政治任用と言われるが似て非なるものと言わざるを得ない。大体、いつの間にか今のようになったのか、マスコミは報道していない。
我が国の政治風土を転覆させるような変化(改革という美名で呼ぶ輩もいる)を国会、マスコミ、国民のチェックも経ずに実行する素早さ、狡猾さは大盗賊の美技に等しい。
実質的に政治的な決定に関与する人間に政治責任を負わせようとする意味ではこのブログでも政治任用を主張してきたが、現在の制度は認めることができない。
官房副長官が内閣人事局長という制度は政治家の恣意的支配を助長するだけである。かっては(記憶では)各省の次官人事は閣議の了承が必要であった。もちろん局長以下の人事にも大臣、首相などの実質的同意が必要だったには違いないが、悪意をもった官房副長官の恣意にゆだねるがごときは論外である。もちろん官房副長官は首相のポチである。つまり首相の恣意的独裁がまかり通る。
内閣人事局が権限を持つ対象は600人とか言われる。たまたまアメリカが政治任用の対象とするのも600人規模と言われる。日本では政治任用の対象のほとんどは入省と同時にキャリアをスタートさせ、一生涯官僚として勤務する官僚が対象である。これを政治任用という美名で特定の権力者の人事権にゆだねるのは悪事を助長するものである。
アメリカの場合、政治任用の対象は官僚あがりもあるが、民間からの登用が多いようだ。その供給源は政治家であり、政党員であり、シンクタンクの人間、学者、民間人(企業経営者など)である。つまりその政党の政策を高次のレベルで機能的に補助遂行できる人物である。そして国民に対して責任をとれる人間である。さらにアメリカでは政治任用の人事は議会での承認人事となっている。
そうして選ばれた人物は硬骨で信念に基づき行動直言するスタッフとなるだろう、アメリカのように。
官僚というのは元来不偏不党で行政技術で行政の遂行に参与するものであって政策で機能するものではない。そうでなければ政権政党が変わるたびに下級官僚まで総入れ替えしなければならない。高級官僚を政治任用の対象にするということは適切ではない。弊害が多すぎる。不偏不党であるべき生涯官僚の人事査定に使われるものではない。
局長級以上をアメリカのような意味で政治任用とするのは実りある政治改革につながる。その場合、政治任用を建設的に機能させるにはしっかりとした基盤を持つリクルート組織が必要である。それは党の組織ということになるだろう。彼自身が行政の一ポストにすぎない官房副長官に独占させてはならない。かならず国会での承認を必要とすべきである。そうすれば野党も政治任用人事に一定の責任をはたせる。
この経緯一つをとっても安倍晋三は福田元首相の言うように国家の破壊者である。狡猾巧言の手品師である。