平成天皇時代は父の昭和天皇の業績を引き継いだものと言える。昭和天皇が果たせなかった沖縄訪問を皇太子時代に天皇の名代としておこなっている。その後昭和平成時代を通じて沖縄には実に18回訪問している。独自のものとしては海外、南太平洋のかっての激戦地に慰霊の旅を実施した。
また、記憶に新しいこととしては各地の大災害地を訪問したことが特筆されるだろう。もっとも平成時代は異様に大災害が頻発した時代という印象があるが。
平成天皇時代は父の昭和天皇の業績を引き継いだものと言える。昭和天皇が果たせなかった沖縄訪問を皇太子時代に天皇の名代としておこなっている。その後昭和平成時代を通じて沖縄には実に18回訪問している。独自のものとしては海外、南太平洋のかっての激戦地に慰霊の旅を実施した。
また、記憶に新しいこととしては各地の大災害地を訪問したことが特筆されるだろう。もっとも平成時代は異様に大災害が頻発した時代という印象があるが。
国民は天皇の声を昭和二十年八月十五日正午のいわゆる玉音放送で初めて聞いた。
放送事業開始前は国民が玉音を聞く機会は勿論なかった。放送事業開始後も天皇が放送で話すこともなかった。極端な神格化を進めたので、神の声が民草の耳に聞こえるわけがない、という政権側の配慮である。八月十五日正午、国民は初めて「へえ、こういう声をして(いらっしゃるのだ)」と聞いたのである。
天皇は1946年(昭和二十一年)から1954年まで全国巡幸を始めた。国民は声を聞くだけでなく、天皇の姿を間近に拝見し、国民に語り掛ける姿に接したのである。これは実に有史以来最大のハラダイム・チェンジであった。
勿論昔から天皇が巡幸で地方に行くことはあったが、吉野や伊勢など各地の神社聖地へ国家安泰の祈願に行くためで国民に接することが目的ではない。昭和天皇の巡幸は各地で熱烈な歓迎をうけ、国民に感動を与えたが、大戦の内地への惨害がようやく終わった翌年のことである。このことは戦争の責任が奈辺にあったかを、国民がどう理解していたかを如実に物語っている。
それは理不尽な欧米諸国による日本に対する徹底的経済封鎖であった。またその経済封鎖という相手側の挑発戦略にまんまとはまり、軍部政府が幼稚な対応をしたためであると国民は理解していたのである。
この国民の熱狂は対外的にも大きな影響、印象を与えたことは間違いない。戦勝国の対日政策の変換にも影響を与えた。
戦後の天皇制の法的基盤は勿論現行憲法であるが、それより一年以上前の昭和二十一年年頭に渙発された詔書が方向を決した。いわゆる天皇の人間宣言と言われるものである。時系列的に記すと
昭和二十年八月十五日 終戦
昭和二十一年一月一日 天皇の人間宣言(年頭の詔書)
昭和二十一年十一月三日 新憲法公布
昭和二十二年五月三日 新憲法施行
この詔書は一千語以上の長いものであるが、その中に次の一文がある。
「朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説ニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)*トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延イテハ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ有ズ。」
*現人神(あらひとがみ)
戦前の一時期の天皇の極端な神格化で一番迷惑したのは昭和天皇御自身だったろう。この年頭の詔勅は軍部などによるストーキング行為ともいえる一方的神格化への決別を表明したものである。
世上ではこの人間宣言はアメリカ占領軍の圧力によると言われるが、必ずしも占領軍の一方的なイニシアティブとは考えられない。天皇の意向とアメリカの意向が折り合った結果と見るのが妥当だろう。
