詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「秋の時計」ほか

2024-10-19 22:46:44 | 現代詩講座

杉惠美子「秋の時計」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年10月07日)

 受講生の作品。

秋の時計  杉惠美子

彼岸花が咲いています
蜻蛉がわたしのまわりを飛んでいます

少し肌寒くなってきました

散歩するひとも少し増えたような

まわりの視線も少しずつやわらかくなっています

幾度となく風を脱ぎ
混濁の渦を離れました

重心を少し下げて
静かにしていたいと思います

すべてを 一度に語ろうとせずに
慎ましく
じわじわと

誰かと話してみたいと
少し 想うことがあります

 詩の感想をいろいろ聞いたあと、ちょっと受講生の感想(指摘)で物足りないところがあったので、杉に「この詩で工夫したところは?」と訪ねてみた。「少し、ということばをたくさんつかった」という返事が返って来た。
 それについて、やはり、私は気がついてほしかった。詩を読んだり、小説を読んだりするとき、どうしても「意味」というか、全体の「内容」に目が向きがちである。もちろん、そういうことも大切なのだが、「細部」に動いている作者の意識がとてもおもしろいときがある。
 この詩では一連目以外には「少し」ということばが各連につかわれている。
 「いや、五、七連目にも『少し』は書かれていない」という反論があると思うが。
 たしかにそうなのだが、ここがとても大事。
 「少し」は書かれていないが、それに通じることばが書かれている。「幾度となく風を脱ぎ」の「幾度」には「少し」が隠されている。「少しずつ」脱ぐから、それが「幾度」にもなる。「一度に」ぱっと脱いでしまえば「幾度」にはならない。
 私が言い換えた「一度に」は七連目には、ちゃんと書かれている。そして、それは「すべて」と対比されている。さらに「じわじわと」ということばも補われている。「じわじわと」というのは「少しずつ」に似ている。
 そうだとしたら。
 最終連(だけではないが)の「少し 想うことがあります」の「少し」にも、何かしら「特別な思い」がこめられている、もしかしたら五、七連目のように「少し」とは違うことばで伝えたいものがあるのかもしれない。
 その証拠にというと変かもしれないが「少し」のあとに「空白」がある。ほかの部分では「少し」はそのあとのことばに直接つづいていた。しかし、ここには「一呼吸」がある。言いたいことをさがし、踏みとどまっている呼吸が動いている。
 この呼吸に、自分の呼吸をあわせることができたとき、杉の詩は、読者にとってもっと深いものになる。

私がわたしであること  堤隆夫

人々の群れの中にいることによってしか
分かり得ない本当のことを知った
人々と共に住むことによってしか
教科書では学べないことがあることを知った

人々と共に働き 共に喜び 共に涙することによってしか
私がわたしであることを
確かめることができないことがあることを知った

杖をついて歩いた時
ゆっくり歩くことの幸せがあることを知った
片手に杖を持ち もう一方の手で
あなたと手をつなぐ幸せを知った

一人になった時 単調な日々の有り難さを初めて知った
眠れない日々が続いた時
羊水の中にいた時の記憶が蘇り
亡き母のかなしみの愛を知った

死の恐怖を眼前に感じながら うつむいていた時
ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た

失うことによってしか得ることのできない
愛があることを知った

失うことによって より深まる愛があることを知った

 堤の詩にも、杉の詩と同じような「繰り返し」と、その「変奏」がある。「しか/知った」が繰り返される。途中で消える。(ただし、「知った」は、繰り返される。)そして再び「しか/知った」があらわれる。
 なぜ、途中で「しか」は消えたのか。
 「しか」があるときは、そこには「人々」ということば、複数の人間の存在があった。「しか」が消えたとき、「人々」のかわりに「あなた」「母」が登場する。そして同時に「一人になった」ということばが動く。「私」が「一人になった」のは、「人々」(複数)が「あなた」「母」という「一人」があらわれたときである。
 「しか」は「唯一」ということでもあるが、この「しか=唯一」という、どこかに隠れている意識が「あなた」「母」を呼び寄せたともいえる。
 そして、この「しか/知った」という組み合わせは、最終連では大きく変わって「より」「知った」という形になる。
 ここで、私は質問してみた。最終連を「しか/知った」という形で言いなおすと、どうなるか。

 失うことによって「しか」深ま「らない」愛があることを知った

 これは、直前の「失うことによってしか得ることのできない/愛があることを知った」に非常に似ている。繰り返しのリズムを優先するならば「失うことによってしか深まらない愛があることを知った」でも同じである。「意味」はシンプルに伝わるだろう。
 しかし、堤は、そうしたくなかった。「しか/知った」では言い足りないものがある。そして、それは「あなた」「母」と強い関係がある。「より」強い気持ちを明確にしたい、それが「しか」ではなく「より」ということばを選ばせているのである。
 これは堤が選んだことばなのか、それとも詩が堤に選ばせたことばなのか。
 堤は「自分が選んだ」と言うかもしれない。しかし、私は詩が、そのことばを堤に選ばさせたのだと感じる。天啓、のように「より」ということばがやってきたのである。その天啓に身を任せることができたとき、ひとはほんとうに詩人になる。
 何を書いているかわからない。しかし、書いたあとで、ああ、そうだったのだと詩人自身が気がつく。そういう「個人」をはなれたことばの動きがあるとき、詩は、ほんとうに輝かしい。
 この詩には「知った」を含まない連がひとつある。その「ふと見上げた窓の外の薄紫の空に 一縷の希望を視た」の「視た」は「知った」に、とても似ているといえるだろう。「見る」ことは「知る」ことでもある。ここで、しかし「知る」をつかわずに「視る」ということばをつかっているのも、とてもおもしろい。「知る」をつかって別の表現がなりたつはずだが、それを押し退けて「視る」があらわれている。ここから「知る」と「視る」の違いについて哲学的に考え始めることもできるはずである。
 そうした「誘い」を促すのも、詩の、超越的な力だと思う。

