に、欧米の書物なら必ずある本の命とも言うべき索引が、専門書や学術書にさえも、殆どない日本の出版文化の程度の低くさを嘆くことになる。
ところで、もう、これから読める本の数は限られていると思っているので、最近では、新しく買った未読本は、本棚などに収容せずに、机の上や、時には、パソコン棚の上に置くことにしており、更に、その本の上に本を重ねるので、身動きが取れなくなると言った状態になっていて、自ら、強迫観念を作り出している。
しかし、それでも、新しい本の魅力は大きし、好みや関心が微妙に変化するので、忘れ去られる本が出て来る。
これまでもそうだが、読まずに積読だったり倉庫に消えた本は、読んだり参考にしたりした本の何倍もあり、先日、物置に入って本を整理していたら、無性に読みたくなった本が、何冊もあって、反省しきりであった。
小説と言うか、娯楽本の類は、殆ど読まなくなってしまった上に、これまでと同列か、出来るだけ、読み甲斐のある本を読もうとするので、多少、努力をしながら読むこととなり、何が面白いのかと言われることがある。
しかし、そのことが嫌だとか苦痛だと思ったことは一度もないし、義務だと思って本を読んだこともないし、読めば読むほど、新しい発見をしたり、真実に触れたり、美しいものや素晴らしいものに遭遇すると嬉しくなって、また、いそいそと本に対峙することになる。
東京などへ外出した時に、暇な時間が取れれば、行くところは必ず書店だし、更に時間が取れれば、そばの喫茶店に入って、本を読む。
若い人たちのように、スマホやタブレットやノートパソコンなどを持っていないので、電車の中でも、病院などの待合室でも、手持無沙汰の時には、本を読んでいることが多い。
日経ビジネスは、必ず、バッグに入れているが、その他の本は、今の生活には何の役にも立たたない専門書や学術書が多い。
さて、問題は、これから後何年くらい、元気で読書三昧の生活を楽しめるかと言うことである。
今では、当然のように、本を読み続ける毎日を送っていて、全く不思議だと思ってもいないし、いわば、生活のリズムなのだが、このような本との付き合い方が、何時まで続くのか、少しずつ気になり始めている。
いずれにしても、私が何時まで、このまま元気で、生活が続けられるかと言うことに総てがかかっているということであろう
少しでも、本を読みながら、自分なりに、真善美を感じながら、成長していると思い続けて逝ければ、それで上出来だろうと思っている。
現役時代には、年間、まともな専門書など単行本を、200冊以上は読んでいたのが、自由になってからは、かなり、読書量が減ったものの、それでも、新しく色々な本が出版されると欲しくなって、抑えに抑えても、それなりのペースで本に手を出すので、増える一方である。
私の場合、速読をしないので、本を沢山読もうと思えば、時間をかける以外に方法がない。
昔から、参考文献や事典・全書的な本は別だが、余程のことがなければ、飛ばし読みや中断をしない癖がついて、完読しようとしてしまうので、捗らない。
尤も、何冊かの本を並行読みするので、途中で諦めてしまう本もあるけれど、そんなこともあって、勢い、まともな本ばかりを読もうとする。
不思議なことに、同じ本を二度読むことは殆どないので、大切な本や好きな本はあるが、愛読書は何ですかと聞かれたら、どういえば良いのか、答えに窮する。
繰り返して、何度も、ページを開く本は沢山あるが、私には愛読書はない。
読む本は、専門書なり、かなり、骨のある本が多いので、透明性の付箋を貼ったり、鉛筆で傍線を引いたりするので、読んだ本は、すぐに分かる。
付箋数が多すぎて、後で困ることがあるので、本の余白に、簡易索引を作って書き込むことがある。
その度毎に、欧米の書物なら必ずある本の命とも言うべき索引が、専門書や学術書にさえも、殆どない日本の出版文化の程度の低くさを嘆くことになる。
ところで、もう、これから読める本の数は限られていると思っているので、最近では、新しく買った未読本は、本棚などに収容せずに、机の上や、時には、パソコン棚の上に置くことにしており、更に、その本の上に本を重ねるので、身動きが取れなくなると言った状態になっていて、自ら、強迫観念を作り出している。
しかし、それでも、新しい本の魅力は大きし、好みや関心が微妙に変化するので、忘れ去られる本が出て来る。
これまでもそうだが、読まずに積読だったり倉庫に消えた本は、読んだり参考にしたりした本の何倍もあり、先日、物置に入って本を整理していたら、無性に読みたくなった本が、何冊もあって、反省しきりであった。
小説と言うか、娯楽本の類は、殆ど読まなくなってしまった上に、これまでと同列か、出来るだけ、読み甲斐のある本を読もうとするので、多少、努力をしながら読むこととなり、何が面白いのかと言われることがある。
しかし、そのことが嫌だとか苦痛だと思ったことは一度もないし、義務だと思って本を読んだこともないし、読めば読むほど、新しい発見をしたり、真実に触れたり、美しいものや素晴らしいものに遭遇すると嬉しくなって、また、いそいそと本に対峙することになる。
東京などへ外出した時に、暇な時間が取れれば、行くところは必ず書店だし、更に時間が取れれば、そばの喫茶店に入って、本を読む。
若い人たちのように、スマホやタブレットやノートパソコンなどを持っていないので、電車の中でも、病院などの待合室でも、手持無沙汰の時には、本を読んでいることが多い。
日経ビジネスは、必ず、バッグに入れているが、その他の本は、今の生活には何の役にも立たたない専門書や学術書が多い。
さて、問題は、これから後何年くらい、元気で読書三昧の生活を楽しめるかと言うことである。
今では、当然のように、本を読み続ける毎日を送っていて、全く不思議だと思ってもいないし、いわば、生活のリズムなのだが、このような本との付き合い方が、何時まで続くのか、少しずつ気になり始めている。
いずれにしても、私が何時まで、このまま元気で、生活が続けられるかと言うことに総てがかかっているということであろう
少しでも、本を読みながら、自分なりに、真善美を感じながら、成長していると思い続けて逝ければ、それで上出来だろうと思っている。