「かくかくしかじか」の主人公は20年ほど前の金沢美大卆です。
そういえば、その金沢美大を55年前(うわぁ~古い!!)に出たばかりの美術教師が開いた絵画教室の最初の生徒たちのひとりでした。小学校6年生の時です。
中学1年の時の担任のT先生は美術教師で、自画像の時間に生徒が書いていた絵に先生がちっと手を入れると、途端にそっくりサンになるので13歳の私には驚きでした。その先生に薦められて、クラスの5名ほどが油絵一式を購入して、放課後にその先生に描き方のイロハから教えてもらいました。キャンバスはベニヤ板を6号や8号サイズに切り、ファウンデーションを塗ることによって作っていました。昭和37年ころです。
2年になってその先生が転勤すると、別の美術教師に教わっていましたが、何を描いていたのか記憶にありません。「あなたたちは、こんな早くから油絵を描けるなんて、恵まれているネェ~」と言われてことが記憶に残っています。きっとその先生も、同じ金沢美大だったのかも。当時は確か国立の美大は3つしかなく、わたしの住んでいたのは北陸地方だったので。
ティーンエイジゃーになったばかりの私にとっては、40代はオジサン先生でした。
高校の美術の先生は定年退職後の非常勤講師のU先生でした。
70代ぐらいのおじいちゃん先生に見えましたが、きっと60代、今の私より、同じ?若い? でした。
芸術科目の、美術、音楽、書道から1科目選択するのですが、私は3年間美術選択でした。
*書道は日展で特選を取るような名物先生でした。
ほかに特技がないもので、なにか、となると常に「絵画」をチョイスしてきたので、その後も何人もの先生についていますが、基本はこの時のU先生から聞いた(教えられた)アドバイスに戻ります。
屋外で写生をしていると、先生が回ってきます。
(1)今日の陽射しは暖かいだろう。暖かい日差しが当たっているのだから、黒い瓦でも、ただ黒くぬればいいってものじゃなく、暖かく描かなくてはならない。
(2)自然界には、画用紙の余白の白というものはないはずだ、だからとにかく白い部分をそのままにしておくのはおかしい。
(3)目の高さが大事。自分の目線がどこにあるか、画板の上辺をあてがって確認してご覧。プールの長方形の角でも目線が、その上辺と同じであれば、直線になるはずだ!!(すみません。プールサイドで写生していた時に叱責された口調がよみがえってくるのです)
(4)木陰ができている土の道の陰の部分、よ~く見て。よ~く見るんだよ。そんなふうになっていない、などと印象派の作品などを見せてくれたりした。
「かくかくしかじか」のように、竹刀を持って脅すことはないし、カマキリのようにガリガリの老人に見えたけれど、ケッ、そんなんじゃない、と見下げたようなセリフを投げかける先生でした。
生徒は何十人もいます。夫も同じ美術選択でした。
わたしがU先生に教わったことが、、、、と話題にすると、
そんなこと言われたことはない。キミがひいきされていたのじゃない?
と返ってきます。
ひいきもなにも、風景を描くときの基本、イロハなのです。きっとみんなに同じことを言っている筈なのに、残る人とそうでない人がいるんでしょうね。
その後の絵画教室の先生たちは、巡回してきてはチョコッとのアドバイスはあっても、あんまり残っていません。トホホ
わたしは伸びない生徒でした。
描きたいけれど、不自然になってしまうという方、上記(3)ができているかどうか、自分の絵を見てくださいね。
美術の時間に静物画を書いているとき、U先生は卒業生の優秀な作品を参考として見せてくれます。
Kという名前の卒業生の理科準備室を描いた絵が記憶に残っています。モチーフが色彩豊かとはいえないのに、美術の時間にこういう作品を描く人がいるのだと感心を覚え、名前も記憶に残りました。
で、わたしの進学したのは大学はその美大の近くの国立大でした。で、やっぱり所属するのは、美術部。ほかに取り柄がないのです。トホホ
1年目だったか、2年目だったか記憶にありませんが、近くのその金沢美大の学祭に行きました。当然美術作品のオンパレードです。
油絵の大作の中に、そのK君の名前を見つけました。労働争議の群像画でした。時は70年安保、学生運動の真っ最中。
「……」そうなんだ、とおもいながら、見ていた記憶があります。「……」にはいる文字は、みつけられません。
漫画家の東村アキコさんは、美大時代は油絵を描いていないようですが、K君の絵は、あのU先生の時代から着実に描き続けられた美術専攻の人の絵でした。
総合大学の美術部とは、、、です。こういうとほかの部員の人には申し訳ないのですが、私たちの美術部では、いわゆるアートとは?とか、売り物になる絵をかくのはくだらない、いう風潮に傾いていて、描かない部員が多かったような気がします。
また、高校時代に戻ります。
高校の美術の成績、なぜか100点満点で採点されていました。
芸術3科目のうちの美術選択した人だけでの成績評価です。
で、ワタシ、学年で2番でした。
一番のYさんは、美大進学希望です。いつも石膏デッサンがんばっていました。その次がワタシ。でも、一度も美大進学を考えていません。自分が石膏デッサンのへたくそなのも、わかっています。だから、羨望とかもないのだけれど、ちょっとだけ、彼女、どうなったかな、と思うことがあります。
そういえば、今月末、高校時代の数人とのミニ同窓会が企画されています。
数年前に一度会って、高校時代の姿かたちから、それぞれ上書きされているので、驚きは大きくもないでしょう。
