東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

東条英機は日本人の遺伝子を変えた2

2009-08-17 06:54:39 | 東条英機

東条英機は中世的軍律を唱道した。

ところが東条英機はみずからを中世的軍律で律することがなかった。死の専門家である軍人でありながら「ためらい自決未遂」の醜状を世界にさらした。江戸時代なら町人でも「死にそこない」は日本橋のたもとでさらしものにされる。

武士としてこれほど間抜けな醜状をさらしたものが江戸時代に一人でもいたであろうか。明治維新後の軍人でいただろうか。

日本人は神を喪失した西洋人にも匹敵するほどの衝撃を敗戦直後に受けたのである。茫然自失したのである。

連合軍(アメリカ軍ほか)、シナ人、朝鮮人の残虐行為は父から子へ、子から孫へと語り継がれるはずであった。しかし、東条英機の女性的「ためらい自殺失敗」は日本人の遺伝子を変えてしまったのである。父子相伝の民族の歴史は断絶したのである。

数十万人の民間人を意図的にナノ秒で虐殺した原爆投下は「過ちをふたたびくりかえしません」という倒錯に裏返ってしまったのである。民族としての人格障害におちいってしまった。


日本人の遺伝子を変えた東条英機

2009-08-16 08:07:36 | 東条英機

民主党は靖国神社のかわりに追悼施設を作るつもりらしい。

靖国神社に代わる追悼施設が出来るとは思えない。天皇陛下のご親拝を復活し、数百万英霊のみたまを安んじるためには、東条英機ほかの分祀しかないだろう。

日本の伝統ではこういう人たちのために御霊神社を立てるのがならわしである。彼らの怨霊を鎮めるためにはそこへ分祀するのほかはない。

昭和の歴史は薩長支配を憎む旧徳川弱小藩(東北北陸諸藩)の「関ヶ原もとえ戊辰戦争のうらみをはらす」である。東条英機は岩手藩(盛岡藩)、石原莞爾は福島近くの小藩。昭和期にはいると薩長出身者の陸海軍上層部への登用は絶えた。これを助けたのは軍部の官僚制度の整備である。

藩閥というのは、たしかに問題だろう。現代でも最も簡単なありふれた政治非難は派閥解消を叫ぶことである。

しかし、実績面からみると薩長明治維新勢力は昭和になって勃興した東北諸藩(関ヶ原、おっと戊辰戦争のうらみ派)にはるかにまさる。相対論であるから薩長が最善などとはいわない。実質東北北陸諸藩連合であった昭和軍部の実力の無さにくらべて、である。

明治維新政府が60年にわたる努力で築き上げた世界屈指の大帝国を二十年でつぶしてしまったのだから。

彼らの父祖は賊軍であったから靖国神社に祭られていない。だから彼らは同僚をどうしても靖国神社に祭って薩長を見返したかったのだろう。天皇のご意向をお伺いすることもなく東条などの合祀を強行した当時の宮司であった松平なにがしは、たしか明治維新の賊軍長岡藩の旧藩主である。自身も海軍軍人であった。

なにがなんでも戊辰戦争の同盟者であった盛岡藩の東条英機を靖国神社に入れたかったのであろう。

藩情で国政をゆがめるなど以ての外であった。分祀こそが「日本文化の伝統」である。


東条英機ホワイトハウスで切腹

2005-11-17 21:35:22 | 東条英機

介錯は俺がする、と阿南陸軍大臣に持ちかけた右翼がいた。戦前から活動して何回も刑務所を出たり入っていたりした三浦義一である。戦後は右翼の最高実力者と言われるまでになった。

阿南陸相は終戦の日に自決しているから、その前に各方面で終戦工作が行われていた戦争末期のことであろう。東条を説得してホワイトハウスに連れて行き切腹させる。そして介錯は自分がすると軍部に持ちかけたらしい。結局軍部が乗ってこなかったというのであるが、まず当たり前のことだろう。右翼というのは一人一党的なところがあって随分と独創的というか突飛なことを考えるものだ。

この話は本人が自慢したものか、あるいはそんな噂があったのか。右翼問題のジャーナリストとして活躍している猪野健治氏の本のなかにある。32年前に出たもので、今年出版された、ちくま文庫「日本の右翼」に収められているから、関係者の間に定着している話なのだろう。

この話を読んで戦国時代の話を思い出した。秀吉が中国のどこかの城(四国だったかな)を兵糧攻めにした。ろう城側がまいってしまって、大将が切腹するから、家来をこれ以上いじめないでくれといった。結局城の前の海か湖に浮かべた船の上で大将が切腹して、その前に浮かべた船のうえから秀吉が検死をするという話だったと思う。

