ブラジルが、BRIC’sのみならず、世界第8位の経済大国でありながら、日本では、ブラジルを正しく語っている書物が非常に少ない。
この新書も、結構人気が高く、かなり読まれているようで、読み物としては非常に面白いし、著者が、ジャーナリストとして博学多識なので、ブラジルについての知識欲は、それなりに満足させてくれる。
しかし、話題が、総花的かつ表面的であり、ブラジルについて、本当に基本的で重要な特質については殆ど無視して、正面切って論じていない嫌いがあり、特に、ブラジルとのビジネス上には、ブラジル・コストの存在等わずかな示唆しか示し得ていない。
まず、ブラジルは、典型的なラテン民族の国家であって、アミーゴ社会が、政治経済社会の根幹をなしていると言う厳粛なる事実である。
グローバル・ビジネスでの日本企業の多くの失敗は、悉く、このホスト国の現状と事実認識の欠如にあり、特に、日本社会と大きく違ったブラジルを理解するためには必須の知識である。
この論点については、このブログで、ニューヨーク・タイムズの記者ラリー・ローターの近著「BRAZIL ON THE RIZE」をテキストに、ブラジル論を論じている(このブログの左欄の「カテゴリー」の「BRIC’sの大国:ブラジル」をクリックすれば参照可能)ので、その私の記述から引用して論を進める。概略次の通り。
”最も重要な論点の一つは、ブラジルが、アミーゴ社会であると言うことで、この特質を、同じ人種の坩堝であるアメリカ社会と対比させながら論じておきたい。
アミーゴは、本来はスペイン語で「友達」の意味の男性形名詞(amigo)だが、
これでは、分かりにくので、華僑やユダヤ社会などの仲間意識とその信頼結束関係に近い概念で、自分の親しい友人(AMIGO)との関係は、契約よりも優先すると言った人間関係で、もっと広範で深い意味合いの概念なのである。
アメリカ社会は、全く背景の違った異民族異人種の集合体であるから、関係を処理するためには、法律や契約が総てで、主に裁判で決着を付けようとするのだが、同じ、人種の坩堝であるブラジル、と言うよりも、ラテン社会では、法律は朝令暮改であったり順守されないことが多く、契約も無視されたり軽視される傾向が強いので頼りにならず、ビジネスや紛争の処理などを上手く運ぶためには、相手とのアミーゴ関係が優先して決着を見るケースが多いと言うことである。
極論すれば、アメリカでは、ビジネス上の取引は法律と契約書で処理するが、ラテンの世界では、契約など全くなしで成立することもあり、もし、約束を破れば、村八分となり、重要な財産であるアミーゴも信用の一切をも失うことになる。
したがって、ブラジルでビジネスを行う場合、いくら素晴らしいバランスシートを示して日本で有名な大企業だと言っても駄目で、地道なアミーゴ関係の構築こそが王道なのだと言えば言い過ぎであろうか。
経済社会を結ぶ掟が、法律・契約か、アミーゴ関係か、と言うことは重要な差で、日本の場合には、英米流に、法律・契約関係の比重が増してきてはいるが、紳士協定だとか、貴方と私の仲だからとか、アミーゴ関係的な面も残っていて、謂わば、レオポン社会だと言えよう。
私の経験からは、現実は、大分変っているかも知れないが、ローターの本を読む限り、ブラジルのこのアミーゴ文化は、それ程変わっていないようである。”
私自身、途中で何の前触れもなく税法など法律が変えられたり、ブラジル企業に契約違反や破棄されたことがあったが、出る所へ出て決着するなど不可能で、ブラジル社会が、必ずしも、我々が考えているような法治国家ではないことを十分に経験している。
ブラジル人の遵法精神についても、ローター説を敷衍する。
”法令文書にどんなことが書かれていても、権力者やエリートにとっては、例外規定はいくらでも見だし得るし、法違反は見逃される。
法の完全執行や励行は、権力や権威に挑戦する権力者の敵に対してのみ情け容赦なく適用される。
それに、多くのブラジル人は、法律は、権力と威圧の手段であって、正義公正の手段ではないと考えている。
