熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

テクノロジーの世界経済史 ビル・ゲイツのパラドックス:デジタル革命とエンゲルスの休止

2022年05月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、イノベーションの推移を追いながら経済革命が如何に人類の歴史を翻弄してきたか、そのイノベーションが、労働置換型技術か労働補完型技術かによって、大きく明暗を分けている歴史を活写して、テクノロジーの世界経済史を説いている。

   その中でも、重要な役割を演じているのは、「エンゲルスの休止」現象である。
   産業革命時に、労働置換型技術の台頭によって、職人は、機械と子供でも出来るような仕事に置き換えられて、賃金は一気に下がり、技術がもたらした利益の大半を事業家が手にして、それを新たに工場や機械に投資して増殖し、
   事業者が、「大多数の賃金労働者を犠牲にして裕福になった」とエンゲルスが指摘した。資本家が労働者を収奪する構造である。

   職人たち労働者は、あっちこっちで機械を取り壊して対抗するラッダイト運動を巻き起こして激しく抵抗した。
   しかし、英国政府には、貿易における競争優位を維持するためには機械の効率改善が必要であり、かつ、ギルドの政治的影響量を抑えることが必須であるという思惑があり、また、事業家・資本家たちが政治的にも権力を持ち始めた時期でもあり、参政権さえなく政治的影響力のない労働者の運動を叩き潰した。
   尤も、大分時間を経てからだが、蒸気機関が導入され機械化が高度化するにつれて高度な技術が必要となり生産性が加速的に伸び、さらに、技術進歩が、労働置換型から労働者のスキルを高める労働補完型に転じ、成長の原動力が、次第に物的資本から人的資本に切り替わり実質賃金は上昇していった。
   この時期を、大分岐の時代だとして、その後、
   19世紀の後半から、ブルーカラー労働者の生活水準が上がり始め、工場の動力源の電化や自動車時代の到来で大量生産時代に突入し、ホワイトカラーの台頭などで、中流階級が重要な役割を果たす経済成長期に入り、大平等の時代として論じている。この間は、総体として、エンゲルスの休止は起こらなかった。
   二回の世界大戦と未曽有の大恐慌があったが、長期トレンドとしては成長軌道で、戦後の成長発展は著しく、特にアメリカは中産階級が活躍して平等社会と民主主義を謳歌した。
   この状態が1970年半ばくらいまで続いたが、
   インフレと不況が同時進行して、経済はスタグフレーションに突入して、暗転した。

   優勢であったケインズ経済学に取って代わって、レーガノミクスで代表されるような、新自由主義経済が台頭してきた。
   経済活動に関する規制の撤廃と緩和による自由競争の促進、通貨供給量に基づく金融の引き締めと緩和・戦略防衛構想(SDI)の推進などによる軍事支出の増大・大規模な減税によって経済刺激を策するサプライサイド経済学が優位に立った。
   米欧日の先進資本主義国において、やや過熱気味に、弱肉強食の自由市場メカニズムが暴走して、経済格差・地域格差が拡大して、中産階級の崩壊によって民主主義が後退し、経済社会は、大反転を来した。

   グローバル化による脱工業化と地域・所得格差が問題となっているが、はるかに影響力の強い自動化とデジタル技術革命とが相まって、ラストベルトのような地域経済崩壊や雇用の縮小による新たなラッダイト運動とも言うべきトランプ現象を惹起した。
   長期的には、社会を上げ潮に導いた汎用技術であった蒸気機関のように、同じく革命的な汎用技術であるデジタル革命が経済社会を繁栄に導くのかどうかは分からないが、
   果たして、未来の雇用にAIはどのように作用するのか。
   今、岐路に立っているという認識で、著者は過度な悲観論を戒め、どんな世界を築くかは我々の行動次第だと訴えて、その対処方法と説いている。
   AIによる自動化の荒波を乗り切るためには、スキル教育等教育制度の大改革、移住を支援するバウチャー制度、転職を阻む障壁の緩和、社会や経済の格差に繋がる建築規制の撤廃、税制控除を通じた低収入所帯の所得底上げ、機械に仕事を奪われた人々への賃金保障、次世代への悪影響を緩和する幼児教育への投資等々、詳細に亘って処方箋を説いていて興味深い。

