今日の普及公演の能は、「橋弁慶」。
私が子供の頃に「京の五条の橋の上・・・」と歌っていたよく知っている、牛若丸と弁慶の出会いと主従の誓いを主題にした曲である。
能のことは知らなかったのは当然なのだが、私の理解では、
千本の刀を集めようと刀狩をしていた弁慶が、あと一本で千本と言う日に、五条橋の上で牛若丸に出会って、ひらりひらりと交わされて打ち負かされてしまい、敵わぬと思って家来になると言う話である。
弁慶も牛若丸も、その出立やシチュエーションなどは殆ど子供の頃の理解と同じなのだが、
この能は、全く話の中身が違っていて、千人切りをするのは、荒法師の弁慶ではなくて、牛若丸の方で、この日も、牛若丸が獲物の来るのを五条の橋の上で待っているところへ、弁慶が通りかかると言うストーリー展開なのである。
大体、能の場合の義経は、子方が演じている場合が多く、この能のシテは、前後とも弁慶(武田志房)で、牛若丸(武田章志)は、子方が、堂々とシテと渡り合うばかりの立働きをしていて、中々の見ものである。
ついでながら、トモ/弁慶の従者として志房の長男の武田友志が登場しており、牛若の章志が、友志の長男であるから、この日は、非常に稀有で目出度い三代能が演じられたのである。
シテの志房は、直面で、精悍で重厚な表情が冴えていて感動的な武蔵坊弁慶を舞い、牛若丸の章志が、9歳ながら、12~3歳の堂々とした若武者ぶりを器用に演じていて、素晴らしい舞台であったので、映画やテレビ、本などで得た情報やイメージを総動員して、頭の中で、五条の橋の上での牛若と弁慶の遭遇を思い描きながら楽しませて貰った。
この曲は、上演時間65分と言う非常に短い舞台で、それに、ワキ方が登場せず、殆ど、弁慶と牛若の舞台で、アイの洛中の男二人が、間狂言のように、牛若に切りつけられて這う這うの体で逃げて来て恐怖に戦くと言った芝居を舞台で演じており、ストーリーもシンプルで、詞章も分かり易い表現であったので、字幕に頼らなくても楽しむことが出来た。
この日は、甲南大の田中貴子教授が、「京の五条の橋の上」と言うタイトルで、「橋弁慶」をめぐる説話など、京都や五条橋など詳しく解説されたので、興味深く聞いた。
私自身、京都で大学生活を送り、その後も頻繁に京都を訪れており、この清水や五条(松原通り)あたりも良く知っているので、大体のイメージは湧いてくる。
さて、ここで、牛若丸、すなわち、義経を、どう言う人物であったと考えるかと言うことである。
まず、この能の如く牛若丸が千人切りの当事者とするならば、その目的が、父義朝の仇を討つために平家所縁の人たちを狙うと言うことは分かるのだが、何故、洛中の一般庶民まで手に掛けるのかと言うことである。
義経に対しては、日本人の大半は、判官贔屓で、歌舞伎も文楽も、芝居も小説も、そして、物語の大半は、美化されていて、素晴らしい武将として理想的に、時には神格化さえして描かれている。
果たして、そうであろうか。
私は、平家びいきなので、判官贔屓ではない。
大分以前に、吉右衛門の「義経千本桜」の「渡海屋」「大物浦」のレビューで、次のような文章を書いたことがある。
”一般的な評論に、義経役者(この時の義経は富十郎)に品格が要求されるとしているが、私見ながら、これは判官びいきの見解で、(この舞台はともかくとしても)、私自身は、義経が、壇ノ浦の戦いで、絶対にやってはならない敵方の船の漕ぎ手や船頭、婦女子など射てはならない人々を、情け容赦なく射抜くなど禁じ手を、勝つ為には平気で使うなど、平家との戦いにおいて、あっちこっちで条規を逸した戦略戦術を使っているので、許せないと思っているし、舞台上はともかくも、品格など必要ないと思っている。”
別に、義経について、悪意も何もないが、普通の歴史上の武将と考えれば良いと思っているだけである。
粟谷能の会の「橋弁慶」についてで、粟谷明生師が、義経像について、非常に興味深いレポートを書いていて参考になる。
”・・・、七歳の春には、母に暇を乞い、具足、刀、笛などを餞別に得て鞍馬に登山しています。しかし牛若は平家の稚児達と一騒動を起こし、別当の押さえや常磐の諫めで一応おさまるもののさまざまな事件を起こし、とかく暴れん坊の問題児だったようです。
十一歳ごろ牛若は沙那王と呼ばれ、僧正ヶ谷に通って大天狗に兵法を学んだといわれています。”として、
能『鞍馬天狗』について触れて、幼い牛若に、源氏の残党と思われる天狗が、”平家の横暴や義朝の非業の死、源氏再興の願いなどを話し、源氏の無念を晴らすのだと教育したものと思われ、現に牛若は天狗に会ってからは学問そっちのけ、剣術ばかりに打ち込んで、ますます暴れん坊に磨きをかけていきます。”と言う。
更に、”天狗の教育が利いてか、牛若は十五歳になると、父の孝養のために千人辻斬りの願を立てます。非業の死をとげた父の無念を晴らすためといわれています。千人斬りの相手は恨みある平家方の武士だけではなく一般町民にも及んだようです。それにしても千人とは大変な願だったと思われます。
