詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和『美しい小弓を持って』(11)

2017-08-23 14:58:32 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(11)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「となか--黙示録」は、東日本大震災、東京電力福島第一原発のことを書いている、らしい。

 海の炉心をだきしめよ
 幼い神々

 の「炉心」というようなことばがら、そう感じるであって、間違っているかもしれない。そこにはまた、

叙事詩にたいせつな遺伝子情報を載せて、
針の精子は斃れ、胎内で聴く母語のはて、やさしいな--

 と、清水昶を追悼した「針の精子」に出てくることばもある。
 あるいは、清水なら東日本大震災をどう詩にしたかを考えているのかもしれない。
 「母語」ということばがあるが、ことばはどこかでだれかとつながっている。だれとつながっているか、ふつうは考えないけれど、同じことばを使うひとはどこかでつながっているだろう。そうであれば、同じことばを使えば、ひとは見知らぬ人ともつながることができるということでもある。そのつながりは「時代」を超える。「いま」生きている人だけでなく、かつて生きていた人、これから生きる人にもつながる。
 ことばは「遺伝子」である。
 そんなことは、書いていないというかもしれないけれど、書かれていることばを私は「誤読」する。
 そして、その「ことばのつながり」には、不思議なものがある。「意味(論理)」ではないものがいつでも忍び込んでくる。

叙事詩の主人公たち。 言えなくなった、意志・苦痛、意志・苦痛。
「うつく・しい」とさかさまに言おうとしただけなのに、
虫のことばになりました、消える人称的世界!

 これは、たぶん詩の書き出し「ことしの紅葉はさびしかったよ。地上では/うたったさ、そりゃあがんばったよ。 土偶も、空の神も、/みんなで、哲学の徒であろうとしたさ。」を言いなおしているのかもしれない。
 震災後、紅葉を語ることばがない。「美しい」とは言えない。でも、どう言えばいいのか。「美しい」けれど「美しい」とは言えないので、たとえば「美しい」を逆に(さかさまに)言えば、紅葉を語ることができるか。「うつくしい」「いしくつう」。「意志・苦痛」になる。「回文」ではないのだが、「さかさま」にするだけで、違うものが忍び込んでくる。
 これは「翻訳」不可能なものだね。日本語を「母国語」としている人間にはわかるが、そのことばを日常的に話していない人には、「美しい」を「さかさま」にすると「意志・苦痛」になるかなんて、わからない。
 もちろん「いしくつう」をどう読むか。「音」にどんな漢字をわりふって「意味」にするかは人によって違うだろうが、藤井が「意志・苦痛」という「漢字のルビ」をふったとき、そこに日本人には「わかる」意味が出現する。それしか意味がないように思われる。
 「意味」は単に「意味」ではなく、「ストーリー」をひきつれてくる。震災後を生きることは「苦痛」を伴う。しかし、その「苦痛」を引き受け、さらに生きていく「意志」を人間は持つことができる。そして、「意志・苦痛」ということばは、ある意味で、これからの生きる「指針」にもなる。
 ことばのなかから、予想もしなかった何かがあらわれて、人間を引っぱっていく力になる。
 昔、「若いという字は苦しい字ににてるわ」という歌謡曲があったが、「意味」が人間を引っぱる力になる。支えになる、ということがあるのだ。「苦しいけれど、それは若さの特権である」という具合に。
 「意志・苦痛」にも、そういうものを感じる。それは「美しい」とは簡単に言えないけれど、「美しい」何かに触れている。ことばの中には、予想外のものが含まれている。そして、それは「母語」の「遺伝子」のように、意識されないまま生きている。
 藤井は、「音」の中に、それを感じている。

哀吾、哀吾よ、きみの名は「哀吾」か
秋にもなれば、晩秋のあらしになれば、
紅葉にかわって、終わるらんぎくが栄えることでしょう、
叙事詩のなかに、一人また一人 名前は浮上する。
終わりの始まり、

 「哀吾」をどう読むか。「あいご」と読めば、それは韓国語の「アイゴー」になるかもしれない。喜怒哀楽、特に強い悲しみを訴えるときのことばに。
 「母語」のほかにも、「ことば」はまじってくる。それは「感情」がまじってくるということでもある。人間は、そうやって「つながる」ともいえる。

 私の「要約」では、藤井が何を書いてあるかわからないと思うが……。

 一篇の詩のなかで、何かがすり変わるように動いている。何と何がすり変わったのか、何のためにすり変わったのか。それを読み解けば、また、「意味」が強い形で生まれてくるのだろうけれど、それを書くことは私にはできない。
 いいかえると、わからない。
 わからないけれど、この詩のなかでは、ことばが「音」を中心にして、「越境」を繰り返していると感じる。「意味」の越境、「意味」の破壊。それでも生きることば。それを、「生まれる瞬間」にこだわって書いていると感じる。


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藤井貞和『美しい小弓を持って』(10)

2017-08-22 09:09:40 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(10)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「冷暗室--清水昶さん追悼」には、俳句が差し挟まれている。晩年俳句を書いていた清水をしのんでのことだろう。

ゆくはさびし 山河も虹もひといろに

 「虹」は七色。それが「ひといろ」になる。死に行くひとのみる風景だろうか。「ひといろ」の「ひとつ」が寂しい。それはひとりで死んでゆくしかない人間のさびしさだが、そうか、藤井は清水に「さびしい」ものを見ていたのか、と気づかされる。

思想の詩終わる六月 きみがゆく

 「思想」ということばが生硬だが、生硬なことばを輝かせる力が清水にはあった。「思想」で終わらせず「思想の詩」とロマンチックし、それを「終わる」ということばでセンチメンタルにする。
 青春の抒情というものを感じる。1960年代の青春だけれど。

水売りの声も届かぬ 幽境へ

 清水の詩のことばの特徴は、「思想」というような生硬なことばと、「水売り」というような土着に近い日常(現代は消えてしまった暮らしと肉体)の風景が交錯するところにあった。それを思い出す。
 それだけではなく「声」が魅力的だ。独特のリズム、スピードがある。それに反応して藤井は「水売りの声」と書いているのだと思う。
 この年代のひとの詩には「声」がある。それは「地声」であり、「音楽」でもある。
 いまの若い世代のことばにも「音楽」はあるのだろうけれど、どうも、それは私には聞き取れない。
 「水売りの声」はなくなってしまったものの「象徴」かもしれない。

五七五終わる わたしの初夏に

 「終わる」「わたし」「初夏」も清水の詩には印象的につかわれている。それは「意味」であるよりも「肉体」そのものである。
 こういう感想は「印象批評」というものなのかもしれないが、「印象批評」のまま書いておく。
 ことばそのものに「肉体」を感じ、その「肉体」に反応する、ということが1960年代の詩にはあったように思える。
 先に取り上げた「思想」ということばなど、生硬そのものだが、生硬なものに正面からぶつかる「肉体」のやわらかさがあった時代だと思う。

 「針の精子--「白鯨」」もまた清水を追悼する詩である。「まぼろしの党員は/首都の地下室で花を噛んで眠っている」という清水の二行が引用されている。

灰白色から火の野のいろに変わる
あけがたの裂け目の日付変更線
巨きな夢に託した
野の舟のゆくえ 「暗視」とあなたはいう

 死んだのに朝日が差してくる。燃え上がるように赤く染まる野。「火」というまがまがしい比喩。「日付変更線」という即物的な概念。その衝突。その瞬間に見える何か。それを見る力を「暗視」というのだろう。明るい視力は存在を正しく見る。暗い視力は存在を「比喩」にかえて見てしまう。
 「野の舟」とは何か。
 こういうことを問うことは意味がない。「野の舟」が見えるかどうか、それが問題である。読者に、その「比喩」を「現実」として見る(実感できる)視力を清水は要求していた。「暗い視力」。それは「現実」を「見る」というよりも「現実」を「歪める」力だ。「歪める」瞬間にだけ見える「亀裂」のようなものと「暗視」は共犯関係にある。