   最初の産業革命も、第二次産業革命も、紆余曲折はあったが、最終的にはすべての人が恩恵に与った。
   だが、今の所は、「今回は違う」ことを示すデータがなく、違うと想定しても、今後の課題は、テクノロジーの分野ではなく、政治経済の分野にあることは変わりなく、新しいテクノロジーが仕事を殆ど生み出さず、莫大な富を生む世界では、分配が課題となる。と言う。
   今様「エンゲルスの休止」現象によって、既に、危機的状況となっている経済格差・地域格差を、さらに、AIなどのデジタル技術が増幅させるとなると、人類社会が危うくなると言う深刻な懸念である。
   これまで、何度も技術革新で悲劇も経験してきたが、総べて長期的には上手く行って人類社会は進歩してきたので、AI革命もほっておいても良いと言う考え方もあるが、今や、時代が違う。
   弱者の救済は喫緊の緊急事態であって、一刻も猶予を許さないと言うくらいの態度で臨まないと人類社会は救えないと言う認識に立つべきだと言うことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日経:「合格歴競争」格差を再生産 と言うのだが

2022年05月05日 | 政治・経済・社会
   日経が、今日の朝刊の「教育岩盤 揺らぐ人材立国(4)」で、”「合格歴競争」格差を再生産 難関突破、親の経済力次第”と報じた。
   特段、新奇な見解でもなく、いわば、常識的な情報であり、このブログでも教育問題については何度も書いてきたので蛇足にすぎるのだが、私自身、中学受験前の5年生の孫息子を持っており、日常的に塾通いの勉強を見ているので、多少の感想を付加してみたいと思う。

   慶応義塾を創始した福沢諭吉が「門閥制度は親の敵(かたき)」と訴えたように、日本の近代教育は身分に関係なく有為な人材を育てる目的で始まった。学校は平等な機会を開く装置とされた。
   100年以上がたった現在、学校は格差構造を再生産する装置になっている。多額の塾代をかけないと難関大合格がおぼつかない現実がそれを物語る。
   過熱する中学受験では、有名塾の指導についていくため別の塾に通う子も出てきた。塾代は小4からの3年間で500万円を超すこともある。
   中学合格で終わりではない。東大受験指導で有名な塾は難関中合格直後の親子に「大学受験の準備は早ければ早いほど有利」とさらなる〝投資〟を促す。
   結果は明確に表れる。東大合格者は私立中高一貫校の卒業生が多数を占め、学生の54%は年収950万円超の家庭出身だ。
   というのである。

   日本では、今でも、学歴が唯一の這い上がれる手段であることは間違いないが、学歴社会の欧米と比べて、かなりハードルは低いと思う。
   私が大学を受験した頃には、「親の経済力次第」という経済的なバインディング要件は、かなり、低かった。
   二世代前の自分自身の経験で、京大しか語れないのだが、経済学部の同級生で、今のように、親が大企業の部長以上だといったケースは少なくて、殆ど地方から出てきた比較的経済的に恵まれない苦学生で、奨学金とアルバイトで学費と生活費を稼いで糊口を凌ぎながら、ピーピー言いながら4年間勉強していたのを覚えている。年額9000円の学費さえすっぱりと払えなかった学生もいた。
   同志社のキャンパスには通学用の自家用車が駐車していたが、京大のキャンパスにはポンコツの自転車ばかりと、新聞に報道されていた。そんな時代であった。

   私は、最寄りの普通の市立の小中学校、県立の高校に通っていた。
   前後何年も京大へ入ったことのない地方の公立高校なので、1年浪人してしまったが、塾へも予備校へも行かずに、一つだけ通信講座を受けて独習で通した。
   4当5落(5時間寝たらダメで、4時間に睡眠を切り詰めて勉強しないと落ちるという意味)と言われていた今と同じ受験地獄の時代ではあったが、戦後の復興期で上り調子の当時と、経済的に成熟して成長力を失ってしまった今日では、時代が違うのであろうが、競争倍率は、4~5倍はあったし、同い年人口は今の2倍以上はあった。