もう定年退職後の人たち。元気な顔が財産ですね。
そういえば、その金沢美大を55年前(うわぁ~古い!!)に出たばかりの美術教師が開いた絵画教室の最初の生徒たちのひとりでした。小学校6年生の時です。
中学1年の時の担任のT先生は美術教師で、自画像の時間に生徒が書いていた絵に先生がちっと手を入れると、途端にそっくりサンになるので13歳の私には驚きでした。その先生に薦められて、クラスの5名ほどが油絵一式を購入して、放課後にその先生に描き方のイロハから教えてもらいました。キャンバスはベニヤ板を6号や8号サイズに切り、ファウンデーションを塗ることによって作っていました。昭和37年ころです。
2年になってその先生が転勤すると、別の美術教師に教わっていましたが、何を描いていたのか記憶にありません。「あなたたちは、こんな早くから油絵を描けるなんて、恵まれているネェ~」と言われてことが記憶に残っています。きっとその先生も、同じ金沢美大だったのかも。当時は確か国立の美大は3つしかなく、わたしの住んでいたのは北陸地方だったので。
ティーンエイジゃーになったばかりの私にとっては、40代はオジサン先生でした。
高校の美術の先生は定年退職後の非常勤講師のU先生でした。
70代ぐらいのおじいちゃん先生に見えましたが、きっと60代、今の私より、同じ?若い? でした。
芸術科目の、美術、音楽、書道から1科目選択するのですが、私は3年間美術選択でした。
*書道は日展で特選を取るような名物先生でした。
ほかに特技がないもので、なにか、となると常に「絵画」をチョイスしてきたので、その後も何人もの先生についていますが、基本はこの時のU先生から聞いた(教えられた)アドバイスに戻ります。
屋外で写生をしていると、先生が回ってきます。
(1)今日の陽射しは暖かいだろう。暖かい日差しが当たっているのだから、黒い瓦でも、ただ黒くぬればいいってものじゃなく、暖かく描かなくてはならない。
(2)自然界には、画用紙の余白の白というものはないはずだ、だからとにかく白い部分をそのままにしておくのはおかしい。
(3)目の高さが大事。自分の目線がどこにあるか、画板の上辺をあてがって確認してご覧。プールの長方形の角でも目線が、その上辺と同じであれば、直線になるはずだ!!(すみません。プールサイドで写生していた時に叱責された口調がよみがえってくるのです)
(4)木陰ができている土の道の陰の部分、よ~く見て。よ~く見るんだよ。そんなふうになっていない、などと印象派の作品などを見せてくれたりした。
「かくかくしかじか」のように、竹刀を持って脅すことはないし、カマキリのようにガリガリの老人に見えたけれど、ケッ、そんなんじゃない、と見下げたようなセリフを投げかける先生でした。
生徒は何十人もいます。夫も同じ美術選択でした。
わたしがU先生に教わったことが、、、、と話題にすると、
そんなこと言われたことはない。キミがひいきされていたのじゃない?
と返ってきます。
ひいきもなにも、風景を描くときの基本、イロハなのです。きっとみんなに同じことを言っている筈なのに、残る人とそうでない人がいるんでしょうね。
その後の絵画教室の先生たちは、巡回してきてはチョコッとのアドバイスはあっても、あんまり残っていません。トホホ
わたしは伸びない生徒でした。
描きたいけれど、不自然になってしまうという方、上記(3)ができているかどうか、自分の絵を見てくださいね。
美術の時間に静物画を書いているとき、U先生は卒業生の優秀な作品を参考として見せてくれます。
Kという名前の卒業生の理科準備室を描いた絵が記憶に残っています。モチーフが色彩豊かとはいえないのに、美術の時間にこういう作品を描く人がいるのだと感心を覚え、名前も記憶に残りました。
で、わたしの進学したのは大学はその美大の近くの国立大でした。で、やっぱり所属するのは、美術部。ほかに取り柄がないのです。トホホ
1年目だったか、2年目だったか記憶にありませんが、近くのその金沢美大の学祭に行きました。当然美術作品のオンパレードです。
油絵の大作の中に、そのK君の名前を見つけました。労働争議の群像画でした。時は70年安保、学生運動の真っ最中。
「……」そうなんだ、とおもいながら、見ていた記憶があります。「……」にはいる文字は、みつけられません。
漫画家の東村アキコさんは、美大時代は油絵を描いていないようですが、K君の絵は、あのU先生の時代から着実に描き続けられた美術専攻の人の絵でした。
総合大学の美術部とは、、、です。こういうとほかの部員の人には申し訳ないのですが、私たちの美術部では、いわゆるアートとは?とか、売り物になる絵をかくのはくだらない、いう風潮に傾いていて、描かない部員が多かったような気がします。
また、高校時代に戻ります。
高校の美術の成績、なぜか100点満点で採点されていました。
芸術3科目のうちの美術選択した人だけでの成績評価です。
で、ワタシ、学年で2番でした。
一番のYさんは、美大進学希望です。いつも石膏デッサンがんばっていました。その次がワタシ。でも、一度も美大進学を考えていません。自分が石膏デッサンのへたくそなのも、わかっています。だから、羨望とかもないのだけれど、ちょっとだけ、彼女、どうなったかな、と思うことがあります。
そういえば、今月末、高校時代の数人とのミニ同窓会が企画されています。
数年前に一度会って、高校時代の姿かたちから、それぞれ上書きされているので、驚きは大きくもないでしょう。
もう定年退職後の人たち。元気な顔が財産ですね。