東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

夏枯れ

2005-07-31 14:49:11 | 社会・経済
お客さんが少ない。昨日の隅田川の花火までとはいわないがち
と寂しい。夏休みに入ったからだろうか。前から週末は客足が
落ちたものだ。そのうえに夏枯れか。めっきりアクセスが少な
くなった。それとも東条さんはネタとして魅力がないのかな。

いろいろとタネは仕込んでありいつでも連発できるのだが、ち
ょっと拍子抜けだ。一呼吸おくことにしよう。そこで小噺を一
つ挟みましょう。

題は偶感、今日昼前のテレビ朝日、例の田原君のサンデープロ
ジェクト。安倍晋一郎と志位和夫の討論を見ていて思いついた
こと。もっとも、対談の内容とはあまり関係がない。しいて言
えば、志位さんの顔を見ていてふと気がついたことと言えよう
か。

どうして、国内の野党がしつこく歴史問題という擬似スコラ神
学的な論争に狂奔するのか、という神学的な問題である。野党
だから与党を攻撃しなければならない。最近は攻撃するタネが
ほかに無くなったのではないか。本来なら国内の矛盾、なかで
も貧富の格差などが与野党の攻防の定番だ。日本だけのはなし
ではない。ところが、曲がりなりにも国内が豊かになり、目の
色を変えて政府の政策を攻撃する材料もない。あっても、国民
の公憤、あるいは興奮を盛り上げるまでのパンチ力はない。

思想問題も東西冷戦が熾烈でソ連という桃源郷を信じていたと
きには、現存在としての同時代的攻撃対象があったわけだ。ま
して、日本の保守を攻撃することは日本の背後にある資本主義
の悪の総本山アメリカをぶっ叩くという充実感もあった。

またシナ、そして半島の北にも天国があった。それも拉致問題
でようやく馬鹿の頭にも現実が突きつけられた。ソ連もおっ死
んで消滅した。

未熟なヒステリー女にはめらまらと、いやメラメラとヒステリ
ーの火が這い登るよりしろが必要なのだ。頭のいい人が言った。
(なに、「日本の過去」があるじゃないの)、とね。

先週も6チャンネルだったか、安倍氏の討論(たしか加藤広一
氏との対談だったと思うが)を見た。安倍氏のいうことはバラ
ンスが取れていてしっかりしているね。彼の場合は若いという
ことはハンデよりも利点のほうに働くのではないか。

以上八月へのおくりもの、でした。








東条英機

2005-07-29 19:45:52 | 東条英機

私は比較的靖国神社とは縁の薄いほうである。親族で祀られて
いるのは慶応四年一月三日鳥羽伏見の戦いで戦死した一名のみ
である。北進事変(義和団事件)、日露戦争、第一次世界大戦
(青島ドイツ要塞攻略戦)に職業軍人として出征したものがあ
ったが、腸チフスで死に損なったものの無事大佐で退役した。
シナ事変、太平洋戦争では多くの縁者が出征したが、運が良か
ったのか遠縁の一人が戦病死したのを除いて帰還している。

これから申し上げることに誤解されないように、私の基本的な
考えについては、これまでの投稿を読んでいただくことを希望
する。

さて、小泉首相が東条英機を卓越した指導者、あるいは抜きん
出た軍神、救国の英雄として特に念頭において靖国に参拝する
なら反対する。小泉氏の日ごろの言動からすれば、多くの戦没
者全員に哀悼と感謝の誠を捧げるために参拝されるようだから
なんら問題ない。この問題について国内で活発な議論が行われ
ることには反対しない。しかし、外国が口を出し、政治外交の
道具としてもてあそぶことは許すことは出来ない。この点につ
いては別項で講和の問題として論じたい。

「一死以って大罪を謝し奉る」という言葉は終戦時の阿南陸軍
大臣が自決するときに残した言葉である。この文章は当然のこ
ととして、A:誰に対して、B:何に対して、ということが省
略されている。しかし、現代では注釈を入れなければ分かるま
い。好き勝手な解釈が行われるだろう。

誰に対してか、天皇陛下に対してである。今風の言葉で表現す
れば日本国民に対してということだ。
何に対してか、勝利を得ることが出来なかった戦争指導につい
ての敗戦責任である。あくまでも自国民に対する責任である。

この言葉はすべての戦争指導者に当てはまる。とくに、いわゆ
るA級戦犯クラスのうちの高級軍事官僚には例外なく峻厳過酷
に適用されなければならない。言うまでもなく東京裁判は国際
法に違反した茶番である。ここで論じているのは日本の伝統文
化が誇る中世的軍律の倫理である。葉隠れの精神である。