 この詩は「ハムレット」のパロディーかもしれない。夜明けの描写は、次のように言いなおされるから。「ことば、ことば、ことば」と書いたシェークスピア。清水も「ことば、ことば、ことば」を書いたのだ。その「ことば、ことば、ことば」に藤井は感応し、こう書いている。

四十年と言う轟音
父の亡霊
山からのあいさつはあるか
亡霊に物語は回復するか
こどもたちのこどもたちのこどもたち

 「ことば」という「亡霊」。その「亡霊」に託す「物語」。「物語」とは青春が傷つき破れるという「定型」を必要としている。抒情とセンチメンタル。センチメンタルだけれど、それをたとえば「回復する」というような、何か生硬なもので傷つける。
 「まぼろしの党員」の「まぼろし」と「党員の衝突も、そういう類のものだろう。
 「こどもたちのこどもたちのこどもたち」は、わたしには「ことばのことばのことば」と聞こえてくる。

どこかにあるはずで
地図にはない県庁所在地
生殖可能な
さいごの男女を神の県外に避難させること
革命の卵子が
神殿で産むこどものたちのために
無事でありますように

 清水と藤井の文体、ことばが交錯している。私の思い込みなのかもしれないが「どこかにあるはずで/地図にはない県庁所在地」ということばのねじれ方は清水の「文体」である。「生殖」や「革命」も清水のことばであると思う。でも「圏外」ではなく「県外」と書く方法、「神殿」ということばには藤井の「色」が強い。
 「意味(ストーリー)」ではなく、こういうことば、文体の交錯に、あ、藤井は清水の詩が好きだったんだなあと感じる。藤井が清水と一緒になって詩をつくっている感じがする。
 亡くなった人と一体になる、というのが藤井の「追悼」の形なのだろうと思う。
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)

2017-08-21 09:03:15 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(9)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「詞(ツー)」には「詞は宋代の詩」という註釈がついている。宋代の詩を参考にしてつくったということかな?

みどり葉をまどさきに、にわのおもてに、
日のあしに、あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
葉裏をつくろう。 葉ごとに、芯ごとに、
むしのいきに、あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

 さて、どう「誤読」すればいいのか。
 私は詩に限らずことばを読むときは「動詞」に注目する。「動詞」は人間を裏切らないからだ。
 この詩の書き出しには「さしかける」「つくる」「まもる」という動詞がある。「何か」をきみに「さしかけ」、何かを「つくり」、そうすることできみを「まもる」ということをしたいのだ。「何か」というのは書き出しの「みどり葉」だから、「みどりの葉」を「さしかける」ことで、きみを「まもる」。「みどり葉」は四行目で「葉裏」と言いなおされている。言いなおしたものを「同じ」というのは乱暴かもしれないが、まあ、同じものと、便宜上考えておく。「みどり葉」は「木(大樹)」の比喩だな。大樹に身を寄せひとは自分を守る。人を守ることのできる大樹になる。比喩だから「何か」と言いなおして考えた方が的確だろうなあと思う。
 途中を端折って、詩の最後は、こうだ。

離人症のきみが、独り身をあいし、
ぼくをけっして愛してくれないと告げる。
それでも天敵に、うたをわすれない、
陽気にね、あいするということ

 ふーん。「まもる」は「あいする」という動詞にかわっていくのか。そうすると、この詩は愛の詩ということになるのか。
 でもね。
 こんな「要約(ストーリー)」は「意味」になりすぎていて、楽しくない。というか、藤井のことばを読んでいるときに感じる楽しさとは関係がないなあ。
 ほかに動詞はないのかなあ。
 そう思いながら書き出しを読み返す。何が一番目立つ? 「……に」の繰り返しだね。これを「動詞」に言いなおすとどうなるのだろう。
 行をすこし書き換えてみる。

みどり葉をまどさきに、
にわのおもてに、
日のあしに、
あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、

 「……に」「さしかける」ということになる。「……に」というのは、さしかける「対象」を指し示していることになる。指し示しながら、対象を並べている。並べているけれど、それは「まとめる」というのとは違うなあ。ぜんぶまとめて、何かを「さしかけ」「まもる」という具合にはつながらないなあ。
 むしろ逆だろうなあ。
 「……に」と並べているけれど、これは「ひとつずつ」ということではないだろうか。世界は連続している。つながっている。けれど、その「つながり」を切り離し、ひとつひとつのものとして「まもる」ということかもしれない。
 「……に」は、そういう具合に読みたい。
 きみを「まもる(あいする)」というのは、どこまでもどこまでも、その細部(?)にこだわって、細部まで「まもる」ということなのかもしれない。
 そうやってつづきを読み直すと。

葉裏をつくろう。
葉ごとに、
芯ごとに、
むしのいきに、
あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

 「葉裏をつくろう」の「つくる」は何だろう。「葉」には「表」があり「裏」がある。つくらなくても、それは存在している。そうすると「つくる」は別の意味だね。
 なんだろう。

といきになって

 ここに「なる」という動詞が隠れていることに気がつく。
 この「なる」をいろいろなところに補うことはできないか。

葉裏(になって)。
葉ごとに「なって」、
芯ごとに「なって」、
むしのいきに「なって」、
あおいきに「なって」、
といきになって、きみを守ろう。

 むしのいきに「なっても」、あおいきに「なっても」と読むこともできるかもしれない。検診だ。
 そしてこの「なって」は前半部分にも補えるかもしれない。「なって」をちょっと変形させると

みどり葉を
まどさきに「なったきみに」、
にわのおもてに「なったきみに」、
日のあしに「なったきみに」、
あめあとのみずたまりに「なったきみに」、
きみのひとみに、
さしかけよう

 になるかもしれない。「きみのひとみ」は「まどさき」をみつめるとき「まどさきになる」、「にわのおもて」をみつめるとき「にわのおもてになる」、「日のあし(日脚)」をみつめるとき「ひのあし」になる。
 きみがみつめるものが、その瞬間瞬間、藤井にとっての「絶対的」な「きみ」そのものなのだ。
 そういう具合に読むことはできないだろうか。
 きみをそういう具合にとらえなおすとき、そのきみは藤井自身でもある。区別ができない。「一体化」している。「あいする」というときの「感じ」は、確かにそういうものだなあ、と私の「肉体」は思い出す。

 で、このときの、こういう感じを引き出藤井の「ことばのリズム」が気持ちがいい。自然にそういうことを思う。読点「、」の多い、ぶつぶつの文体なのだけれど、私の「肉体」はなぜかなじんでしまう。
 若い人の「文体」では、こういうことが起きない。

うた―ゆくりなく夏姿するきみは去り
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(8)

2017-08-20 15:43:09 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(8)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「spirited away (神隠す)--回文詩1」は、全文を引用しないと「姿」が見えない。

むなしく、
ここに来ず、
いたましく 神か、
かつ、この
新月、雲に舞い、
楚国(そこく)よ、
つと、ふるさとに、
かず知れぬ、
からき泪羅(べきら)か、
濡れ、しずかにと去る、
ふと、つよくこそ、
いまにも屈原(くつげん)、
詩の国家、
神隠し また、
いずこに
故国死なむ。