このように見ると、歴史的には能『橋弁慶』が描くように、牛若の千人斬りのほうが信憑性があるように思えてきました。”と解説していて、非常に興味深い。
さて、私は、壇ノ浦での、戦争法違反(?)についてだけ触れたが、
義経が頼朝の怒りを買った原因については、ウイキペディアでは、
許可なく官位を受けたこと、平氏追討に頼朝から軍監として派遣されていた梶原景時の意見を無視して独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に厳しく対処して頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買ったなど、自専の振る舞いが目立った事。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。”としている。
頼朝だけが一方的に悪いのではなくて、義経にも、相当の非があって、不幸にも仲違いを引き起こしたと言うことであろう。
生まれも育ちも違った頼朝と義経が、会って意思の疎通を図る機会も殆どなく、義経が、平家討伐と言う歴史的な大事業を成し遂げたのであるから、このような行き違いや独断専行があったとしても、不思議ではなく、その偉業(?)とも言うべき義経の働きについては、それなりの評価をすべきであって、いささかも色褪せる筈もない。
義経にとっては、悲劇であったればこそ、歴史的な事実はともかく、判官贔屓が、日本人の琴線を振るわせるのであろうが、物語の世界では、格好の話題を提供していると言えよう。
ところで、この能「橋弁慶」は単純だが、観世流にしかない小書「笛の巻」では、粟谷の会によると、
”通常の前場と様相がガラリと変わり、前シテが常磐御前、ワキが羽田秋長となり、ワキが牛若の千人斬りを常磐御前に伝えます。常磐御前は牛若を呼び、涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。しかし実際には五条で月を見ると言いながらも、謡では「通る人をぞ待ちにける」と、最後の相手を待ち望んでもいる・・・”と言うことになって、今回の能の舞台に、すんなりと話が繋がる。
いずれにしろ、我々が抱いている義経像に対して、一石を投じたような、能「橋弁慶」の興味深さは、中々のもので、色々なことを考えさせてくれた。
私が子供の頃に「京の五条の橋の上・・・」と歌っていたよく知っている、牛若丸と弁慶の出会いと主従の誓いを主題にした曲である。
能のことは知らなかったのは当然なのだが、私の理解では、
千本の刀を集めようと刀狩をしていた弁慶が、あと一本で千本と言う日に、五条橋の上で牛若丸に出会って、ひらりひらりと交わされて打ち負かされてしまい、敵わぬと思って家来になると言う話である。
弁慶も牛若丸も、その出立やシチュエーションなどは殆ど子供の頃の理解と同じなのだが、
この能は、全く話の中身が違っていて、千人切りをするのは、荒法師の弁慶ではなくて、牛若丸の方で、この日も、牛若丸が獲物の来るのを五条の橋の上で待っているところへ、弁慶が通りかかると言うストーリー展開なのである。
大体、能の場合の義経は、子方が演じている場合が多く、この能のシテは、前後とも弁慶(武田志房)で、牛若丸(武田章志)は、子方が、堂々とシテと渡り合うばかりの立働きをしていて、中々の見ものである。
ついでながら、トモ/弁慶の従者として志房の長男の武田友志が登場しており、牛若の章志が、友志の長男であるから、この日は、非常に稀有で目出度い三代能が演じられたのである。
シテの志房は、直面で、精悍で重厚な表情が冴えていて感動的な武蔵坊弁慶を舞い、牛若丸の章志が、9歳ながら、12~3歳の堂々とした若武者ぶりを器用に演じていて、素晴らしい舞台であったので、映画やテレビ、本などで得た情報やイメージを総動員して、頭の中で、五条の橋の上での牛若と弁慶の遭遇を思い描きながら楽しませて貰った。
この曲は、上演時間65分と言う非常に短い舞台で、それに、ワキ方が登場せず、殆ど、弁慶と牛若の舞台で、アイの洛中の男二人が、間狂言のように、牛若に切りつけられて這う這うの体で逃げて来て恐怖に戦くと言った芝居を舞台で演じており、ストーリーもシンプルで、詞章も分かり易い表現であったので、字幕に頼らなくても楽しむことが出来た。
この日は、甲南大の田中貴子教授が、「京の五条の橋の上」と言うタイトルで、「橋弁慶」をめぐる説話など、京都や五条橋など詳しく解説されたので、興味深く聞いた。
私自身、京都で大学生活を送り、その後も頻繁に京都を訪れており、この清水や五条(松原通り)あたりも良く知っているので、大体のイメージは湧いてくる。
さて、ここで、牛若丸、すなわち、義経を、どう言う人物であったと考えるかと言うことである。
