日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

司馬遼太郎著「花神」を読んでいる。

2017-10-27 09:30:12 | 
感想文じゃないです。

上下2巻(超細かい文字なので、昨今の文庫本だと4巻になるかも)。
趣味の本読み人は、自分の読みたい本を探しながら読み継いでいるのでしょうね。

この本も読了してしまうと、もう終わったのかと喪失感を覚えそうな1冊です。
ま、そのワールドに浸りきってしまう、ということ。

わたしは子供のころからの本読みではない。
でも、小学校などで、読書の時間と指定されると、選ぶのは偉人伝(そういう表現でしたよね)でした。
ファンタジーは不得意。ワクワク物語大好き、という人ではなかった。ワタシ味気ないでしょう。
気に入った作家の出版物全部読もうと思ったり、私小説文学もたくさん読んだけれど、恋愛文学に没頭タイプではない。

高校時代からは読む本は常にあった。本を読めたのは恵まれた人生だったと思います。
ふと思う。司馬さんの本にしても、塩野さんの本にしても、磯野さんの本にしても、実際に生きてきた人たち、その社会について知ることができる、伝記物が好きとなんら違わないのではないかと、そんなふうに自分で得心した。

知らない世界を知りたい。そこでがんばってきた人たちを知りたい、学びたい、わたしって、そういう系統なんだろうな、と今朝、コルセットをしながら(トホホ)竹ぼうきで落ち葉掃除をしながら思った次第です。


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骨のことを考える。

2017-10-27 09:05:09 | 健康
今の私には、日になんどもレントゲンの画像がよぎる。
確かに、骨がつぶれていた、のだ。この痛みは、あのつぶれた骨が原因なのだ、と何度も思う毎日が続いている。

で、昨日、ようやく型どりしたコルセットができてきた。
そりゃ~不自由なのだけれど、これでつぶれた骨の保護ができるのだと思うと、気持ち的には安心感が出る。

次は2週間後にレントゲンで骨の様子の再チェックとのことで、なんだか「骨ガンバレ」の気分で、牛乳を飲んだり、ウォーキングを再開したり、まことに現金なものです。

つぶれた骨に負担をかけなければOK、とのことで、久しぶりに竹ぼうきで芝生の落ち葉掃除をした。台風で落ちたイチジクの葉っぱが無残だった。まとめた葉っぱをコンポストに入れる作業を腰を曲げないでするのは難儀だけれど、頼むほどのことではないからなんとかできた。
秋バラの手入れは、できることのみ、に決めた。

今の目標は、後遺症なく回復すること。

庭は逃げていはいかない。

元気になった私を待っていてくれる、そういう理屈付けをしている自分に苦笑。

植え替えを待っている草花。植え替えるには土を運ばないといけない。苗床を運ばないといけない。

今の状態では、残念ながらブーです。

挿し木したい茎を芽だし液に漬けているのだけれど、これも今のところブー。

こんな状態だけれど、明日から旅行。

キャンセルすることなく出かけることができるのをラッキーと思わなくてはならない。

奮発してスイートルームでの船旅。台風が気になる。読みたい本同伴。

ダイエットを気にしながら美食を楽しむ、ぜいたくな時代になったものです。





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小さい話。

2017-10-27 07:01:55 | 私の雑感あれこれ
昨日、旅行用に一枚ストールがあってもいいかなと思って、ふと立ち寄ったブティクで、ストールは買わずに、薄手のセーターを購入。
オリーブ色調でボーダーが一本入って、色目は3色使い、先日購入したガウチョパンツにもあいそうです。

きっとスタイルがいい人が着まわすと生えるのに、私では、、、と思わぬでもないけれど、リーズナブルな価格だし、「楽しめ → ワタシ」と思って、決めました。苦笑

で、セール中だとかで、抽選をどうぞ、とボックスの中のくじを1枚ひきました。こんなお店も客寄せにサービスをと考えているのですね。
くじにはDと記されていて、きっとハズレでティッシュかなと思ったら、ディズニー柄のマグカップでした。
ゴメン、いらないわ、ほかの人にあげて、と辞退しました。
だって、持ち帰っても不用品になるだけですから。
そういえば、夏に最寄りの郵便局でも、景品にうちわをどうぞ、と言われて辞退しました。
ひとつ二つ残して処分したばかりですから、気に入ったものじゃないと、欲しくないのです。


で、先日の某例会の話題で、100周年行事の一環(なのかどうか)、予算もすこしあるから、自分たちメンバーに記念品を作るのはどうか、という話題が出たのを思い出しました。
大事な節目なのだから、食べ物(紅白饅頭のたぐい)だとなくなるから、記念だとわかるようなものにしてほしい、と意見が出ました。
彼女は近隣の市区にも配布すべきだ、とも。
えぇ~! こんな形式的なこと、きっともらったほうが迷惑、というか、「ハイどうも」で終わってしまうことなのに~~、お金と手間が増えるだけです。で近隣にまで配布は趣旨違いでボツになりました。

予算といっても、文房具ならボールペン程度でしょう。そんな『100周年記念○○○○」と銘が入った品物をもらっても、、、と特別関心が高まることもないので、意見を言うつもりもありません。
隣席の方が、ボソッと残るものはいらない、食べ物でOKだし、残るものだとしたら、上質のタオルなんていいよね、そう、名前が入っていなくてもいいから、使い心地のよいタオルに私も賛成、と返事。

でも、その発言はしていないから、あたりさわりのないものになることでしょう。

きっと、こんな少額の記念品を扱う業界もあるのでしょうね。

いらないものはいらない。

長い歴史の中で、「ものを上げると人は喜ぶ」そういう刷り込みって、少しずつ変化してきているようです。

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