したがって、法に従うのを避けようとしたり、出来るだけ逃げようとするのは、プライドの問題であり、義務だと言うことで、法が、自分たちの個人的な目的や利益に反する場合には、特にそうだと言うのである。
大企業でも、法で決められている当然の義務である従業員のための社会保証や健康保険負担金を政府に支払わない会社がある。
法は、行動を規制する規範ではなく、単なる理想と良き意思への表現であると言うのであるから、憲法に至っては、世界のどこにもないような、あらゆる国民の人権を保障するとする最も寛大で進歩的なものなのだが、貧しい人々や差別に苦しむ人々に福音となる筈の多くの人権擁護も、ただ単なる紙の上だけの記述だと言うのだから恐れ入る。
法令義務であるにも拘わらず、これまでに、議会は、これらの憲法で保障されている権利を擁護するために予算措置を取ったことは一度もない。
ブラジルでは、一般的な生活慣習と同様に、法の執行を宣言すると言うことは、実際に実行するのと同じであると言わんばかりで、誰もが、その約束が実行されないことを知っているので、真面目に受け取らないのである。
平等を謳った超理想的な憲法があるにも拘わらず、最近まで、大卒が罪を犯しても、独房から解放されて快適な環境に置かれるとか、有名財界人のドラ息子が罪を犯しても罰されないと言ったことは日常茶飯事だと言う。”
私は、ラテン国家であるフランスで、ラテン流ビジネスの一端に触れたことがあるが、「ブラジル流儀」は桁外れである。
著者が冒頭で論じている「ジェイチーニョ(法や規制で禁じられていることでも、知恵を絞って(?)うまく処理する方法)」なども、正面衝突による摩擦を避けるブラジル流の問題解決法でも何でもなく、大半は、非効率極まりない役所仕事と役人の腐敗堕落を避けるために生まれた庶民の知恵の片鱗なのである。
ブラジルの歴史や文化文明の推移を別な観点から見れば、著者の説明についてはいくらか異論があるが、一つだけ追加する。
「なぜ人種差別がすくないのか」と言うことだが、むしろ逆で、厳しい人種差別が厳然と存在すると言う事実があるからこそ、一握りの白人エリートとファベーラに住む膨大な貧しい貧困層を形成する黒人(ムラト・ムラタ)との世界でも最悪だと言う異常な格差があるのであって、このことが現実を如実に物語っている。
この本でも論じているが、群を抜いている治安の悪さは、ここに病根がある。
余談だが、私にとってブラジルで印象的な言葉は、アミーゴ以外にもう二つ。... 「アテ アマニャ Ate amanhaまた明日」と言う国民気質。スペイン語だと「アスタ・マニアーナ hasta ma·ñana (mä nyä′nä)」と言う言葉で、英語だとso long; (I'll) see you tomorrow: Actually, it means "until tomorrow". と言うことだが、いつまでも、また明日と言うことが多かったし、未来の大国と言われ続けて来た所以でもあろう。もう一つ、「マイゾメーノスMais ou menos 」 英語だと so so, more or less, somewhat, thereabout, so と言うことだが、如何にも、いい加減で無責任、大らかと言うか曖昧模糊としたブラジル人の笑顔が忘れられない。
ここで、反論ついでに、ブラジルの暗部を展開してきたように見えるが、私自身は、偶々、現在の権威的な見解である英米流の価値観なり世界観から見ると、特に、米人ローター説に基づけば、このような展開になるのだが、長い人類の歴史から見れば、ラテン流のアミーゴ社会が間違っているとも、決して悪いとも思っていないし、歴史過程での文化文明の一局面だと思っている。そして、ブラジルは、BRIC”sの中でも日本で最も重要な国だと思っていることを付言して置きたい。
大切なのは、正しいか正しくないかと言うことではなく、真実を正しい視線から正確に見ることで、これを誤ると、正しいブラジルとの付き合いは出来ないと言うことである。