次回:覚悟なき高級軍事官僚


タクシーの禁煙

2005-07-20 17:14:33 | 社会・経済
最近急に禁煙タクシーが増えているようだ。今日は「運転手は
タバコを吸いません」というスティッカーを車内に貼ってある
タクシーに乗った。これは乗客は吸ってもいいが、運転手には
車内では吸わせない、という意味だろうか。運転手に聞いてみ
ようと思っているうちに目的地についてしまったので聞きそび
れた。

しかし、禁煙車でも灰皿はある。封印はしていない。車両その
ものが禁煙仕様になるのは次の段階のようだ。まったく、狭い
車内でタバコを吸われると後に残った臭気は耐え難いものだ。
飛行機や列車、あるいはレストランなどに比べて比較にならな
いほど一人当たりの占有面積が小さく、もっとも換気の難しい
タクシーの禁煙が一番後回しになるのも段取りが悪いものだ。

あきれたことに、禁煙車にするためには国土交通省の認可を車
両ごとに取る必要があるらしい。そして、表示などにもやかま
しい規則があるというから驚く。喫煙家から文句を言われるか
らだそうだ。タバコのみの人権は十全に守られているね。

運転手でも客待ちをしているときに吸っているのに違いないの
がいる。タバコの臭気があっても、客のせいか、運転手のせい
か、分からない。前に文句を言ったら運転席の灰皿の中身を引
き抜いて私は吸っていないと目の前に突きつけられたことがあ
る。

今日の「運転手はタバコを吸いません」というやり方も一歩改
善ではあろう。交通局の認可も必要ないし、スティッカーを作
ったり、屋根に載せるランプを作る費用も節約できる。

逆に最近増えてきたように感じる迷惑にニンニクの臭いがある。
昔は運転手がニンニクの臭いをさせていることなど絶無であっ
たが、最近は車のドアを開けたとたんに猛烈なニンニク臭いに
襲われることがある。もっとも、これも前の客の名残の場合も
ある。最近はタクシーの客にもニンニク常用国の連中が多いか
らね。また、彼らは数人でタクシーに乗り込むことが多いらし
いから全員の口臭だとすれば、車に染み付くくらい強烈なのか
もしれない。もっとも、アリナミンの注射をしてもああいう口
臭はするが、まさか、最近アリナミンがはやっているわけでも
あるまい。

こういう場は一応、運転手の名札が三文字かどうかを見ること
にしている。もっとも、山田太郎なんて書いてあっても日本語
がよく分からない運転手も時にいる。一度運転手が自分から国
籍は中国ですといったことがある。よくやってるねといったら、
試験に受かれば出来るんですよ、といった。語学とか、国籍は
関係ないらしい。この試験というのは交通局のやるものなのか、
個々のタクシー会社がやるものなのだろうか。一度聞いてみた
いと思っている。

運転手と雑談をした時の話では中国、韓国人の運転手がいるの
は本当らしい。特定の会社のようだが。一度、深夜に通行人の
まったく途絶えた都心のオフィス街で近くの駅まで乗ったタク
シーがそういう人だった。

道をよく知らないらしく見当違いの方向に行くので下ろしてく
れといったがタクシーをとめない。日本語がよく分からないの
か、あるいは道に不案内なことに責任を感じているのか、ある
いはメーターを稼ごうとしているのか、返事をしないでぐるぐ
る回られた。女性の客だったら恐怖心を感じるのではなかろう
か。また、なにか指示をすると返事の変わりに舌打ちをする運
転手がいる。あちらでは普通のことなのだろうか。日本ではサ
ービス上考えられないことである。北側君にはしっかりとして
もらわないと困る。






スペインの座布団

2005-07-18 08:46:25 | スポーツ
昨日の千秋楽での座布団の飛び方はいつもと違っていましたネ。

琴欧州が朝青龍に勝った一番です。場内の興奮はすごかった。近
来あんなに盛り上がった光景はなかった。欧州勢で横綱に勝った
のは琴欧州が一番乗りじゃなかったかな。たしか黒海もまだ横綱
には勝っていない。

テレビであの興奮を見てスペインの闘牛場を思い出した。興奮し
てくると観客が色々なものをアリーナに投げ込む。座布団はない
が、花束から自分の持ち物、着ているものまで脱ぎ捨てて投げ込
む。

