東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

幻の参拝、年表の楽しみ(5)

2005-07-14 09:21:01 | 年表の楽しみ
前回の年表と一部だぶるが、中曽根首相の靖国参拝中止後の動向
を見てみよう。

1985年8月15日 中曽根首相靖国参拝
以後退陣まで参拝せず
1987年11月 中曽根首相退陣
1987年11月 竹下登首相就任

*1989年1月 レーガン大統領退陣
同じ共和党のブッシュ(父)大統領就任*

1989年6月  竹下首相退陣 参拝せず
1989年6月  宇野宗佑首相就任
1989年8月  宇野首相退陣 参拝せず
1989年8月  海部俊樹首相就任
1991年11月 海部首相退陣 参拝せず
1991年11月 宮沢喜一首相就任

*1993年1月 共和党のブッシュ大統領(父)退陣
民主党のクリントン大統領就任*

1993年8月  宮沢首相退陣 自民党単独内閣最後の首相
宮沢首相は1992年11月、一度密かに参拝したと言われるが
確認できず。自民党の支持団体である遺族会へのアリバイとして
私的に秘密裏に参拝したといわれる。

1993年8月 細川護煕首相就任 非自民連立内閣
1994年4月 細川首相退陣 参拝せず
1994年4月 羽田孜首相就任 非自民連立内閣
1994年6月 羽田首相退陣 参拝せず
1994年6月 村山富市首相就任 社会党首 自社連立内閣
1996年1月 村山首相退陣 参拝せず
1996年1月 橋本龍太郎首相就任 自民党総裁 自社連立内閣
1998年7月 橋本首相退陣
橋本首相は1996年7月自分の誕生日に私的に参拝した。遺族
会へのアリバイと思われる
1998年7月 小渕恵三首相就任 自民党総裁 自由党、公明
党と連立
2000年4月 小渕首相急死 参拝せず
2000年4月 森善朗首相就任 自民党総裁 公明党、保守党
と連立

* 2001年1月 クリントン大統領退陣
共和党のブッシュ(現)大統領就任*

2001年4月 森首相退陣 参拝せず
2001年4月 小泉純一郎首相就任 自民党総裁 公明党と連立
毎年、日にちを変えて参拝、日にちをかえるのは中韓の批判をか
わそうとしたものらしいが、効果なし。
2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月
14日、2004年1月1日に参拝

*2002年2月 ブッシュ現大統領来日 靖国参拝の意向を
事前に打診してきたが、震え上がった外務官僚や媚中政治周旋屋
の反対で明治神宮参拝となる。明治神宮には小泉首相も同行した
が、これもおびえた外務官僚の反対でブッシュ大統領夫妻と一緒
に参拝せず、車の中で待機すると言う醜態を世界にさらす。大統領
夫妻の参拝後流鏑馬を一緒に見学した。
過去明治神宮に参拝した米国大統領は共和党レーガン大統領、民
主党カーター大統領がある。

なお、大分昔になるが共和党アイゼンハワー大統領も靖国に参拝
したい意向を示したが、外務官僚の反対で立ち消えとなったとい
う。もっとも、アイゼンハワー大統領の訪日そのものが当時の政
治情勢で中止になっている。
 
東京裁判を強行演出したトルーマン民主党の後継大統領たちは靖
国参拝をしにくかったのであろう。赤色中国が民主党に擦り寄る
理由でもある。まったく、クリントン=江沢民のタッグはいやら
しいほどだったからね。







靖国でいこう、年表の楽しみ(4)

2005-07-10 08:05:14 | 年表の楽しみ
1985年8月末、赤色中国幹部会 於北京飯店

「ワン同志、最近の永田町の情勢を報告してくれたまえ」
「昨年から田中派の内部には分派独立のうごめきがありまして、
竹舌登をかしらに派閥内徒党の動きが今年はじめに表面化しました」
「竹舌がはじめた創政会なる勉強会だな」
「そうです。角栄は子分の造反に怒り狂って一晩にウイスキーを
二、三本空けるありさまで、とうとう二月末に脳梗塞で病院に運
び込まれました」