ところで、日本の人物で戦時中アメリカにおけるマスコミ漫画に一番多く登場したのは誰であろう。もちろん、悪役としてカリカチュアされた東条首相であろう。ほとんど毎日登場していたのではないか。それほどではないにしてもアメリカ国民に対する露出度は小泉首相の比ではなかったろう。 三浦義一のアイデアは強烈なインパクトを与えただたろう(実現しっこなかったが)。

ブッシュ・ジュニアが来日したが、小泉首相との相性のよさをテレビで見るに付けても上記の話と比較して今昔の感に堪えなかった次第であります。


なぜって言われても、ねえ石原慎太郎さん

2005-10-25 19:58:05 | 東条英機

発行部数が9万部あまりある月刊誌に「なぜですか、石原さん!」という*緊急投稿*が載っている。石原慎太郎都知事が産経の連載で靖国問題に触れたことについて異議を唱えているようだ。

ボディブローのように大衆の意識に打撃を与えて国家の進路にまで重大な影響を与える事件がある。あとになって、なるほどあれがねと気がつけばいいほうで、国民の深層意識に決定的な影響を与えながら正面きって論議されない事件がある。発生当時は世間を賑わせても、まもなく誰も論じなくなる。同世代の人間のこころのなかにはっきりと記憶していても子供たちには語り継がれない。なぜならそれは負の記憶、忌むべき記憶であり、国民一人一人の恥辱だから、子孫に語り継ぐのも無意味なことと考えられるのである。

東条英機の自決失敗はまさにそのような「死に損ない」であり、生き恥を一番さらしてはいけない人間の「生き恥」であった。

非人道的な連合軍(アメリカ軍を中心とする)の大量殺戮、都市民間人への無差別爆撃、原爆投下などに対して、普通なら国民は復讐を誓って一億総赤穂浪士になり、鬼となって子々孫々にこの恨みを伝えていくのが人情であろう。それが、まるでつき物が落ちたようにコロリとアメリカになびいたのはなぜか。

一つには東条の自決失敗のショックである。信じていた軍事エリートの醜態をみたからに他ならない。この感情は当時の大人には不思議でもなんでもない。職業軍人は勿論のこと、兵士、銃後の愛国婦人会、軍国少年、軍国少女すべてが、東条の実像に深刻なショックを受けたのである。当時の手記を見れば分かる。

それが、ああ戦後60年、彼を美化する風潮が出てきた。忘却の灰の中に再び彼岸花が咲いたのである。記憶が語り継がれなかったのであだ花が咲くのである。

東条英機の自殺未遂の状況については同情すべき点は一つもない。「覚悟」、「武士の心得」に欠けたものである。大体、武士は弁解しないものである。本人は勿論出来ないわけであるが、誰かが成り代わっていいわけをいうのは見苦しい。もののふはあげつらわないのである。

彼の合祀については特に強い意見はない。しかし、他と区別のない一祭神としてである。それにしても「昭和殉難者」というのは彼らだけのものではありますまいね。もしそうなら、いかにも大げさで不適切だ。

それにしても、不勉強な人が多い。戦時中東条をもっとも忌み嫌って非難したのがいわゆる「右翼」の人だったのにね。赤尾敏などもその一人だった。赤尾をかばったのが中野正剛だが東条の憲兵によって自殺に追い込まれた。中野正剛は遺書で後事を引退していた頭山満に託したのである。


一書に曰く、東条は32口径の拳銃で自殺

2005-08-14 14:05:12 | 東条英機
このブログはあくまで良心的にいく。この記事は前の
「東条はおもちゃのピストルで自殺?」の補足である。
「一書に曰く」とは日本書紀が異説を紹介するときに
使う表現である。「あるふみにいわく」と送りがなする。

前稿出稿後、インターネットで東条は32口径の小型拳
銃で自殺したという記事を見つけた。これは東条が護身
用として別に持っていた拳銃であるという。つまり将校
用として支給されていた正規の拳銃を使わなかったとい
うことだ。この記事の正否を判断する材料は手元にない。
ある文に曰くとして紹介しておく。

32口径は22口径よりは火力があるがやはり主として
護身用それも婦人用だ。日本でも終戦直後の警官は32
口径の拳銃を持たされていたと記憶する。
殺傷力は弱い。主として相手の反撃力をそぐ目的で携行
させたようだ。アメリカ軍が日本の警官に強力な拳銃を
持たせることを好まなかったからだろう。今でも婦人警
官の拳銃は32口径かもしれない。