   さて、最難関の大学に入学するためには、まず、トップクラスの中高一貫校を突破する必要があり、そのためには、小学校4年生くらいから優秀な塾に通って受験勉強をしなければならないということについて考えてみたい。

   今や、塾の勉強は、我々の学んだものとは様変わりで、格段に高度化して難しくなっていて、普通の親には、殆ど着いて行けない水準に達していると言うことである。
   簡潔に言えば、日経に掲載されていたが、開成中学校の入試問題の「さんすう」など、殆どの親というか大人には異次元の世界で、手も付けられないほど難しくて解けないであろうということで象徴されている。
   この程度とは言わないが、もう、有名塾では、4年生で、難関中高一貫校の受験問題に近いような難しい「さんすう」を学んでいる。
   加減乗除が主体であるような「さんすう」ではなく、文章題の問題を理論的な推論を展開して、いくつも考えられる可能性を検証していく問題など、昔懐かしい「鶴亀算」や「旅人算」のような単純な問題からほど遠く、知的総合力の勝負となる。
   大学入試でも、「数学」は、物語風に変えられると報道されていたが、「さんすう」「数学」といえども、まず、高度な読解力の勝負で、問題の適格な理解把握から、難しい問題に挑むこととなろうが、良い傾向だと思っている。

   ところで、問題は、この高度な中高一貫校への突破を目指す有名塾の教材が、普通の文科省規定の一般小学校の教材とは違って、その難易度の格差の激しさであり、
   優秀な生徒を振り分けるためには、ますます、試験問題の程度が高度化して難しくなるので、塾に行って受験勉強する生徒は、いわば、二重勉強することとなり、それを通常の文科省の教育とどう整合性を持たせるのかということである。

   しかし、私は、この学力格差の拡大は、賛成であり、もっともっと英才教育というか、一芸に秀でた生徒や学生への門戸拡大も含めて、優秀な能力と可能性を持った若者を早期に発掘して育成して行ける高度な教育を目指すべきだと思っている。
   寸秒刻みで進化発展するICTデジタル革命時代、この未曽有の激烈な潮流下のグローバル世界に伍してゆくためには、今のような能力も才能も多様に違った子供たちに画一的な横並びの教育をしていては、ますます、日本は沈没して行く。
   ”「合格歴競争」格差を再生産”は、欧米を筆頭に世界的趨勢で止めようがないが、政府が、国営で抜本的解決策を講じて機会均等かつ平等な教育システムを確立すべきだと思う。

   塾に話を戻すが、父兄の意見を聞くと、理科社会科は、まずまず、常識的な知識でどうにかこうにか対応できたとしても、国語の理解力読解力の深化には戸惑いを感じており、さんすうにおいては、殆どついて行けないなくて困っているということである。
   塾の勉強は、我々が重視していた予習ではなくて、学んだことの復習を完璧にしてフォローすることに重点を置いていて、塾の授業の後で、親などがサポートして、塾の授業の何倍かのボリュームの教材を自宅で撃破して完結しなければ次に進めない。
   この復習をサポートできない親が多いので、さらに、別な塾に通わせたり家庭教師をつけるケースもあって、子供は勉強漬けとなる。
   私の場合は、傘寿を超えても、学生時代と変わらずに勉強をし続けてきたお陰か、幸いにも、別に苦労もなく、孫息子の勉強を見ており、とにかく、2年後の受験突破まではボケられないと思っている。
   
   何も、苦労して、難関中高一貫校を目指して、東大に行くことはないではないか、と言うことだが、
   確かにそうであって、学歴にこだわることはないし、子供の大切な将来を歪めてはダメである。
   子供に、有無を言わせずに塾通いを強制して、親の理想だと考える学歴構築を強いる、
   そうだとしても、それが結果的に、良いことか悪いことか分からないが、いずれにしろ、子供次第であろう。
   孫息子は、サッカーもラグビーもやりながら、良い学校に入って一生懸命勉強したいと何の抵抗も屈託もなく言っているので、フォローを続けようと思っている。

