そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

司法は植松に与死し何も解決しなかった

2020-03-16 | 格差社会

4年半前に障がい者施設に深夜侵入し、16人を殺害し26人に重軽傷を負わせた事件は、ヒトの存在を我々に問うものである。植松という26歳の元職員の起こした事件であるが、ネット上などでの彼の主張に賛同するものも少なくない。意思疎通の出来ない障がい者は社会悪である、殺すに値するというのである。これは社会正義であり、いずれ行政の褒章を受け釈放されるというのである。
ここには、人間社会の底辺にあり続ける優性思想があり、それを巧みに利用する能力主義、効率主義の資本主義社会があり、さらに他者を見下す優越思想をさらに助長する。この事件の本質は、真っ先に社会が反応した姿勢あるいは思想は、障がい者施設の施錠の問題や防犯カメラを備える事であったことに見て取れる。施錠を頑強にし塀を高くし防犯カメラを増やすことが、問題を解決すると信じる行政の存在こそが本質なのである。
隔離の強化は内なる植松の存在を容認するものでしかない。石原慎太郎が障がい者施設を訪問した時に口にした、「こういう人間にも人権はあるのだろうか」と平然と言ってのけたことが、象徴的である。植松は、重度の障がい者は安楽死させるべきである、彼らは人間ではないという主張は事件後も変えていない。
植松という男が産まれた環境も大きく彼の思想を形成したであろう。漫画家の母の下で育ちビジュアル依存思想が大きく、何度も整形手術をしたり背中に一面に入れ墨を入れたり、長引く収監で髪を伸ばしたりと、事の本質を外観に求める。意思疎通が人としての存在基準とするのもその為である。
植松との接見した人物は20人にも及ぶ。20回を超える人もいる。植松の明るさと、この膨大な接見数は自身が罪の浅さを自認しているからである。自らは何度も職場を変えたり整形手術の目的が達成できなかったりと、社会の中での自己存在の不安、疎外感が思想を助長した。障がい者を差別していない、区別すると決定権を自らから離そうとしない。

障がい者を不要の存在と効率社会は内含している。今日植松聖に対して死刑判決が出た。植松は上告しないと述べている。つまり結審したことになるが、裁判はこの事件の本質を何ら問うこともなく、単なる殺人事件としてその被害者の数の多さから死刑判決をだした。司法は植松聖に与死しただけで、事件の解決にも何も与しなかった。
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労働の目的や質を働くものから奪った格差社会

2019-12-30 | 格差社会

2018年で3千万米ドル(約30億円)以上の資産を持つ日本人は、僅かに1万7855人である。人口比0.01%であるが彼らの資産合計は110兆円超となる。日本のGDPが550兆円超であるから、彼らの資産は20%に匹敵する。驚異というより天文学的といえる。このくらいになると資産など呼ばれるものではなく、「富」と呼ばれるべきであるが、この富は労働で得られたものではない。
このレベルになると格差社会を超越した非現実事実という他ない。労働とはおよそ無関係な金融取引による富の形成であろう。
賃金は労働の対価として求められるものである。労働にはその成果があり、社会的に支えるべき質があるはずである。一次産業とその周辺では、労働の対価が賃金だけではない。労働の成果や結果が確認できる時点が必ずある。種をまけが芽を出し実を付け収穫する。その量や品質を見ることになる。
私自身、獣医師を15名ほどいた診療所の管理職であった時期に、病気などで5名以上が10か月もフルで働けない時期があった。私は一月100時間以上の時間外を、ほぼ一年続けることになった。健常な職員もほぼそれに近かったが、多忙であったが誰一人として労働過重などとは口にはしなかった。診療すると治れば農家は喜んでくれるし、駄目になれば怒られる事もあるが、いずれにしても労働の結果が目に見えている。農家の喜ぶ姿や怒る態度や牛の顔などが常時そこにあるからである。
労働の成果がディスプレイに向こうや、紙によって表されても体は受け付けてはいないのであろう。多くの過労死や障害を示す方々はそうしたことではないかと思われる。
天文学的な資産を抱え込んで、多分労働などする場もないであろう彼らには、どのような労働の地価があるのかはわからないが、社会がいびつになっている事だけは確かである。
日本には勤労の美徳という概念がある。これは農耕民族の培ってきたものである。金銭的な対価は多く得られるものではないが、労働の過程と成果を見ることができる。
小泉・竹中に始まる新自由主義という金融資本主義は、富める者をさらに豊かにし貧し人達をさらに貧困へと追いやったでではない。彼らは労働の本質を、その目的や喜びを労働者から奪ったのである。安倍信三は更にそれを推し進めたといえる。それは日本というが育んできた文化の破壊でもある。
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最低賃金を全国一律にすべきである