 「回文」ということばがなければ、私は「回文」に気づかなかった。
 しかし、ひとは、なぜ「回文」などつくるのだろうか。
 (1)文というのは、たぶん「意味」を持っている。「ストーリー」と言い換えててもいいし、「要約」と言ってもいい。つまり、伝えたいことがあって、ひとは「ことば」を発し、ひとつづきの「文」にする。
 (2)もし、その「文」が逆さまに読んでも同じ音になるということに何か「意味」はあるのか。
 (1)と(2)でともに「意味」ということばをつかったが、これはもちろん微妙に違ったことを指している。(2)の方は「価値」と言い換えることができるかもしれない。けれど「価値」というのなら、(1)にも適用できる。その「意味」をつたえることで、どういうことが起きるのか、「効果」は何か。「効果」というのなら、(2)の「意味」を「効果」と言い換えることもできる。
 というようなことを書いていると、何が何だか、わからない。

 違う視点から考え直してみる。
 私は「回文」というものに関心がない。言い換えると、そういう文を考えることが面倒くさくて、とてもできない。
 こんな面倒くさいことをするのは、どうしてだろうか。
 「意味」を伝えたいのか。あるいは「意味」を隠したいのか。つまり、ことばにふれて、それをあれこれ読み直すことで、隠している「意味」を伝えたいのか。ただ上っ面を読んでいるだけではわからない何かを隠す。その隠しているものを探しているひとにだけみせる。そのために、こういうことをしているのか。
 もし、そうならば。
 最初に出会う「意味」とは、何だろう。
 一行目から順番に読んでいき、読むことによって動く「意識」がさぐっている「意味(ストーリー)」とは何なのだろうか。

むなしく、
ここに来ず、
いたましく 神か、

 たとえば書き出しのこの三行。何かしら「神話」めいたむき出しの感じがある。何が「来ず」なのか。「神」が来なかったのだろう。「神」が来なかったために、待っているひとは「むなしい」。「神」はなぜ来なかったのか。「いたましく」傷ついていたのかもしれない。そうであるなら、その「傷」は「神」を待っているひとが「神」から与えられた「試練」のようにひとを傷つけるだろう。ひとは「いたましい」という状態になる。そうなることで、「神」そのものにもなる。「神」を待つ(待つことのできる)ひとだけが「神」になる。これはあらゆる「宗教」に通じる考え方であるとおもう。「考え方」は「考え型(パターン)」であり、その「パターン」の凝縮したものが「神話」ということになる。
 などと、私はテキトウに「意味」を「捏造」する。つまり「誤読」する。

かつ、この
新月、雲に舞い、

 この二行は「神話」として美しい。「この」が何を指し示すか、そんなことはわからない。わからないけれど「この」ということばで、そこにあるもの(身近にあるもの)をぐいと提示する。その「提示する力」が強いので、それは「新月」「雲」という空(宇宙)にあるものをも呼び寄せる。呼び寄せではなく、自己拡張であるとも言える。つまり「ひと」が「神」になったように、ここでは「この」という自明のこととして指し示す力(ことばの力)が、「ひと」を「新月」や「雲」にまでかえてしまうのだ。

楚国(そこく)よ、
つと、ふるさとに、
かず知れぬ、
からき泪羅(べきら)か、

 「楚国」は「祖国」であり「ふるさと」でもある。そこでは何か「神」に頼るしかないような「大事件」が起きたのだ。ひとは「大事件」に「神」を感じ取った。「神」はあらわれるときだけ「神」なのではない。絶対にあらわれないときにも「神」なのだ。
 「かず知れぬ」とは、そこでの「悲惨(悲劇/いたましさ)」が「かず知れぬ」であろう。「からき」は「辛き」であり、「つらき」であり、「いたましい」でもあるだろう。「音」のなかに、複数の「意味」が押し寄せてくるのを感じる。これも「神話」のなかのことばの宿命のようなものだ。
 そういうことを、私は「ストーリー(意味)」として感じ取る。
 で。

からき泪羅(べきら)か、

 この一行が「回文」になっている。つまり、ここがこの詩の「ターニングポイント」である。そして、その中心点とでも言うべきものが「泪羅(べきら)」なのだが。
 あ、私は、何のことがわからない。
 「楚国」というのは中国の古い時代の、ある「国」を指していると思う。中国の歴史は私は全く知らないのでテキトウに書くのだが。「楚国」も「泪羅」も調べればわかることかもしれないが、調べてわかるのは「情報」であり、私の「肉体」とは無関係なので、そういうものに私は頼らない。むしろ「泪羅」という「文字」をとおして知っていることを頼りにする。覚えていることを頼りに、強引に「誤読」する。
 「泪」は「涙」。「羅」は「あや」というか「薄い網」のようなもの「弱いもの」だね。それは「いたましい」とか「つらい」に通じる。
 何かの「事件」の「象徴」だろうなあ。
 そこまで「ストーリー」を展開してきて、後半はどうなるか。一種の「解説(意味づけ)」がおこなわれるのだろう。
 何か「大事件」があった。それは「悲劇」であった。何かが「去った」(去ってほしくないものが去った)。けれど、その「大事件」はひとに強烈なものを残した。

ふと、つよくこそ、

 この一行を、私は思わず、「ふとく、つよく」と読んでしまう。「屈原」の「屈」は「屈する」。屈しながらも「詩(神話)」を残した。そこには「神」が隠れている。「故国」は死なない。ひとの中で生きている。

 という感じ。

 書かれているのは「回文」、言い換えると「遊び歌」のようなもの。「意味」はない。けれど「意味」は探し出せる。「回文」は「誤読」できる。
 で、「誤読」するとわかるのだが、「誤読」とは、「ことば」を自分で引き受け、そこに「意味」を付け加えていくということなのだ。
 藤井(作者)の思いとは関係なしにね。
 いわば「誤読」も遊び。
 それを承知で、私はテキトウに遊ぶ。

 「回文」の詩は、この詩集にもう一篇ある。「翡翠輝石」
 同じような読み方を繰り返してもしようがないので、省略する。気づいたことを一つだけ書いておく。
 「ターニングポイント」となっているのは

**知事、自治がなお、

 藤井は註釈で(**に知事の名をいれてください。)と書いている。「回文」なのだから「おなが」がそこに入る。
 ここで問題なのは(大切なのは)、なぜ、藤井は「翁長」ということばを書かなかったかということ。書いてしまえば、「主張」になる。書かずに「翁長」を読者に探させる。そうして、詩の中に参加するよう誘っているのである。
 「翁長」は読者がかってに読み込んだ「誤読」。

 「論理(意味)」でことばの運動の中にひとを閉じこめるのではなく、遊びをとおして「ことば」そのものの中に入ってくること、ことばと一体になることを藤井は誘っている。
 あ、こんなふうに「意味(結論)」を書くことが、してはいけないことなのだけれど、ついつい書いてしまう。

 藤井は「ことば」の「音」のおもしろさ、不思議さと遊んでいるのだと思う、と付け加えてもしようがないかもしれないが、付け加えておこう。藤井の詩を読んで感じる「快感」は、「回文」でも同じである。意味を切断するような読点「、」とことばの飛躍。その短く切断された「音」は明るく、強い響きに満ちている。それが、藤井の詩では一番魅力的なところである。「音」はたぶん「肉体」の「好み」の問題なので、ひとによっては印象が違うだろうけれど。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(7)

2017-08-19 10:53:29 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(7)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「ひとのさえずり」も「書き方(形式)」に特徴がある。

まがつびのあさ 禍つ火の朝
こうしてほろぶ 斯うして滅ぶ
ことのはじまり 言の始まり
おごりのためし 傲りのためし
ひにもえさかり 火に燃えさかり
のたうつからす 輾転つ烏
さけぶにわとり 叫ぶ鶏

