
国立劇場の6月と7月の歌舞伎公演は、歌舞伎鑑賞教室で、解説「歌舞伎のみかた」と一幕物の歌舞伎公演とがミックスされた普及版で、橋之助の「俊寛」と愛之助の「毛抜き」が上演される。
私は、はじめての経験だったが、その日の客の大半は、東京の中高生の団体でびっしり埋まっていて、2・3階の後方に一般人がちらほらいるだけで、それも、大半は老人であった。
私は、この日しかダメだったので、「俊寛」のチケットを手配しようと思ったら、こんな席しか取れなかったのだが、何回も見ている演目であり、役者もメインを除けば、歌舞伎俳優・歌舞伎音楽研修生やそのOB役者などが出ていて、席にはそれ程拘ることもないのである。
この日は、大谷廣太郎が解説にあたっていたが、演目の紹介のみならず、義太夫狂言なので竹本連中や下座音楽奏者たちの演奏などを紹介しながら、分かり易く「歌舞伎」について語っていたので、学生たちに取っては、良い経験になったと思う。
さて、「俊寛」だが、私の場合には、やはり、歌舞伎では、吉右衛門や幸四郎の舞台の印象が強く、文楽では、玉男の晩年の舞台を思い出す。
この時、玉男は、体力的に大変だったのか、最後の岩に這い上がって松の木陰から去り行く船を見送るシーンは、玉女に代役させていたのだが、やはり、俊寛は高僧、僧都であるから、島流しで孤島に3年とは言っても、品格と威厳がなければならないのだが、実に風格があって良かったのを覚えている。
橋之助は、筋書きでも述べているが、「俊寛は鹿ケ谷でクーデターを謀るバイタリティーあふれる30歳代です。流刑後も火が付けばまた燃え上がるものをどこかに持っている人だと思います。」と言って、それを踏まえて、役作りをしたと言う。
心なしか、冒頭の岩陰から登場するシーンからして、弱々しい乞食風の老僧の雰囲気ではなく、その後も、非常にメリハリのはっきりした演技で、後半の自分の名前だけが漏れている赦免状との格闘や、瀬尾太郎兼康(團蔵)との諍いなどオーバー気味ながら、エネルギーと秘めた迫力があって面白い。
島娘海女千鳥の児太郎だが、やはり、福助の子供であるから中々雰囲気が出ていて初々しく好ましい。
今回の舞台では、皆が船に乗移って、一人島に取り残された千鳥の表情を丁寧に時間を取って描いており、児太郎の演技も冴えているのだが、何しろ、背が高くて、いくら足捌きに注意して演じてみても、気になるのが難と言えば難になろうか。
しかし、この千鳥は、正に、近松門左衛門の創作上の登場人物であり、この千鳥の登場によって、この島が絶海の孤島ではなく生活の息吹のする島であることを、そして、丹波少将成経(中村志のぶ)との身分を越えた恋を描いて情感豊かに話に息吹を吹き込んでいる。
特に、清盛が、最愛の妻を手籠めにしようとして拒否したので手打ちにあって、もうこの世にいないことを知らされて夢も希望も失って絶望した俊寛が、自分が島に残って代わりに千鳥を乗船させると言う話の展開など、ラストシーンで岸壁の頂きに上って船を見送る俊寛の万感胸に迫る思いを益々豊かにしていて興味深いのである。
橋之助俊寛は、目をかっと見開いて、海上を睨みつけていたが、生きると言うことはどういうことなのか、人生とは一体何なのか、考えさせられる幕切れである。
今、襲名公演で人気絶頂のヤマトタケルでも、死を前にした猿之助ヤマトタケルが、ヤマトへ帰りたい、ヤマトへ帰りたい、と、走馬灯のように頭を駆け巡る妻を思い子を思い、故郷の野山を思い、何度も何度も故郷への思いを繰り返すシーンがあるが、そう思うと、俊寛の望郷の思いが如何に強くて切なかったか、私は、この歌舞伎の「鬼界ヶ島の場」のラストシーンを観ながらいつも思う。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」室生犀星の詩だが、私も、異境生活が長かったし、実際にも、殆ど自分が望んでの道であり、欧米が主だったので幸せだと言えば幸せだった筈なのだが、望郷の念が覚めることはなかったし、帰国する度毎に青春時代に歩き回った京都や奈良に必ず時間を割いて出かけて、懐かしい昔の思い出を反芻していた。
