ナボコフ『賜物』(1)
ナボコフ『賜物』。以前、文庫本で買ったが、読み終わらない内にどこかへ消えてしまった。いま手元にあるのは、河出書房新社の「世界文学全集」の一冊である。(2010年04月30日発行)1日1-2ページのペースで、ただことばにおぼれるだけのために読んでみたい。
--これは、「文化の日」にあわせて、急に思い立ったことなのだけれど、(文化の日だから、何か急に「文化」的なことをしてみたくなったのだ)、読みはじめてすぐに無謀なことだと気がついた。
ナボコフ。このことばの魔術師の文章の中から1日1フレーズだけを選び取るというのはとても難しい。あらゆる行が「引用せよ」と迫ってくる。どの行を引用するか。その段階で、私自身が試されているような、苦しい気分になる。
しかし、こんなところで悩んでいても何も始まらない。ともかく、ことばの海に飛び込み、そこからことばをつかみとってくる。そのことばは水のように私の手をするりと逃げるかもしれない。あるいは毒のある小魚のようにひれが私の指を刺し、その毒が私の全身に回るかもしれない。あるいは、つかんだものが巨大な魚の尾びれで、つかんだ瞬間私は空高くまで振り飛ばされるかもしれない……。
「白い下着よりも」がとても印象に残る。このことばは「黒い文字が書かれた原稿」の「黒い」を引き出すためのことばである。原稿の量の多さを引き合いに出すだけなら、それを「下着」と比べる必要はないだろう。比較の対象はもっとあるはずだ。けれども「白い」ものとなると、そんなにはないかもしれない。そして「下着」というものも、「ことば」と結びつくと、「ことば」に不思議な「味」を与える。何かを書く--それは、それがどんな高尚なことであっても書いたひとの秘密の部分、恥部、肉体と密接につながっている。秘密や恥部を隠すために書くひともいれば、それを見せつけるために書くひともいるだろう。どんなときでも、作家自身の肉体がなんらかの形で、そこに刻印される。下着に残ってしまう体温のように。あるいは、ふしだらな、甘い匂いのように。
書きながら、あ、読みたい--と思うのだ。その「黒い文字」のびっしりつまった原稿を。いや、そのことばの中にある秘密を、恥部を、下着フェチのように鼻先を下着で被い、息を吸い込んで、わざわざよごれた匂いを体内に取り込むように、あ、そのことばを読みたい。そこに書かれている匂いを嗅ぎたい。秘密を知りたい。おぼれたい--そういう気持ちにさせられる。
(いつまで続けられるかわからないが、ただ感じたことを書きつづけてみたい。引用のあとのページはすべて「河出書房新社」のページ。なお、訳は沼野充義である。)

ナボコフ『賜物』。以前、文庫本で買ったが、読み終わらない内にどこかへ消えてしまった。いま手元にあるのは、河出書房新社の「世界文学全集」の一冊である。(2010年04月30日発行)1日1-2ページのペースで、ただことばにおぼれるだけのために読んでみたい。
--これは、「文化の日」にあわせて、急に思い立ったことなのだけれど、(文化の日だから、何か急に「文化」的なことをしてみたくなったのだ)、読みはじめてすぐに無謀なことだと気がついた。
ナボコフ。このことばの魔術師の文章の中から1日1フレーズだけを選び取るというのはとても難しい。あらゆる行が「引用せよ」と迫ってくる。どの行を引用するか。その段階で、私自身が試されているような、苦しい気分になる。
しかし、こんなところで悩んでいても何も始まらない。ともかく、ことばの海に飛び込み、そこからことばをつかみとってくる。そのことばは水のように私の手をするりと逃げるかもしれない。あるいは毒のある小魚のようにひれが私の指を刺し、その毒が私の全身に回るかもしれない。あるいは、つかんだものが巨大な魚の尾びれで、つかんだ瞬間私は空高くまで振り飛ばされるかもしれない……。
建物の真ん前には(こにぼく自身も住むことになるのだが)、自分の家財道具を受け取りにでてきたらしい二人連れが立っていた(一方ぼくのトランクの中身は、白い下着よりも、黒い字が書かれた原稿のほうが多い)。
(8ページ)
「白い下着よりも」がとても印象に残る。このことばは「黒い文字が書かれた原稿」の「黒い」を引き出すためのことばである。原稿の量の多さを引き合いに出すだけなら、それを「下着」と比べる必要はないだろう。比較の対象はもっとあるはずだ。けれども「白い」ものとなると、そんなにはないかもしれない。そして「下着」というものも、「ことば」と結びつくと、「ことば」に不思議な「味」を与える。何かを書く--それは、それがどんな高尚なことであっても書いたひとの秘密の部分、恥部、肉体と密接につながっている。秘密や恥部を隠すために書くひともいれば、それを見せつけるために書くひともいるだろう。どんなときでも、作家自身の肉体がなんらかの形で、そこに刻印される。下着に残ってしまう体温のように。あるいは、ふしだらな、甘い匂いのように。
書きながら、あ、読みたい--と思うのだ。その「黒い文字」のびっしりつまった原稿を。いや、そのことばの中にある秘密を、恥部を、下着フェチのように鼻先を下着で被い、息を吸い込んで、わざわざよごれた匂いを体内に取り込むように、あ、そのことばを読みたい。そこに書かれている匂いを嗅ぎたい。秘密を知りたい。おぼれたい--そういう気持ちにさせられる。
(いつまで続けられるかわからないが、ただ感じたことを書きつづけてみたい。引用のあとのページはすべて「河出書房新社」のページ。なお、訳は沼野充義である。)
![]() | 賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2) |
ウラジーミル・ナボコフ | |
河出書房新社 |