前の記事に更新として末尾に付そうかと思ったが長くな
ったので稿を改めた。

私としては22口径説がやはり有力だと考える。理由は
1・事件後の東条の様子からして大した傷は負っていない
2・石原慎太郎氏は都知事として警視庁の資料へのアクセ
スがある(当時、日本側の担当は警視庁と考えられる)
3・佐々淳行氏は警察庁公安エリート官僚の出身であり、
当時の第一次資料にアクセスできる立場にある。

いずれにせよ、東条由布子さんの、60年後に突如とし
て発表した大型拳銃説(それも娘婿のものというディテ
ールまでついたもっともらしい説)は採用しがたいよ
うだ。








東条英機はおもちゃのピストルで自殺?

2005-08-11 22:38:16 | 東条英機

先の投稿で、東条の自殺の際に使用した拳銃について、孫の由
布子さんが雑誌WILLの対談で述べたことを信用した。扱いな
れない大型拳銃を使用したために失敗したという「言い訳」を
紹介したが、この事実がすこしあやしくなった。

雑誌「諸君」9月号に石原慎太郎氏と佐々淳行氏の対談がある。
米軍憲兵が、「22口径で胸を撃つなんて」と笑ったという
(諸君9月号33ページ)。22口径の拳銃というのは玩具
みたいな、もっぱら婦人の護身用拳銃である。鳩も驚かない
豆鉄砲である。アメリカでは田舎の縁日の射的場に置いてあ
るやつだ。

22口径は頭部を撃っても一発で死ぬことは難しい。まして胸
部を一発撃っただけで死ねるのは僥倖を待つよりほかはない。
軍人なら常識だろう。まして、なぜ東条のような職業軍人が将
校用の拳銃ではなくて「売春婦の拳銃」と言われる玩具のよう
なピストルを入手用意していたのか、グロテスクである。MP
が侮蔑して笑うのは当然である。

もっとも、急所を外さずに3,4発撃ちこめば死ねるかもしれ
ない。安達中将の例ではないが、錆びたカミソリでも覚悟さえ
あれば立派に自決できるから。終戦直後に自決した軍人は沢山
いるが、そのなかで本土防衛総軍司令官陸軍元帥杉山元は自分
の胸部に四発拳銃を撃ち込んで自決している。彼の場合、22
口径ということは無いだろう。将校用の拳銃、38口径か45
口径を使用したものだろう。年齢も東条とほぼおなじ、大口径
の拳銃を至近距離から発射すれば、受ける衝撃はすさまじいも
のがある。それを自分で四発撃ち込むというのは相当の覚悟が
必要である。杉山夫人は夫の死を確認後自刃している。

もっとも*** 記憶は確かではないが、チャンドラーの小説
で女ながら22口径を二発心臓に撃ち込んで自殺する結末を持
つものがあった、チャンドラーの文章は「奇跡的」という言葉
を使っていたように記憶する。

東条は駆けつけたMPにその場で色々ややこしいことを言って
自己弁護をしている(当時の報道によれば)。したがって意識
はしっかりしていて本当に死ぬつもりなら二弾、三弾は自分に
撃ち込める気力は残っていたことがうかがえる。自殺に失敗し
ておきながら敵兵にくどくど自殺を正当化するような言辞を弄
するのは、やはり健全な倫理感覚を持っていたとは思えない。
大体男は弁解しないものだ。

それにしても、この情報ギャップはどこで発生したのか。由布
子さんは東条が処刑直前に会った教戒師に東条が言い残した言
葉として家族に伝えられたと言っている(教戒師はとっくの昔
に死んでいて確認できない)。米軍憲兵の誤認か、東条が嘘の
言い訳を言い残したのか、お孫さんが作り上げたのか。


巣鴨拘置所の東条英機

2005-08-10 10:14:33 | 東条英機
自殺未遂の傷も癒え、東条英機は現在の池袋サンシャイン60
ビルが建っているところにあった巣鴨拘置所に収監された。
敗戦後巣鴨拘置所は連合軍に接収され日本のABC級戦犯四千
人が収容され六十人の死刑が執行された。通称巣鴨プリズンと
呼ばれた。

東条英機はその後、A級戦犯に対する極東軍事裁判で絞首刑を
宣告され、昭和二十三年十二月二十三日早朝刑を執行された。
連合軍は皇太子(平成天皇)誕生日を死刑執行の日に選んだと
言う。

ニュース映画に残っている東京裁判での東条他の態度は落ち着
いたもので、ニュールンベルグ裁判でナチス首脳たちが見せた
ような醜態と対照的であった。もっとも、右翼の思想家大川周
明が精神異常をきたして免訴になったという椿事があった
(詐病ともいわれる)。

