前回も書いたがハードボイルドものはマイナーである。だからハードボイルドについて書いていてもこのブログのアクセスはちっとも増えない。ガ、書きかけた都合でもう少し書く。
某翻訳家の本の巻末にあるハードボイルド派作家/代表作リスト、国内編である。某氏の名前はあえて挙げない。なんとなく可哀相な気がするのだ。このリストの半分の著作は大きな本屋にいっても置いていない。あまり売れないので古い作品は消えていくのだろう。
それとめぼしい作家が少ないので応援を求める意味があるのだろう、これがハードボイルドかよというのが散見する。たとえば安部公房の「燃え尽きた地図」だ。たしか興信所調査員の話なのでハードボイルドにしちゃったんだろう。たしかに、ほかの作家に比べて格段の筆力があり、とにかく最後まで読ませる。
そうかと思うと藤沢周平の「消えた女」がある。時代物だ。時代物がハードボイルド風であっていけない理由は無い。これは私の持論だがアメリカの私立探偵というのは日本の探偵よりも江戸時代の岡っ引きに近い。制度警察を補完する役割、武器の使用権を認められていること(逮捕権もある)、免許制で警察に生殺与奪の権利を握られていることなどは現代の日本の調査員、興信所、探偵とは違う。
ただ、ハードボイルドの特徴の一つはテンポなんだ。時にはアメリカでもテンポのゆったりしたのがある。「長いお別れ」なんかそうだ。しかし藤沢の周ちゃんのはいくらなんでも遅すぎる。普通の時代小説としても遅すぎるんじゃないか。周ちゃんがハードボイルドを意識して行動をつぶさに描くというのがハードボイルドの真骨頂と思ってまねたのなら、あきらかに真似は失敗している。
このリストの中では真保祐一の「ボーダーライン」はそこそこだ。かれはほかにも水準の作品がかけそうだ。原寮、チャンドラーへのオマージュとしては努力しているね。といっても翻訳へのオマージュだ。彼自身がどこかの作品の扉でチャンドラーを日本に紹介した先輩たちに献辞を書いているとおりにね。
ただ、後に記憶が残らない。右から左に抵抗無く読めるのがいい作品ではない。変なたとえだが昔の武士の家の門先には刀を刃こぼれさせるための石(つまり砥石の反対)があったそうだ。あまり切れる刀は実戦向きではない。
すぱっと入ればきれいにちょん切れるが滑りやすくて殺傷力が弱い。のこぎりみたいな刃のほうが確実に相手に打撃を与える。武士は戦いに行く前に門前の石で刀を削ったわけね。文章にもそういう部分が必要だ。そうしないと記憶に、あるいは心に残らない。そこがチャンドラーと原君の違いだろう。