ひと目で粋筋とわかる美人が興奮してパンティを脱いで投げ込む。
形状、質量などの空力学的関係で座布団と違って、ああ小気味
よく遠くまで飛ばない。最前列の親爺が興奮して帽子を投げ込
む。その禿茶瓶の頭の上にパンティが着地する。カトリックの
坊さんの帽子みたいに頭に乗っかったまま滑り落ちない。興奮
した女性のパンティは湿気を含んでいるから摩擦係数が大きい
のである。

金星の番狂わせがあると舞う座布団を見るたびに闘牛場を思い
出すのだが、昨日はとくにまざまざと記憶がよみがえった。







幻の参拝、年表の楽しみ(5)

2005-07-14 09:21:01 | 年表の楽しみ
前回の年表と一部だぶるが、中曽根首相の靖国参拝中止後の動向
を見てみよう。

1985年8月15日 中曽根首相靖国参拝
以後退陣まで参拝せず
1987年11月 中曽根首相退陣
1987年11月 竹下登首相就任

*1989年1月 レーガン大統領退陣
同じ共和党のブッシュ(父)大統領就任*

1989年6月  竹下首相退陣 参拝せず
1989年6月  宇野宗佑首相就任
1989年8月  宇野首相退陣 参拝せず
1989年8月  海部俊樹首相就任
1991年11月 海部首相退陣 参拝せず
1991年11月 宮沢喜一首相就任

*1993年1月 共和党のブッシュ大統領(父)退陣
民主党のクリントン大統領就任*

1993年8月  宮沢首相退陣 自民党単独内閣最後の首相
宮沢首相は1992年11月、一度密かに参拝したと言われるが
確認できず。自民党の支持団体である遺族会へのアリバイとして
私的に秘密裏に参拝したといわれる。

1993年8月 細川護煕首相就任 非自民連立内閣
1994年4月 細川首相退陣 参拝せず
1994年4月 羽田孜首相就任 非自民連立内閣
1994年6月 羽田首相退陣 参拝せず
1994年6月 村山富市首相就任 社会党首 自社連立内閣
1996年1月 村山首相退陣 参拝せず
1996年1月 橋本龍太郎首相就任 自民党総裁 自社連立内閣
1998年7月 橋本首相退陣
橋本首相は1996年7月自分の誕生日に私的に参拝した。遺族
会へのアリバイと思われる
1998年7月 小渕恵三首相就任 自民党総裁 自由党、公明
党と連立
2000年4月 小渕首相急死 参拝せず
2000年4月 森善朗首相就任 自民党総裁 公明党、保守党
と連立

* 2001年1月 クリントン大統領退陣
共和党のブッシュ(現)大統領就任*

2001年4月 森首相退陣 参拝せず
2001年4月 小泉純一郎首相就任 自民党総裁 公明党と連立
毎年、日にちを変えて参拝、日にちをかえるのは中韓の批判をか
わそうとしたものらしいが、効果なし。
2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月
14日、2004年1月1日に参拝

*2002年2月 ブッシュ現大統領来日 靖国参拝の意向を
事前に打診してきたが、震え上がった外務官僚や媚中政治周旋屋
の反対で明治神宮参拝となる。明治神宮には小泉首相も同行した
が、これもおびえた外務官僚の反対でブッシュ大統領夫妻と一緒
に参拝せず、車の中で待機すると言う醜態を世界にさらす。大統領
夫妻の参拝後流鏑馬を一緒に見学した。
過去明治神宮に参拝した米国大統領は共和党レーガン大統領、民
主党カーター大統領がある。

なお、大分昔になるが共和党アイゼンハワー大統領も靖国に参拝
したい意向を示したが、外務官僚の反対で立ち消えとなったとい
う。もっとも、アイゼンハワー大統領の訪日そのものが当時の政
治情勢で中止になっている。
 
東京裁判を強行演出したトルーマン民主党の後継大統領たちは靖
国参拝をしにくかったのであろう。赤色中国が民主党に擦り寄る
理由でもある。まったく、クリントン=江沢民のタッグはいやら
しいほどだったからね。







靖国でいこう、年表の楽しみ(4)

2005-07-10 08:05:14 | 年表の楽しみ
1985年8月末、赤色中国幹部会 於北京飯店

「ワン同志、最近の永田町の情勢を報告してくれたまえ」
「昨年から田中派の内部には分派独立のうごめきがありまして、
竹舌登をかしらに派閥内徒党の動きが今年はじめに表面化しました」
「竹舌がはじめた創政会なる勉強会だな」
「そうです。角栄は子分の造反に怒り狂って一晩にウイスキーを
二、三本空けるありさまで、とうとう二月末に脳梗塞で病院に運
び込まれました」