「再起は可能なのか」
「どうも絶望的なようですな」
「角栄は我が国が倭国を支配するための重要なエイジェントだ。
今の首相の仲ソネに対するコントロールは大丈夫なのかね」
「田中角栄が後藤田というのを官房長官として横目付け役で内閣
に送り込んでいますがね。田中派の権力の空白をついて、仲ソネ
が独立を図るでしょうね」

「竹舌もわが国に忠誠を誓う点では同じですが、なにぶん角栄の
跡目争いがどうなるか、当分情勢は不安定にならざるをえません
ね」
「どころでリー同志、仲ソネとアメリカの関係はどうなっている」
「これがますます親密になってますね。ロン・ヤス関係とか言っ
てね」

「ロン・ヤスってのは何だ」
「ロナルド・レーガンと仲ソネ・ヤスヒロでお互いにファーストネ
ームで呼び合うと言うわけです。ロン、ヤスとね」
「なんだか気持ちが悪いな」
「サミットなんかでも仲ソネはレーガンのそばにいつも寄り添っ
ているんですよ。これはビッグネームとのツーショットを狙う日
本の政治家の習性ですがね。それが目に余るというので、レーガ
ン大統領のナンシー夫人がホモみたいで気持ち悪いとまで言って
いる」

「仲ソネは日本列島をアメリカの不沈空母として使ってくれ言っ
ているしな」
「憲法改正も考えたいということらしいですね」
「レーガンは二期目の大統領に再選されたしな。仲ソネはどうだ」
「現在第二次仲ソネ内閣の二年目ですがね。来年の自民党総裁選
挙でも有力な対抗馬がないので相当の長期政権になるという観測
が強いですね」

「強力な牽制球を投げとかんといかんな」
「頭部を狙った危険球をね。きついヤツが必要でしょうな」
「コー同志、何がいいかな。きついピーンボールとしては」
「さればでござる。8月15日に首相は靖国神社に公式参拝し
ましたな。靖国神社には東京裁判のA級戦犯が合祀されていま
すからな。
この靖国参拝を強烈に非難するのがいいんじゃないかと拙者は
愚考いたしますな」

「しかし、A級戦犯の合祀は大分前だろう。1978年の10月
だったかな。新聞報道されたのはたしか1979年の4月だった。
6年前だな。その間我々は何も抗議や非難をしていないからな。
たしかその間、首相たちは靖国に参拝しているだろう」
「大平首相は春秋年二回、鈴木首相は春秋の例大祭に加えて8月
15日にも参拝しています」
「どうかね、急に反対しだすのは露骨すぎやしないかね。大平
氏は日中国交回復時に田中角栄のもとで外務大臣だったろう。わ
が国の大事な友人だ。また、鈴木善幸は大平派閥の番頭だ。彼ら
が靖国に参拝したときにはなにも言わないで、中曽根の時にイチ
ャモンをつけるのは整合性がとれないな」

「なーに、だんだん良くなる法華の太鼓ですよ。やみくもにたた
いている内にサマになってきまさあ」
「とにかく、日米の緊密化を何としても阻止しないといかん。そ
ういえば大戦後、アメリカは靖国神社をつぶそうとしたことがあ
る。それに東京裁判はアメリカの主導で行われたからね。我々が
靖国反対のキャンペーンをはっても、アメリカは動きにくいだろ
う。そこが我々の付け目だ。」

「アサヒ新聞をはじめ、日ごろ捨扶持を与えているマスコミ、文
化人が沢山いる。彼らにもなかから呼応させればいい」
「そうすればきっとうまくいきますよ。百年彼らを養うのはこの
日のためですからな」
秘密会議が散会したとき、北京の空はすでに落日に赤く染まって
いた。夕空を仰ぎながら親分のリーは赤い顔でいった。
「果報は寝て待てか。ワンさん、待ってて頂戴ね、だな」