2019-11-12 | 格差社会

最低賃金の格差が広がっている。最も高い東京は1,013円で低い県の790円との差は223円である。月にすれば、約4万円もの差になる。790円は12県になるが、多くが上げてこの価格である。青森、秋田、岩手、山形、新潟、高知、鳥取、大分、宮崎、熊本、佐賀、長崎、鹿児島。沖縄は上げて最低である。何処もへき地である。
今年参議院選挙があり、与野党がこぞって最低賃金のアップを政策に掲げていた。そのため、多くの自治体が今年最低賃金を上げたが(上図の黄色い県)、格差は縮まったわけではない。
地域による賃金格差があることは、生活基準に関わる費用や物価に差があるで容認されてきてた。都会は土地や住宅費や家賃が高いことが容認されているが、地方は交通費の車や燃料費などの移動費用が高く、ほぼ相殺されていることが最近の研究で解っている。物価は商流が盛んになり大きな差が生じない。要するに生活費は都会と地方には大きな差がないということである。
こんなに賃金格差があれば、都会に人が流れるわけである。地方創生を政府は掲げているが、こんなに賃金格差があれば人は、特に若者は都会に流れるのは当然である。

昭和34年に設定された、最低賃金法は第一条で、『この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。』とうたっている。
地域間格差は、法の根幹を否定するものである。
最低賃金を地方に任せるのではなく、全国一律にするべきである。地方の雇用者が耐えられないのなら、それこそ政権の関与するべきことである。日本は全国一律でない、珍しい国家である。県境を企業は自由に往来する。最低賃金を上げても、多くの企業の賃金変わるわけでもない。低く設定された最低賃金は、雇用の機会をかえって失う可能性すらある。雇用と消費の好循環がその結果として、地方を潤す方策を考えることこそが、地方創生である。
現在我々の超へき地は限界集落を通り抜けて、消滅集落が間断なく増えている。毎年根室管内で、30戸ほどの酪農家が離農している。地方創生は一次産業お奨励と最低賃金の向上こそが求められるのである。
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子どもの自殺率が過去最高である

2019-10-17 | 格差社会

子どもの自殺者が過去最大である。大人の自殺者がこのところ減少気味なのと対照的である。子供の貧困だけが原因ではないだろうが、
昨年度の自殺の原因が居発表されたが、家庭の問題が41人、親などの叱責が30人、進路の悩みが28人、いじめが9人など、最も多かったのは不明の194人で全体の6割近くにを占めている。いじめは意外に少ないのは、社会問題になることが多いために印象からのものかもしれない。どうもやりきれない、日本の未来にかかる暗雲を見る気がする。
少子化社会による耐久力のない子供たち、友達の少ない子供たち、核家族化による大人たちの我儘、他人との付き合い方の脆弱性などがある。
安倍晋三が政権を採ってから右肩上がりなのも気になる。子供が社会の反映でもある。格差社会の拡大も子供たちに反映されている。

中東の戦闘地やテロ地域やアフリカなどの教育インフラの未整備の国や地域の子供たちは、何を希望するかと問われると、「学校に行って勉強がしたい」とほとんどの子が応える。日本は不登校や引きこもりの子供たちが溢れている。この落差こそが教育の本質を語っている。
教育の場が子供たちが本来持っている知識欲や遊び心それに自由な発想を現代教育は阻害している。フィンランドの教育にヒントgるように思えてならない。選択式の試験、宿題の義務、統一テストによる学力評価と比較、美術や音楽を置きざりにした教育体系が、本来持っている子どもの発育を阻害しているのである。
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N国党は結局はヘイトスピーチを繰り返していたに過ぎない

