細田傳造特集(「阿吽」復刊01、2024年08月25日発行)
「阿吽」復刊01の「細田傳造特集」を見た瞬間に(読んだ瞬間にではない)、笑い出してしまった。表紙に「書下ろし一〇詩篇と十二の論考」とある。そして、その「論考」の執筆者が全員女性なのである。(名前だけで判断したので、間違っているかもしれないが。)
で、これが、笑い出した原因。
私はだいぶ前から、細田傳造の詩は「おばさん詩」であると言っている。「論考」を書いている詩人のなかには、私が「おばさん詩」と呼んでいる詩を書いているひともいる。そうか、やっぱり細田の詩について、何かまともなことを(まともな反応を)書くとすれば(それを期待すれば)、「おばさん」以外にいないのだなあと思ったのだが、これは私だけの印象ではなく、編集者もそう思っているのかと直覚したのだ。そうでなければ、論考の執筆陣が女性だけ、というのはかなり奇妙なことだろう。
男では、荒川洋司が、いちばんまっとうな細田傳造論を書けると思うが、ほかには書けそうなひとを私は思いつかない。
と、ここまで書いたら、もう書くことはないのだが。
書き始めたのだから、むりやり(?)書き続けてみるか。
「怒り Anger of a lady」の書き出し。
あの
かたちがきらい
この二行から何を想像するか。詩、なのだから、「正解」などないのだが、つまり、何を想像しようがかってなのだが。細田は、読者が何を想像するかを「直覚」して、ぱっと、二行をほうりだす。そのあとで、
おちんちん。
詩のなかで、そう言いなおされているが、「ひろこさん」がほんとうに「おとなの/おちんちんがきらい/かたちがきらい」と言いなおしたのかどうかは、わからない。細田が、ひろこさんの恋人(注釈に書いてある)にかこつけて「smells の方はいかがでしたか?」なんて聞いたから、ことばがそっちへ動いたのかもしれない。いや、そういう方向へ動くと知っていたから「smells の方はいかがでしたか?」と聞いたのかもしれない。
まあ、どうでもいい。「説明」なら、あとからいくらでも都合にあわせて言うことができる。修正ができる。そんなものは、「その場しのぎ」である。
一方、
あの
かたちがきらい
smells の方はいかがでしたか?
も、また「その場しのぎ」というか、「即興」であろう。
この「即興」の「幅」というか「飛躍」というか、何を手がかりに、どう動くかという判断の「直覚」が「おばさん」なのである。
何かを「基本(土台)」にして、そこから飛躍するというよりも、「何か」のなかにすっと溶け込んで、自分を捨て去って(無我になって)、「何か」の内部から新しいビッグバンが起きる。その瞬間の「直覚」。
こんなことは、ことばでは説明のしようがないのだが、細田のことばの動かし方は、どこで「おばさん」と一体になっている。「無」我になっているから、もうそれ以上なくなりようがない、だからこれでいい、これで平気という感覚かなあ。
これは、とても難しい。男には、できない。あの、耳のいい谷川俊太郎でさえ、こういうことはできない。
あの
かたちがきらい
という「おばさんの声」を聴き取り、それを書き留めることはできても、そのあと「おばさん感覚(他人との距離を無視する、無我になって接続してしまう)」で、
smells の方はいかがでしたか?
と切り返し、「その場」を活性化することはできない。
で、この「おばさん直覚」を、それでは男のすべてが持たないかというと、そうではない。ちゃんと(?)生活している男は持っている。
「猪」という詩は、養豚場に猪があらわれ、
いきなり
雌豚の梅子の尻に乗っかった
ぶるぶるぶるっと
三回痙攣し
事をすますと
すたこらすたこら
山へ帰っていった
鈴木さんが
渋い顔をして言った
俺んちのおんなたちに
ワイルドな味をおぼえさすと
男をえらぶようになる
子豚の取れる数が減る
困ったことだ
豚のことを書いているのか、猪のことを書いているのか。あるいは、「俺(鈴木さん)」の「おんな」のことを書いているか。鈴木さんの体験を書いているのか。鈴木さんは、おんなを寝取られたことがあるのか。
直覚は、世界の「境界線」を消してしまう。「無我」さえも消え、「無」という絶対があらわれる。「意味」を叩き壊して、「世界」に戻る。
困ったことだ
これは鈴木さんのことばか、細田の声か。それはほんとうに「困っている」のか、それとも「うらやましがっている」のか。つまり、イノシシになれたらいいなあ、と言いたいけれど、それを言うと「まずい」ので、「困った」と言っているだけなのか。
「答え(正解)」なんて、ない。
「答え(正解)」なんてなくても、人間は存在する。存在できる。存在してしまう。細田は、こういう感覚(哲学/直覚)を、こどものときから持っていたようだ。
「そら」を全行引用する。
そとにだされて
よこにならばされた
そらをみていたら
まっすぐまえをみていろ
みんなでまえをみていた
せびろをきたおとこのひとが
おおぜいきた
えんちょうせんせいやほけんのせんせいや
たんにんのせんせいたちが
じめんをみて
じっとしている
せびろをきたおとこのひとたちの
せんとうの人がぼうしをぬいで
あるくのをやめて
れつのまんなかにいたぼくに
きゅうにはなしかけてきた
ちちはははげんきか
へんじができなくって
だまりこんで
そらをみた
あとでまた
せんせいにしかられるとおもった
せんさいこじいんというところに
ぼくたちはいた
この透明感は、最近見た映画「ぼくのお日さま」に通じる。細田は「そら」の色、明るさ、光の感じなどを一切書いていないが、私は、何も存在しない「空(くう)」、「絶対空」の透明な光を感じる。「空則ぼく」「ぼく即空」。この「空」は「そら」と読むのか「くう」と読むのか、書いている私にもわからないが、「おばさん詩」のなかにある「絶対」を、こんなふうに昇華していくのが細田の、だれにも追いつけないところだなあ。
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