A 民主党カーター大統領の時代
任期は一期、1977年1月から1981年1月まで

1978年10月 靖国神社に旧A級戦犯合祀
1978年11月 田中角栄の支持を得て大平正芳首相に(福田
赳夫退陣)

1979年4月19日 新聞、A級戦犯の合祀を報道
1979年4月21日  大平首相靖国参拝
1979年10月18日 大平首相靖国参拝
1980年4月21日  大平首相靖国参拝
1980年6月12日  大平首相急死
1980年7月17日  鈴木善幸氏首相就任(自民党総務会長)
大平氏の派閥宏池会の会長に就任

1980年8月15日 鈴木首相靖国参拝
1980年10月18日 鈴木首相靖国参拝

B 共和党ロナルド・レーガン大統領の時代
任期は二期8年 1981年1月から1989年1月まで
1981年 鈴木首相の靖国参拝 4月21日、8月15日、
10月17日

1982年 鈴木首相の靖国参拝 4月21日,8月15日、
10月18日

1982年11月 鈴木首相退陣
1982年11月 中曽根内閣成立(通称、田中曽根内閣)
1983年 中曽根首相の靖国参拝 4月21日、8月15日、
10月18日

1984年 中曽根首相の靖国参拝 1月5日、4月21日、
8月15日、10月18日

1985年2月 竹下登 創政会なる派内組織を立ち上げる
1985年2月27日 田中角栄脳梗塞で倒れる
1985年 中曽根首相の靖国参拝 1月21日、4月22日、
8月15日

1985年8月15日の参拝後、赤色中国の猛烈な非難始まる。
朝日新聞も同調

1985年 中曽根首相 秋の例大祭に参拝せず
1986年 中曽根首相 靖国参拝せず
1987年11月 竹下登首相就任 靖国参拝せず
1989年6月 宇野宗佑首相就任 靖国参拝せず
1989年8月 海部俊樹首相就任 靖国参拝せず
1991年1月 レーガン大統領退陣
以下次号






外堀を埋めた男、年表の楽しみ(3)

2005-07-05 08:53:38 | 年表の楽しみ
花田家の35日法要もどうやら終わったようだ。一家の芯柱が無
くなると家族内のグループダイナミックスにも混乱がある。花田
家の新秩序が定まるのにはちょっと時間がかかるだろう。今日の
ワイドショーではなにか展開があったようなことを言っているが

さて、前世紀の初頭は、世界が新秩序を模索して動揺した時代だ
った。正確に言えば1904-1905年の日露戦争が世界旧秩
序崩壊の第一章の幕があけるわけだ。まず第一次世界大戦までを
振り返ろう。

1902年1月 日英同盟調印(英国が栄光ある孤立を捨て歴史
上始めて結んだ軍事同盟)
1904年2月 日露戦争はじまる
1905年 日本、日露戦争に勝利
1905年9月 日露講和条約(アメリカ、セオドア・ルーズベ
ルト大統領<共和党>の仲介)
 
日露戦争に日本が勝利したことは欧州列強のアジア進出を始めて
阻止し、欧州の世界支配にチェックをかけた歴史的な意義は大き
い。
しかし、その前後の動きもきわめて示唆に富むものである。
すなわち、日英同盟の果たした重みであり、また戦後処理にアメ
リカがしゃしゃり出てアジアの経営に一枚噛もうと機会を捉えて
いることである。(講和条約仲介で恩を売る)

1914-1918年 第一次世界大戦
この戦争が世界に与えた影響は甚大である。ユーラシア大陸の三
つの大帝国が消滅した。すなわち、オーストリア・ハンガリー帝
国、ロシア帝国(ロシア革命)、オスマン・トルコ帝国である。ド
イツは国王が退位して共和制になった。

一方この戦争で利益を得たのは日本とアメリカである。しかし、
新しい世界政治のグループ・ダイナミックスが定まってみると
結局アメリカのみが勝利者であった。アメリカと日本の政治力
の差であろう。アメリカは戦後のベルサイユ講和会議でも、国
際連盟設立でも指導的な役割を果たした。日本はもっぱら太平洋
諸島、南洋諸島の獲得のみに気を取られて世界戦略がなかった。

