プーチンが人命などほとんど考えていない人物である頃は、大統領就任間もない二つの事件の対応に見ることができる。
モスクワ劇場占拠事件(2002年)と、ベスラン小学校占拠事件(2004年)である。いずれもチェチェンの独立運動のテロ事件であるが、犯人の要求には一切プーチンは応じず強行突破した。いずれもは犯人は全員殺害したが、劇場占拠事件では人質の129名が、小学校占拠事件では355名が死亡している。
プーチンの冷徹な対応は、アメリカ同時多発後のテロに対する強い姿勢が望まれるとする背景があったにせよ、罪なき国民を多数犠牲に追い込んだのである。チェチェン紛争そのものも、一切チェチェン人の意向を聞かないというものであった。
そのチェチェン紛争のプーチンの非人道的行為を摘発し続けたのが、上図右端の、アンナ・ポリトフスカヤ女子である。彼女は自宅マンションのエレベーター前で銃殺された。プーチンの誕生日である。
ソ連崩壊後にロシア経済は大きく破綻した。意欲のある企業者に利権をばら撒き、彼らが自在に活躍して経済を大きく立て直した。一旦後着くと、彼らは次第に巨大化しロシア経済を支えた一方で、利権を欲しいままに政治と癒着した。今ロシアでは、主要なオルガルヒは海外で資産を押さえられている。
良いだけ利用しておきながら、海外に出たオルガルヒをプーチンは許さない。
永年の盟友を自負していたプリゴジンは、プーチンを理解していなかった。ベラルーシに逃してくれて留飲を下げたのであろう。
ウクライナとの戦争も、これまでの経過を見てもプーチンは引き際の判断を持っていないことが分かる。プーチンの失脚以外に終戦あるいは停戦すらありえないかに思えるのである。