かってのアメリカは、経済の繁栄をもたらす果実がふんだんにある前途洋々たる新世界であったのだが、1970年以降、無償の土地、イノベーション、賢いがこれまで教育を受けてこなかった子供たちと言う3種類の経済成長を後押ししていた”容易に収穫できる果実”を殆ど食べ尽くしてしまったので、アメリカ経済は、大停滞期に突入している。
特定の事件が原因で経済成長が鈍化したわけではなく、これまでの成長の源泉が枯渇しつつある結果での経済不況であって、特に、イノベーションなどは停滞期にあり、成長を牽引する次の源泉となる新しい革命を見出し得ていないと言う現実を、人々は認識していない。
コーエンの論点は、この視点から、現在のアメリカの経済の現状を論じながら、最後に、しからば、出口はどこにあり、どうすれば脱出できるのか、新しいトレンドを見据えながら論じていて興味深い。
イノベーションは波を打つものであって、現在のアメリカは、そのイノベーションが深刻な停滞期に陥っており、
欧日などの先進国の経済が同様に減速しているのだが、中国やインドなどが、これら先進国の最良のテクノロジーと仕組みを借用して、キャッチアップ型成長を志向すれば、世界経済全体は、力強い成長を続けられるのであり、先行きを楽観できる理由はある。と言う。
したがって、著者は、現実のアメリカ経済は、”容易に収穫できる果実”の枯渇によって大停滞期にあり、さしあたりは、過去に経験したことのないくらい、景気後退が長引き、目下の景気後退を脱しても、まだ低成長期が続くかも知れないことを覚悟すべきではあるが、長期的には、経済の先行きを楽観していると述べている。
コーエンの卓越性は、アメリカ経済を、かなり、長期の視点で捉えて現在の深刻な大停滞を論じておりながら、あの産業革命の勃発のような台頭があり得ると示唆している点ではないかと思う。
クルーグマンやルービニやサックスなどは、マクロ経済と経済開発や流動性の罠、金融危機、アフリカの未来などを論じているが、サイエンスとテクノロジーに関する重要な視点の多くを欠き、イノベーションの停滞期がどのようにして到来するのかと言う歴史的認識を持っていないと手厳しく批判している。
クルーグマンの1950年の理想的な経済への郷愁については、あの当時は、”容易に収穫できる果実”がまだ十分あったからできたことであって、今実現するためには、実質所得が急速に伸びていることが不可欠だが、実質所得は伸び悩んでいて、大停滞期には不可能だと一蹴している。
クルーグマンについては、私自身、これまでに、殆どケインジアン的な需要サイドの視点からの論述ばかりで、サプライサイド側の視点が欠如していることに疑問を呈し続けてきたので、コーエン論には納得できる。
イノベーションについては、1880年から1940年にかけて、数々の目覚ましい新技術が我々の生活に取り入れられてきたが、それ以降は、インターネット以外は、物質的な面に限ると、我々の暮らしは、1953年以降大して変わっていないし、画期的だと言われていた月面着陸も、我々の生活を何ら変えなかった。と述べており、
21世紀の我々よりも、19世紀の人々の方が重要な発明を生み出した確率が高かったし、
今日では、有意義なイノベーションを行うことが昔より難しくなり、多くの資金投入が必要となって投資回収率が悪化している。と言う。
コーエンは、無償の土地などの経済的フロンティアの消失を論じてはいるのだが、このイノベーションの未来が見えない低迷・停滞こそが、大停滞論の根幹だと論じているのである。
興味深いのは、近年のイノベーションの多くは、「公共財」ではなくて「私的財」の性格を帯びていると言う指摘である。
経済的・政治的な既得権を強化したロビー活動によって、政府支援による知財保護を過剰に求めた一部の者のための商品を生み出したり、胡散臭い金融イノベーションなどを筆頭にして、高所得層など一部を利する傾向が強くなっており、同時に、イノベーションの減速は、所得格差の拡大と表裏一体となっている。と論じている。
さて、唯一の注目すべき今日のイノベーションであるインターネットについて、興味深い論述を展開していて面白い。
インターネットは、知的・情緒的な面で有益なものを新たに生み出すための自由な空間として機能していて、安価で豊かな娯楽など、我々の内面生活を豊かにするための無限のキャンバスだが、その影響の大きさに比べて、収入を生み出す側面は影が薄い。
インターネット上で行われている活動の殆どは、人力ではなく機械で多くの業務が行われていて、過去の画期的なテクノロジーほどのペースで雇用と収入を生み出しておらず、ジョブレス・リカバリーを引き起こしている。と言うのである。
この本は、実質100ページ一寸の翻訳本だが、一世を風靡した非常に示唆に富んだ経済学書で、この他にも興味深い議論が展開されているが、一つ、日本についてのコメントが面白い。
過去25年間の日本経済の停滞について批判的な論調が多いが、高度成長から超低成長への移行過程で、政府や社会の骨組みが無残に破壊されることはなかったし、落ち着いて対処しており、日本人の暮らし向きは、今も概ね悪くない。
今日の日本は低成長時代の生き方を示すお手本なのだ。と言うのである。