第一次世界大戦直前から戦後処理の初期まで二期八年にわたりア
メリカ大統領をつとめてのがウッドロー・ウイルソン(民主党)
である。彼の任期に対応する時期日本は四人の首相でまかなって
いる。

1913年5月 カリフォルニア排日土地所有禁止法、以後各州
で同様の法律が成立。
1924年の排日移民法で集大成される。内容は州によって多少
の相違はあったものの、ようするに、日本移民に土地所有を認め
ず、また三年以上の土地賃貸契約を認めないという内容が多かっ
たようだ。原因は日本移民の経済的成功に対する嫉視によるもの
である。

この排日の動きが日本における反米感情を刺激した。後々の日米
の決定的な対立につながる(昭和天皇独白録など)。この動きは
1980年代の日本資本によるアメリカ不動産の買占めに対する
反発に似ている。勿論、時代が違うからたどった経緯は異なって
いる(お互いに過去の経験からの学習効果もある)。

1914年6月 第二次世界大戦勃発
1914年8月 日本ドイツに宣戦布告
1917年4月 アメリカ、ドイツに宣戦布告
1917年11月 ロシア革命
1918年11月 第一次世界大戦終わる
1919年 6月 ベルサイユ条約(講和条約)調印
1920年 1月 国際連盟成立
1921年3月 ウッドロー・ウイルソン大統領退陣
1921年12月 四カ国条約(日、英、米、仏、太平洋問題に
関する一般的国際協定)成立にともない日英同盟は翌
1922年満期失効

嘉永年間、赤鬼ペリーが来航し日本に開国を迫った。捕鯨船の水
薪の補給が名目だがイギリスなど欧州に主導権を握られているシ
ナ大陸の利権が最終目的で、日本の開国はその第一歩であった。
要するに裏口から入ろうとしたのである。ところが、その後南北
戦争が勃発、内戦でアメリカ国内は疲弊して東洋進出は一頓挫し
た。そのあいだに、日本は急速に成長し、あまつさえ、イギリス
と軍事同盟を結び、アメリカの付け込む余地はあまり無くなって
しまった。アメリカにとって日英同盟は目の上のタンコブである。

アメリカが日本に埋め込めたのは野球だけであった。なにしろ、
アメリカ人が来て三日後にはちょんまげの侍たちが夢中でバッ
トを振り回していたという。本当かどうか知らない。しかし、た
とえ話としては良く出来ている。野球は静から急激な動作へと
向かう珍しいスポーツである。バッターとピッチャーの呼吸が
合ってコンセンサスが成立しないとタマが有効に投げられないの
は相撲の立会いに似ている。

閑話休題。ウイルソン大統領当時、日本とイギリスの海軍力を合
わせるとアメリカのそれをはるかに凌駕していた。当時のウイル
ソン大統領のもとで海軍次官補をつとめた後のアメリカ大統領フ
ランクリン・ルーズベルトは嫌と言うほど、その現実を認識させ
られた。

さて、第一次大戦後のたがが緩んだ世界情勢でなんとかイギリス
に日英同盟の延長をさせないようにしようというのが、アメリカ
政策の要となる。工作が功を奏して日英同盟が失効するのは、ウ
イルソン退陣一年後の1922年であるが、彼の長年の工作が成
功につながったといえよう。1921年11月、アメリカの運動
工作で太平洋問題に関する一般協定というものがアメリカ、イギ
リス、日本、フランスの間で締結された。四カ国条約といわれる。
これは軍事同盟でもなく、いわばお茶の間サロン的な政治討議の
場みたいなものである。とくに、アメリカの強い主張で太平洋に
比較的勢力のないフランスを引き込んだことで無害な社交組織に
なってしまった。