先日論じたテドローの真の現実を直視しない「否認」と同じ臍を噛むこととなる。
この新書も、結構人気が高く、かなり読まれているようで、読み物としては非常に面白いし、著者が、ジャーナリストとして博学多識なので、ブラジルについての知識欲は、それなりに満足させてくれる。
しかし、話題が、総花的かつ表面的であり、ブラジルについて、本当に基本的で重要な特質については殆ど無視して、正面切って論じていない嫌いがあり、特に、ブラジルとのビジネス上には、ブラジル・コストの存在等わずかな示唆しか示し得ていない。
まず、ブラジルは、典型的なラテン民族の国家であって、アミーゴ社会が、政治経済社会の根幹をなしていると言う厳粛なる事実である。
グローバル・ビジネスでの日本企業の多くの失敗は、悉く、このホスト国の現状と事実認識の欠如にあり、特に、日本社会と大きく違ったブラジルを理解するためには必須の知識である。
この論点については、このブログで、ニューヨーク・タイムズの記者ラリー・ローターの近著「BRAZIL ON THE RIZE」をテキストに、ブラジル論を論じている(このブログの左欄の「カテゴリー」の「BRIC’sの大国:ブラジル」をクリックすれば参照可能)ので、その私の記述から引用して論を進める。概略次の通り。
”最も重要な論点の一つは、ブラジルが、アミーゴ社会であると言うことで、この特質を、同じ人種の坩堝であるアメリカ社会と対比させながら論じておきたい。
アミーゴは、本来はスペイン語で「友達」の意味の男性形名詞(amigo)だが、
これでは、分かりにくので、華僑やユダヤ社会などの仲間意識とその信頼結束関係に近い概念で、自分の親しい友人(AMIGO)との関係は、契約よりも優先すると言った人間関係で、もっと広範で深い意味合いの概念なのである。
アメリカ社会は、全く背景の違った異民族異人種の集合体であるから、関係を処理するためには、法律や契約が総てで、主に裁判で決着を付けようとするのだが、同じ、人種の坩堝であるブラジル、と言うよりも、ラテン社会では、法律は朝令暮改であったり順守されないことが多く、契約も無視されたり軽視される傾向が強いので頼りにならず、ビジネスや紛争の処理などを上手く運ぶためには、相手とのアミーゴ関係が優先して決着を見るケースが多いと言うことである。
極論すれば、アメリカでは、ビジネス上の取引は法律と契約書で処理するが、ラテンの世界では、契約など全くなしで成立することもあり、もし、約束を破れば、村八分となり、重要な財産であるアミーゴも信用の一切をも失うことになる。
したがって、ブラジルでビジネスを行う場合、いくら素晴らしいバランスシートを示して日本で有名な大企業だと言っても駄目で、地道なアミーゴ関係の構築こそが王道なのだと言えば言い過ぎであろうか。
経済社会を結ぶ掟が、法律・契約か、アミーゴ関係か、と言うことは重要な差で、日本の場合には、英米流に、法律・契約関係の比重が増してきてはいるが、紳士協定だとか、貴方と私の仲だからとか、アミーゴ関係的な面も残っていて、謂わば、レオポン社会だと言えよう。
私の経験からは、現実は、大分変っているかも知れないが、ローターの本を読む限り、ブラジルのこのアミーゴ文化は、それ程変わっていないようである。”
私自身、途中で何の前触れもなく税法など法律が変えられたり、ブラジル企業に契約違反や破棄されたことがあったが、出る所へ出て決着するなど不可能で、ブラジル社会が、必ずしも、我々が考えているような法治国家ではないことを十分に経験している。
ブラジル人の遵法精神についても、ローター説を敷衍する。
”法令文書にどんなことが書かれていても、権力者やエリートにとっては、例外規定はいくらでも見だし得るし、法違反は見逃される。
法の完全執行や励行は、権力や権威に挑戦する権力者の敵に対してのみ情け容赦なく適用される。
それに、多くのブラジル人は、法律は、権力と威圧の手段であって、正義公正の手段ではないと考えている。