聖餐  青柳俊哉 

隔絶した僧院の日々


空の微点へ凄まじく吸われる雲 
飢餓する子どもたちの生をおもう  

朝霧の隼(はやぶさ)王の食卓
白鳥と孔雀の胸肉の白ワイン蒸し
みつばのお浸しに霧がそそぐ 霧をすする
 
祭壇に子たちのアーモンドをそなえる
 
バラを敷きつめて女(め)鳥(とり)と交わる
 
口腔から胃へ激しい痛みと嘔吐
ながれる汚物 羽にかわるバラの花
 
生きることは異物と交わりそれに同化することであった
 
 
僧院の肥沃な花から女が飛び立つ

 青柳の詩には、杉、堤の詩をとおしてみてきた「繰り返し」はないように見える。しかし、ひとは何かを繰り返さないと何も言えない存在である。というか、ことばとは、ひとことですべてを言い表すことができない、何か不完全なものである。言いたいことを言おうとすると、繰り返しのなかに少しずつ「変化」をまじえながら、それを補強するしかない。
 「生きることは異物と交わりそれに同化することであった」という行があるが、「異物」と「同化」が、繰り返されていると言えるだろう。異物が異物のまま離れて存在するのではなく、「同化」する。そのために「交わる」。
 この異物が異物のまま「離れて」存在することを「隔絶して」存在すると言いなおせば、それは書き出しの一行に通じる。「隔絶した」と書き始めたとき、詩は「異物」を引き寄せ、「異物」は逆に「同化」を引き寄せ、それが「交わる」という動詞を必要としたのだろう。
 「書く」というよりも「書かされる」詩。
 やってくるのは「天啓」だけではない。「悪魔のささやき」もやってくるだろう。「悪魔のささやき」を拒み、「天啓」だけを選択するということができるかどうか。どうやって、その区別をするか。その判断の基準を「直覚」するのも、大切なことだと思う。

未確認飛行物体  入沢康夫

薬罐だつて、
空を飛ばないとはかぎらない。

水のいつぱい入つた薬罐が
夜ごと、こつそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。

天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切つて、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに早かないんだ)
そのあげく、
砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 受講生のひとりがみんなで読むために選んできた詩。みんなにどこが好きか(印象的か)と聞くと、最後の三行という返事が返ってきた。
 ここには不思議なことばがある。
 詩は、「美しい」ということばをつかわずに「美しい」を表現するものという定義のようなものがあるが、それを流用して言えば「大好き」ということばをつかわずに「大好き」を表現するのが詩かもしれない。
 小中学生ならいざ知らず、入沢康夫のような高い評価を受けている詩人が「大好きな」ということばをつかっているが、それでいいのか。
 というのは、まあ、意地悪な「いちゃもん」。
 この詩では、私は、「大好きな」ということばがいちばん大事だと思う。「大好きな」ということばのために、この詩はある。

砂漠の真ん中に一輪咲いた淋しい花、
その白い花に、
水をみんなやつて戻つて来る。

 でも、詩は(その意味は)成立するし、学校の試験では、「作者はこの花についてどう思っているか、あなたのことばで書きなさい」という質問が出るかもしれない。「大好き」という答えを正解とするかもしれない。
 言わなくても、わかる。
 でも、言った方がいいのである。
 頭のいいこどもは、「お母さん大好き」と言わないことがある。言わなくてもお母さんが大好きなことはお母さんは知っている。でもね、お母さんは、わかっていても、そして時には嘘であっても「お母さんが大好き」とこどもが言ってくれるのをまっている。言ってくれると、うれしい。「大好き」と、ことばにするのことはとても大切なことなのである。
 そして、もし私がこの詩のなかの「白い花」だったとしたら、水を注いでもらったことよりも「大好き」と言われたことの方が、はるかにうれしいだろうなあと感じるのである。
 入沢の詩は、そういうことをテーマとして書いているわけではないだろうが、私はそういうことを思うのである。「大好き」と書くことによって「大好き」がとても美しいことばになる。大切なことばになる。平凡なことばのようで、平凡ではなく、唯一のことばになる。
 入沢は技巧的というか、人工的な詩人だが、彼がこんなふうに「大好き」ということばをとても自然に、力強く書いているというのは、とても楽しい。こんなふうに「大好き」ということばを詩に書けたらいいなあと心底思う。

 

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1 コメント

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杉恵美子「秋の時計」ほか (大井川賢治)
2024-10-20 17:29:36
今回の4人の詩、皆、大変よかった。
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