母は103歳になった。
元気だそうだ。
また暖かくなったら顔を見に来て、とメール。そうすると返信。
ようやく夜間はオムツになったらしい。
2週間のショートステイ、5日ほど戻ってまたショート、というパターンになっている、とのこと。
きっとケアマネージャーさんと相談しながら選択しているのだと思う。
それなりの期間、施設にいるとしたら、その間、私が施設に会いにいうか、と話題にしたら、それはやめてほしい、と言われた。
母のホンネには施設よりも自宅で過ごしたい、という気持ちがあるから、連れ帰ってほしいと懇願するだろうし、それが叶わないのなら、迎えに来てくれる日を楽しみにして待たせた方がいいから、と。
「完全に施設入居にしてしまう=自宅の母のための介護設備も全部撤去して、母の住所が施設になる」というのは、弟としてもまだためらわれるところがあるのだろう。
お正月を過ぎて、施設滞在期間より、在宅期間が少なくなった、と聞いて、ゆくゆくは完全に施設、という流れまでの前段階のようにも思う。
思えば、95歳で脳こうそくで倒れるまでは、時々電話で話はできた。
長電話になりそうなときは、こちらからかけなおしていたものだ。
愚痴も聞いたけれど、考え方のイロハも生活の知恵もいっぱい聞いた。
家庭菜園をやり、たくさんのお花も育てていた。
母の居室には、房がたわわに下がっている藤の写真がある。
あまりにも見事に咲いたから、カメラを持って見に来て! と連絡があって、弟夫婦が出かけて行ったときに写した写真。
見事な藤の花の前で、両親が日差しがまぶしそうに写っている。母は今の私ぐらいか?
まだ、知恵をいっぱい働かせて、活動は大丈夫って、感じ。
感慨深い。
今は、私が毎日庭仕事をしているけれど、不思議なものだ。
母が庭仕事をしていたときに聞いたイロハは、当時は糠に釘、だったのに、実は覚えていて(苦笑)、草刈り鎌の要領もだんだん身について、きっと母もこんな思いで、土いじりしていたのだろうと、思ったりする。
そうだった。
長男が1年生の時に、たい肥の中から、カブトムシの幼虫が出てきたから、と宅急便で送ってくれたものだ。
私が仮に送ろうか、というと虫嫌いな娘は、拒否するだろうな~。苦笑
母のしてきたことのいくつもを覚えている。
たまにしか顔を見に行かず、行ったときは弟嫁さんは、配慮して(多分)、二人にしてくれるけれど、耳の遠くなった母とは、きわめて単純な会話しかできない。
だから、施設に会いに行っても,↑ のように、時間が流れるだけだろうし、喜ぶことはわかっているけれど、弟宅に戻っている機会にすることにする。
いっぱいありがとう、という気持ちはある。
先日、知り合いが和服の処分に困っている、という話の中で、一人娘だったから、母親の着物まで私がもらっていて、、、という話だった。
そういえば、母はすっかり自分で処分は済ませており、私がもらったのは、戦争中、一番苦しかった時の野良着1枚(母は戦争中に着ていたもの、と言っているけれど、昭和30年代、山でサツマイモなどを耕作していたときのもののように思う?)。
でも、自分の汗水流した歴史を、という思いだけは、伝わっているからね。
元気だそうだ。
また暖かくなったら顔を見に来て、とメール。そうすると返信。
ようやく夜間はオムツになったらしい。
2週間のショートステイ、5日ほど戻ってまたショート、というパターンになっている、とのこと。
きっとケアマネージャーさんと相談しながら選択しているのだと思う。
それなりの期間、施設にいるとしたら、その間、私が施設に会いにいうか、と話題にしたら、それはやめてほしい、と言われた。
母のホンネには施設よりも自宅で過ごしたい、という気持ちがあるから、連れ帰ってほしいと懇願するだろうし、それが叶わないのなら、迎えに来てくれる日を楽しみにして待たせた方がいいから、と。
「完全に施設入居にしてしまう=自宅の母のための介護設備も全部撤去して、母の住所が施設になる」というのは、弟としてもまだためらわれるところがあるのだろう。
お正月を過ぎて、施設滞在期間より、在宅期間が少なくなった、と聞いて、ゆくゆくは完全に施設、という流れまでの前段階のようにも思う。
思えば、95歳で脳こうそくで倒れるまでは、時々電話で話はできた。
長電話になりそうなときは、こちらからかけなおしていたものだ。
愚痴も聞いたけれど、考え方のイロハも生活の知恵もいっぱい聞いた。
家庭菜園をやり、たくさんのお花も育てていた。
母の居室には、房がたわわに下がっている藤の写真がある。
あまりにも見事に咲いたから、カメラを持って見に来て! と連絡があって、弟夫婦が出かけて行ったときに写した写真。
見事な藤の花の前で、両親が日差しがまぶしそうに写っている。母は今の私ぐらいか?
まだ、知恵をいっぱい働かせて、活動は大丈夫って、感じ。
感慨深い。
今は、私が毎日庭仕事をしているけれど、不思議なものだ。
母が庭仕事をしていたときに聞いたイロハは、当時は糠に釘、だったのに、実は覚えていて(苦笑)、草刈り鎌の要領もだんだん身について、きっと母もこんな思いで、土いじりしていたのだろうと、思ったりする。
そうだった。
長男が1年生の時に、たい肥の中から、カブトムシの幼虫が出てきたから、と宅急便で送ってくれたものだ。
私が仮に送ろうか、というと虫嫌いな娘は、拒否するだろうな~。苦笑
母のしてきたことのいくつもを覚えている。
たまにしか顔を見に行かず、行ったときは弟嫁さんは、配慮して(多分)、二人にしてくれるけれど、耳の遠くなった母とは、きわめて単純な会話しかできない。
だから、施設に会いに行っても,↑ のように、時間が流れるだけだろうし、喜ぶことはわかっているけれど、弟宅に戻っている機会にすることにする。
いっぱいありがとう、という気持ちはある。
先日、知り合いが和服の処分に困っている、という話の中で、一人娘だったから、母親の着物まで私がもらっていて、、、という話だった。
そういえば、母はすっかり自分で処分は済ませており、私がもらったのは、戦争中、一番苦しかった時の野良着1枚(母は戦争中に着ていたもの、と言っているけれど、昭和30年代、山でサツマイモなどを耕作していたときのもののように思う?)。
でも、自分の汗水流した歴史を、という思いだけは、伝わっているからね。