したがって、法に従うのを避けようとしたり、出来るだけ逃げようとするのは、プライドの問題であり、義務だと言うことで、法が、自分たちの個人的な目的や利益に反する場合には、特にそうだと言うのである。
大企業でも、法で決められている当然の義務である従業員のための社会保証や健康保険負担金を政府に支払わない会社がある。
法は、行動を規制する規範ではなく、単なる理想と良き意思への表現であると言うのであるから、憲法に至っては、世界のどこにもないような、あらゆる国民の人権を保障するとする最も寛大で進歩的なものなのだが、貧しい人々や差別に苦しむ人々に福音となる筈の多くの人権擁護も、ただ単なる紙の上だけの記述だと言うのだから恐れ入る。
法令義務であるにも拘わらず、これまでに、議会は、これらの憲法で保障されている権利を擁護するために予算措置を取ったことは一度もない。
ブラジルでは、一般的な生活慣習と同様に、法の執行を宣言すると言うことは、実際に実行するのと同じであると言わんばかりで、誰もが、その約束が実行されないことを知っているので、真面目に受け取らないのである。
平等を謳った超理想的な憲法があるにも拘わらず、最近まで、大卒が罪を犯しても、独房から解放されて快適な環境に置かれるとか、有名財界人のドラ息子が罪を犯しても罰されないと言ったことは日常茶飯事だと言う。”
私は、ラテン国家であるフランスで、ラテン流ビジネスの一端に触れたことがあるが、「ブラジル流儀」は桁外れである。
著者が冒頭で論じている「ジェイチーニョ(法や規制で禁じられていることでも、知恵を絞って(?)うまく処理する方法)」なども、正面衝突による摩擦を避けるブラジル流の問題解決法でも何でもなく、大半は、非効率極まりない役所仕事と役人の腐敗堕落を避けるために生まれた庶民の知恵の片鱗なのである。
ブラジルの歴史や文化文明の推移を別な観点から見れば、著者の説明についてはいくらか異論があるが、一つだけ追加する。
「なぜ人種差別がすくないのか」と言うことだが、むしろ逆で、厳しい人種差別が厳然と存在すると言う事実があるからこそ、一握りの白人エリートとファベーラに住む膨大な貧しい貧困層を形成する黒人(ムラト・ムラタ)との世界でも最悪だと言う異常な格差があるのであって、このことが現実を如実に物語っている。
この本でも論じているが、群を抜いている治安の悪さは、ここに病根がある。
余談だが、私にとってブラジルで印象的な言葉は、アミーゴ以外にもう二つ。... 「アテ アマニャ Ate amanhaまた明日」と言う国民気質。スペイン語だと「アスタ・マニアーナ hasta ma·ñana (mä nyä′nä)」と言う言葉で、英語だとso long; (I'll) see you tomorrow: Actually, it means "until tomorrow". と言うことだが、いつまでも、また明日と言うことが多かったし、未来の大国と言われ続けて来た所以でもあろう。もう一つ、「マイゾメーノスMais ou menos 」 英語だと so so, more or less, somewhat, thereabout, so と言うことだが、如何にも、いい加減で無責任、大らかと言うか曖昧模糊としたブラジル人の笑顔が忘れられない。
ここで、反論ついでに、ブラジルの暗部を展開してきたように見えるが、私自身は、偶々、現在の権威的な見解である英米流の価値観なり世界観から見ると、特に、米人ローター説に基づけば、このような展開になるのだが、長い人類の歴史から見れば、ラテン流のアミーゴ社会が間違っているとも、決して悪いとも思っていないし、歴史過程での文化文明の一局面だと思っている。そして、ブラジルは、BRIC”sの中でも日本で最も重要な国だと思っていることを付言して置きたい。
大切なのは、正しいか正しくないかと言うことではなく、真実を正しい視線から正確に見ることで、これを誤ると、正しいブラジルとの付き合いは出来ないと言うことである。
先日論じたテドローの真の現実を直視しない「否認」と同じ臍を噛むこととなる。