推定無罪とは、私の理解するところでは、何人も有罪と宣告されるまでは、無罪と推定される、の謂いである。正確には「無罪とも有罪とも断じられない」と言うべきだろう。つまり「無罪ともなりうる」という当然のことを言っている。だから判決が出るまでは容疑者の人権は配慮されなければならないのである。マスコミであたかも既に犯人であるかのように報道することを戒めている。
世間では誤って状況証拠だけでは有罪に出来ない、というのを推定無罪と思っている向きがあるらしい。
再三述べたように日本でも刑事訴訟法第318条で、証拠の証明力は裁判官の自由な判断に委ねる、とある。
証拠は物証に限るとは刑事訴訟法のどこにも書いていない。ちなみに補足すると自白は物証ではないね。日本の裁判では自白をやけに珍重する。そこから小澤一郎のケースでも検察官が焦って妙なことをやったわけだ。
状況証拠しかないときに臆病になるのは、日本の司法界の「雰囲気」、「慣例」、多くの判例ではある。それは風潮であって拘束力はない。
現在の日本では、状況証拠によると、恣意的な、不合理な判決のオンパレードになるという後進国並みの状況と考えているなら、なにをかいわんや、である。
もしそうなら日本の司法ジャーナリズムは存在しないことになる。
アメリカでは状況証拠だけで死刑になるケースが非常に多い。合理的に状況証拠で判断できるかどうかが個々のケースで争点になるだけである。一般論で状況証拠を排除している国はほとんどないのではないか。
前回のアップでも触れたが、検察審査会が小沢一郎の起訴を求めたのは、物証がないと言うだけで小澤を起訴しないのが適切でないと国民が感じたからである。
専門検察官の調査で物証が出なかったのだから、今度の特別検察官の調査で新しい物証が出ないであろうことは当初から分かっていることだ。
問題は小沢一郎の行為を取り巻く状況証拠からどういう合理的判断が出来るか、そういう観点から争われるべきなのだ、当初から。小沢一郎の「秘書のやっていることはまったく報告を受けていない」という証言を信用する者はいないのではありませんか。
小沢一郎が言っているからそうだろうよ、で納得しますかね。