「再起は可能なのか」
「どうも絶望的なようですな」
「角栄は我が国が倭国を支配するための重要なエイジェントだ。
今の首相の仲ソネに対するコントロールは大丈夫なのかね」
「田中角栄が後藤田というのを官房長官として横目付け役で内閣
に送り込んでいますがね。田中派の権力の空白をついて、仲ソネ
が独立を図るでしょうね」

「竹舌もわが国に忠誠を誓う点では同じですが、なにぶん角栄の
跡目争いがどうなるか、当分情勢は不安定にならざるをえません
ね」
「どころでリー同志、仲ソネとアメリカの関係はどうなっている」
「これがますます親密になってますね。ロン・ヤス関係とか言っ
てね」

「ロン・ヤスってのは何だ」
「ロナルド・レーガンと仲ソネ・ヤスヒロでお互いにファーストネ
ームで呼び合うと言うわけです。ロン、ヤスとね」
「なんだか気持ちが悪いな」
「サミットなんかでも仲ソネはレーガンのそばにいつも寄り添っ
ているんですよ。これはビッグネームとのツーショットを狙う日
本の政治家の習性ですがね。それが目に余るというので、レーガ
ン大統領のナンシー夫人がホモみたいで気持ち悪いとまで言って
いる」

「仲ソネは日本列島をアメリカの不沈空母として使ってくれ言っ
ているしな」
「憲法改正も考えたいということらしいですね」
「レーガンは二期目の大統領に再選されたしな。仲ソネはどうだ」
「現在第二次仲ソネ内閣の二年目ですがね。来年の自民党総裁選
挙でも有力な対抗馬がないので相当の長期政権になるという観測
が強いですね」

「強力な牽制球を投げとかんといかんな」
「頭部を狙った危険球をね。きついヤツが必要でしょうな」
「コー同志、何がいいかな。きついピーンボールとしては」
「さればでござる。8月15日に首相は靖国神社に公式参拝し
ましたな。靖国神社には東京裁判のA級戦犯が合祀されていま
すからな。
この靖国参拝を強烈に非難するのがいいんじゃないかと拙者は
愚考いたしますな」

「しかし、A級戦犯の合祀は大分前だろう。1978年の10月
だったかな。新聞報道されたのはたしか1979年の4月だった。
6年前だな。その間我々は何も抗議や非難をしていないからな。
たしかその間、首相たちは靖国に参拝しているだろう」
「大平首相は春秋年二回、鈴木首相は春秋の例大祭に加えて8月
15日にも参拝しています」
「どうかね、急に反対しだすのは露骨すぎやしないかね。大平
氏は日中国交回復時に田中角栄のもとで外務大臣だったろう。わ
が国の大事な友人だ。また、鈴木善幸は大平派閥の番頭だ。彼ら
が靖国に参拝したときにはなにも言わないで、中曽根の時にイチ
ャモンをつけるのは整合性がとれないな」

「なーに、だんだん良くなる法華の太鼓ですよ。やみくもにたた
いている内にサマになってきまさあ」
「とにかく、日米の緊密化を何としても阻止しないといかん。そ
ういえば大戦後、アメリカは靖国神社をつぶそうとしたことがあ
る。それに東京裁判はアメリカの主導で行われたからね。我々が
靖国反対のキャンペーンをはっても、アメリカは動きにくいだろ
う。そこが我々の付け目だ。」

「アサヒ新聞をはじめ、日ごろ捨扶持を与えているマスコミ、文
化人が沢山いる。彼らにもなかから呼応させればいい」
「そうすればきっとうまくいきますよ。百年彼らを養うのはこの
日のためですからな」
秘密会議が散会したとき、北京の空はすでに落日に赤く染まって
いた。夕空を仰ぎながら親分のリーは赤い顔でいった。
「果報は寝て待てか。ワンさん、待ってて頂戴ね、だな」

A 民主党カーター大統領の時代
任期は一期、1977年1月から1981年1月まで

1978年10月 靖国神社に旧A級戦犯合祀
1978年11月 田中角栄の支持を得て大平正芳首相に(福田
赳夫退陣)

1979年4月19日 新聞、A級戦犯の合祀を報道
1979年4月21日  大平首相靖国参拝
1979年10月18日 大平首相靖国参拝
1980年4月21日  大平首相靖国参拝
1980年6月12日  大平首相急死
1980年7月17日  鈴木善幸氏首相就任(自民党総務会長)
大平氏の派閥宏池会の会長に就任