   ところで、良い学校に行くことが良いことなのかどうかということだが、
   私自身は、アメリカのトップビジネス・スクールでMBA修士号を取得したことも含めて、自由奔放にとは言えないまでも、思う存分グローバルビジネスでも邁進できたし、見るべきものは見つ、という心境にまで人生を送れたことを幸せだと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭・・・シャクヤクが咲き始めた

2022年05月04日 | わが庭の歳時記
   五月晴れの日々が続き始めると、シャクヤクが花を開いた。
   牡丹より、ワンテンポ遅れて咲くのだが、咲いてしまえば、牡丹かシャクヤクか殆ど区別がつかないのが面白い。
   シャクヤクの場合、牡丹よりは植え場所を気にすることなく、どこからでも伸び上がって咲いてくれるので、レイジーな素人ガーディナーの私にはありがたい花である。
   牡丹は、シャクヤクが台木となった接ぎ木であるから、シャクヤクの方が生命力が強いのであろうか。
   昔、牡丹の根元から台木のシャクヤクが芽吹いたことがあってかき取ったのを覚えている。
   
   
   
   

   牡丹は木だが、シャクヤクは草花、
   どちらにしても、茎がか細くて弱いので、風が強いと、すっくと開花した花が立ち上がりにくくて、支えなければならない。
   種類にもよるが、蕾に風格があって、魅力的であり、一気に開くのが良い。
   ハチが、ブーンと飛び始めてきたと思ったら、蝶々も飛び始めてきた。
   
   
   

   雑草も、あっちこっちの空間に咲きだしている。
   今年は、夏ミカンの花もびっしりと付き、梅の実も大きくなり始めてきた。ジャムつくりに忙しくなりそうである。
   椿はほとんど終わってしまったが、鳳凰が一輪綺麗に咲きだした。
   バラとユリがもうすぐ咲き始める。アジサイも勢いよく伸び上がってきたので、この五月晴れの日々が終われば梅雨である。
   
   
  
   
   
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日経:「低学歴国」ニッポン と言うのだが

2022年05月02日 | 政治・経済・社会
   今日の日経がトップで、「低学歴国」ニッポン 博士減 研究衰退30年 と言う記事を掲載した。
   
   大学教育が普及し、教育水準が高い――。そんなニッポン像は幻想で、先進国の中では「低学歴国」となりつつある。
   文部科学省科学技術・学術政策研究所によると、日本は人口100万人当たりの博士号取得者数で米英独韓4カ国を大きく下回る。減少は中国も加えた6カ国中、日本だけだ。2007年に276人いた米国での博士号取得者も17年は117人に減少。国別順位は21位だ。として、次表を掲載。
   

   注目度の高い科学論文数の国際順位は1990年代前半までの世界3位が2018年は10位に落ちた。同じ平成の30年間に産業競争力も低落。イノベーションの担い手を育てる仕組みの弱さが産学の地盤沈下を招いた。
   根っこには大学院への評価の低さがある。どの大学に合格したかが企業の採用基準になる社会では、学びは学部に入った時点で終わり。研究を志す学生だけが集う大学院の魅力が高まるはずはなかった。過剰な学歴批判や、学問より社会経験を重視する一種の「反知性主義」も大学院軽視の岩盤を強固にした。と言う。

   この問題については、随分、このブログで書き続けてきているので、蛇足は避けて、感想だけ述べると、日経の指摘
   ”過剰な学歴批判や、学問より社会経験を重視する一種の「反知性主義」、大学院軽視の岩盤構図の強固さ”故に尽きると思う。
   私は、米国製MBAで修士なので、博士について口幅ったい言い方は出来ないが、暴論を承知で言うと、日本の政治経済社会の上に立つトップの学歴が低いと言うことである。