歌舞伎公演の後、時間があったので、伝統芸能情報館に出かけて、「菅原伝授手習鑑の世界」展を見た。
昭和56年の国立劇場の舞台写真が沢山展示されていて、道明寺の場では、76歳当時の仁左衛門の菅丞相、玉三郎の苅屋姫、實川延若の覚寿の写真が気になって見ていたら、丁度、ビデオ室で、当時のこの舞台準備のドキュメントが放映されていた。
まだ、20代の若い玉三郎が、仁左衛門から手取り足取り薫陶を受けており、平稽古のシーンでは、必死なって台本に書き込みを行っていた。
私が感動したのは、仁左衛門の浄瑠璃に対する打ち込みようで、大夫の浄瑠璃語り、三味線と、そして、歌舞伎役者の呼吸がぴったり合わないと良い舞台が作れないと、自分も大夫に合わせて浄瑠璃を口遊みながら演技を追及している姿であった。
浄瑠璃と踊りが分からなければ、歌舞伎役者は半人前にもならないと語っていたが、私は、義太夫狂言の原点を見た思いがした。
上方歌舞伎は、江戸歌舞伎よりも、人形浄瑠璃に近い演出が多いのだが、同じ義太夫に乗っても、人形とは違って、生身の役者が演じる歌舞伎は、それだけ、リアルで生きた息吹が舞台に醸し出されるので、また、違った味わいが生まれて来るのであろう。
もう、30年以上も前の、浄瑠璃語りの旋律に乗って、丞相が縋り付く苅屋姫を振り切って去って行く扇を残すシーンの映像の素晴らしさは格別で、やはり、仁左衛門の至芸であり、必死に後を追って縋り付き扇を奪い取って仰け反って倒れ伏す玉三郎の苅屋姫の鮮烈な優雅さ美しさは、忘れ難い程素晴らしい。
私は、はじめての経験だったが、その日の客の大半は、東京の中高生の団体でびっしり埋まっていて、2・3階の後方に一般人がちらほらいるだけで、それも、大半は老人であった。
私は、この日しかダメだったので、「俊寛」のチケットを手配しようと思ったら、こんな席しか取れなかったのだが、何回も見ている演目であり、役者もメインを除けば、歌舞伎俳優・歌舞伎音楽研修生やそのOB役者などが出ていて、席にはそれ程拘ることもないのである。
この日は、大谷廣太郎が解説にあたっていたが、演目の紹介のみならず、義太夫狂言なので竹本連中や下座音楽奏者たちの演奏などを紹介しながら、分かり易く「歌舞伎」について語っていたので、学生たちに取っては、良い経験になったと思う。
さて、「俊寛」だが、私の場合には、やはり、歌舞伎では、吉右衛門や幸四郎の舞台の印象が強く、文楽では、玉男の晩年の舞台を思い出す。
この時、玉男は、体力的に大変だったのか、最後の岩に這い上がって松の木陰から去り行く船を見送るシーンは、玉女に代役させていたのだが、やはり、俊寛は高僧、僧都であるから、島流しで孤島に3年とは言っても、品格と威厳がなければならないのだが、実に風格があって良かったのを覚えている。
橋之助は、筋書きでも述べているが、「俊寛は鹿ケ谷でクーデターを謀るバイタリティーあふれる30歳代です。流刑後も火が付けばまた燃え上がるものをどこかに持っている人だと思います。」と言って、それを踏まえて、役作りをしたと言う。
心なしか、冒頭の岩陰から登場するシーンからして、弱々しい乞食風の老僧の雰囲気ではなく、その後も、非常にメリハリのはっきりした演技で、後半の自分の名前だけが漏れている赦免状との格闘や、瀬尾太郎兼康(團蔵)との諍いなどオーバー気味ながら、エネルギーと秘めた迫力があって面白い。