1980年8月15日 鈴木首相靖国参拝
1980年10月18日 鈴木首相靖国参拝

B 共和党ロナルド・レーガン大統領の時代
任期は二期8年 1981年1月から1989年1月まで
1981年 鈴木首相の靖国参拝 4月21日、8月15日、
10月17日

1982年 鈴木首相の靖国参拝 4月21日,8月15日、
10月18日

1982年11月 鈴木首相退陣
1982年11月 中曽根内閣成立(通称、田中曽根内閣)
1983年 中曽根首相の靖国参拝 4月21日、8月15日、
10月18日

1984年 中曽根首相の靖国参拝 1月5日、4月21日、
8月15日、10月18日

1985年2月 竹下登 創政会なる派内組織を立ち上げる
1985年2月27日 田中角栄脳梗塞で倒れる
1985年 中曽根首相の靖国参拝 1月21日、4月22日、
8月15日

1985年8月15日の参拝後、赤色中国の猛烈な非難始まる。
朝日新聞も同調

1985年 中曽根首相 秋の例大祭に参拝せず
1986年 中曽根首相 靖国参拝せず
1987年11月 竹下登首相就任 靖国参拝せず
1989年6月 宇野宗佑首相就任 靖国参拝せず
1989年8月 海部俊樹首相就任 靖国参拝せず
1991年1月 レーガン大統領退陣
以下次号






外堀を埋めた男、年表の楽しみ(3)

2005-07-05 08:53:38 | 年表の楽しみ
花田家の35日法要もどうやら終わったようだ。一家の芯柱が無
くなると家族内のグループダイナミックスにも混乱がある。花田
家の新秩序が定まるのにはちょっと時間がかかるだろう。今日の
ワイドショーではなにか展開があったようなことを言っているが

さて、前世紀の初頭は、世界が新秩序を模索して動揺した時代だ
った。正確に言えば1904-1905年の日露戦争が世界旧秩
序崩壊の第一章の幕があけるわけだ。まず第一次世界大戦までを
振り返ろう。

1902年1月 日英同盟調印(英国が栄光ある孤立を捨て歴史
上始めて結んだ軍事同盟)
1904年2月 日露戦争はじまる
1905年 日本、日露戦争に勝利
1905年9月 日露講和条約(アメリカ、セオドア・ルーズベ
ルト大統領<共和党>の仲介)
 
日露戦争に日本が勝利したことは欧州列強のアジア進出を始めて
阻止し、欧州の世界支配にチェックをかけた歴史的な意義は大き
い。
しかし、その前後の動きもきわめて示唆に富むものである。
すなわち、日英同盟の果たした重みであり、また戦後処理にアメ
リカがしゃしゃり出てアジアの経営に一枚噛もうと機会を捉えて
いることである。(講和条約仲介で恩を売る)

1914-1918年 第一次世界大戦
この戦争が世界に与えた影響は甚大である。ユーラシア大陸の三
つの大帝国が消滅した。すなわち、オーストリア・ハンガリー帝
国、ロシア帝国(ロシア革命)、オスマン・トルコ帝国である。ド
イツは国王が退位して共和制になった。

一方この戦争で利益を得たのは日本とアメリカである。しかし、
新しい世界政治のグループ・ダイナミックスが定まってみると
結局アメリカのみが勝利者であった。アメリカと日本の政治力
の差であろう。アメリカは戦後のベルサイユ講和会議でも、国
際連盟設立でも指導的な役割を果たした。日本はもっぱら太平洋
諸島、南洋諸島の獲得のみに気を取られて世界戦略がなかった。

第一次世界大戦直前から戦後処理の初期まで二期八年にわたりア
メリカ大統領をつとめてのがウッドロー・ウイルソン(民主党)
である。彼の任期に対応する時期日本は四人の首相でまかなって
いる。

1913年5月 カリフォルニア排日土地所有禁止法、以後各州
で同様の法律が成立。
1924年の排日移民法で集大成される。内容は州によって多少
の相違はあったものの、ようするに、日本移民に土地所有を認め
ず、また三年以上の土地賃貸契約を認めないという内容が多かっ
たようだ。原因は日本移民の経済的成功に対する嫉視によるもの
である。