 上段にひらがなが書かれ、下段には漢字まじりで書き直されている。漢詩の書き下し文みたいだ。ひらがなの書き下し文、だな。
 なぜ、こういうスタイルをとっているのだろう。「意味」がわかりにくいからだろうか。「意味」を正確に伝えるためなんだろうなあ。
 そう「理解」したうえで書くのだが。
 「ひらがな」と「漢字まじり」を比較したとき、私は、「ひらがな」の方がおもしろいと思った。というよりも「漢字まじり」はつまらないと思った。
 「ひらがな」では「意味」がわかりにくい。そこに妙な「味」がある。「なんだろうなあ」と思う瞬間が愉しい。
 「漢字まじり」は「意味」がわかるというよりも、「意味の押しつけ」と感じてしまう。ちょっとゲンナリする。がっかりもする。「こういうい意味?」反発心も起きる。他のことを考えてはいけないのかなあ。たとえば「禍つ美の朝」「事の始まり」。
 それに、こういうことを書いてしまっては藤井に申し訳ないのだが、「禍つ火の朝/斯うして滅ぶ/言の始まり」と書き下されても、うーん、何のことかわからないぞ。「意味」は何かしら限定されている感じがする。その「意味」を押しつけられている感じはするが、その「脅迫感」があるだけで、実際の「意味」はわからない。「ストーリー」がわからない。「何が起きているのか」、その「事実」がわからない。何となく「わかったような感じがする」だけである。それも「瞬間」としてであって、すべてをつないで「ストーリー」ができあがるわけではない。
 詩は、わかった感じがするだけでいいというものかもしれないが。

 ここからちょっと逆戻りして。
 「ひらがな」を読みながら、私はなぜおもしろいと思ったのか。そのとき、私の「肉体」は何に反応していたのか。
 まず、わかること。「音」の数がそろっている。それが「肉体」に入ってくる。私は音読はしないのだが、目で見る「文字の数」と黙読しながら聴く「音の数」がそろっている。音を揃える「意識」がある、ということがわかる。藤井の「作為」といってもいいかな。何かしようとしているということが、わかる。
 これは「漢字まじり」の文を読み、「あ、何か意味を伝えようとしている」と感じるのに似ている。「わかる」のは、あくまでも「漠然」としてことであって、「ストーリー(意味)」がわかるわけではない。
 「意味(ストーリー)」がわからないという点では同じなのだが、「ひらがな」の方が「自由(無責任)」な感じがする。「自由」というのは、私の方でかってに(無責任に)「誤読」できる「自由」のことである。
 漢字があると、漢字そのものに「意味」があり、それを読み違えると完全に「誤読」。ところが「ひらがな」の場合は「音」だけであり、そこには「意味」はない。脈絡からわかることばもあるが、脈絡というのはいわば「つくりあげていくもの」。昔流行ったことばで言えば「ゲシュタルト」。ひとのかずだけ「ゲシュタルト」は違う、と書いてしまうと、脱線してしまうが……。
 で、「意味」を半分置き去りにして、音を楽しむ。リズムを楽しむ。「からす」とか「にわとり」とか、具体的な「もの」を指し示すことばは、まあ、たぶん「聞き間違えない(読み間違えない)」。つまり、そこだけははっきりわかったような気持ちになる。そして、その「はっきりわかった」と思い込んだものを中心に、いま何が起きているのかなあと手さぐりをする。「意味(ゲシュタルト)」をつくっていく。
 この「ゲシュタルト」が藤井の考えているものと「重なる」かどうかは、わからない。でも、「漢字まじり」のように「意味」に誘導されるという感じがない。わからなくて、迷うのだけれど、それは自分で迷っているだけで、迷わされているという不快感がない。耳に響く音が「いま/ここ」から私を引き剥がしてくれる。
 「不快感」ということばまでたどりついて、あ、これかもしれないなあ、とまた私は振り返る。
 「ひらがな」を読んでいるときは「快感」がある。「音」がそろっている。その「音」が「意味」にならなくても、聞いていて心地よい。「リズム」が快感をつくる。「意味」がわかる快感とはまた別の「肉体」の快感がある。
 「意味」がわかったとき、たぶん「脳」が快感を覚えるんだろうなあ。
 藤井は「肉体の快感」と「脳の快感」を比較したと(?)、たぶん「肉体の快感」の方を重視するんだろうなあ、と思った。
 「ことば」を「肉体で味わう」ということを、「頭で味わう」ことよりも優先する。
 この感じ、私は好きだなあ。

 私は、こんなことも考えた。もし、「ひらがな」と「漢字まじり」が逆だったら、どうなのだろう。

禍つ火の朝   まがつびのあさ 
斯うして滅ぶ  こうしてほろぶ 
言の始まり   ことのはじまり 
傲りのためし  おごりのためし
火に燃えさかり ひにもえさかり
輾転つ烏    のたうつからす
叫ぶ鶏     さけぶにわとり

 とても奇妙なものを見ている感じがしないだろうか。
 なぜ、奇妙に感じるのだろうか。
 たぶん「漢字」に「意味」があるのに、その「意味」を解体している(わざと、あいまいに、不定形にしている)と感じるからだろうと思う。
 「意味」はできあがってしまうと、それが「消える」とき、何か「不安」のようなものが入り込むのだ。
 これは逆に言うと、人間は、それだけ「意味(ゲシュタルト)」を求めたがるものなのだということかもしれない。

 で、ここから私はさらに飛躍する。論理を端折って、テキトウなことを書く。
 藤井は、この詩では「音(ひらがな)」を「意味(漢字)」に変換してみせているが、それは「意味」を重視しているからではなく、「無意味(音楽)」を重視していることを逆説的に証明するためではないだろうか。
 ことばは「音楽(音)」である。「音楽」を生かしながら詩を書くにはどうすればいいのか。そういうことを模索しているように感じるのである。
 「音」から始まり「意味」にたどりつき、それをさらに「音(音楽)」に結晶させる。そういうことを夢見ているのかもしれないなあ、と私はかってに「妄想」する。誤読する。

 私は最近の若い詩人の「音楽」についていけない。私の「肉体」にその音が入ってこない。
 藤井の「音楽」が藤井の狙い通りに私の「肉体」に入ってきているかどうかはわからないが、何と言えばいいのか、私は藤井のことばに「音への偏愛」のようなものを感じ、みょうに落ち着く。書いている「意味」はわからないが、「音」が聞きづらい(音が不愉快)ということがない。

美しい小弓を持って
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(6)

2017-08-18 10:18:27 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(6)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「うたあわせ--詩とは何か」は「うたあわせ」の形式で書かれている。でも、藤井は「左」「右」という形式を守っているだけで「短歌」が書かれているわけではない。こんな感じ。

  一番 左
アトム大使。
回し読みする 少年のわれら、
御用学者になる
六十年
    右
詩はどうして書けなくなるのだろうか。
われらのうたに詩はあるのだろうか。
うたならばいつでも、どこにでもやって来るのにね。
うたは後ろ姿のおばあさん。

 「左」は少年時代は鉄腕アトムを回し読みしていたが、それから六十年、いまでは御用学者になっている、という「感慨」が五七五七七に整えられる前の形。
 「右」と合わせて読むと、鉄腕アトムを読んでいた時代は、詩と歌が一体となっていた(区別できないままに肉体といっしょにあった)ということになるかな? 「右」は「左」の「解説」のようになっている。詩は、どこへ言ってしまったのか。「うた」ならば五七五七七という形式といっしょに、いつでも、どこにでもあらわれるのに、ということか。五七五七七は、古いから、「おばあさん」という比喩になっている。「後ろ姿」というのは、後ろ向き、前には進んでいかない、時代を切り開かないという「比喩」かな。

  二番 左
われら 御用学者となって、
夢を継ぐ。
少年の日の汚名よ、
消さぬ
    右
うたは掴まえられると、ぴょいぴょいして、
57577になる。
やって来る日には、おおぞらいっぱいに、
ひろがってかけぶとんになる。