   欧米では、学歴が高いほど高い地位に就き報酬が高いという厳粛なる事実が機能していて、教育程度が、決定的要因となっている。
   最近のアメリカの大統領では、トランプだけは大卒だが、クリントンもブッシュもオバマもバイデンも、総て、大学院を出ており、欧米の為政者や政府高官は勿論、大企業の経営者などリーダーの大半は、大学院を出て、博士号や修士号を持っており、大学しか出ていない日本のトップ集団とは大いに違っている。
   それに、欧米の場合には、文理両方のダブル・メイジャーや学際の学位取得者、T型人間、π型人間など多才な学歴を積んだリーダーが多いのも特徴である。
   欧米の教育では、大学はリベラル・アーツを学ばせる教養コース的な位置づけで、専門は、大学院の修士・博士課程、プロフェッショナル・スクール(大学院:ビジネス、ロー、エンジニアリング、メディカルetc.)で学んで習得すると言うことで、この過程を通過しなければ専門知識なり高等教育を受けたことにはならないし役に立たない。
   グローバル・ビジネスにおいて、欧米のカウンターパートと比べて、特に、日本のトップやビジネス戦士が引けをとっているのは、リベラル・アーツなどの知識教養の欠如と程度の低さで、その上に、欧米人は、高度な専門分野の大学院教育を受けて知的武装をしているのであるから、太刀打ち出来るはずがない。
   国際政治においても同様である。

   日本の社会なり政府が、リベラルアーツも専門教育も両方とも4年間の大学教育で完結したと考えているのなら、何をか況んやである。

   何をどう言おうとも、世界のトップレベルの高等教育を受けて培った高度で時空を超えた知識教養、思想哲学、世界観価値観、真善美追求への渇望等々、そして、世界に雄飛する有能な人脈の形成やグローバルコネクションの確立など、その価値に勝ものはない筈である。しかし、最近では、世界最高峰の大学や国際機関への日本人留学生が激減していると言うから悲劇以外の何ものでもない。
   遅れていて、行け行けどんどんの、キャッチアップ時代の日本やJapan as No.1までの時代は、それでも良かったが、未知の環境に遭遇して世界に伍して戦いが始まると、一気に制度疲労を起こして失速して、現在では、益々落ちぶれて普通の国になって、先進国の後塵を拝し始めてしまったのは、その辺りの資質を欠いたリーダーの質や能力に問題があったのではなかろうか。
   失われた30年は、経済だけではなく、知的水準も失ってきたのである。

   さて、日本の現状だが、
   苦境に立った早稲田大学での非常勤講師の使い捨て抗議について書いたことがあるが、これらの先生は、何か特別の資格保有者であろうし、多くは、大学院を出て博士号や修士号を持っているだろうと思うし、
   また、日本では、研究やR&Dに携わる多くの理系技術系のポスドクなど博士号を持つ多くの人々の就職や雇用条件も劣悪な状態であると言う。
   iPS細胞の山中伸弥京都大教授でさえも、京大研究所のスタッフの90%が、非正規職員であるために、有期雇用であって先の保障がなく、山中教授が、一番頭を痛めて奔走しているのは、スタッフの生活の安定とその保障だと言うのであるから、日本の大学や研究機関などが、如何に、高学歴の日本人を、悲惨な状況に追い詰めているかが良く分かる。
   また、一般企業や各組織団体などにしても、大卒程度のトップでは理解不足で、学位保有の高学歴者を、有効に雇用や活用ができないケースが多いので、益々、門戸が閉ざされてしまう。
   アメリカの雇用状況では、博士ないし修士の失業は、2~3%で、最も恵まれていて給与水準も高いのと比べてみると雲泥の差である。

   日経は、「大学院教育を通じた人材の高度化に経済界が期待を寄せ始めた。」と書いているが、さて、どうであろうか、
   大学院教育の重要性を認知できずに、博士や修士を冷遇し続ける日本社会において、
   高邁な思想や哲学には縁遠い世界観さえ希薄なトップが上に立っている限り、高度な人材の育成や活用など夢の夢で、先が思いやられるとしか言いようがないのが悲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする