そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

「ロスケ」という言葉を吐き続けたシベリア帰りの爺様がいた

2019-02-14 | ロシア

根室原野に戦後10年ほど経って入植した爺様がいた。骨太で背の高い爺様であったが、とっつきにくいところがあったが、黙々と仕事をする典型的な百姓である。口数は少なくても眼光が鋭い爺様は、経験浅い私は苦手であった。
何かのついでに上がらしてもらったことがある。そこで爺様と話をすることになった。
満州開拓者であったが、終戦と同時に祖国と逆の方向に列車で運ばれて、シベリアに抑留され強制労働をさせられた。地獄のようだと、何度も声かけるようになって話すようになった。私の記憶の数字は正確ではないが、おおむね次のようであった。
抑留されて人たちは50人に数人しか生き残って帰ってこれなかった。食料も衣類もなく住むところも狭く、押し合いながら寝ていた。朝起きると冷たくなった友人を何人も凍った大地を削って埋めた。何人も何人も何回も何回も埋めたという。
爺様は決して、ソビエトとかソ連などは決して口にしなかった。爺様はいつも吐き捨てるように、「ロスケ」と言った。爺様の精いっぱいの卑語である。自分が抑留されて強制労働をさせられ、多くの友人を亡くした国家を爺様が恨むより術がなかった。

ソビエト崩壊後にエリチェン大統領が来日した時に、シベリア抑留について口頭で謝罪をしたが、何らかの内容があるものでもなく、単なる外交辞令の域で終わっている。
ロシア外交の専門家であった、佐藤優氏がよく言うことに次のような言葉がある。「条約は批准したが、守るとは言わなかった」という言葉である。シベリア開発は、ソビエトの東進に不可欠であった。囚人で間に合わなかったのでスターリンは、留萌ー釧路で線を引き北海道の半分の割譲を連合軍に望み、そこからの労働力を期待していたが叶わなかった。それにとって変わったのが、旧満州地区からの大量の抑留である。ソビエトに倫理などない。
シベリア抑留を生き抜き帰国し戦後活躍た人物として、作曲家の吉田正、歌手の三波春夫や青木光一、作曲家の米山正夫、プロ野球選手の水原茂などがいるが、何んといっても黒を基調にした画家の香月泰男の苦悩が胸を打つ。
この何の罪も罪状もない国民がシベリア抑留されたことに、だれの責任となるのか不明で、責任の所在すら解らない惨事である。爺様が「ロスケ」と吐き捨てるように恨み続けるのが精いっぱいのことである。
日本にもソビエトにも何の責任も求めることなく、国家の後始末を個人が肉体で受け止める不条理は、黙したままで歴史の中に埋め込まれたままである。
コメント (4)
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