 「左」は鉄腕アトムをひきずっている。「夢」は鉄腕アトムがもっていた夢だね。同時に少年の夢。御用学者になっても、それは消えない。消えないように、こころのどこかで守っている、というのが「消せぬ」かなあ。これも短歌形式に整えられるまえのことば。たぶん、その「乱れ」のなかに「詩」がある、ということなのだろう。
 「右」は、また「解説」。「詩」が「うた」になると、そこに五七五七七があらわれる。リズムが整えられる。「ぴょいぴょい」はリズムを「体感」としてあらわしたものだろう。ここでは「おばあさん」のかわりに「かけぶとん」という「比喩」が出てくる。なんだろうなあ。安心して眠られることを言っているのかなあ。「左」の「夢」を引き継いでいるのかもしれない。

 「左」が「詩」を代弁している。「詩」は「短歌」になるまえの、ことば。リズムを「形式的」に整えるまえの「素材」。「右」は「解説」を装った何かかもしれない。「短歌」からみて、「左」の主張は受け入れられるか。あるいは「解説」を装った、「短歌(うた)」の自己主張そのものかもしれない。
 57577のリズムを生き抜いているのが「うた」。「詩」は、そいうものを持っていない。
 まあ、これはテキトウな、「論理」を展開するための方便。
 つまり、私は、こういうことを書きながら、ただ「論理」らしきものを捏造しているだけ。
 こんなことは「詩とは何か」に対する「意見」にはなり得ない。
 「結論」を出すのがこの感想の目的ではないので、私は、自分自身をはぐらかしながら藤井のことばに向き合う。
 途中を省略して、

  五番 左(持)
するはずがない! だましたり、
うそをついたりするはずが。
(ラララ)科学の子
    右
いまというときを元気にする素。
葉陰にキーボードが捨てられて、
だれも叩かなくなって、それでもうたは、
ひとりで自分をたたいている。

  六番
ほんとうはおばあさんも、
かけぶとんもやさしいリズムも、
未来志向のキーボードも、
ほんのひととき、詩だったかもしれない。
隠れてそれでも、うたいたいのかも。

 五番「左」はあいかわらず鉄腕アトムにこだわっている。「左」は何だろう。「いまというときを元気にする素」というのは「うた」の定義なのか。なぜ、「げんきにする」ことができる? 「ひとり」で自己証明できるから? 五七五七七なら短歌と言ってしまえるから、だれのことも気にせずに、ただそのリズムをまもって自己存在を証明できるから?
 まあ、こんなことは考えてもわからない。
 それよりも、

 再び出てきた「葉」と「キーボード」に注目するべきなんだろうなあ。
 「キーワード」には二種類ある。頻繁に出てくるものと、ずっと隠れていて、ある瞬間、一回だけ仕方なしに出てくるもの。「葉(裏)」と「キーボード」は頻繁に出てくる藤井のキーワードということになる。
 これとは別に、どこかで一回だけ出てくるキーワードがあるはずだ。それは「なぜ、葉裏なのか」「なぜ、キーボードなのか」という「問い」を「答え」に転換することばなんだろうけれど、私にはまだそれが何かわからない。まだ出てきていない。もしかすると、すでに出てきてしまっているかもしれない。

 で、「六番」。
 ここだけ「左」「右」がない。「うたあわせ(歌合戦)」なのに対抗していない。とけあって、ひとつになっている。
 「うた(短歌)」も「詩」だったのかもしれない。
 それまでは「詩」を「短歌」に整えられるまえの形とみてきたが、そういう見方だけでは不十分。「うた」は「ほんのひととき」(整えられるまえ?)は「詩」だったかもしれない。
 「うた」と「詩」は、どこかで行き来している。
 「おばあさん」「かけぶとん」「キーボード」という「比喩」。「比喩」がうまれてきた瞬間、そこに「詩」があった。そして「比喩」が五七五七七のリズムに整えられたとき「うた」になった。「うた」は五七五七七も守っているが、その前の「比喩」(詩の素)をこそ「うたいたい」のかも。
 「うたあわせ」という形式を借り、「詩」と「短歌」を向き合わせながら、ふたつの関係を、そんなふうにとらえているのかもしれない。

 というような「結論」を書いてしまっては、いけないんだよなあ。
 きょうの反省。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(5)

2017-08-17 09:41:43 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(5)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「鳥虫(ちょうちゅう)戯歌から」と「鳥獣戯画」は関係があるか。まあ、あるのだろう。でも、どんな関係か、私にはわからない。「鳥獣戯画」は教科書で見た程度で、具体的な感想がない。動物が人間のように遊んでいる。人間の遊びを動物で描いてみせたのかな?
 でも、こんな「ちょっとした印象」が、どういうわけか詩を読むときに影響してくるからおそろしい。
 詩の書き出しを読んだだけで、ふーん、なるほど、と私は思ってしまったのだ。

そっと、かげを映す能舞台に、
古典短歌を置くひと。
ははは、と笑う、
また鳴いている。 編集後記に、
鈴虫の声を置くひと。

 どこが「鳥獣戯画」か。「置くひと」と「置くひと」の重なりが「鳥獣戯画」である。違う人間が同じ「置く」という動きをしている。「動詞」が同じ。(あるいは同じ人間(ひとり)がふたつの場で「置く」という動詞を繰り返しているのかもしれない。)
 ウサギが相撲を取る。人間が相撲を取る。同じ「相撲を取る」がウサギと人間に共通するように、動詞が同じ。
 もちろん「古典短歌を置くひと」の「置く」と、「鈴虫の声を置くひと」の「置く」は内容的には違うだろう。「古典短歌を置くひと」というのは、能舞台を身ながら古典短歌(万葉集とか、古今集とか)を思い出し、能の内容(動き)をつかみ直しているということだろう。「鈴虫の声を置くひと」というのは編集後記に「秋になった、鈴虫の声を聞いた」というようなことを書いたということだろう。
 でも、「古典短歌を置く」ことによって、そこから「能」以外のところへ「意味領域」をひろげようとした。あるいは「古典短歌」の「意味領域」を「能」からインスピレーションを得てひろげようとしたと考えることができる。「鈴虫の声を置く」ことによって、そこから「雑誌(?)」にとりあげているテーマとは違う領域へ視線をひろげようとしたと考えると、どちらも「意識を違うところまで拡大しようとした」というストーリー(意味)」として「共通性」をつかまえることができるかもしれない。
 どちらがウサギでどちらが人間か。どちらでもいい。

 そのあいだの「ははは、と笑う、」というのはだれかなあ。「古典短歌を置くひと」、それとも「鈴虫の声を置くひと」? 読点「、」でつながっているから、文法的には後者だね。
 でもそうではなくて、「ひと」ふたりを向き合わせるかたちで「置いたひと」、つまり藤井かもしれない。違うことをしているひとを、同じ動詞で結びつけて、そこから何かを考えようとしている藤井だろうなあ。あるいは先に「補足」に書いたように、二人は同一人物であって、二人をつなぐ藤井と合わせて「三位一体」ということかもしれない。

遂げることばと、
「何ができるか」の韻律。

という二行を挟んで、詩は、こうつづく。

謡うキーボードを、
笛柱に掛けて、
鳥の砂嘴で、
打つ葉のうら。
あ、と打てば、
「は」の鳴りを、
は、と鳴らせば、
「あ」の、
返信。 ははあ、窓から、
そらの交信を聴くのは愉しいな。

