1:政治家が「民意を問え」と大声で怒鳴るとき、これほど破廉恥、無責任なことはあるまい。
2:政治家が「国民を代表して」というとき、これほど笑えることはあるまい。
3:政治家が「これが国民の大多数の意見です」と自分の考えを脇において、権威付けをするとき、これほど白痴的なことはあるまい。
どうして、これは自分の考えです、と堂々と言えないのか。こんな連中に政治を任せられるかね。
1:は小沢一郎ならびに民主党幹部が多用する数少ない彼らのボキャブラリーである。
2:は社民党、民主党が多用する。とくに社民党はひどい。国民のわずかな投票しか獲得できない政党が言う言葉ではなかろう。
3:も社民党に多い。民主党にいる「市民運動家」、隠れテロリストも愛用する。
いやしくも政治家を名乗るものは、まず自らの考え、政策を明らかにして、国民を説得して、その実現に努力するのが本筋である。しかるのちに、法律、制度に定められた選挙によって国民の審判をいさぎよくあおぐのが順序である。
政治家の諸君はなぜ政治家になろうとしたのかね。思うところがあって、信じるところがあってその実現を目指したのではないかね。
それを最初から国民の財布の中を盗み見るようにして、「民意」を盗もうとしている。そうして、そういう『民意』をめくらましにする。民意が二つあったらどうするね、困るだろう。そうして大概の場合、民意は二つにすら収まらないものである。
「民意」は多分に浮浪者的なところがある。漂泊してとどまるところがないのが常態である。空を漂って千切れていく雲のようだ。政治も自称民意につれて右往左往するようになる。それもよし、か。
今朝の産経新聞「正論」欄に京都大学の佐伯教授が「民意を問え、という政治暴論」という文章を載せている。私が以上述べたことと同じかどうか知らない。別に産経の記事を読む必要もないが、民意を第一に押し立てる危うさについては危惧を同じくするもののごとくである。