三島由紀夫などはこの表明に大いに不満だったらしい。なぜ新憲法の折衝(アメリカとの)が終わるのを待てなかったのかという意見もあるらしい。つまり、もっと交渉すれば「象徴」より旧憲法に近いステイタスが実現できたのではないか、ということらしい。あるいはそうかもしれない。しかし、他方天皇が方針を示さなかったら交渉は混乱して政情は不安定化していた可能性も大きい。なにしろ終戦直後の大混乱期である。旧軍による巻き返しもありえた不安定な時代であった。
次のように区分するのがよいのではないか
Phase1 古代から飛鳥時代、大化の改新まで
天皇の呼称はない。倭国の王たちのなかでの最強の国の指導者が大王あるいはオオキミ(大君)とよばれた。スメラミコトなどとも呼ばれた。それがだんだんと集約されて大和朝廷となる。それにつれて実質的に政治をつかさどる有力部族(現代で言えば有力官僚かな、政治派閥かな)がはっきりしてくる。最後に物部氏と蘇我氏の戦いとなり、朝鮮半島からの渡来人系の蘇我氏が政治を壟断するようになる。これに反発して藤原鎌足や中大兄皇子がクーデターを起こして蘇我氏を滅ぼす。いわゆる乙巳の乱であり、大化の改新が始まる。大化は日本初の元号である。その過程で天皇の呼称が定まる。
Ph2 12世紀末まで
朝廷親政はやがて古代末期のように、政治権力が朝廷の一部勢力に独占される。まず大化の改新の功績で藤原氏、ついて台頭し始めた武家勢力の平家の天下となる。
Ph3 12世紀末から19世紀中葉まで
治承四年(1180年)以仁王の令旨を掲げて源頼政が平家に武装蜂起する。蜂起は数日で鎮圧されるが半年後に源頼朝が同じ令旨のもとに伊豆で挙兵して平家を滅ぼし鎌倉幕府を樹立する。その後天皇親政を復活しようとする武装蜂起があったが失敗する(建武の中興)。蜂起失敗後、南朝という地方亡命政権がしばらくは存続したが、以後武家政権は足利幕府、室町幕府、戦国時代、豊臣、織田の天下統一に続き徳川幕府が19世紀半ばまで続いた。この800年間にわたる武家政治の間、天皇ということは朝廷側が自ら言ったこともなく、他からも呼ばれることもなかった。武家の政権が朝廷をどう呼んだか知らないが、興味がある。お上といったか御所とかミカドとか? 幕府と朝廷が文書でお互いにどう呼んでいたのであろうか。また文書を出す時にどういう手段、経路をとっていたのかは興味のあるところである。ほとんどが公家を経由しての実質的な命令であったであろう。
Ph4 明治維新後、大東亜戦争敗戦まで
明治維新はもちろん薩長が中心となって「関ヶ原の恨みをはらす」情念に基づいたものであるが、表向きの耳触りの良い大義名分は「天皇親政の復活」であった。だから天皇の勅書を偽造したなどという疑いが後で持ち上がったのである。
とくに明治後期以降、意識的に神格化が行われた。明治の元老政府は、文明開化はいいが社会主義の勢力勃興に不安を感じだした。元老山形有朋は同郷の物知り森鴎外に非公式にこの不安を相談した。「欧米には社会を支えるキリスト教という太い柱があるがわが国にはない」というのである。
森鴎外は外国語が堪能で哲学書なども読んでいた。それも主流ではなくて傍流の思想に入れあげる傾向があった。彼の言葉に「19世紀は鉄道とハルトマンを生んだ」というのがる。ハルトマンはエドゥアルト・ハルトマンのほうで「無意識の哲学」の著者である。現代彼の著書を見つけるのは難しい(特に日本では)。
ほかにファイヒンガーという贔屓の哲学者がいた。アルツ・オプ(as if)の哲学というのを提唱した。「かのように、の哲学」である。森鴎外は山県に言った。「日本にはお上があらせられるではありませんか。日本人には神のようなお方です」。山形有朋はこの案を採用した。しかし、思わぬところで足をすくわれた。軍事官僚がこれを利用したのである。政治感覚ゼロ、戦略眼ゼロ、政策能力ゼロで、しかも始末に負えないほど徒党感覚の発達した陸軍士官学校、陸軍大学校出身の純粋培養された軍事官僚が維新の元老たちが世を去ったあと、錦の御旗を手中に握ってしまったのである。討幕運動の活動家が錦の御旗を手に入れた過程にあいまいなところはあるが、その後の彼らの功業は立派であって過程云々の議論も吹き飛んでしまったのだが。