巣鴨プリズンでも看守を困らせることもなく東条は模範囚であ
ったようだ。東京裁判での東条の宣誓供述書が最近注目されて
いる。第一級の歴史資料などというものもいるがどうだろう。
たしかに要領よくまとまっているが、内容のほとんどは、当時
の内外の新聞で確認できることか、これまでに歴史家が言及し
ていることばかりだ。さながら能吏の作文をみるが思いはする
が。

これこそが、東条が高級官僚として、能吏としての実態であろ
う。身柄を収監されてその行動にはオプションはない。逆に言
えば、色々と思い悩むストレスから開放された東条にとっては
生涯でもっとも平穏な時期ではなかったか。思想、行動の選
択肢がなければ、能吏は学校における優秀な学生の如く、先生
を感心させる模範解答を書ける。

倫理と言うものは思想、行動の自由があって、つまり右せんか
左せんかの選択があるときに問題になる。自由なきところに倫
理はない。東条は倫理の重圧から開放されたのである。

権力を持つ能吏が倫理的に欠陥がある場合は、現代においても
多いのである。軍事官僚が大蔵財務官僚、道路・建設官僚、自
治官僚そして郵政官僚などに代わっただけであり、彼らが自由
意志と強大な権力を持った場合、倫理的たりうることは現代で
もまれである。






東条英機と安達二十三中将

2005-08-09 22:19:05 | 東条英機
安達二十三(アダチ・ハタゾウ)と東条とはあまり接点はない。
ここでは死に臨んで軍人としての覚悟の相違を述べる。

安達中将は昭和17年から終戦まで東部ニューギニアの第18
軍司令官であった。終戦後、ラバウルで戦犯裁判にかけられ
て終身禁固刑を受けた。昭和22年収容所内で錆びたかみそり
で自決した。

拘束されて二十四時間厳しい監視のなかで自決用の武器を入手
することもままならなかったのであろう、ようやく錆びたかみ
そりを密かに入手した。そのカミソリで看守の兵士の目を盗み
頚動脈を圧迫切開して自決した。起承転結の整った立派な遺書
も残した。さらに驚くことに作法どおりまず腹を一文字に切っ
た上で頚動脈を圧迫切開した。サムライの覚悟とはかくの如
きものである。

東条がピストル自殺に失敗したことはよく知られている。状況
は次のように報道されている。MP(アメリカ軍憲兵)が戦犯
として東条を逮捕するために到着すると、東条は家の中に閉じ
こもりピストルで左胸を撃って自殺を図るが、米軍の救命措置
により未遂に終わる。遺書はなかった。

状況を考えると、東条は最後まで、ひょっとして戦犯として訴
追されるのを免れるのではないかと希望的観測を抱いていたよ
うに見える。そうでなければ、中野正剛や安達中将の場合とは
ことなり、自由を拘束されていたわけでもなく、万全の準備を
して自決する時間は十分にあったはずである。MPが逮捕に現
れる土壇場になって、覚悟もなしに未練を残して、切羽詰って
手元が狂ったようである。あるいはためらいが失敗につながっ
たのか。ぶざまなことである。

かれは陸軍大臣時代「戦陣訓」なるものをつくり、全兵士に示
達している。そのなかに、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」
という有名な文句がある。その彼が自殺未遂では示しがつかな
い。

この戦陣訓に基づき、敵軍の捕虜となり、後に送り返されてき
た兵士は上官から自殺を強要された。その際は失敗しないよう
に自分の頭部を撃つように命令していたという。いわば、軍人
としての常識なのだろう。ここでヒトラーを引き合いに出すの
もどうかと思うが、彼も自らの頭部を撃って自殺している。巷
間東条が胸を撃ったのは頭部がめちゃめちゃになるのが嫌だっ
たというが、戦陣訓の著者として、また武人としてあるまじき
身勝手というべきだろう。軍歌にも有名な文句がある。「海行か
ば水漬くかばね、陸行かば苔むすかばね」だったか。エステみ
たいな美意識はお門違いだろう。

当時から彼の自殺にまつわるはなしとして、間違ったところを
撃たないように出入りの医者から心臓の位置を聞いてそこに墨
でしるしをつけていたという。そして自分では書けないから毎
日夫人に書かせていたというのである。これは未遂に対するい
いわけらしい。つまりこれだけ用意周到に準備していたと主張
したかったらしい。なにか滑稽というかグロテスクな挿話だ。

