
プラトンの「国家上」の第5巻で、「子供と妻女の共有」や教育について論じていて、その中で、もうすでに、古代ギリシャ時代に、
プラトンは、男女は平等であると宣言しているのである。
自然本来の素質が同じであるから、男性と女性の場合にも、もしある技術なり仕事にどちらか一方が特に向いていると分かれば、そういう仕事をそれぞれに割り当てるべきである。
したがって、国家を守護するという任務に必要な自然的素質そのものは、ただ、一方は比較的弱いというだけで、女のそれも男のそれも同じであるから、国を守護する任に適した女を作り上げるために、男と同じように教育すべきで、音楽・文芸と体育、戦争のことなど、守護者としての哲学教育を与えなければならない。と言う。
女の守護者も、男の守護者同様に、あらゆる仕事を共通に引き受けなければならないのは当然であって、軍隊の指揮官にもなれるということであろう。
面白いのは、当時、ギリシャでは、男性は裸で体育を行っていたので、プラトン説が採用された場合、おかしく見えるのは、女たちが裸になって、相撲場で男たちと一緒になって体を鍛錬している情景だろうね?それも若い女性だけではなく、・・・とスパルタまで引きあいに出して、一くさり裸談義を展開していることである。
さて、驚嘆すべきは、このプラトンの男女平等論。
今から2500年前に宣言した驚天動地の卓見である。
世界中で、ジェンダー問題が、話題になって、後ろ向きの末梢的な議論ばかりが展開されている。トランプアメリカの何倍も先を行くプラトンの凄さが胸を打つ。
悲しいかな、日本で婦人選挙権が認められたのは1945年、実際に投票したのは1946年。
現在では、ベルリン・フィルでもウィーン・フィルでも、女性奏者が結構いるが、カラヤンが、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団問題で悶着を起こしたのは半世紀前。
世界中では、いまだに女性蔑視の風潮が強くて、男女平等など、まだまだ程遠い夢の世界。