F5 終戦後昭和天皇崩御まで
次回に述べる。
F6 平成天皇時代
次回に述べる。
政治的あるいは国民的な制度として天皇制は歴史的にいくつかのフェーズを経てきている。その辺の認識が将来を展望するためには必要であろう。
勿論現今問題になっているように血統論の観点からの考察も重要である。それと関連して古い言葉で言えば制度を支える藩屏への考慮も必要である。また、house holdのバックアップ体制も問題があるように思われる。
血統問題はこれをしばらく措き、まず歴史的な問題である。はじめにお断りしておくが筆者は小学生レベルの歴史知識の持ち主である。問題点があればご指摘を請う。
「巧言令色鮮し仁」とは論語にあるが、令の意味は「他人の気に入るように取り繕い飾った顔つき」という意味である。ようするに真心からの素朴な美しさではなく、老女の、芸人の、女役者の、厚化粧のようなものである。ポジティヴな意味はまったくない。政治家のパーフォーマンスのようなものである。良い意味は一つもない。
これも贅言の贅言であるが、令月を良い月と解釈するのが通例らしいが(安倍首相の取り巻き学者によると)、「早春の令月」は前に述べたように「早春二月」と解釈すべきではなかろうか。注
それにしても、よりによって酷い元号を選んだものだ。あとはひたすら凶運を呼び込まないように注意するしかない。
注:いま気が付いたが序文に「天平二年正月十三日師老の宅にあつまりて宴会を申す也」とある。とすれば令月とは二月ではない。訂正します。しかし旧暦正月はだいたい今の二月である。月を愛でながら宴会というからには夜であろうが、厳寒の夜に宴会をするものであろうか。現在の三月末の夜桜見物でも相当に寒い夜がある。かりに屋内で宴会をしたとしても、ガラス戸の無い当時窓(障子?)を開け放さないと庭は見えない。寒さは野外と同じだ。
ところで最近はコンピューターで昔の月齢が計算できるソフトがある。天平二年正月十三日は満月だったか調べるのも一興だろう。正月十三日を太陽暦に変換することも忘れないように。
テレビでみると大宰府の博物館には問題の梅花の宴の模型(フィギュアというのか)があるが、どうも屋外、庭での宴会のようである。お月様が出ていたかどうかは確認できないが。お寒いことで。
さらに追加:令月の月はmoonではなくてmonthなんだ。令はgoodとかluckyとかで吉日の吉に当たるのが令で、つまり新春吉月ということなんだな。いずれにせよ極めてシナ的だ。やまと言葉ではない。
cky
元号問題には特に興味があったわけではないのだが、世間やマスコミがものに憑かれたように騒ぐのでこちらまで浮かれて長々と書いてしまった。
出典問題については漢籍であろうと日本の古典であろうと気にはならない。日本の教養人にとってシナの古典は欧米人にとってギリシャ・ラテンの古典と同様の関係にあり、国がどうだとかこうだとかいう問題とは関係がない。しかし、これまでの出典がほとんど(全部かな)漢籍からだし、選択の幅の厚さ(深さ)は漢籍のほうがはるかに豊富だから、漢籍のほうがいいかな、というくらい。ナショナリズムとは関係ない。この点では安倍首相や取り巻き似非右翼主義者の主張はピント外れである。
古典時代(後漢までかな、歴史についての見識があるわけではないが)のシナ文化と現代大陸に蟠踞しているいわゆる中国人とは精神文化的には関係ないといってもいい。大体この二千年の間、シナ人がいわゆるシナ大陸全体を支配していた期間は千年にも満たない。唐、明,宋の三王朝くらいだろう、中国人の独立統一国家だったのは。残りの期間は外国人の支配下にあったか小国分裂の混乱時代である。いやらしい植民地根性に染まり古代とは精神的には全くの別人種になっているといっても過言ではない。