島娘海女千鳥の児太郎だが、やはり、福助の子供であるから中々雰囲気が出ていて初々しく好ましい。
今回の舞台では、皆が船に乗移って、一人島に取り残された千鳥の表情を丁寧に時間を取って描いており、児太郎の演技も冴えているのだが、何しろ、背が高くて、いくら足捌きに注意して演じてみても、気になるのが難と言えば難になろうか。
しかし、この千鳥は、正に、近松門左衛門の創作上の登場人物であり、この千鳥の登場によって、この島が絶海の孤島ではなく生活の息吹のする島であることを、そして、丹波少将成経(中村志のぶ)との身分を越えた恋を描いて情感豊かに話に息吹を吹き込んでいる。
特に、清盛が、最愛の妻を手籠めにしようとして拒否したので手打ちにあって、もうこの世にいないことを知らされて夢も希望も失って絶望した俊寛が、自分が島に残って代わりに千鳥を乗船させると言う話の展開など、ラストシーンで岸壁の頂きに上って船を見送る俊寛の万感胸に迫る思いを益々豊かにしていて興味深いのである。
橋之助俊寛は、目をかっと見開いて、海上を睨みつけていたが、生きると言うことはどういうことなのか、人生とは一体何なのか、考えさせられる幕切れである。
今、襲名公演で人気絶頂のヤマトタケルでも、死を前にした猿之助ヤマトタケルが、ヤマトへ帰りたい、ヤマトへ帰りたい、と、走馬灯のように頭を駆け巡る妻を思い子を思い、故郷の野山を思い、何度も何度も故郷への思いを繰り返すシーンがあるが、そう思うと、俊寛の望郷の思いが如何に強くて切なかったか、私は、この歌舞伎の「鬼界ヶ島の場」のラストシーンを観ながらいつも思う。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・」室生犀星の詩だが、私も、異境生活が長かったし、実際にも、殆ど自分が望んでの道であり、欧米が主だったので幸せだと言えば幸せだった筈なのだが、望郷の念が覚めることはなかったし、帰国する度毎に青春時代に歩き回った京都や奈良に必ず時間を割いて出かけて、懐かしい昔の思い出を反芻していた。
歌舞伎公演の後、時間があったので、伝統芸能情報館に出かけて、「菅原伝授手習鑑の世界」展を見た。
昭和56年の国立劇場の舞台写真が沢山展示されていて、道明寺の場では、76歳当時の仁左衛門の菅丞相、玉三郎の苅屋姫、實川延若の覚寿の写真が気になって見ていたら、丁度、ビデオ室で、当時のこの舞台準備のドキュメントが放映されていた。
まだ、20代の若い玉三郎が、仁左衛門から手取り足取り薫陶を受けており、平稽古のシーンでは、必死なって台本に書き込みを行っていた。
私が感動したのは、仁左衛門の浄瑠璃に対する打ち込みようで、大夫の浄瑠璃語り、三味線と、そして、歌舞伎役者の呼吸がぴったり合わないと良い舞台が作れないと、自分も大夫に合わせて浄瑠璃を口遊みながら演技を追及している姿であった。
浄瑠璃と踊りが分からなければ、歌舞伎役者は半人前にもならないと語っていたが、私は、義太夫狂言の原点を見た思いがした。
上方歌舞伎は、江戸歌舞伎よりも、人形浄瑠璃に近い演出が多いのだが、同じ義太夫に乗っても、人形とは違って、生身の役者が演じる歌舞伎は、それだけ、リアルで生きた息吹が舞台に醸し出されるので、また、違った味わいが生まれて来るのであろう。
もう、30年以上も前の、浄瑠璃語りの旋律に乗って、丞相が縋り付く苅屋姫を振り切って去って行く扇を残すシーンの映像の素晴らしさは格別で、やはり、仁左衛門の至芸であり、必死に後を追って縋り付き扇を奪い取って仰け反って倒れ伏す玉三郎の苅屋姫の鮮烈な優雅さ美しさは、忘れ難い程素晴らしい。