2019-09-30 | 格差社会
「ものすごく大ざっぱに言えば、あほみたいに子供を産む民族はとりあえず虐殺しよう」「とにかく下等な人類に対してはつぶしてしまう」「ある程度賢い人だけを生かしといて、あとは虐殺」「ばかな国ほど子供を産む。ばかな民族というか。そういう人々を甘やかしたら、どんどん子供を産む」「差別とかいじめは神様がつくった摂理だから本能に対して逆らうことになる」
こんな場末の酒場で酔客が勢いで口にする言葉を、国会議員がインタビューに答えて述べたた言葉である。発言主は、NHKから日本を守る党の党首立花孝志である。辞職勧告を受けた議員を取り込んだり、NHKを潰すなら憲法改正に産してやってもいいと発言したり、芸能人と本気で諍いあったりと、およそ行動や発言に節度がない。
この男の発言は、神奈川県の障がい者施設「津久井やまゆり園」を襲った人物の主張を彷彿とさせる。障がい者は不要の存在排除しなければならない。特定の人達を特定の価値観で排除する思想は、人権などあったものでない。犯人は19人もの殺害を誇っている。
人権や思想信条の自由を日本の憲法は認めているが、このところこうした排除の論理、ヘイトの思想が日本を席巻している。在特会や日本会議の発言や行動にそれを見ることができる。反中・嫌韓や何かあれば反日のレッテルが張られる。こうした一連の流れの中に、立花の発言の根を見ることができる。
共産党の志位和夫委員長が、「民族の虐殺をあおる発言は許し難い。公党の代表の資格も国会議員の資格もない。国会が腐敗する。」と発言している。残念なながらが国会はすでに腐敗しつくしている。予算委員会は開かず、与党内だけの思い付きと都合に合わせて、行政は密室で進められている。
萩生田光一のように、言論の自由を侵す行為を容認し、すでに決められていた補助金を取り消す前例のない行動を行う。本来ならば萩生田光一は言論の自由を侵す行動こそ、取り締まらなければならない立場になるはずである。
安倍晋三は、虚偽発言を繰り返し、アベノミクスは完全に破たんしているし、公文書は改ざん廃棄不受理を繰り返し、何一つ成果を上げていない外交を虚言で覆いつくす。すでに国会は腐敗している。政権は腐臭を放ちながら人事の甘い汁を餌に継続しているに過ぎない。
とどのつまり、立花孝志は選挙期間中も嫌いなものを排除する、ヘイトスピーチを繰り返していたに過ぎない。こんな低俗な人物を国会に送り込んだことを日本恥じなければならない。
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消費増税対策をゲームかクイズのように増税の本質を隠す安倍晋三

2018-11-06 | 格差社会


10%に上げる消費税増税対策として、キャッシュレスの推進で2%を還元する。相も変わらず公明党の顔立ててプレミアム商品券を発行する。軽減税率と名前を付けた食料などの税率を8%に据え置くなどに加え、大型商品は一定の期間据え置くなどなど。何をやっているか良く解らない消費増税対策である。経済が落ち込むと困るからの、景気対策である。
消費増税による税収増は、5.6兆円を見込んでいるが、対策費は5兆円になるというのである。景気対策だそうである。マッチポンプである。
景気対策ならもっと簡便で解り易い方法がある。消費増税を止めればいいのである。何なら消費税などなくせばなお良い。
政府は消費増税で景気が落ち込むことを知っている。だから消費増税対策としてこんな馬鹿げた、罰ゲームかクイズのような対策を考えるのである。しかも期間限定である。

この20年間で、消費税はどれだけ増えたか。13兆円である。その一方で所得税は7兆円減少し、法人税は6.2兆円も減っている。非正規雇用の増加で所得税が減るのは当たり前で、法人税減税は竹中平蔵の顔立てて企業優遇したおかげに他ならない。
要するに、所得税など導入する必要性などどこにもなかったのである。確かに一律に課するため脱税は困難になったであろうが、企業側にはいわば合法的に脱税をしてやったようなものである。良く欧米に比較されるが、日本のような消費税は世界中探してもほとんどない。アメリカの3つほどの州が導入しているが、多くは付加価値税と呼ばれるもので、食料や医療や教育など生活必需品は低く抑えられている。平均付加価値税が20%もあるというのは、似て非なるものの並列である。
日本は貧困層に重い消費税を導入し、その一方で法人税減税で企業と富裕層を潤す結果になっている。格差社会は富裕層にとって優越感が満たされ気持ちがいいものであろう。
消費税を目的税にするなどと国民を騙し、軍事費を膨大に増やし、国民に社会保険料の負担を強要し、年金も医療も税金以前の取り立て方式を国民に課している。
いま日本は、消費増税をきっかけにバブルのように税金をオリンピックに向けて、1000兆円超の負債を顧みず湯水のごとく垂れ流す事業を展開している。2020年のバニッシングポイント向かって、日本は猛進しているかに見える。。
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障がい者を不要の存在とする価値観こそが問われなければならない