 「ことば」と「韻律」が、文字入力(キーボードを打つ)と「鳴り(音)」となって動いている。この部分は、先に読んだ「葉裏のキーボード」といくぶん重なっている印象もある。
 ここにも「鳥獣戯画」の「構図」(比喩の中で世界が重なる)が反映しているかもしれない。
 で。
 私は、この詩では「交信」ということばに、とても興味を持った。
 誰かがメールし、それに返信がある。それからまたその返信を打つ。そういうことを「交信」と言うのだが。
 そうか、藤井の関心は「交信する」ということなんだな。
 私の直感は、そう言っている。
 「古典短歌を置くひと」と「鈴虫の声を置くひと」も交信している。ふたりは直接「交信」していないかもしれないが、あいだに藤井が入ると「交信」が成立してしまう。
 「口寄せ」というのも「交信」だなあ。そこにいない誰かのかわりに、藤井が「語る」。「交信」を担うのが藤井なのだ。
 かけ離れたものを結びつけるのが「現代詩」という定義があるが、それにならって言えば、藤井はかけ離れた存在を「交信させる」。ことばで「交信」をつくりだすということをしているのだろう。
 このときの「交信」の手段にはいろいろあるが、藤井は「韻律」に重きを置いている。「鳴る」という動詞といっしょにあるもの。「声」といっしょにあるもの。だからこそ「聴く」という動詞がつかわれるのである。
 「読む(見る)」のではなく「聴く」。
 「見る(見える)」という動詞も、この詩の中にあるのだが、「聴く」ということば、そのまわりに鳴っている「音」が美しいので、「聴く」(声/語る)というのが藤井のことばの基本なのだろうなあと感じる。
 日常、さまざまな場所で聴く「声(音)」、それが藤井には「交信」しているように感じられる。かけ離れたことばが、藤井を媒介にして「交信」している。そのことを書きたいのだ。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(4)

2017-08-16 10:04:19 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(4)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「葉裏のキーボード」は風にゆれる草の葉(あるいは木の葉)を見ているのだろうか。

葉裏のキーボードを、
かぜがさわります。
なんだか通信したそうにして、
メールがやってくる。
葉裏のパソコンが、
かたかたと打っている、それが、
ここから見える。

 風が吹くと、葉が小刻みに裏返る。それがキーボードの動きに見える。
 私は木の葉(草の葉)が風に吹かれて裏返るのを見ても、そんなふうに感じたことはなかったが、そう言われれば、そう見えるかもしれない。
 「事実」が先にあるのではなく、「ことば」が先に動いて、「事実」の見方を教えてくれる。「ことば」によって「事実」の見方を学ぶ、と言ってもいい。
 ここから風景と藤井との、ことばによる交流が始まる。
 詩は、こう展開する。

切実なメールが、
交わされている。 「基地」を、
「墓地」と打ち間違えている。

 あ、これは何かなあ。
 「基地」を「墓地」と読み違えるというのはあっても、「打ち間違える」はどうかなあ。私はアルファベット入力ではなく、親指シフト入力。打ち間違えることはない。アルファベット入力でも打ち間違えないなあ。
 「打つ」という動詞を基本にして「文字変換変換」を考えると、これは「嘘」である。
 これは「見間違え」が先にあって、「見間違えた」ことを「打ち間違え」に言いなおしている。
 (藤井は風景を「見間違えている」。「比喩」というのは「見間違え」を強引に「正当化」して主張することである。葉裏のキーボードは「事実」ではなく「見間違え」を「比喩」であると主張することで、ごまかしている。その影響が、「打ち間違い」にも影響してきている。)
 いやしかし、「見間違い」「打ち間違い」には、そんな明確な区別はないだろう。
 とっさに出たことばなのである。
 この「とっさ」を「のり」と考えるといいのだと思う。
 言い換えると、藤井は、ここでは「事実」を書いてるのわけではない。「のり」でことばを動かしている。
 風が吹いた。葉が裏返った。緑の色が変化する。その変化を「比喩」にすると、どうなるか。
 藤井はキーボードを思い出した。
 でも、そのキーボードというのは、単に入力機械ではない。
 キーボードを打ちながら、藤井は文字の変換も見ている。
 指の動きと目の動きが交錯する。指の認識と目の認識が交錯する。
 これは手(指)と目の、メールのやりとりなのか、と書いてしまうとまた違ったことになってしまうが。

 さらに、詩はこうつづく。

返信したそうに、
しばらく鳴って、
動かなくなる、あなたはだれ。

 うーん。「あなた」は「葉(裏)」か「かぜ」か。これは、区別ができない。「一体」となって動いている。
 だから、というのは論理の逸脱だが、強引に「だから」ということばを利用して、私はこう言いたい。
 だから、「打ち間違い」「読み間違い」は区別できない。おなじもの。一体になった動き。「比喩」で語り始めたときから、藤井は藤井以外のものと一体になって動いている。
 「現実」に起きていることは、何か区別のできない「一体」のものである。
 「さわる(打つ)」と「見る(見える)」、「見える」と「鳴る(聞く)」が交錯する。その「交錯」の瞬間に「メール」とか「パソコン」が「比喩」として入り込む。その「入り込む瞬間」の、何か区別のできない動き、「のり」によって突然うまれてくる「逸脱」。
 「逸脱」というのは「一体」とは矛盾するものだが、つまり「一体」から離れていくのが「逸脱」というものだが、「逸脱」は「一体」がうみだす「のり」が加速してうまれるものである。

 あ、何を書いているか、わからなくなりそう。

 藤井のこの詩には「軽快」がある。「のり」の軽さと、速さがある。明るさもある。
 この「軽快」というのは、私にとっては重要だ。読むときに「軽快さ」がないと、読んでいてつまずく。
 最近、私は若い世代の詩、そのことばのリズム(音楽)にまったくついていけない。読んでいて、ことばが耳に入ってこない。
 ところが藤井の詩ではそういうことがない。
 何が書いてあるのか、その「意味」を語りなおせと言われれば、答えに詰まってしまうが、読んでいて、ともかく読みやすい。
 きのう読んだ「口寄せ」には「/」という「音」のない「記号」があった。しかし、その「記号」さえ「分断」を視覚化していて、それが「わかる」。もちろん「わかる」は私の誤読だが。

 どうして瞬間瞬間に、「誤読」が可能なのか。
 藤井のことばが、どこかで「日本語」の「文学」の伝統を呼吸しているからだと思う。特に「音」の「文学」をしっかり呼吸していて、それが「声」の美しさになって響いてくる。
 どこが、ということは具体的には言いにくい。けれどあえて言えば、

なんだか通信したそうにして、

 この行末の「して」が、とても「論理的」なのである。「して」が次のことばを誘い出す。
 この響きは、

しばらく鳴って、

 に引き継がれている。
 ともに「……して」、そのあとに別の動詞がくる。「……して」というのは、別の何かを誘い出すための動きなのである。その動きを守って、藤井のことばは動いている。こういうところに「文学の(日本語の伝統の)論理」がある。それが「……して」という「リズム(音楽)」となって動いている。
 だからね、というのは、またとんでもない飛躍なのだが。
 こういうリズムのおかげで、藤井の詩はとても読みやすい。「理解」できなくても「のり」で、どこかに誘われていってしまう。
 こういうのを、詩の快感という。



 私の書いているのは「批評」ではない。もちろん「評論」でもない。「感想」ですらない。
 「でたらめ」である。
 と、書いて気づくのだが、私は藤井の詩に触れて、どこまで「でたらめ」が書けるか、「でたらめ」を維持したまま反応できるか、それが知りたくなったのである。
 藤井の詩が何を書いているか、その「意味」を私は私のことばで語りなおすことができない。つまり藤井の書いている詩の「意味」がわからない。わからないのに、読みながら、ところどころで何かを感じてしまう。反応してしまう。
 これは何なのだろうか。
 わからないまま、その反応を整えずに、ただ書き流してみたい。
 私が書いていることが「でたらめ」であるとして、なぜ「でたらめ」を書くことができるか。藤井のことばと交わりながら「でたらめ」を書き続けると、それはどこにたどりつくのか。そういうことを知りたい。
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藤井貞和『美しい小弓を持って』(3)

