ヴァレリー・ハンセンの「外国貿易反対派の抗議の歴史」を読んでいて、グローバリゼーションの起源を大航海時代だとするのは遅すぎる、西暦1000年だと言う見解に興味を感じた。
1000年頃に、中国からインド、アラビア半島、アフリカに至るまで海上交通で繋がり、バイキングが北米に到達したことで、「世界一周交易路」が成立したからだという。
ヨーロッパ人として初めてカナダのニューファンドランド島に上陸したバイキングは、南北アメリカ両大陸に張り巡らされていた交易路を、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、つまり、アフロ・ユーラシア大陸の交易路を融合させた。こうして世界史上初めて、ものや情報が世界中を移動することが出来るようになった。
ここで、ハンセンが問題視したのは、ヨーロッパ主導で描かれ続けてきた世界史で、これに疑問を呈して、グローバリゼーションの幕開けを、西欧とは関係のない史実を検証して書き換えようとしていることである。
中国史の専門家であり、当時、宋代の世界最大にして最も栄えていた沿海州の泉州が、世界中から集積された財や高級品で溢れていた事実を活写して、すでに、国際交易のグローバル展開が成されていたとしている。
グローバリゼーションの起源が、大航海時代だとするのもこのヨーロッパ至上主義の現れで、あたかも、世界の歴史が、コロンブスやマゼランによって開花したように論じられている。
ポルトガルのリスボンのベレン港に大きな世界地図が地面に描かれていて、ポルトガル人が到達した年度を、インドや日本など各地に、あたかも発見年代と言わんばかりに打ち込まれているのはこの典型で、傲慢も甚だしいが、それ以降20世紀にかけて、ヨーロッパ列強が世界中を植民地化すべく派遣を競って乱舞した。
しかし、このことは、それ以前に、大帝国を築いて文化文明の輝きを誇っていた中国などと比べて、15世紀までは、ヨーロッパが文化文明世界に至っていなかったことを示していたようなものである。
アンガス・マディソンなど、1820年の時点で、世界のGDPの29%は中国、16%はインドで、2ヶ国で世界のGDPの半分近くを占めていて、18世紀、17世紀、16世紀とさらに時代を遡ると、両国のシェアは7割近くだったとして、欧米がアジアに追いついたのは、この100数十年だと言っていて、経済的にもこれであるから、文化文明度においては、西欧は、かなりビハインドであったと言うことである。
私が注目したのは、「コロンブスより先にアメリカ大陸に上陸したバイキング」という項目で、バイキングは、メキシコのマヤの古代都市チチェン・イッツァにまで到達していたと言う見解である。
同地にある「戦士の神殿」の壁画に描かれている捕虜は、ブロンドで目の色が明るく、肌の色は白い。バイキングの身体的特徴とかなり一致するので、仮説として証拠立て得るとする。
これだけで、バイキングが、メキシコに到達した証拠とは言いがたいかも知れないが、マヤやアステカ文明は、スペインのコンキスタドール・コルテス侵攻以前に、既に、華やかな帝国を築いて栄えていたので、バイキングとの遭遇が興味深い。
このチチェン・イッツァには、ウシュマルやパレンケなどのマヤ遺跡と一緒に、一度だけ訪れている。この口絵写真の建物には、階段の急斜面に恐怖を感じて残念ながら頂上まで上れなかった。インディオの戦士達は、重い甲冑をつけて駆け上がったのだが。
何故繁栄を極めたマヤ文明が、ジャングルの中に忽然と消えてしまうのか、不思議で仕方なかったが、何かの本に、鋤鍬を発明出来なかったので、十分な農耕を行えなくて疲弊した土地を放棄せざるを得なかったのだと言うことが書いてあったの覚えているが、インカやアステカ文明など、南北アメリカの古代文明には、西欧世界史でもフォローできない未知の疑問が多い。
東西交渉史、異文化異文明の遭遇は非常に面白い。
1000年頃に、中国からインド、アラビア半島、アフリカに至るまで海上交通で繋がり、バイキングが北米に到達したことで、「世界一周交易路」が成立したからだという。
ヨーロッパ人として初めてカナダのニューファンドランド島に上陸したバイキングは、南北アメリカ両大陸に張り巡らされていた交易路を、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、つまり、アフロ・ユーラシア大陸の交易路を融合させた。こうして世界史上初めて、ものや情報が世界中を移動することが出来るようになった。
ここで、ハンセンが問題視したのは、ヨーロッパ主導で描かれ続けてきた世界史で、これに疑問を呈して、グローバリゼーションの幕開けを、西欧とは関係のない史実を検証して書き換えようとしていることである。
中国史の専門家であり、当時、宋代の世界最大にして最も栄えていた沿海州の泉州が、世界中から集積された財や高級品で溢れていた事実を活写して、すでに、国際交易のグローバル展開が成されていたとしている。
グローバリゼーションの起源が、大航海時代だとするのもこのヨーロッパ至上主義の現れで、あたかも、世界の歴史が、コロンブスやマゼランによって開花したように論じられている。
ポルトガルのリスボンのベレン港に大きな世界地図が地面に描かれていて、ポルトガル人が到達した年度を、インドや日本など各地に、あたかも発見年代と言わんばかりに打ち込まれているのはこの典型で、傲慢も甚だしいが、それ以降20世紀にかけて、ヨーロッパ列強が世界中を植民地化すべく派遣を競って乱舞した。
しかし、このことは、それ以前に、大帝国を築いて文化文明の輝きを誇っていた中国などと比べて、15世紀までは、ヨーロッパが文化文明世界に至っていなかったことを示していたようなものである。
アンガス・マディソンなど、1820年の時点で、世界のGDPの29%は中国、16%はインドで、2ヶ国で世界のGDPの半分近くを占めていて、18世紀、17世紀、16世紀とさらに時代を遡ると、両国のシェアは7割近くだったとして、欧米がアジアに追いついたのは、この100数十年だと言っていて、経済的にもこれであるから、文化文明度においては、西欧は、かなりビハインドであったと言うことである。
私が注目したのは、「コロンブスより先にアメリカ大陸に上陸したバイキング」という項目で、バイキングは、メキシコのマヤの古代都市チチェン・イッツァにまで到達していたと言う見解である。
同地にある「戦士の神殿」の壁画に描かれている捕虜は、ブロンドで目の色が明るく、肌の色は白い。バイキングの身体的特徴とかなり一致するので、仮説として証拠立て得るとする。
これだけで、バイキングが、メキシコに到達した証拠とは言いがたいかも知れないが、マヤやアステカ文明は、スペインのコンキスタドール・コルテス侵攻以前に、既に、華やかな帝国を築いて栄えていたので、バイキングとの遭遇が興味深い。
このチチェン・イッツァには、ウシュマルやパレンケなどのマヤ遺跡と一緒に、一度だけ訪れている。この口絵写真の建物には、階段の急斜面に恐怖を感じて残念ながら頂上まで上れなかった。インディオの戦士達は、重い甲冑をつけて駆け上がったのだが。
何故繁栄を極めたマヤ文明が、ジャングルの中に忽然と消えてしまうのか、不思議で仕方なかったが、何かの本に、鋤鍬を発明出来なかったので、十分な農耕を行えなくて疲弊した土地を放棄せざるを得なかったのだと言うことが書いてあったの覚えているが、インカやアステカ文明など、南北アメリカの古代文明には、西欧世界史でもフォローできない未知の疑問が多い。
東西交渉史、異文化異文明の遭遇は非常に面白い。