2018-07-19 | 格差社会
神奈川県の障がい者施設「津久井やまゆり園」で、19人が殺害され27人が殺傷された事件が起きて2年になる。しかし、何とも哀れなこの国の為政者たちは、施設の強化やカメラの数を増やすことの御執心である。本ブログで、事件時にそして、一年後に国や自治体の対応が基本的に外れていると述べた。
事件の犯人はこの施設の元職員の植松聖である。障がい者を不要の存在、社会悪と断じる植松の思想を醸成した社会がこの問題の本質である。典型的な確信犯である。国家は不要の存在を抹消し社会の負担を軽減した自分を、国家は高く評価するべきだというこの男の考え方は日本のあちこちに存在する。
在特会がその典型であるが、現在の右翼が日本会議という巨大な組織として統合し、排他性を存分に発揮している。
ヒトラーは障がい者を収容所に閉じ込め大量殺害をしている。その後のユダヤ人収容所のモデルにもなっている。最近になってその暗部が照らされている優生保護法も同類である。社会的不要の遺伝因子を排除するため、不妊手術を基準もなく施している。
特定の人たちを排除し人権を認めようとしない、そのような団体や思想は様々な形でこの国に存在し、今や国権の中枢にすら居座っている。自民党の憲法草案から人権要項が削除されている。国家に奉仕しない経済的効率を失った人たちの存在を、憲法で認めようとはしないのである。麻生太郎などがしばしば口にする失言にその本音を見ることができる。
新たなやまゆり園は、白い強固な塀で囲われ職員を増やし、無数の防犯カメラを設置したようであるが、これは結構なことではある。教育の充実が唱えられると、校舎ばかりが近代化されるのに酷似する。障がい者の人権や教育者の待遇など、もっとま基本的なことまで覆いつくしてしまう。
障がい者を経済的評価や社会的に機能するかではなく、先ずは人権を有する個人として認めることから始めなければならない。しかし、現在の日本はその真逆の方向に向かっているようにみえる。経済的格差社会は更なる人権の格差も生むのである。
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また一つ地方が切られる、三江線の廃線

2018-03-23 | 格差社会
一昨年、三江線が廃線になると本ブログで述べた。とどまるところのない地方切り捨てである。詳しくは一昨年のブログをご覧いただきたいが、憲法で保障された健康で文化的な生活を、経済論理で切り捨ててしまうのである。
国鉄が分割民営化になるときには、こんなことは一言も言わなかった。ウソばっかりである。今月いっぱいで三江線はなくなる。この見事に、江の川の美しさを堪能できる路線を廃線にする、日本の現状を都会の方々はしっかり認識していただきたいものである。
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「足るを知る」農民と「欲望は拡散する」の資本主義経済

2018-01-06 | 格差社会
正月に届いた農民連盟の新聞のトップタイトルは、「足るを知る」という見出しであった。農業には際限ない拡大はありえない。ひと時の効率は持続的にならないことを、真の農民は知っている。
同じく正月にみた、「欲望の資本主義2018」は背筋の凍るような内容であった。昨年にも放送された同名の番組の、今年版という所である。資本主義は、”欲望”によって支えられている。更に恐ろしいのは、”欲望は満たされることはない。拡散する”というものである。資本主義は発展することによって、制度が支えられているといって良い。ところが無限の発展などはありえないことである。所詮、地上の富は有限である。金銭に変えてみたところで、空間の広がりがなければ発展などできない。
いち早く近代化して、国家体制も経済体制三科学技術も軍事力も勝った国家が、アフリカやアメリカに富の空間を求めたのである。富が有限であれば、それは麻雀同じである。相互に取り合うことになる。強いものが戦うのではなく、弱い者を取り合うことになる。
奇才の経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが述べた、「資本主義は成功するであろうが、自滅する」という予言は正しい。欲望は満たされることがないからである。
産業革命は、賃金の高騰によって市場の欲望が拡大したためといわれている。先進国の賃金は、1975年からほとんど変わっていない。
イノベーションによって市場は拡大すると言われているが、これも極めて疑問である。イノベーションは労働者から労働を奪ってきたからである。こうして賃金格差をノーベル賞経済学賞のステグリッツは、、富の再分配こそ求められるというのである。高所得者から税金を高く徴収して再配分することを主張している。
日本の国立大学から、マルクス経済学の講座がなくなって久しい。マルクスは、労働を商品化することによって、資本は大金をられるようになり、資本主義は発展したと述べている。経済学の中に、商品の固有価値と兌換価値を分けて考え、労働者の存在意義を求めた。価格と価値は自由主義経済の下では一致しない。
番組では、結論を出そうとはしていない。しかし、農民連盟の、「足るを知る」ことこそ必要なのである。欲望の抑制である。
農民作家の山下惣一さんは、「昨年と同じ今年今年と同じ来年、これを農民は”安定”と呼ぶが、経済学は”停滞”と呼ぶ」と述べている。日本は高齢化人口減少時代に突入した。資本主義は今こそ農民の教訓を理解するべき時であると言える。
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国家は均等に発展しない、国家優先の思想をなくするべき時である