そして、四カ国条約が出来たらから、日英同盟はいらないだろう
と英国を説得して翌年1922年に日英同盟は満期失効した。
日本の外堀は埋まった。この時点で太平洋の覇権はアメリカに約
束された。あとは時期を待って獲物をおびき出せばよいのである。

弱り目に祟り目というのはこのことか、1922年2月、元老山
縣有朋が死亡した。元老と言うのは首相のキングメイカーであり
バックシート・ドライバーである。いろいろと問題はある。しか
し、明治維新の修羅場を潜り抜け、狼のような欧米列強の間を立
ち回って、彼らの餌食にならず、国をここまでもってきた。智謀、
慎重さ、臆病さ、バランス感覚、果敢さを満遍なく兼ね備えてい
た。バクロウあがりで利権ばかりが判断基準の角栄とは違う。

山縣有朋の死後、日本のキングメイカーは実質的に軍事官僚集団
となった。彼らは陸軍大学校を出たエリートで責任をとらないこ
とで有名なとっちゃん坊やたちである。なにしろ、武士の華とも
いうべき自決にぶざまに失敗して、世界に恥をさらした人間もい
たくらいである。

日英同盟なしに世界の荒波を乗り切れるはずがない。維新60年
の大業はすべて烏有に帰し、日本が「大博打、身ぐるみはがれて、
スッテンテン」になるのは日英軍事同盟が失効し、維新最後の功
臣山縣有朋が死んでから二十余り三年後である。

なお、ウイルソン大統領がフリーメーソンであったかどうかは、
未だ之を詳らかにしない。








民主党の驚異的長期政権、年表の楽しみ(2)

2005-06-29 08:00:49 | 年表の楽しみ
私家版キネス・ブックをのぞいてみよう。
アメリカ大統領についての問題です。
アメリカの大統領で四期続けて大統領になったのはただひとり、
民主党のフランクリン・D・ルーズベルトのみである。三選さ
れた大統領もいない。三選以上されたのはフランクリン・D・
ルーズベルトのみである。かれは30歳台の終わりに小児麻痺
にかかって歩行出来なくなり車椅子の大統領として有名である。

在任期間は1933年3月4日から1945年4月12日(四期
目就任直後に死亡)まで12年間である。アメリカの憲法では大
統領の三選以上は禁じられているのではないか。その当時は認め
られていたのであろうか。ところで二期勤めた大統領は12人い
る。現在のブッシュ大統領が二期目の任期を全うすれば13人目
になる。

さて同一政党の連続政権の記録はどうであろうか。最長記録は民
主共和党の28年間である。もっとも、アメリカ建国の草創期、
19世紀初頭の話だ。1801年から1829年まで政権を維持
した。第二位が民主党政権の20年間である。1933年から
1953年まで政権の座にあった。最初の12年間はフランクリ
ン・D・ルーズベルトが四期目の途中まで、1945年から19
53年まではハリー・トルーマンが二期続けて大統領だった。
(一期目はルーズベルト大統領の死亡により、途中副大統領から
昇格)

これだけ長く政権の座にあると、思うようなことが出来る。民主
党政権の外交目標はライバルである日本を叩き潰して、太平洋の
覇権をにぎり、ペリー提督以来の悲願であったシナ大陸に勢力を
伸ばすことである。

ルーズベルトは満州国建国の翌年就任した。トルーマンは朝鮮戦
争中に退任した。このあいだの20年間のおもな歴史を振りかえ
ってみよう。日本と戦う中国各勢力(国民党、共産党)を英国と
ともに援助して、日本に対しては通商条約を破棄し、石油、鉄鋼
の禁輸を実施し、いわゆるABCD包囲網を日本に対して敷いた。
一方日本を対米戦争に引きづり込むための挑発を行った。ハル
ノートといわれる実質的な最後通告がその締めくくりである。
欧米と日本の違いはなにかというと、彼らは圧倒的に喧嘩がうま
い。相手に先に手をださせるようにもっていく。いきり立って分
別を失い大博打を打ったりすると、気がついてみたら身ぐるみ剥
がれてスッテンテンということになる。

