熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

蜷川幸雄の「オセロー」・・・彩の国さいたま芸術劇場

2007年10月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   吉田鋼太郎のオセロー、蒼井優のデズデモーナ、高橋洋のイアゴーで、蜷川幸雄のオセローが上演されていて、連日盛況である。
   一回の休憩を入れて4時間あまりの緊迫した素晴らしい舞台が展開されていて、特に、若い観客で熱気を帯びている。
   舞台は、正面に、二階への階段が三本、そして、左右に、横に向かって上る三階への階段が一本ずつ、そのニ本の長い階段を逆三角形の形でで繋ぐ様に高みに舞台を横切る渡り廊下がセットされていて、これが総てシンプルな鋼鉄製。唯一のセットは、ドージェが座る椅子と、最後の幕でのオセロー夫妻の大きなベッドだけであり、蜷川の舞台としては、非常にメカニカルな印象である。

   随分以前に、日生劇場で、松本幸四郎のオセロー、黒木瞳のデズデモーナで、蜷川幸雄のオセローの舞台を見たことがあるが、あの時はもっと華やかなグランド劇場の舞台のような雰囲気で印象が随分違ってきている。
   今回の舞台の方が、飾り気がなく研ぎ澄まされたような感じで、よりイギリスのシェイクスピア劇に近い感じがした。

   オセローの吉田鋼太郎は、日本で最も卓越したシェイクスピア役者で、まさしく打って付けのオセローであろうが、私が、少し気にしたのは、オーバーパーフォーマンスと言うか、実に迫真の完璧な演技なのだが、あれほど徹底的に、オセロの苦悩を表現する必要があるのかどうかと言う点である。
   これは、このシェイクスピア劇の主題が、妻の裏切り疑惑と言う非常に個人的な心の葛藤が、ベニスの最高の猛将オテローを死に追い詰めると言う悲劇だとするならば、これをどの程度に解釈するかによって違ってくる。(後述する。)

   デズデモーナの蒼井優だが、実に初々しくて可愛い。
   私は、「オセロー」はオペラで見る方が多いので、キリ・テ・カナワやルネ・フレミングなどの熟女のデズデモーナの印象が強いのだが、本来のデズデモーナはまだ寝んねの乙女から女になろうとする初々しい女性である筈で、その意味でも、蒼井優の地で行ったような演技は実に新鮮で、シェイクスピアもこんなイメージを持っていた筈だと思うくらい上手い。
   しかし、本当のデズデモーナは、オセローとの関係を父に隠して既成事実を作るという当時の道徳を無視した罪を犯しており、ハンカチをなくしたこともオテロに隠しており、これが死の遠因となる。
   可愛いだけではなく複雑な女性であることも意識して、欲を言えば、もう少し、女の思慮と、滲み出るような女の魅力と言うか、女を感じさせる色香が欲しいと思った。

   この戯曲のタイトルは、オセローではなく、本来はイアゴーであったと言われているが、それほど重要な役のイアゴーの高橋洋だが、ニナガワ・スタジオの優等生で、蜷川シェイクスピアで活躍を続けており、先の「間違いの喜劇」のドーミオ兄弟(二役)は実に素晴らしい舞台で、彼の魅力が全開であった。
   今度のイアゴーも、ニヒルでパンチの利いた現代的な若々しい演技で、ベテランの吉田オセローと対等に渡り合っていて、流石の舞台である。
   一寸気になったのは、所々、早口になったり小声になると言葉が聞き取り辛くなるので、イギリスのシェイクスピア役者のように発声法を少し心掛けて勉強した方が良いと思ったのと、本当の悪人としての憎々しさと言うか、もう少し灰汁の強いあくどさを出した方が良いと思ったことである。

   このブログでも書いたが、サー・アントニー・シャー(「恋に落ちたシェイクスピア」に出ていた変な腕輪を売りつけた占い師)が、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの「マクベス」で来日した時に、レセプションで会って色々話を聞いていた時、次の大役は「オセロー」ですねと言ったら、あの役は黒人など有色人の役者がやることになっていて白人の自分はやれないのだと言っていた。
   その後、「オセロー」で来日した時には、正に絶品のイアゴーを演じていたが、イギリスにも不思議な掟があるのだなあと思って聞いていたが、日本では誰でもオテローが演じられるのが面白い。
   ついでながら、真田広之以外はイギリス人ばかりで演じたRSCのニナガワ「リア王」は、一寸納得できないと言っていたが、何故だったのか理由は忘れてしまった。

   
   ところで、先にも触れたが、妻の不倫疑惑に自滅するオセローと言うテーマだが、たかが幼な妻の不倫程度でオテローたる猛将が自己を消失して崩れるのかと言う疑問である。 
   肌の色と民族・宗教、年齢、富、社会的身分等々相容れない条件を飛び越え、嫉妬を生み出した、オテローとデズデモーナを結びつけていた奇妙な愛情の真の意味は。
   シャフッベリー伯は、オセローとデズデモーナとの結婚は、不釣合いな縁組、山師のペテンと躾の良くない娘の不健康な想像力から生まれた奇怪な結びつきだと言っている。
   この劇の悲劇は、イアゴーの卑劣な企みの結果起きたのではなく、主人公の性格や彼らの間の関係に蒔かれた時から起こるべくして起こっていたと言うのである。
   
   オセローは、王族の出であり外的に危機に曝されているベニスにとって貴重な人物だと自分では思っているが、ベニス市民ではなく傭兵隊長にしか過ぎず、有事でなくなると即刻お払い箱になる運命にあり、ベニスと繋がっているのは、ベニスの名家の美しい花と恋に落ち結婚していると言う事実だけである。と、政治学者アラン・ブルームは言う。
   オセローがデズデモーナに愛されていると信じているが、彼がデズデモーナを必要とし、本当は彼女の愛を愛していて、これがなくなれば生きて行けなくなると言うオセローの脆さを、イアゴーだけは知っていて、徹底的に攻撃して痛めつける。
   オセローは、自分が生きて行くことを正当化するために、愛されている証拠を必要とする。この証拠が、あの象徴的なハンカチだが、そう思えば、オセローにとっては、このデズデモーナとハンカチの物語は、たかが幼な妻との愛の話だけではなく、自分のこれまでの全人生を賭けた運命的な悲劇だったのである。
   そう考えて、吉田鋼太郎の熱演をじっくりと噛み締めながら、日本の最高のシェイクスピア役者の芸を楽しませて貰った。

   凛とした格調の高いエミリアの馬渕英俚可、中々ダンディでスマートなキャシオーの山口馬木也、重厚な威厳を備えたブラバンショーの壌晴彦など準主役も素晴らしい演技で舞台をバックアップしていた。
   

    

 
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