2018-01-02 | 格差社会
国家は均等に発展しない。風土や民族性や宗教や歴史的背景は、それぞれの国や地域が固有のものであり特異性がある。そもそも国家という概念、あるいはもう少し踏み込んで、国家という定義も多様である。民族や宗教が作り上げた一体感のある領域が国家形勢へと繋がってゆくほぼ共通の動きはあるものの、世界中で同時に進行して国家が形成されたわけではない。
近代になって、国家とは粗税の徴収や法支配や地域を特定し政治支配する共同体、などと定義してもそれは先進国、早々と国家を打ち立てた側の言い分に過ぎない。経済力や軍事力の差は欲望のための侵略をすることになる。
南アメリカに、アフリカにオーストラリアへと軍事力にも経済力にも勝る国家は兵を進め、19世紀には東南アジアへと帝国主義国家として、散々収奪と搾取更には非人道的行為を繰り返した。
先に近代化に成功した日本もこれに倣い、琉球王国を処分し韓国を併合し満州を属国化し中国をも侵略した。他国の統治権を先に近代化した国家は認めなかったのである。第二次世界大戦後にはあからさまな国家侵略は亡くなったかのように見えるが、相も変わらず大国は隙あらば弱小国家を見下し、自衛の理由をこじ付けて同様の侵略行為を繰り返す。
巨大な国家は軍事力や経済力で、貧国を圧倒する。自国の人間と貧国の国民を同等に見ることができない。無人偵察機の銃口にはヒューマニズムに欠片もない。

民族や国家の意識には根強いものがある。カタロニアの独立活動が、国家を考える上でのいい例といえる。独立運動に国家観などなく、経済的展望も軍事体制の背景もないまま、民族意識の高揚だけで国家を形成しようとする。
独立を求める地域には、国際社会は一定の条件を付して積極的に独立を認めてゆくべきである。ISは国家としての宗教と軍事力だけに特化した疑似国家といえる。しかし、紛争の種になることが多く、ISの戦闘員には、ロシアのチェチェンなど世界の独立運動で追われたものが少なくはない。
国家の壁も国境の障害も、人類の将来という長期的な視点から見れば失くしてゆくべきものである。EUがその試行錯誤の途に就いたばかりである。通貨の統合先ずは行っては見たが、イギリスの脱落など前途は多難である。EUの通貨統合に問題が多いのは、国家ごと財政が独立していることが大きい。通貨のユーロの評価が安定しない。国家の発展、国力に格差があるからである。
日本の国会議員の先生たちは与野党共関係なくどなたも、日本の「国益」を高く掲げる。国益という狭量な考え方が、国家間の紛争の要因の大きな一つになっていることを考えるなら、国益という言葉は排除されるべきである。
そろそろ、国家間の紛争を国家の視点から判断することを止めるべきである。新たな紛争や怨念を残すだけとなるからである。
幼いころ21世紀は平和の世紀になるという概念をおぼろげに描いていた。それを現実は否定し地域紛争とテロの世紀へと変えつつある。宣戦布告による二国間の戦争はなくなった。紛争を国家の概念から論じては、21世紀の未来を見失うことになる。
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津久井やまゆり園事件から一年経過したが、”内なる植松”を問い続ける