1945年8月日本降伏後、憲法改正など占領行政で端倪すべか
らざる手腕を発揮した。その評価は立場によってさまざまである。
ある人は「キン抜き手術」といい、あるいは「無害化」といい、
「家畜化」という人もいるかと思えば占領行政が残したものを
モーゼの十戒の如くあがめるものもいる。

北朝鮮が1950年南朝鮮に侵攻すると、直ちに反撃、38度線
を越えて鴨緑江まで追撃するが、中国軍の参戦で戦線は38度線
をはさんで膠着する。

中共政権の成立とソ連との冷戦勃発と言う予想外の事態はあった
が、ほぼ目的を達成したと言えるのではないか。

余談だがフランクリン・D・ルーズベルト大統領とトルーマン大
統領はフリーメーソンのメンバーであることが分かっている。フ
ランクリンの叔父でやはり大統領だったセオドア・ルーズベルト
もフリーメーソンであった。





クリントンの8年、年表の楽しみ

2005-06-24 21:11:09 | 年表の楽しみ
例によって、すこし年表でいたずらしてみました。
うまくいったらお慰み、、

クリントン大統領 民主党 1993-2001

中国  江沢民国家主席  1993-2003

日本のGDP伸び率 
  1990  6.0
  1991  2.2
  1992  1.1
  1993  -1.0
  1994  2.3
 1991-2003 平均 1.2%

日本の首相
1990-2-28 第二次海部俊樹内閣成立 
puppet of 竹下 旧田中派
1991-11-5 宮沢喜一内閣成立    
同上
1993-8-9  細川連立内閣成立
    七党連立(含む社会党)細川は旧田中派
   1994-4-28 羽田孜内閣成立 
    六党連立 羽田は旧田中派
   1994-6-30 村山富市内閣成立  
   社会党首、自民、社会、さきがけ連立
   1996-1-11 橋本龍太郎内閣成立   
puppet of 竹下 橋本は旧田中派
   1996-11-7 第二次橋本龍太郎内閣成立
  同上
   1998-7-30 小渕恵三内閣成立
     橋本派 puppet of 竹下 小渕は旧田中派
   2000-4-5  森善朗内閣成立 
    puppet of 野中他(旧田中派)
   2001-4-26 小泉純一郎内閣成立   
反橋本(反田中、反竹下)

以上のように小泉までは田中―竹下―野中のバックシート・ド
ライバーがいるか、連立政権で政治基盤は脆弱である。 首相
の平均在任期間一年。明治維新以来もっとも駄目な首相たちが
続いた10年である。ようするに外国にいいようにカモにされ
た。戦争をしたわけでもないのに、わずか10年の間に国家の
勢いが様変わりするのはあまり例がない。

1980年代は日本の絶頂期といってもよかった。アメリカの土地、
会社はめぼしいところをすべて日本資本が買い取る勢いで、アメ
リカの恐怖は最高潮に達した。

クリントンの前のブッシュ大統領(父)は、アメリカ財界の大物
を引き連れて東京に乗り込みなりふり構わず示威行為を行った。
この無理がたたって、ブッシュ大統領は首相官邸の晩餐会で倒れ
救急車で運び出された。

次に登場したクリントンは、これがご案内のとおり、たいしたタ
マだった。えげつない手口で有名な弁護士たちを閣僚にすえて日
本に経済制度の変革を強要した。それに唯々諾々として、日本の
政治家、官僚は応じたのである。

その後の経済混乱は安政年間幕府が日米和親条約を押し付けられ
たあとの混乱に似ている。

クリントンは日本をたたくために中国に比重を移した。これに露
骨に反応したのが江沢民であった。アメリカは共和党のブッシュ
(息子)大統領になって、対日、対中政策を変換させているのに、
中国は相変わらずクリントン時代の夢を追っている。反日教育、
歴史批判で経済ごね得路線、ゆすり、たかり路線にいまだにしが
みついている。