慶応三年の暮れは多事であった。
10月13日 京都二条城会議
諸藩の代表を集めて、徳川慶喜が大政奉還についての意見を聞く。小松帯刀は坂本竜馬とともに大政奉還とその後の徳川を含めた新体制を考えた人物なので最初に賛成を表明した。
10月14日 大政奉還を朝廷に奏上
10月15日 朝廷が大政奉還を許可
10月15日前後に倒幕の密勅が薩長両藩にくだされた(という)。現物はなし、写しなるものがある。密勅を請願したのは、二条城会議で大政奉還に最初に賛成した小松帯刀ほか、西郷隆盛、大久保利通の連名になっている。この関係は種々考量すべきである(結論は出るはずもないが)。請願書のあて先は中山、正親町三条、中御門の三公家になっている。
密勅の発信者(奏上者)は藤原忠能、藤原実愛、藤原経之の三公家になっているが、役職など有効なものか、そもそも本物かどうか断定できない。もちろん写しには御名御璽はない。
一番理解できないのは穏健派の小松がどうして請願をしたのかということだ。ひとつの担保として、すなわち徳川慶喜が大政奉還しなければ倒幕の武力行使に踏み切るということなのか。どうもしっくりこない。
10月26日 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛らは鹿児島にもどる(汽船あるいは軍艦で)。政局があわただしく、このころは京都と鹿児島の往復は蒸気船が使われたため、現在とさして変わらない時間で往復できた。陸路徒歩で行けば最低でも一月はかかったであろうが。
11月13日 鹿児島から軍艦に兵士3千人を乗せて京都へ出航、同日小松帯刀はやはり軍艦で土佐に向かう予定だったが、急病にて出発できず。土佐で大政奉還後の体制について打ち合わせる予定だった。小松のかわりに大久保利通が土佐に向かう。
11月15日 坂本竜馬暗殺される。
11月19日 京都御所において大政奉還後の政治体制が話される(いわゆる小御所会議)。薩摩代表は家老の岩下と大久保、西郷。大政奉還後徳川を含めた大連立を考えていた小松はいない(排除された)。西郷と大久保は大恩ある小松には頭があがらない。岩下では押さえが利かない。
大政奉還の理論的なブレーンであった坂本竜馬は殺されていない。山内容堂でなくても仕組まれたと思うのは当然である。かって斉彬は藩主になるために自分の父親を幕府に売った。斉彬の子分である西郷が大恩ある小松に一服もって動けなくした可能性は十分にある。
会議にははじめから徳川慶喜は呼ばれず、徳川家の領地没収が一方的にきまる。新政府の役職からも一切排除される。
江戸では西郷の指令でテロが続行される。たまりかねた幕府は12月末にテロリストの巣窟である三田の薩摩藩邸を焼き払う。
この知らせが数日後関西に届くや、慶応四年1月3日薩長が暴発して鳥羽伏見の戦いとなる。西郷の挑発がみごとに成功したのであった。
さて、11月13日の鹿児島出発前に小松が急病で動けなくなったのと坂本竜馬の暗殺はあきらかに連動しており、過激派西郷一派の策謀である可能性が非常に高い。
なお、小松帯刀には明治新政府から維新の功労に対して二千石が与えられたが、小松は謝絶している。拒絶したといっていい。小松は病が回復せず明治三年死去した。