2017-08-15 10:25:28 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(3)(思潮社、2017年07月31日発行)

 「口寄せ」はとても変な詩である。

駅 / ビルの柱に凭れて、口寄せしていたらば、と ぼくは書いた。
いなく / なってからのぼくは、荻の花咲く飲みのこしの水が、
真っ青な顔 / を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

 何が書いてあるか、あいかわらずわからない。でも、はっきりわかることもある。
 ネット(ブログ)では横書き表示なのでつたわりにくいと思うが、各行にある「/」がだんだん下へ下がっていく。本で見ると、「/」が各行を斜めに切っている。分断している。そのことがはっきりわかる。詩は二ページにわたっているので、ページの変わり目は妙にずれるのだが、これが一ページにおさまっていたら、その分断線はもっとわかりやすい。
 でも、この「/」はいったい何か。何をあらわそうとしているのか、それがわからない。
 さらに、「読み方」もわからない。
 私は黙読派であって、音読はしない。けれど、「音」が聞こえない(声に出して読めない)部分は、何が書いてあるか理解のしようがない。私はことばを「理解する」ときは「音を聞いて」理解する。「音」がわからないと、「意味」もわからない。理解することができない。
 外国語を例にすると、私の言っていることがタンテキに通じるかもしれない。私は音が正確に聞き取れないと意味がわからない。逆に言うと、音が聞き取れることばは意味がわかる。日本語でも、同じ。
 私は「読む」よりも、「聞いて」ことばを覚えてきたのだろう。「声」をとおして、耳で聞いたことがないことばは、私は理解できない。さらにいえば、そのことばが「話される状況」を体験しないと、私にはことばがわからない。繰り返し聞いて、なんとなく「意味」がわかり始める。「状況」がことばの意味領域を限定するのを感じながら、「ああ、こういうときにこう言うのか」というのが私にとって「意味」なのである。「状況」と切り離せないのが「意味」。
 ここから逆に、何が書いてあるかわからないというのは「状況」がわからないということにもなる。そこにいる「ひと」がどんな風に動いているか、わからない、ということでもある。

 藤井は朗読をすることがあるのかどうか知らないが、朗読をするときは、この部分をどう読むのだろう。それを聞けば「/」が納得できるかもしれないが、目で読んでいる限りでは、ぜんぜんわからない。聞けばわかるかもしれない、というのは、そのときの藤井の顔とか身振りとか、そういうものから何かを感じ取り、そこから「意味」へ近づいていくことができるかもしれないということ。
 でも印刷された活字だけでは、そういう「手がかり」は何もない。

 しようがないから、私は分断線を無視して読む。つまり、

駅ビルの柱に凭れて、口寄せしていたらば、と ぼくは書いた。
いなくなってからのぼくは、荻の花咲く飲みのこしの水が、
真っ青な顔を映す大理石のまえで、ちいさな声になる。 聞こえる?

 という感じ。
 で、そうやって読んで、そこに「ちいさな声」「聞こえる?」ということばを、あらためて見つけ出す。「/」があったときは、「/」に意識が引っぱられて、「声」も「聞く」も読み落としていた。
 ことばを「聞いて」覚えると言いながら、目は「文字」を見ているのだ。
 (ちょっと横道にそれると、私は左目の網膜剥離の手術をした。その関係で左目の視力が非常に弱い。キーボーを打つときは、基本的にブラインドタッチだが、やはり見ている部分があるのだろう。ミスタッチが非常に多くなった。)
 で。
 この「声」「聞く」ということばに出会った瞬間、ぱっと思い出したのが一行目の「書いた」である。「書く」という動詞。

 この詩では「書く」と「聞く」が、ことばの「本能」のようなものとして、向き合っている。

 直感として、そう思った。
 「口寄せ」というのは「聞く」と関連している。「聞いた」ことを「口」で「寄せる」のだろう。「読んだ」ことを(書かれたものを)、「口」で語るときは、きっと「口寄せ」とは言わないだろう。
 「聞く声」(聞こえる声)は「大声」ではないだろう。「小さな声」だろう。「口寄せ」することができる人にだけ聞こえるような「小さな声」。

 うーん。

 では、たとえば「書く」(書かれた文字)の場合、「小さい」というのは、ありうるだろうか。
 ないだろうなあ。
 「書く」には「大小」はない。
 これは、ことばにとってみれば、大問題かもしれない。
 「声」には「大小」がある。そして「小さい声」は聞こえない。「小さい声」は存在しないことになる。ほんとうは存在するのに。
 その、「存在しない声」を聞き取り、語りなおす。それが「口寄せ」という行為かもしれない。

 この詩では「聞こえる?」ということばが三回繰り返されている。「声」は「ちいさな声」「啜る泣き声」から、「メモの中から声がする」というもの、さらに「告げず(つげる)」「言う」という動詞、また「笑う」という動詞としても「姿」をみせている。
 最後に「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」としてあらわれている。
 というか、いくつもの「声」が最終的に「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」のなかで結晶するように感じられる。

 なんだろうなあ。

 論理的なことばにはできないけれど、直感として、藤井は「声」を「聞き取り」、人に聞こえるように「語りなおす」ということを「口寄せ」という行為の中につかみとり、それを実践しているのかもしれない。何か「意味」があるとすれば、それは「単語」というよりも「口語」の「言い回し(言い方、そのことばを発するときの肉体の微妙な動き)」にあるのかもしれない。
 「書く」は「語りなおす」ときのためのメモかなあ。

 でも、私がいま書いたことと「/」はどんな関係があるのかなあ。
 まあ、わからなくてもいいか。
 私は自分の考えを宙づりにしておくのが好きである。何かきっかけがあれば動き出すだろう。それまでは放置しておく。いま、書いたように。

 と、書いて、あ、ひとつ書き忘れていることがあるなあ、と思い出す。
 私は書き出しの三行の中では

荻の花咲く飲み残しの水が、

 この部分がとても気に入っている。「音」がとても美しく感じられる。その「荻の花咲く飲み残しの水が、」「ちいさな声になる」と私はつづけて読んでしまう。そうか、どんなものにも「声」がある。その「声」を正確に聞き取るひとは少ない。藤井には、それが「聞こえる」。だから、思わず誰かに「聞こえる?」と問うてしまう。
 聞き取ってしまった「ちいさな声」を「口寄せ」し、「拡大し」「語りなおせば」聞こえる? わかってもらえる?
 同じような「ちいさな声」を「舞うてはる」「のぼってゆかはる」という「口語」のなかにも聞き取っているんだろうなあ。聞き取ったから、「口語(声)」をそのまま「口寄せ」する、繰り返しているんだろうなあ、と思う。
 こうした思いは「結論」ではなく、やっぱり「宙づりのままのあれこれ」ということになる。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』(2)

2017-08-14 09:27:52 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(2)(思潮社、2017年07月31日発行)


 藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「結論」を出さないように(?)感想を書いてみる。その二回目。
 「野遊び」の一連目。

歌うひとのメモから、
かたちが消える日は近いか。
かたちのあとから、
草原のおとはのこるか。
あたらしいおとには輪郭があるか。
泥炭のうえを風はこするか。

 何を書いているのか、「意味」はわからない。「ストーリー」がわからない、と言い換えてもいいと思う。
 わかることは何か。「かたち」と「おと」について藤井は書こうとしている。
 「かたち」とは何か。「かたち」にいちばん近いことばを一連目から探すと「輪郭」ということばになるだろうか。それは「あたらしいおと」ということばといっしょに動いている。
 ここが一つ目のポイント。
 「おと」とは、それでは何か。「おと」にいちばん近いことばは何だろう。「風はこするか」の「こする」が「おと」を連想させる。「おと」は何かを叩いたときに出るが、「こする」ときも出る。「擦過音」。「こする」とき、「こすり」「こすられる」ものはそれぞれ「かたち」をもっている。
 ここが二つ目のポイント。
 「かたち」と「おと」は互いに越境しながら、自分ではない「領域」で自分をさがしているという感じ。
 こういうところに、私は詩を感じる。
 いままで知らなかった何かが生まれてくる感じ。