ただ、これまでに書いたように、令和のようにむちゃくちゃなのはいけない。和書(国書)であれば何でもいいという乱暴な意見はいただけない。それも実は国書とは言えない性質の典拠を得意げにいうのは気持ちが悪いというだけのことだ。
まず前々回の補足;令には相手を尊敬する、良いという意味があるという。それは正しい。しかしそれは令の語釈としては下位に来る。それは漢和辞典に例示されている。漢和辞典に例示されているということは日本に入る前にシナで確立した語法であって、やまと言葉ではないことを示している。本居宣長なら日本の古語としては認めなかっただろう。
万葉集から採ったというが、梅花の序文はよほどの専門的な書物でないと収録されていない。私も初めて知った。見ているのは久松潜一氏の編纂した講談社文庫全五冊である。したがって国民に広く受け入れられているとか浸透している文章とは言えない。
また、だいぶ前の支那の文選からのコピペであると報道されている。日本の漢詩文、とくに古い時代のものはシナ古典のコピペばかりである。石を投げれば必ずシナ古典からの孫引きに当たると言っても過言ではない。
それは現代風の意味での盗用ではない。故事古典に典拠して文章を書くというのはシナでも日本でも漢詩文作成の基本的作法である。むしろ典拠からのコピペが多いのは学識の深さを示す指標である。
勿論コピペしながら自分独自の味を加えていくところが読みどころである。ところが今回の令和の二字はもろに文選からのコピペの部分にある。日本人の序文作者の独創部分からの引用あるいは典拠なら許せるが、よりによって孫引きの部分から採ってくるとは学識の無さをさらけ出している。
今回の元号は無学の恥を内外に晒している。
要するに日本の古典の序文とかいわゆる文章から採録するなら、必ずと言ってもいいほどシナ古典にさかのぼることになる。和歌の部分のやまとことばから採録するならそのようなことはあるまいが。
あんなに安っぽい政治ショーにしなければ私もスルーしたかもしれない。
それにしても安倍首相の無学ぶりにはあきれる。毎度のことではあるが。よきプロンプターが
いないと,ああもひどくなるものか。
首相をとりまく有識者(すなわち無識者)の無学、無定見、気骨の無さにも呆れるが。
語感あるいは語の感触からすると、令という言葉にはやまとことば的な手触りはない。いかにもシナ的な響きである。和は大和の感触がある。要するに令和という組み合わせはシナ人と日本人の雑婚のような印象である。
むしろシナ人にはしっくりとくる造語ではなかろうか。二字を組み合わせたのだから全体として無理のないつながり、あるいはまとまりが必要だが、それもない。
令和とはOrder and Harmonyなのか、あるいはOrder for Harmonyなのか、はたまた
Harmony through Orderなのか。令というのはシナ語の助辞としては「せしむ」という使役の使いかたがある。つまり和を強制する(もちろん権力、強制によって)というふうにもとれる。ようするに反論を許さずというわけである。シナ人ならこの解釈が一番自然ではないのか。なんだか北朝鮮的だね。
ところが産経新聞によると外国マスコミの訳は誤訳だというのだな。ずいぶん滑稽な記事が今朝の朝刊に出ている。シャカリキに誤訳誤訳と騒ぎ立てている。産経は110円と安いこともあって贔屓にしているのだが、どうも企業ご用達の「産業経済新聞」時代に戻ったようである。
「欧米メディアの一部誤解?」という記事は一読憫笑の価値がある。
日本の外務省は安倍首相の怒りを忖度して、大慌てで
Beautiful Harmonyだと宣伝しているというのだな。どうもどうも、ご苦労さまでした。