まず、この能の如く牛若丸が千人切りの当事者とするならば、その目的が、父義朝の仇を討つために平家所縁の人たちを狙うと言うことは分かるのだが、何故、洛中の一般庶民まで手に掛けるのかと言うことである。
義経に対しては、日本人の大半は、判官贔屓で、歌舞伎も文楽も、芝居も小説も、そして、物語の大半は、美化されていて、素晴らしい武将として理想的に、時には神格化さえして描かれている。
果たして、そうであろうか。
私は、平家びいきなので、判官贔屓ではない。
大分以前に、吉右衛門の「義経千本桜」の「渡海屋」「大物浦」のレビューで、次のような文章を書いたことがある。
”一般的な評論に、義経役者(この時の義経は富十郎)に品格が要求されるとしているが、私見ながら、これは判官びいきの見解で、(この舞台はともかくとしても)、私自身は、義経が、壇ノ浦の戦いで、絶対にやってはならない敵方の船の漕ぎ手や船頭、婦女子など射てはならない人々を、情け容赦なく射抜くなど禁じ手を、勝つ為には平気で使うなど、平家との戦いにおいて、あっちこっちで条規を逸した戦略戦術を使っているので、許せないと思っているし、舞台上はともかくも、品格など必要ないと思っている。”
別に、義経について、悪意も何もないが、普通の歴史上の武将と考えれば良いと思っているだけである。
粟谷能の会の「橋弁慶」についてで、粟谷明生師が、義経像について、非常に興味深いレポートを書いていて参考になる。
”・・・、七歳の春には、母に暇を乞い、具足、刀、笛などを餞別に得て鞍馬に登山しています。しかし牛若は平家の稚児達と一騒動を起こし、別当の押さえや常磐の諫めで一応おさまるもののさまざまな事件を起こし、とかく暴れん坊の問題児だったようです。
十一歳ごろ牛若は沙那王と呼ばれ、僧正ヶ谷に通って大天狗に兵法を学んだといわれています。”として、
能『鞍馬天狗』について触れて、幼い牛若に、源氏の残党と思われる天狗が、”平家の横暴や義朝の非業の死、源氏再興の願いなどを話し、源氏の無念を晴らすのだと教育したものと思われ、現に牛若は天狗に会ってからは学問そっちのけ、剣術ばかりに打ち込んで、ますます暴れん坊に磨きをかけていきます。”と言う。
更に、”天狗の教育が利いてか、牛若は十五歳になると、父の孝養のために千人辻斬りの願を立てます。非業の死をとげた父の無念を晴らすためといわれています。千人斬りの相手は恨みある平家方の武士だけではなく一般町民にも及んだようです。それにしても千人とは大変な願だったと思われます。
このように見ると、歴史的には能『橋弁慶』が描くように、牛若の千人斬りのほうが信憑性があるように思えてきました。”と解説していて、非常に興味深い。
さて、私は、壇ノ浦での、戦争法違反(?)についてだけ触れたが、
義経が頼朝の怒りを買った原因については、ウイキペディアでは、
許可なく官位を受けたこと、平氏追討に頼朝から軍監として派遣されていた梶原景時の意見を無視して独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に厳しく対処して頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買ったなど、自専の振る舞いが目立った事。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。”としている。
頼朝だけが一方的に悪いのではなくて、義経にも、相当の非があって、不幸にも仲違いを引き起こしたと言うことであろう。
生まれも育ちも違った頼朝と義経が、会って意思の疎通を図る機会も殆どなく、義経が、平家討伐と言う歴史的な大事業を成し遂げたのであるから、このような行き違いや独断専行があったとしても、不思議ではなく、その偉業(?)とも言うべき義経の働きについては、それなりの評価をすべきであって、いささかも色褪せる筈もない。
義経にとっては、悲劇であったればこそ、歴史的な事実はともかく、判官贔屓が、日本人の琴線を振るわせるのであろうが、物語の世界では、格好の話題を提供していると言えよう。
ところで、この能「橋弁慶」は単純だが、観世流にしかない小書「笛の巻」では、粟谷の会によると、
”通常の前場と様相がガラリと変わり、前シテが常磐御前、ワキが羽田秋長となり、ワキが牛若の千人斬りを常磐御前に伝えます。常磐御前は牛若を呼び、涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。しかし実際には五条で月を見ると言いながらも、謡では「通る人をぞ待ちにける」と、最後の相手を待ち望んでもいる・・・”と言うことになって、今回の能の舞台に、すんなりと話が繋がる。
いずれにしろ、我々が抱いている義経像に対して、一石を投じたような、能「橋弁慶」の興味深さは、中々のもので、色々なことを考えさせてくれた。