 そういう「対」と同時に、もうひとつ別の「対」もある。三つ目のポイント。
 「消える」と「あたらしい」である。「あたらしい」は「消える」のではなく、「あらわれる」。
 「消える」には、もうひとつ「対」がある。「のこる」。「のこる」は「消えない」と言いなおすこともできる。
 そうすると、この「のこる」は「古い」ということでもあり、「古い」を踏み台にして「きえる」は「あたらしい」と「対」になっていると言いなおすこともできる。
 これは「かたち」「おと」が「名詞」の意味領域の越境であるのに対し、「用言(動詞/形容詞)」の運動領域の越境、あるいは相互刺戟。
 これが交錯するところがとてもおもしろい。

 で、
 何を言いたいかというと。
 ひとつのことばは、かならず別のことばと響きあう。ことばはことばを呼びながら、それまでのことばとは違った「意味領域」へと進んで行く。その「意味領域」がどんな「領域」なのか、それは進んでみないことにはわからないのだけれど。
 でも、そこに詩の可能性、ことばの可能性が広がる。
 というふうに書いてしまうと、何となく「結論」のようなものが、見え隠れしているような感じになる。
 あ、ことばは危険だなあ。
 こんな感想を、これ以上つづけることはよくない、と私の直感は言っている。だから、きょうは、ここまで。

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藤井貞和『美しい小弓を持って』

2017-08-13 13:32:10 | 藤井貞和『美しい弓を持って』を読む
藤井貞和『美しい小弓を持って』(思潮社、2017年07月31日発行)

 藤井貞和『美しい小弓を持って』を読みながら、「現代詩は難解である」という定義、あるいは批判(非難)を思い出した。私は「難解」というようなむずかしいことばは苦手で、うーん、わからない、と言うのだが。
 で、その「わからない」ということから藤井の詩を読んでみるとどうなるか。

 何が書いてあるかわからないというとき、私は「意味」をさがしている。「意味」とは「結論」のことである。あるいは「要約」と言ってもいいかもしれない。
 「結論」と「要約」は同じものである。なぜか。結論は単独では存在せず、論理過程と一体になって成立するものだからである。
 だが、詩人が書こうとしているものが「結論」でも、「結論への過程」でもないとしたらどうだろう。
 「わからない」は「結論」を探すから「わからない」。「結論」や「結論への過程」を探さなければ、「わからない」は成り立たない。
 こういうことを「詭弁」というかもしれないけれどね。

 でも、ことばは「結論」を目指さなくても、存在する。
 あ、これは、言い過ぎかなあ。
 「結論」が何かわからないままでも、ことばは発することができる。「結論」は予測がつかない。でも、なんとなくことばを言ってしまう、ということはある。
 「結論」を探すことをやめて、そこに書かれていることばだけを見ると、どうなるか。詩集のタイトルにもなっている「美しい小弓を持って」の、こんな部分。

同級生の「おみくじ」といったら、ひどかった。
「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。

 ABCはそのまま絵、美、詩なのに、Dだけ「泥」と違う音になっている。(「でい」と読めば同じ音になるが、ふつうは単独で「でい」とは読まない。)一音の意味のあることばが見つからなかったのだろうなあ。そこで「泥」。これは吉、凶の占いでいえば凶だろうなあ。そんなことはどこにも書いていないのだが、なんとなく、そう思う。このなんとなくそう思うときの感じが「わかる」だね。
 「D 泥」というおみくじは、他のに比べて見劣りがする。凶に違いない。というのは「誤読」なんだけれど、「誤読」が「わかる」ということ。つまり、そこでは「私(谷内」の思いが自然に動いている。「結論」なんかを探さず、瞬間的に、動いてしまっている。
 だから、どうなんだ、と言われると、どうということはないのだけれど。
 で、このあと、

弦を叩いてかがみのおくにかげの見える人、
歌人の言う、あなたはけさ行かないほうがよい。
かげを認めると、烏(からす)が鳴いているこれはあぶない、
子供が二、三人、けさは隠されるじつにあぶない。

 「あぶない」ということばに出会って、あ、これが「凶」か、と思い込む。

消されるかもしれない、あぶないぞ。

未知る季節に世は満ちる、ああそんなにあぶないのか。

迎え火があなたを手招きする、あぶないな。

みくじの読めないうらがわに置く あぶない。

 「あぶない」が次々に出てくる。
 「あぶない」は「現実」であると同時に「予感」。「事実」になってしまったら「あぶない」は存在しない。「事故」になる。あるいは「事件」ということもある。ようするに、「いま」がかわってしまう。「いま」のままではいられない。それが「あぶない」。
 あ、藤井は「あぶない」を書きたいんだなあと「わかる」。「あぶない」が「意味」をこえて迫ってくる。何が「あぶない」のかわらないが、藤井が「あぶない」と言っていることは「わかる」。
 そして、この「わかる」に、次の一行が重なる。

神ひとり、髪一本、分からなくなった。

 「意味」は「わからない」のだが、「分からない」ということと「あぶない」はどこかでつながっている。そのことを藤井が発見している。そのことと藤井が出会っている、ということが「わかる」。
 「うらない(みくじ)」というのは「わからないこと」を「わかる」ための方法。
 そして、そこで「わかる」のは「あぶない」だけである。世の中には「あぶない」がある。

 だから? それでどうした? それが「結論」?
 いや、結論なんかじゃないのだけれど、ことばは面倒くさいものであって、どんなことでも書いてしまうと、そこに「論理」ができ、論理は「結論」を捏造してしまうものである。
 「わからない(難解)」から書き始めたのに、「あぶない」が存在し、「あぶない」と予感して、藤井は何かを書いている、というようなことを簡単に言ってしまえる。
 「結論」が正しいか、間違っているか、そういうことは問題ではない。ただ、「結論」はいつでも捏造できる。

 でも、こういうことは、詩の喜びとは関係がない。
 詩の「思想」とも関係がないと、私は思っている。
 では、この詩の「思想」とは何か。

「A 絵だ、B 美だ、C 詩だ、D 泥だ、
さあどれよ、引いてみな」って、
引いても引いても D 泥だった。

 このことばのなかにある音とリズムだね。「意味」の否定があって、その否定と音が結びつき、さらにリズムをつくり、音楽になる。
「意味の否定」というのは、たとえば「A 絵だ」は「A=絵」ではないということ。でも、「B=絵」「C=絵」ということばの動きよりも「A=絵」に納得してしまうということ。ナンセンス。しかし、そこには不思議な「センス」もある。藤井の場合、その「センス」は「音楽のセンス」ということになるのかな?
 別なことばで言うと、読みやすい。「意味」はつながらない、「意味」はでたらめなのに、音が読みやすい。音が「意味」とは別の統一感を持って動いている。

 こんなことを書いても詩の感想にもならないし、ましてや批評にはならないとひとは言うかもしれない。私もそう思うが、しかし、藤井の詩に向き合ったとき、最初に動くのは、いま書いたようなことなのだ。
 いま感じたことが、次の詩を読むとどうかわるのか、それはわからない。私は、そういうことを「決めたくない」。思ったことを「整えたくない」。垂れ流し続けたい。
 あすも(ただし気が変わるかもしれない)、つづきを書いてみよう。

 
美しい小弓を持って
クリエーター情報なし
思潮社
コメント (1)
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