ところが、60年目にして新しいjustification
が試みられた。東条英機のお孫さんが最近あちこちに出てこら
れるが、彼の自殺未遂を弁護するのか、いくつかの話をされて
いる。

まず、彼は自分の拳銃ではなく、娘婿が自決に使った拳銃を使
った。理由は先立って自決した愛する婿(陸軍少佐)と同じ拳
銃を使いたいというセンチメンタルなものだそうだ。そしてこ
の少佐が大柄な人で、その拳銃が東条が持っていた拳銃より大
分重かったと言う。それでうまく撃てなかったというのだ。こ
の理屈は逆に武人としての資格の欠如を示すのではないか。素
人の話ではない。

お孫さんによると、また彼は左利きだったそうで左胸を撃つの
は難しかったという。これも彼の武人としての日ごろの心がけ
の欠如を示すものだ。一生の一大事に不得手、なれない武器を
使うものではない。武士のたしなみだろう。安達中将のように
なにも武器が調達できない場合はやむをえないとしてもだ。

お孫さんは当日まで自殺しなかったことを、こう代弁している。
東条は逮捕しにきたら、「それが日本の官憲なら自分は逮捕に応
じる。日本国民には責任があるから」といったという。そして、
逮捕状が英文で書かれていたので自殺しようとしたのだ、と。ど
んなものだろう。お孫さんに失礼になるから、どうしてかという
ことは述べないがいかにも不自然だ。

彼女が今日に至って種々言われるのは周りの状況が変わってき
たから祖父を弁護しようというのだろうが、内容は逆効果を持
つものばかりだ。自殺未遂についてあれこれ弁解されるのはお
やめになったほうがいい。そっとして、黙っているのが孝行で
はないか。もっとも、上記に弁明が有効な人々が多いと言うな
ら何をかいわんやである。








東条英機と中野正剛

2005-08-08 11:26:16 | 東条英機
江戸時代、心中に失敗したものは日本橋のたもとに何日か手鎖
をはめられてさらし者にされたという。その後、女は吉原に売
られ、男は無宿者になったとか。

武士が切腹に失敗した場合の掟は武家法度にあったであろうか。
あるまい。武士が切腹に失敗するなどという事態は考えられな
かったに違いない。

それが幕府や藩の命令である場合には検死役が派遣されること
が多い。介錯という習慣もあった。しかし、自分の意思で、様
々な理由で自裁する場合でも武士が一旦自分で決めたことで失
敗するなどということはありえないことであった。諌死という
こともある。厳しい監視のなかで自決を決意することもある。
介錯など期待できない場合もある。

この精神は昭和時代にも生きていたようだ。昭和18年に衆議
院議員の中野正剛が自決した。彼は朝日新聞記者から政治家に
なった人物であるが昭和18年1月1日の朝日新聞に寄稿した
「戦時宰相論」が当時の東条英機首相を激怒させたという。内
容を見るとそんなに激しい内容ではない。東条はすこしでも自
分の政策に意見を述べるものは排除したという。記事にはむし
ろわざと韜晦していたずらに刺激しないような配慮も見られる。

個人的に好き嫌いが激しく、自分に反対する人物を召集して激
戦地に送るというのは東条が酷愛した手法であるという。毎日
新聞記者が「竹槍では勝てない。飛行機だ」という記事を書い
たというので、その記者を招集して玉砕が予想された硫黄島に
二等兵として送ろうとした。その記者は37歳と言う高齢で当時
の戦局では大正時代の老兵は一人も招集されていなかった。

さて、中野正剛であるが、東条は倒閣運動を画策したと言う理
由で憲兵に彼を逮捕させて屈辱的な取調べを行わせた。中野正
剛は数日後保釈されて自宅に戻ったが、東条は彼に自殺されて
は大変と自宅にまで刑事を派遣して寝室のとなりで監視させた。
東条としては、中野に逮捕という屈辱を与えて、惨めに生き続
けるのを世間に見せることが世間に対する牽制になって一番良
かったのである。

ところがである。中野正剛は釈放された夜、自宅寝室で見事に
抗議の自決をし遂げたのである。日本家屋であるから刑事が寝
ずの番で見張っている隣室との間にはふすましかない。ほとん
ど防音の効果はない。その敏腕の刑事も朝まで自決したことに
気がつかなかったという。民間人にしてこの覚悟である。自決
がいいと言っているのではない。武士的道徳で辱められたら自
決すると決めたからには、いかに厳重な監視下であっても抜か
りなく、しおおせるという覚悟のことをいっている。

中野正剛の葬儀には、東条の妨害にもかかわらず、大変な数の
参列者が集まったという。