
人間国宝の野村萬は、世阿弥の「初心忘るべからず」の三つの初心のうちの「老後の初心」に立ち返り、さらに芸道に精進すべく、約30年ぶりに、「花子」のシテを勤めた。
1995年刊の「狂言 伝承の技と心」で、花子について書いていて、「花子」がきちんと鑑賞に耐えるためには、女が曲の位を司り、太郎冠者が狂言の面白さを支えていて、シテと女と太郎冠者は三位一体であるから、シテばかりではなく女も太郎冠者も、それなりの技術のものが揃わなければならないので、理想的な配役は中々出来ないと言っている。
今回の舞台は、野村万蔵の発案で、女には、大蔵流の第一人者である山本東次郎に、太郎冠者には、和泉流野村派の野村又三郎に依頼して、その理想的な望むべくもないような豪華メンバーによる異流共演が実現した。
この「花子(はなご)」は、狂言では、名曲中の名曲、大曲中の大曲なのだが、非常にウィットと洒落たアイロニーに富んだ喜劇で、むしろ、本歌取りの歌舞伎の「身替座禅」の方が有名になっており、非常に面白く、役者が揃えば絶品である。
洛外に住むある男が,先年東国に下ったとき美濃国野上の宿で花子という女となじみになり、その花子が都の北白川に宿をとり,会いたいとしきりに男に手紙を寄こすのだが,妻の目が怖くてままならない。夢見が悪いので、ある夜,妻には持仏堂で一夜の座禅をすると偽り,太郎冠者に座禅衾をかぶせて身代りとし,花子のもとへ勇み行く。夜中に心配になって夫を見舞いにきた妻は,衾を取りのけて太郎冠者を問い詰めると花子に会いに行ったと言うので夫の魂胆を見抜き,太郎冠者に入れ替わって自分が衾をかぶり夫の帰りを待つ。明け方、男は小唄を歌いながら浮かれて帰ってきて、誰にも話せないのでお前に話すと言って、衾の下に居るはずの太郎冠者に、恥ずかしいので衾を被ったままでと、花子との幸せだった逢瀬の模様を小唄を歌いながら連綿と物語る。
「まことに、思うに別れ、思はぬに添う」と嘆いて、これまでと、嫌がる相手の衾を取ると、現れたのは霜降の妻。びっくり仰天して筑紫の五百羅漢へ参ったと言って平身低頭して逃げ回る夫を、女は追い込む。
まず、歌舞伎の「身替座禅」だが、4年前に、山蔭右京が仁左衛門、奥方玉の井が段四郎、太郎冠者が錦之助と言うキャスティングで見ており、その前に、夫々、菊五郎、仁左衛門、翫雀、そして、團十郎、左團次、染五郎と言う素晴らしい役者たちの極め付きの舞台を観ていて、このブログでも感想を記している。
その役者たちのキャラクターの差が、この舞台の鑑賞の楽しみを倍増させるのだが、歌舞伎の場合には、明治の初演だというから、非常にモダンで喜劇色が強くなっている感じで、古典的な狂言と大分ニュアンスが違っている。
また、歌舞伎でも、仁左衛門の右京は、菊五郎や團十郎と比べて、どちらかと言うと計算尽くめの理知的な演技で、花子とのぎらぎらした色恋を前面に出すのではなく、最初から最後まで、話の展開を覚めた目で、ジッと噛み締めながら、丁寧に演じていて、特に、花子との逢瀬を楽しんで帰途に着く花道の出のシーンでも、二人のように、幸せ一杯で相好を崩して登場してくるのではなく、酔っているといった風情の方が強く、また、座禅衾を被っていらついている奥方玉の井へ聞かせる仕方噺のところなども、花子に奥方はどんな人だと聞かれてこんな人だと演じて見せると言うか、とにかく、本人が言うように、「下世話な色恋ではなく品のある、そして、安易に笑いを買うのではない演技を心掛けた」と言っているくらい雰囲気が変わって来ている。
狂言の方だが、花子との逢瀬の幸せを語る歌舞伎の仕方話に対して、狂言は、多くの小歌を交えて話すことによって、露骨になるのを避けて、情趣本位に展開している。
翌朝、肩脱ぎした格好で、揚幕から、後シテの男が登場するのだが、萬は、少し橋掛かりを進み出たところで、後ろを振り返って、「更けゆく鐘、別れの鳥も、ひとりねる夜は、さわらぬものを・・・」と情感豊かに、しっぽりと謡い始めるのだが、歌舞伎のように顔を赤らめて酩酊気分で濡れ場を楽しんだ幸せ一杯と言った表情とは程遠く、幸せだった逢瀬をしみじみ噛み締めながら名残を惜しみつつ詠嘆する。
表情は穏やかだが、感極まっておいおい泣く風情も見せるのだが、あくまで、花子の言葉は、花子の心で、本人の言うように、せりふでは表現できない、謡によって引っ張り上げてゆく情感の世界を醸し出そうとしていたのであろう。
「よその女見て妻みれば、よその女見て我が妻見れば、深山の奥のこけ猿めが、雨にしょぼ濡れて、ついつくばうたに、さも似た・・・」と言ったところくらいは良く分かったが、何しろ美文調の謡が主体なので、理解が及ばず、舞台には登場しないのだが、万感の思いを込めて萬が謳い上げた「花子」を、十分に感じられなかったのが、申し訳なく、残念だと思っている。
ところで、この狂言だが、やはり、狂言界のスターが演じた「花子」なので、20分以上も、後シテとして、舞台に登場した瞬間から独吟し続ける82歳とも思えない驚異的な萬の人間国宝の人間国宝たる所以の至芸の素晴らしさは勿論だが、品格があって滲み出るようなウイットと夫への愛情を滲ませた女を演じた山本東次郎の素晴らしさも格別である。
歌舞伎では、立役が厳つい化粧をして極端な悪妻スタイルで登場して、謂わば、無理に説明過多で品格を貶めているとしか思えないのだが、狂言は正に直球勝負の正攻法で、正真正銘の奥方が登場して、特に、前場での、どうにか騙して花子に会いに行こうと画策する男との掛け合いは秀逸で、上質の笑いを誘う。
わわしい女と言うのが狂言で登場する女のようだが、ここでは、「エエありように花子が許に行くというたならば、一夜ばかりはやるまい物でもないに、妾をたらいて行たと思えば、身が燃ゆるように腹が立つ」と言うことで、最後の幕切れでも、嫉妬に狂う悪妻ではなく、夫を許しているのであって、大分雰囲気が違うのである。
山本東次郎は、この国立能楽堂などでも、狂言で名舞台を披露するのみならず、重要な能の舞台では、間狂言で登場することも多いので、鑑賞させて貰う機会が多いのだが、あの素晴らしい美声と重厚な姿で演じる舞台は楽しみである。
まじめ一方と言うか、実直そのものの萬と東次郎が丁々発止で、演じる「花子」であったから、正に、エポックメイキングな記念すべき舞台であったのであろう。
後になったが、太郎冠者を演じた野村又三郎は、前日の国立能楽堂の「素の魅力」と言う企画公演でも、「源氏供養」の間語りで登場して名調子を披露していたのだが、和泉流の野村派当主で、正に油の乗り切った非常に迫力のある狂言師で、命令に従わねば切り捨てると凄い剣幕で男に身替座禅を強要され、今度は、主よりも怖い奥方に迫られて座禅を替わると言った、相手の言いなりにならなければならない弱い立場を演じながら、狂言の本質である笑いを誘うのであるから、流石に上手い。
刀に手をかけて迫る萬の男の迫力も凄かったが、身替りがばれて奥方にいなされる対話も面白い。
さて、この話だが、やはり、若者の物語ではなく、熟年と言うか、初老くらいの人間に最も似合う話のように思う。
若い時には一途に思い詰めたり、もっとメリハリのついた恋物語、愛情物語が主体であろうが、人生それなりに経験を積み重ねて、一番、人恋しくなるのはこの頃で、この狂言の男のように、会えなければ死んでしまうと言われれば、居ても立っても居れなくて、思いを積もらせて、言うならば、不倫と知って罪の意識を感じながらも、走ってしまう。
その意味では、歌舞伎の舞台のように、仁左衛門や菊五郎、團十郎、私は、残念ながら見ていないのだが、勘三郎などの演技が秀逸なのも分かる気がするし、今回の、萬や東次郎の演じた舞台も、非常に味があって良かったと思っている。
(追記)口絵写真は、「狂言 伝承の技と心」から転写した50歳の時に演じた「花子」の舞台写真
1995年刊の「狂言 伝承の技と心」で、花子について書いていて、「花子」がきちんと鑑賞に耐えるためには、女が曲の位を司り、太郎冠者が狂言の面白さを支えていて、シテと女と太郎冠者は三位一体であるから、シテばかりではなく女も太郎冠者も、それなりの技術のものが揃わなければならないので、理想的な配役は中々出来ないと言っている。
今回の舞台は、野村万蔵の発案で、女には、大蔵流の第一人者である山本東次郎に、太郎冠者には、和泉流野村派の野村又三郎に依頼して、その理想的な望むべくもないような豪華メンバーによる異流共演が実現した。
この「花子(はなご)」は、狂言では、名曲中の名曲、大曲中の大曲なのだが、非常にウィットと洒落たアイロニーに富んだ喜劇で、むしろ、本歌取りの歌舞伎の「身替座禅」の方が有名になっており、非常に面白く、役者が揃えば絶品である。
洛外に住むある男が,先年東国に下ったとき美濃国野上の宿で花子という女となじみになり、その花子が都の北白川に宿をとり,会いたいとしきりに男に手紙を寄こすのだが,妻の目が怖くてままならない。夢見が悪いので、ある夜,妻には持仏堂で一夜の座禅をすると偽り,太郎冠者に座禅衾をかぶせて身代りとし,花子のもとへ勇み行く。夜中に心配になって夫を見舞いにきた妻は,衾を取りのけて太郎冠者を問い詰めると花子に会いに行ったと言うので夫の魂胆を見抜き,太郎冠者に入れ替わって自分が衾をかぶり夫の帰りを待つ。明け方、男は小唄を歌いながら浮かれて帰ってきて、誰にも話せないのでお前に話すと言って、衾の下に居るはずの太郎冠者に、恥ずかしいので衾を被ったままでと、花子との幸せだった逢瀬の模様を小唄を歌いながら連綿と物語る。
「まことに、思うに別れ、思はぬに添う」と嘆いて、これまでと、嫌がる相手の衾を取ると、現れたのは霜降の妻。びっくり仰天して筑紫の五百羅漢へ参ったと言って平身低頭して逃げ回る夫を、女は追い込む。
まず、歌舞伎の「身替座禅」だが、4年前に、山蔭右京が仁左衛門、奥方玉の井が段四郎、太郎冠者が錦之助と言うキャスティングで見ており、その前に、夫々、菊五郎、仁左衛門、翫雀、そして、團十郎、左團次、染五郎と言う素晴らしい役者たちの極め付きの舞台を観ていて、このブログでも感想を記している。
その役者たちのキャラクターの差が、この舞台の鑑賞の楽しみを倍増させるのだが、歌舞伎の場合には、明治の初演だというから、非常にモダンで喜劇色が強くなっている感じで、古典的な狂言と大分ニュアンスが違っている。
また、歌舞伎でも、仁左衛門の右京は、菊五郎や團十郎と比べて、どちらかと言うと計算尽くめの理知的な演技で、花子とのぎらぎらした色恋を前面に出すのではなく、最初から最後まで、話の展開を覚めた目で、ジッと噛み締めながら、丁寧に演じていて、特に、花子との逢瀬を楽しんで帰途に着く花道の出のシーンでも、二人のように、幸せ一杯で相好を崩して登場してくるのではなく、酔っているといった風情の方が強く、また、座禅衾を被っていらついている奥方玉の井へ聞かせる仕方噺のところなども、花子に奥方はどんな人だと聞かれてこんな人だと演じて見せると言うか、とにかく、本人が言うように、「下世話な色恋ではなく品のある、そして、安易に笑いを買うのではない演技を心掛けた」と言っているくらい雰囲気が変わって来ている。
狂言の方だが、花子との逢瀬の幸せを語る歌舞伎の仕方話に対して、狂言は、多くの小歌を交えて話すことによって、露骨になるのを避けて、情趣本位に展開している。
翌朝、肩脱ぎした格好で、揚幕から、後シテの男が登場するのだが、萬は、少し橋掛かりを進み出たところで、後ろを振り返って、「更けゆく鐘、別れの鳥も、ひとりねる夜は、さわらぬものを・・・」と情感豊かに、しっぽりと謡い始めるのだが、歌舞伎のように顔を赤らめて酩酊気分で濡れ場を楽しんだ幸せ一杯と言った表情とは程遠く、幸せだった逢瀬をしみじみ噛み締めながら名残を惜しみつつ詠嘆する。
表情は穏やかだが、感極まっておいおい泣く風情も見せるのだが、あくまで、花子の言葉は、花子の心で、本人の言うように、せりふでは表現できない、謡によって引っ張り上げてゆく情感の世界を醸し出そうとしていたのであろう。
「よその女見て妻みれば、よその女見て我が妻見れば、深山の奥のこけ猿めが、雨にしょぼ濡れて、ついつくばうたに、さも似た・・・」と言ったところくらいは良く分かったが、何しろ美文調の謡が主体なので、理解が及ばず、舞台には登場しないのだが、万感の思いを込めて萬が謳い上げた「花子」を、十分に感じられなかったのが、申し訳なく、残念だと思っている。
ところで、この狂言だが、やはり、狂言界のスターが演じた「花子」なので、20分以上も、後シテとして、舞台に登場した瞬間から独吟し続ける82歳とも思えない驚異的な萬の人間国宝の人間国宝たる所以の至芸の素晴らしさは勿論だが、品格があって滲み出るようなウイットと夫への愛情を滲ませた女を演じた山本東次郎の素晴らしさも格別である。
歌舞伎では、立役が厳つい化粧をして極端な悪妻スタイルで登場して、謂わば、無理に説明過多で品格を貶めているとしか思えないのだが、狂言は正に直球勝負の正攻法で、正真正銘の奥方が登場して、特に、前場での、どうにか騙して花子に会いに行こうと画策する男との掛け合いは秀逸で、上質の笑いを誘う。
わわしい女と言うのが狂言で登場する女のようだが、ここでは、「エエありように花子が許に行くというたならば、一夜ばかりはやるまい物でもないに、妾をたらいて行たと思えば、身が燃ゆるように腹が立つ」と言うことで、最後の幕切れでも、嫉妬に狂う悪妻ではなく、夫を許しているのであって、大分雰囲気が違うのである。
山本東次郎は、この国立能楽堂などでも、狂言で名舞台を披露するのみならず、重要な能の舞台では、間狂言で登場することも多いので、鑑賞させて貰う機会が多いのだが、あの素晴らしい美声と重厚な姿で演じる舞台は楽しみである。
まじめ一方と言うか、実直そのものの萬と東次郎が丁々発止で、演じる「花子」であったから、正に、エポックメイキングな記念すべき舞台であったのであろう。
後になったが、太郎冠者を演じた野村又三郎は、前日の国立能楽堂の「素の魅力」と言う企画公演でも、「源氏供養」の間語りで登場して名調子を披露していたのだが、和泉流の野村派当主で、正に油の乗り切った非常に迫力のある狂言師で、命令に従わねば切り捨てると凄い剣幕で男に身替座禅を強要され、今度は、主よりも怖い奥方に迫られて座禅を替わると言った、相手の言いなりにならなければならない弱い立場を演じながら、狂言の本質である笑いを誘うのであるから、流石に上手い。
刀に手をかけて迫る萬の男の迫力も凄かったが、身替りがばれて奥方にいなされる対話も面白い。
さて、この話だが、やはり、若者の物語ではなく、熟年と言うか、初老くらいの人間に最も似合う話のように思う。
若い時には一途に思い詰めたり、もっとメリハリのついた恋物語、愛情物語が主体であろうが、人生それなりに経験を積み重ねて、一番、人恋しくなるのはこの頃で、この狂言の男のように、会えなければ死んでしまうと言われれば、居ても立っても居れなくて、思いを積もらせて、言うならば、不倫と知って罪の意識を感じながらも、走ってしまう。
その意味では、歌舞伎の舞台のように、仁左衛門や菊五郎、團十郎、私は、残念ながら見ていないのだが、勘三郎などの演技が秀逸なのも分かる気がするし、今回の、萬や東次郎の演じた舞台も、非常に味があって良かったと思っている。
(追記)口絵写真は、「狂言 伝承の技と心」から転写した50歳の時に演じた「花子」の舞台写真