しかし、大停滞はともかく、ある程度の経済成長か何らかの歴史的異変などがなければ、徳政令的な施策を打たない限り、日本の財政は破綻してしまうのだが、喜んで良いのであろうか。
特定の事件が原因で経済成長が鈍化したわけではなく、これまでの成長の源泉が枯渇しつつある結果での経済不況であって、特に、イノベーションなどは停滞期にあり、成長を牽引する次の源泉となる新しい革命を見出し得ていないと言う現実を、人々は認識していない。
コーエンの論点は、この視点から、現在のアメリカの経済の現状を論じながら、最後に、しからば、出口はどこにあり、どうすれば脱出できるのか、新しいトレンドを見据えながら論じていて興味深い。
イノベーションは波を打つものであって、現在のアメリカは、そのイノベーションが深刻な停滞期に陥っており、
欧日などの先進国の経済が同様に減速しているのだが、中国やインドなどが、これら先進国の最良のテクノロジーと仕組みを借用して、キャッチアップ型成長を志向すれば、世界経済全体は、力強い成長を続けられるのであり、先行きを楽観できる理由はある。と言う。
したがって、著者は、現実のアメリカ経済は、”容易に収穫できる果実”の枯渇によって大停滞期にあり、さしあたりは、過去に経験したことのないくらい、景気後退が長引き、目下の景気後退を脱しても、まだ低成長期が続くかも知れないことを覚悟すべきではあるが、長期的には、経済の先行きを楽観していると述べている。
コーエンの卓越性は、アメリカ経済を、かなり、長期の視点で捉えて現在の深刻な大停滞を論じておりながら、あの産業革命の勃発のような台頭があり得ると示唆している点ではないかと思う。
クルーグマンやルービニやサックスなどは、マクロ経済と経済開発や流動性の罠、金融危機、アフリカの未来などを論じているが、サイエンスとテクノロジーに関する重要な視点の多くを欠き、イノベーションの停滞期がどのようにして到来するのかと言う歴史的認識を持っていないと手厳しく批判している。
クルーグマンの1950年の理想的な経済への郷愁については、あの当時は、”容易に収穫できる果実”がまだ十分あったからできたことであって、今実現するためには、実質所得が急速に伸びていることが不可欠だが、実質所得は伸び悩んでいて、大停滞期には不可能だと一蹴している。
クルーグマンについては、私自身、これまでに、殆どケインジアン的な需要サイドの視点からの論述ばかりで、サプライサイド側の視点が欠如していることに疑問を呈し続けてきたので、コーエン論には納得できる。
イノベーションについては、1880年から1940年にかけて、数々の目覚ましい新技術が我々の生活に取り入れられてきたが、それ以降は、インターネット以外は、物質的な面に限ると、我々の暮らしは、1953年以降大して変わっていないし、画期的だと言われていた月面着陸も、我々の生活を何ら変えなかった。と述べており、
21世紀の我々よりも、19世紀の人々の方が重要な発明を生み出した確率が高かったし、
今日では、有意義なイノベーションを行うことが昔より難しくなり、多くの資金投入が必要となって投資回収率が悪化している。と言う。
コーエンは、無償の土地などの経済的フロンティアの消失を論じてはいるのだが、このイノベーションの未来が見えない低迷・停滞こそが、大停滞論の根幹だと論じているのである。
興味深いのは、近年のイノベーションの多くは、「公共財」ではなくて「私的財」の性格を帯びていると言う指摘である。
経済的・政治的な既得権を強化したロビー活動によって、政府支援による知財保護を過剰に求めた一部の者のための商品を生み出したり、胡散臭い金融イノベーションなどを筆頭にして、高所得層など一部を利する傾向が強くなっており、同時に、イノベーションの減速は、所得格差の拡大と表裏一体となっている。と論じている。
さて、唯一の注目すべき今日のイノベーションであるインターネットについて、興味深い論述を展開していて面白い。
インターネットは、知的・情緒的な面で有益なものを新たに生み出すための自由な空間として機能していて、安価で豊かな娯楽など、我々の内面生活を豊かにするための無限のキャンバスだが、その影響の大きさに比べて、収入を生み出す側面は影が薄い。
インターネット上で行われている活動の殆どは、人力ではなく機械で多くの業務が行われていて、過去の画期的なテクノロジーほどのペースで雇用と収入を生み出しておらず、ジョブレス・リカバリーを引き起こしている。と言うのである。
この本は、実質100ページ一寸の翻訳本だが、一世を風靡した非常に示唆に富んだ経済学書で、この他にも興味深い議論が展開されているが、一つ、日本についてのコメントが面白い。
過去25年間の日本経済の停滞について批判的な論調が多いが、高度成長から超低成長への移行過程で、政府や社会の骨組みが無残に破壊されることはなかったし、落ち着いて対処しており、日本人の暮らし向きは、今も概ね悪くない。
今日の日本は低成長時代の生き方を示すお手本なのだ。と言うのである。
しかし、大停滞はともかく、ある程度の経済成長か何らかの歴史的異変などがなければ、徳政令的な施策を打たない限り、日本の財政は破綻してしまうのだが、喜んで良いのであろうか。