2017-07-26 | 格差社会
相模原市の障がい者施設、「津久井やまゆり園」に植松という男がいくつかの刃物などをもって侵入し、19人を刺殺し26人の入所者に重軽症の傷害を与えた事件から、今日で一年経った。この事件は戦後最大の殺人事件である。
この事件の異様性は殺傷された人数の多さもさることながら、園の内部事情を熟知する施設の元(臨時)職員でもあった殺害犯、植松聖の犯行理由である。植松は、「障がい者は社会的悪である」「障が者は不幸の元となる」などと、犯行理由を述べている。犯行直前には衆議院議長に社会保障費を減らすからと表彰を希望し、友人には障がい者を600人殺害すると述べている。犯行直後に植松は自首し、犯行の理由をいまだに曲げずにむしろ誇ってさえいる。東京新聞への手紙は論旨は一貫して、「障がい者にも幸せを与える行為がどうして理解できないのか」と述べ、障がい者の差別思想と幸せはお金という考え方は変わっていない。
やまゆり園の入所者の家族で作る家族会の会長,大月和馬さんは、「家族としても,『障害者はいらない』という言葉は,私たちにとって本当に心を傷つけているんです。非常に間違った言葉を世の中に発しておりますんで、それを是非取り消して欲しいなと、本当に心から思ってます」と、複雑な心境を述べている。
障がい者は社会にとっても家族にとっても負担になる存在であることには変わりない。同じ人間であるとか同じ人権を有するものという認識は、現実に発生する多くの負担を背負う家族や社会にとって、植松の思想が入り込む隙があることも否めない。特に家族には、健常者よりも愛おしい存在でもある、障がい者である。
作家辺見庸が、我々は障がい者には、「無作為のくぐもった犯意をもっている」と述べている。我々はいつでも差別する側に立ち得ることを否定はしない。しかし、それがためにこそ効率的でないことを人権にまで及んで障がい者を差別する思想にが育まれる社会にこそ、発信していかなければならない。
石原慎太郎が、こうした人たち人権にあるのかねというのも、”内なる植松”である。ヒトラーがユダヤ人殺害のモデルにしたのが、障がい者の集団的殺害である。いずれも、社会の効率化から外れた存在として障がい者を位置付けている。
この事件以来、日本中の障がい者施設は頑丈な扉や鍵の改善などセキュリティーに走るのは、理由は理解するがお門違いの対応と言える。やまゆり園が死亡の氏名の公表をいまだにやらないのは、家族への配慮であろうが障がい者の社会的に置かれている現状への憂慮とも思える。こうしたことの解決を困難にしているのが、我々自身と社会の”内なる植松”の存在なのである。人間を社会的効率を基軸だけで捉え評価するのは、経済効率優先社会が生んだものである。実行犯の植松の犯罪性だけを非難するのは容易なことである。それでは施錠など防犯設備の問題に行き着くだけである。やまゆり園殺傷事件の本質を、施設のセキュリティーの問題に矮小化することなどあってはならない。今一度差別社会、格差社会の自分たちの意識や社会の在りようを考えるべきなのである。
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獣医師は偏在はしているが足りなくはないし、質の評価を根拠なく言い出す滑稽さ

2017-06-16 | 格差社会
獣医師は偏在しているが足りなくはない」と以前に本ブログで書いた。獣医師の資格を持つ者は、隔年毎農水省に決められた内容で、所在や現状を届けることが獣医師法で義務付けられている。それによれば、獣医師は3万9千人と思ったより少ない。ペット動物の診療に1万5200人(39%)、行政関係に9500人(24%)、産業動物に4300人(11%)、教育関係に5600人(14%)、無職が4600人(11%)となっている。職を持つ半数近い獣医師が、ペットの診療に関わっているとは驚いた。主たる業務という縛りがあるので、産業動物の診療とペットの双方を兼ねている獣医師も少なからずいるが数字には出てこない。
産業動物の目安に、最も診療が多く手間のかかる乳牛を基準にみれば、北海道では獣医師一人で1200頭ほど(根釧などの酪農地帯では1500頭を超えているし、開業では3000頭抱えている者もいる)であるが、府県では多いところで800頭である。現在は500頭を切っているかもしれない。これでは食ってゆけない。共済制度の中だけで見ると、府県の獣医さんは診療代の30%は往診料である。道東の酪農地帯では、せいぜい15%ほどである。酪農家の負担も大きい。府県の産業獣医師の減少は、畜産の減少と企業化によるものである。
汚く力仕事で昼夜のない産業動物に獣医師が来ないのは当たり前と言える。産業動物に基本的には、延命治療はない。そうしたことも若者の曳く材料のように見える。若い獣医師が都会の綺麗なところで診療できるペットに傾くのも、背景に児童とほぼ同数の犬猫を抱える日本の現状の当然の成り行きでもある。東京の知人が獣医師は、町内会に一人いる現状だと教えてくれた。
従って、獣医師を増やせば、小動物・ペットの診療の獣医師が増えるばかりである。教育の段階で職業選択の調整などできない。これからはもっと偏在することになる。ペット獣医師のこれ以上の過当競争を、現状に生きる獣医師で構成される獣医師会が望むわけない。偏差値の高くなった獣医学生たちのほとんどが都会出身者である。彼らに田舎暮らしは楽でもない。

