昨夜のNHK「その時歴史は動いた」。薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通を取り上げていた。ゲストは鹿児島大学の原口泉せんせいだ。
この人、折からの篤姫ブームですこし副収入があったようだ。「小松帯刀、竜馬を超えた男」とかいう本を書店で見かけることがある。本は、もちろん買ったことはない。だから読んだこともない。昨夜のテレビね。
不審なことが多かった。私が言うのもおこがましいが、新資料が最近でたのかね。番組の性質からもっぱら結論というか、論文なら見出しだけでつないでいたが「ほんとかね」という印象。もちろん違うという論拠も手元にはないのだが。
いわゆる倒幕の密勅だが、相当前から準備していたというが、私の記憶では徳川慶喜が大政奉還の奏上を行ったと同日づけか一日前後しているだけだ。
それも討幕の密勅を出してくださいという薩摩の三人が出した申請書の日付だ。申請書をうけて出される密勅の日付はさらにそれより後になる。後世伝わる密勅には日付もないはずだ。
もっとも、原本があるわけでもなく、筆写した体裁のものだろうから、コピーした人間がどうにでも作れるものだ。複数違うコピーが存在していた可能性も大きい。現存する密勅と言われるものには当然のことながら御名御璽は欠落している。コピーたるゆえんである。私が見たのは郷土史家の著作だが。
そのうちの一つを最近原口センセイが古本屋かどこかで手に入れたということか。大体が明治になってから後付けで発行した小切手の可能性も否定はできない。いわゆる勝者の歴史ねつ造だ。
倒幕の密勅の申請は小松、西郷、大久保の連名で倒幕側の公家三人に出されている。一方で小松は慶喜が大政奉還について意見を諸侯に求めた時に真っ先に強力に支持したことで知られている。完全な二枚舌ということになる。小松に限って言えば。
もっとも自然な考えは小松の知らないところで、小松の了解を得ないで西郷と大久保が家老の小松の名前を無断で使ったということだろう。
小松が小御所会議に出席するために鹿児島を出発する直前になって急病(歩行困難)を理由に京都へ行かなかった理由を原口センセイは大胆に推理する。
センセイの主張は西郷、大久保のクーデターをやりやすくするために、小松が自ら身を引いたというわけだ。
つまり脚疾というのは仮病だというわけね。大分苦心の跡がみられる。やはり鹿児島大学の教授としてセンセイは鹿児島の県民感情との折り合いをつけなさったのかな。
数年前から私の主張しているところは、小松の病気の原因は西郷にありというものだ。
慶応三年の末はひと月足らずの間に京都御所でのクーデターに不可欠な二つの事件が起こっている。すなわち、小松帯刀の鹿児島残留、坂本竜馬暗殺。そして徳川慶喜の会議参加への禁止である。クーデターの必須要件がそろったわけだ。この背後に作為されたプロットの存在を否定することは難しい。
もっとも、二つの事件、竜馬の暗殺と小松の病気が西郷たちにとって僥倖的に重なったまったくの偶然ということも言える。しかしその可能性は確率的には天文学的に極微細な可能性である。ナノの世界である。
+ つまり冷酷なテロリスト、非情な謀略の天才、西郷隆盛のえがいた絵図によるものと見るのが無理のない説である。
++密勅という言葉について:
もともと存在していなかった可能性が高い。何もないから、相手の耳元で恩着せがましく「ミッチョク、密勅」と囁くのが陰謀家が用いる密勅の密勅たる所以である。岩倉具視が拵えた偽書であろう。
+++ 頭のいい徳川慶喜がなぜ錦の御旗に肝を抜かれたのか。まるでテレビのインチキ誇大広告にてもなくだまされる昨今の主婦のようではないか。
たぶん、慶喜も同じ手を考えて朝廷の徳川寄りの公家に工作をしていたのだろう。密勅が偽であることは分かっていたが、そこは水戸徳川家だ。先を越されたとおじけずいたか。
なぜ、偽の錦旗を正面から踏みつぶそうとしなかったのか。ガッツの問題もある。慶喜の諜報能力がどの程度だったか分からないが、薩摩、長州が欧米から輸入した最新兵器が徳川にまさると判断したのか。徳川側の戦意や戦闘能力に疑問を持っていたのか。
内戦を避けるためにあえて身を引いたというきれいごとが通説である。篤姫でもそうなっている。私には作り話のように思える。