この排日の動きが日本における反米感情を刺激した。後々の日米
の決定的な対立につながる(昭和天皇独白録など)。この動きは
1980年代の日本資本によるアメリカ不動産の買占めに対する
反発に似ている。勿論、時代が違うからたどった経緯は異なって
いる(お互いに過去の経験からの学習効果もある)。

1914年6月 第二次世界大戦勃発
1914年8月 日本ドイツに宣戦布告
1917年4月 アメリカ、ドイツに宣戦布告
1917年11月 ロシア革命
1918年11月 第一次世界大戦終わる
1919年 6月 ベルサイユ条約(講和条約)調印
1920年 1月 国際連盟成立
1921年3月 ウッドロー・ウイルソン大統領退陣
1921年12月 四カ国条約(日、英、米、仏、太平洋問題に
関する一般的国際協定)成立にともない日英同盟は翌
1922年満期失効

嘉永年間、赤鬼ペリーが来航し日本に開国を迫った。捕鯨船の水
薪の補給が名目だがイギリスなど欧州に主導権を握られているシ
ナ大陸の利権が最終目的で、日本の開国はその第一歩であった。
要するに裏口から入ろうとしたのである。ところが、その後南北
戦争が勃発、内戦でアメリカ国内は疲弊して東洋進出は一頓挫し
た。そのあいだに、日本は急速に成長し、あまつさえ、イギリス
と軍事同盟を結び、アメリカの付け込む余地はあまり無くなって
しまった。アメリカにとって日英同盟は目の上のタンコブである。

アメリカが日本に埋め込めたのは野球だけであった。なにしろ、
アメリカ人が来て三日後にはちょんまげの侍たちが夢中でバッ
トを振り回していたという。本当かどうか知らない。しかし、た
とえ話としては良く出来ている。野球は静から急激な動作へと
向かう珍しいスポーツである。バッターとピッチャーの呼吸が
合ってコンセンサスが成立しないとタマが有効に投げられないの
は相撲の立会いに似ている。

閑話休題。ウイルソン大統領当時、日本とイギリスの海軍力を合
わせるとアメリカのそれをはるかに凌駕していた。当時のウイル
ソン大統領のもとで海軍次官補をつとめた後のアメリカ大統領フ
ランクリン・ルーズベルトは嫌と言うほど、その現実を認識させ
られた。

さて、第一次大戦後のたがが緩んだ世界情勢でなんとかイギリス
に日英同盟の延長をさせないようにしようというのが、アメリカ
政策の要となる。工作が功を奏して日英同盟が失効するのは、ウ
イルソン退陣一年後の1922年であるが、彼の長年の工作が成
功につながったといえよう。1921年11月、アメリカの運動
工作で太平洋問題に関する一般協定というものがアメリカ、イギ
リス、日本、フランスの間で締結された。四カ国条約といわれる。
これは軍事同盟でもなく、いわばお茶の間サロン的な政治討議の
場みたいなものである。とくに、アメリカの強い主張で太平洋に
比較的勢力のないフランスを引き込んだことで無害な社交組織に
なってしまった。

そして、四カ国条約が出来たらから、日英同盟はいらないだろう
と英国を説得して翌年1922年に日英同盟は満期失効した。
日本の外堀は埋まった。この時点で太平洋の覇権はアメリカに約
束された。あとは時期を待って獲物をおびき出せばよいのである。

弱り目に祟り目というのはこのことか、1922年2月、元老山
縣有朋が死亡した。元老と言うのは首相のキングメイカーであり
バックシート・ドライバーである。いろいろと問題はある。しか
し、明治維新の修羅場を潜り抜け、狼のような欧米列強の間を立
ち回って、彼らの餌食にならず、国をここまでもってきた。智謀、
慎重さ、臆病さ、バランス感覚、果敢さを満遍なく兼ね備えてい
た。バクロウあがりで利権ばかりが判断基準の角栄とは違う。

山縣有朋の死後、日本のキングメイカーは実質的に軍事官僚集団
となった。彼らは陸軍大学校を出たエリートで責任をとらないこ
とで有名なとっちゃん坊やたちである。なにしろ、武士の華とも
いうべき自決にぶざまに失敗して、世界に恥をさらした人間もい
たくらいである。

日英同盟なしに世界の荒波を乗り切れるはずがない。維新60年
の大業はすべて烏有に帰し、日本が「大博打、身ぐるみはがれて、
スッテンテン」になるのは日英軍事同盟が失効し、維新最後の功
臣山縣有朋が死んでから二十余り三年後である。

なお、ウイルソン大統領がフリーメーソンであったかどうかは、
未だ之を詳らかにしない。