そうした中で、「日本の獣医学部の質は落ちている」と、山本幸三地方創生担当相が述べたのである。獣医師の偏在については、大学も獣医師会も同様の見解を出している。数が足りないと言ったら論破された。そこで今度は質が落ちていると攻めてきた。根拠は不明瞭である。加計学園は1学年の定員が160名である。50年前に酪農学園に獣医学科が設けられたばかりの頃は、研究室が3つしかなかった。病理と解剖と微生物だったと思うが、教授は北大を定年退官された方と、追われた人だけであった。器具も資材も教室もない。数年は(ひょっとすれば15年ほど)募集定員に満たなかった。京都産業大学が獣医学科開設を諦めた一つに、教員スタッフが集められなかったことにある。加計学園は、教員スタッフをどのように集めるつもりなのだろう。
獣医師の質を上げるためには、恵まれた環境とは言えない8校の地方国立大学の獣医学科を、人的に物理的に(インフラなど)資金的に支援すれば事足りる。全国大学獣医学関係代表者協議会は、山本大臣に向けて意見書を提出した。

昨日文科省の再調査で発表した14の内部文書であるが、加計学園の客員教授で閑職時に面倒見てもらっていた萩生田光一内閣官房副長官が手書きで、加計学園へと大きくシフトを切らせた事実が判明した。獣医学科開設は4万人足らずの獣医師のどこが岩盤かもわからないまま、安倍晋三のお友達へ特段の配慮がなされたことだけが鮮明になったのである。
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簡単なことである、築地市場を汚染地の豊洲への移転を諦めればいい

2017-01-14 | 格差社会
東京というか日本の台所と言われていた、築地市場が駐車場が手狭になったり、施設の老朽化や衛生面の不安などが指摘され、移転が検討された。更には取扱量の拡大と交通の便などから、2000年ころから移転計画が具体化してくるようになる。
不思議なことに、当時から東京ガスは移転を渋っていたことが、最近の情報開示によってわかった。都は汚染があっても仕方がないとまで言われ、東京ガスが認めるという奇妙な経緯で合意している。誰もがご存知の、石原慎太郎知事の元である。移転を決め経過については極めて不明なことが多い。
最初から様々な化学物質を扱っていた、東京ガスの跡地を移転先と決めていたことも解っている。費用が年を追うごとに天文学的に伸びている。

今日(14日)豊洲市場の地下水モニタリング調査の最終結果で、ベンゼンが最大で環境基準の79倍検出され、ヒ素も検出された発表された。更に専門家会議を開くとのことである。無理である。豊洲移転への単なる時間稼ぎである。
シアンとベンゼンそれにヒ素は、10年前から間断なく検出されている。この事実は、豊洲移転には盛り土が不可欠という結論の論拠にもなっている。その盛り土をすることなく単なる、薄い壁の地下空間にしてしまったのである。責任者として幾人かの、管理職になっていた職員が処分されている。これは単なる外に向けた、小池知事のアリバイ工作でしかない。彼らに盛り土を止めさせた強権者、つまり知事に釈明の機会嫌いは与えてもいいが、この男を処分しなければ意味がない。刑事訴追も可能であろう。
それでもすっかり、出来上がりつつある豊洲市場である。しかも地下に意味不明の空間を設けたままである。当初の設計図通りにできなければ、豊洲移転を中止するべきなのである。
小池知事が、途切れることのない化学物質の汚染が確認されたことで、豊洲移転を中止する判断をするとは思えない。悩んでいるのは移転決断の時期である。しかしこの経過を見ていると、安全を最優先するのであれば、豊洲への移転を止めるべきなのである。
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農協が持つ地方の金融市場参入へが目的の、農協改革

2016-11-25 | 格差社会
規制改革推進会議農業ワーキンググループは、①全農の農産物委託販売の廃止と全量買い取り販売への転換、②全農の購買事業を転換しメーカー関連事業に譲渡・販売、③信用事業を含むJAを3年後をめどに半減、④クミカン(組合勘定)の廃止、を柱にする提言をした。
これだけでは一般の方は解り難いであろうが、戦後の長い期間にわたって農業協同組合が地域でほとんどの分野にわたって担ってきた、経済行為を廃止するというものである。
農家は個別で交渉して生産物を販売することができない。農協がその仕事を担ってきた経緯がある。消費者にとってはそれが、価格の引き上げになるという側面はあるが、食料を安定的に供給できる基盤であったことも事実である。そのための機材の購入であり、金融の事業の展開であった。戦後の日本は2,3次産業への転換を進め、更には商工業に加えて輸出産業重視と政策を進めてきた。
それを人的に担ってきたのが農村である。一昔前までは、都会の人たちには必ず古里があったが、今はそれすらない。地方は都会へ人間と富を送り出してきた。地方が困窮する中それを支えてきた、地方の総合商社と化したの農協という存在があった。
しかし、こともあろうか農協は日本の農業を疲弊させてきた自民党農政を支え続けてきた。農村は票田と呼ばれ、数限りない国会議員を国会に送り続けてきた。農民には、1961年の農業基本法が農民に都会並みの収入を支えると説明しながら、結果的には農村に無数の土木事業を展開させ、食糧生産をコメに特化した政策が、農民と農村そして食糧生産の形を歪める結果になったのである。今日の過疎化の元凶をも造り出してきた。
農協には相互扶助という大きな理念があったはずであるが、それは今はほとんどの農協がこの理念を失なっている。とりわけ府県の農協は、府県単位の合併を終えて巨大化し、生産事業を軽んじて組織の生き残りを最優先する、金融機関と化してしまっている。これが新自由主義を抱える自民党が、気に入らないのである。

農家は個別交渉をできない。農協が資材の購入や生産物の販売を担ってきたのは当然である。農業のことも農協のことも地域のことも何も知らない、小泉進次郎などは自己改革を促すと言っている。これは消費者価格だけで農産物を判断する結果になっている。彼の言動には、農業が任ってきた食糧生産や環境保全に関する知見や知識は、みじんも感じることができない。
農協は自己改革しなければならない。その基本は、相互扶助と食料生産である。その意味での自己改革を進めるなら大賛成であるが、今回の提言は、農協が抱える地域での金融市場などへの、海外を含めた大企業の参入のための地ならしである。
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「自由貿易は格差を生む」当然の結果であるがそれを否定する矛盾

2016-11-21 | 格差社会
21カ国の地域が参加するアジア太平洋経済協力会議(APEC)は昨日(20日)首脳宣言を採択して閉幕した。宣言では、イギリスのEU離脱や米大統領選挙結果などを念頭に、『自由貿易が格差を生むという懸念を払拭するため、社会のあらゆる階層に働きかける必要がある』というものであった。
としながらも、冒頭で『不平等や不均衡な経済成長による不確実性の高まりが、グローバリゼーションに疑問を投げかけ、保護主義の台頭を促している』と、極めて的確な指摘もしている。

自由貿易とは新自由主義の核心の一つで、国内的には小さな政府を目指し政治の介入を極力なくし、経済活動は市場原理に任せるというものである。因みに、アベノミクスは市場に介入する大きな政権そのもので、新自由主義は政権奪取に主眼を置いた極右思想が選択したツールといえる。安倍晋三は経済政策に全く興味がないか無知でしかなく、政策上大きな矛盾を抱えているといえる。
何の制約もない経済競争なら、大きな資本がか必ず勝つ。市場原理は弱者を叩くのが原則である。弱きをくじき強きを助け、自らが弱きものにならないよう、懸命に経済活動をするのが原則である。敗者が際限なく生まれるシステムともいえる。新自由主義は大量の敗者を吐き続け、格差社会になるのは避けられない。敗者の存在が市場経済に刺激を与え、勝者を目指す妄想が競争のエネルギーとなる。それが新自由主義である。
翻って、政治とは税金を介した富の再配分をすることが最大の命題てある。少なくとも、近代の政治史は手法や理念に違いはあっても、総じて富の再配分を政治がやると宣言してきた歴史ともいえる。
自由貿易は格差を生むのは当然の結果である。経済成長が人類にとっての命題ではない。経済成長は際限なく続くものではない。APECは反対者を、”ホゴシュギ”と忌み嫌う集団催眠術にかかる制度である。
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